妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)





 山の段を照らしていた陽光は白から茜に。終わってしまえば、呆気ないものだ。展開していた呪符の結界を解けば、全部綺麗に元通りである。手前の血と互いの汗と体液の汚れは跡形もなく消え、見るも無惨に切り裂かれてぼろぼろだった戦装束も、今はどこが裂けていたのかさえ分からないほどだ。本当に演練場と同等の空間だったのだろう。けれどここまで全て元通りにされてしまうと、まるで最初から何もなかったかのようにも思えてしまう。何となく寂しくなって、下腹部に手を当てる。からだの奥には、身を掻き毟りたくなるような淫らな熱はもう無い。けれど微かに、けれど明らかに、自分のものではない霊気の流動を感じる。全部なかったことになる訳ではないらしい。気を抜くと、頬がふにゃふにゃと緩んでしまいそうだ。

「大包平、どうした? ……まさか、傷全部治ってないのか」

 呪符を回収して戻ってきた国広は、そんなはずはないと珍しく焦った顔をしていた。元は自分が好き放題付けた傷だったろうに、滑稽な男だ。確かめる為に折角綺麗に元通りとなった戦装束をまた脱がせようとするものだから、笑って制止する。

「……いや、身体はどこも問題ない。お前の方こそ、体調は?」
「体調? ……見ての通り頗る良好だが」
「はぁ……ならいい」

 ほんの数日前までは立ち眩みがするだの吐き気がするだの頭が痛いだの夢見が悪いだのと、散々泣きべそかいていた癖に。あっけらかんと答えられたばかりか、「何で呆れられているのかさっぱり分からん」という顔をされている。全部欲求不満が溜まり過ぎていた反動だなんて、笑えない。溜め込む前にさっさと斬り合って抱いて発散していたら、あれほど酷くはならなかっただろうに。心配など、損でしかなかったとは。

「なぁ、俺から誘っておいて何だが……本当に、良かったのか」
「なにがだ?」
「その……霊山だろう、ここ。神聖な場所なんだろう。なのに……仕合は兎も角、あんなことまでして」

 確か神道における教えでは、血はケガレとされていなかったか。修験道は神道の流れも汲んでいる筈だ。周囲の地面に飛び散っていた自分の血は跡形もなく消えているが、流していたことに違いはない。そればかりか誰にも見られることのない結界の内にいるのをいいことに、耽って。それだって胎の底に国広の霊力が広がっているのは事実だ。否定する気は毛頭ないが、なかったことにはならない。つい先ほどのあれそれを思い出して頬を熱くしながらそう言うと、ふは、と国広が吹き出した。

「なぁ、大包平。何故俺は兄弟から不動明王ではなく、愛染明王の呪符を持たされたんだろうな」

 それは先に国広の口から説明されている。『不動明王では験力が合わない』『抱えた呪いが三毒の【貪】に近いから』そう言っていた筈だ。けれど理由はきっと他にもあるのだと国広は言う。

「そもそも演練場を再現するだけの結界なら、愛染明王の呪符は必要ない。大日如来、飯綱権現、孔雀明王で事足りる」
「……む、うん? なら何故山伏国広は、愛染明王の呪符をお前に?」
「思うにあれは元々『性愛』の神だから、なんだろうな」

 曰く、愛染明王とはインド神話における|愛欲を司る神《カーマデーヴァ》を仏教に取り入れた尊格なのだという。所謂縁結びの神、ギリシャ神話のエロース、ローマ神話のクピド……英語表記におけるキューピッドに対応する神格だと言われると分かりやすい。邪悪な意味に捉えられがちな愛欲、性愛を肯定する神であることから、煩悩即菩提……悟りを妨げる煩悩とは即ち|菩提《悟り》であり切り離して考えられるものではない、表裏一体同一のものであるというという大乗仏教の教えに紐づいたのだとか。愛染明王にまつわる宗派の教え、そのごく一部には、男女の和合によって即身成仏に至るというものさえあったという。大多数の仏教宗派においては性愛や欲望そのものが忌避される一方で、性愛を肯定する教えもまた存在していたのか。山伏国広が態々加護を持つ刀から霊力を借り受けてまで作った愛染明王の呪符は、裡に根差す愛欲のかたちを肯定し、受け入れる為の聖域を作るものだったのかもしれない、と。

「だがその教えとやらは、あくまでも男女の話だろう」 
「それそのものは人間の男女における性指向に基づいた教えだろうが、|絶頂《オルガズム》自体は両性どちらの肉体だろうと得られるものだ。和合によって互いに己という殻を破り、互いの心を識り、自利利他の為に互いを供養することを目的とするなら、相手は必ずしも異性でなければならないなんて理由はないだろう」
「……都合のいい解釈じゃないか」
「それを言うならそもそも人間に都合が良いように作り上げられたものが、神話であり宗教というものだ。本質は俺達道具と変わらない。自分に合うように信じ、使えばいい、ということなんだろう」

 結局の所あらゆる宗教における神や仏の『教え』とは、生まれたその瞬間から一歩ずつ死へと向かっていく短命な人間達が、生の苦しみと死への恐怖という感情の中で見出した数多の指針に過ぎないのだろう。それもまた大勢の人間達の空想、想像力によって成り立つものだ。日々をどう過ごし生きていくか、その行く末を決められるのは己のみ。けれど皆が皆、それが出来る程恵まれてはいない。道を選ぶ余地すらない程の弱者も多く存在する。生に迷い死に怯え続ける人間の心に寄り添い、導くものとして神や仏という|存在《空想》を作り上げ、教えとしたのだろう。

「大体血をケガレとするのも仏教から密教、修験道へと広まった教えだが……その血は大抵経血や出産時の出血を指す。俺や太刀の兄弟から見たってくだらん観念遊戯としか思えん。だったらお前達全ての人間の肉体に流れているそれはなんだとでも言ってやりたくなる。母体の血液によって胎の中で育てられ、血に塗れて生まれてくるのが人間だろうに。肉体のどこから流れ出ようと、誰が流したものであろうと、血液は血液だ。穢れなどあるものか」

 態々理由を作ってでも性差を設けようとするなど、元々器物以外の形がないものである自分たち付喪神にとっては理解に苦しむものでしかない。……否、心で迷うからこそ、生み出されてしまう思想なのか。その善悪は別として、優劣の差を作らなければいられない人間もまた存在しているのは事実だ。そしてそれはヒトのカタチという枠組みを与えられたことで価値観が傾いてしまい、感情に振り回されるようになってしまった、今の自分たちにも言えることなのだろう。一度ものの形や枠が固定されてしまうと、どうしてもそれに囚われてしまう宿命なのかもしれない。全く、感情とは兎角難儀なものだ。

「無論、思想なんて曲解すれば碌なことにはならないんだろう。煩悩と菩提が同一ならいくら悪くとも構わない、姦淫に浸れば浸るだけ良い、なんて発想にもなりかねない。……心とは難しいものだな。それを嫌って潔癖に欲を抑え続けたところで、心身には害にしかならないとは」
「全く、感情というのは度し難いものだな……。人間が超常の力に縋りたくなる気持ちが、何となく分かったぞ」
「言葉にはされなかったが、兄弟には『一度互いの全てをぶつけ合って、きちんと確かめてこい』と言われていたんだろうさ」

 本当の意味で裡に抱く欲望を認めることの、なんと難しいことか。特に国広のそれは器物や道具としての|機能《ほんのう》と、人の肉体における欲求とが重なり合ってしまっている。斬り合っていた間もずっと、【殺したい】という葛藤があり続けたに違いない。それでもこの愛おしいという|感情《こころ》の眩さは、ヒトのカタチを得て初めて気付けるものでもあっただろう。戦う為にこの姿で顕現してはいるが、生を謳歌してはならないなどという|規則《ルール》はない。だからこそ自分たちに限らず、この本丸の刀達は皆戦うものでありながら、唄い踊る。人の信じる神に捧げる為の舞を。自分たちを信じ続ける人に捧げる為の歌を。魂と感情を込めて愉しみながら、紡ぎ続けている。命を断つための道具でありながら、善き神として|結末《みらい》を探し続けている。その理性さえあるならこの先も、道を誤ることなどない。思った通り山姥切国広という男は、最後の一線を引ける刀であった。

 ……なんて、呑気に構えていたら。

「他刃事のように聞いているが、これはお前にも言えることだぞ」
「……は?」

 ―――突然、矛先を向けられていた。

「無自覚程性質の悪い|禍《わざわい》はないと、お前の呪が教えてくれた。欲を抑え続けていたのは、お前も同じだろう」
「……い、いや、そんなはずはない、が」

 まるで覚えがない。確かに『もっと深く繋がりたい』なんて欲求が生まれたのは恋仲になってからだが、国広が望まないなら無くても構わない程度のものだった筈だ。国広程酷い不調も全くなかった。……筈、なのだが。

「俺を誑かして甘やかすのは得意な癖に、自分の事になるとからっきしとは。お前も俺の事なんか言えないくらいには、感情の制御が下手くそだな」
「ん、なッ……!」
「だが、お前のような美しい|刀《おとこ》に執着されるのは……中々どうして悪くない」
「……ッッ!」

 大包平が国広に抱いていた情は、妖の貌が表に出る前から存在していた。そしてこの関係は、妖としての呪いをきっかけに始まったものであり。交わりたいなどと思い始めたのは、恋仲に至ってからで。
 ―――それは、つまり?

「……や、山姥切国広」
「なんだ」
「その呪い、やっぱり返してくれ……」

 頬が、焼ける様に熱い。国広の顔が直視できない。石切丸が何故、呪を祓わなかったのか。普段温和な長義が、何故あれ程怒りを露わにしたのか。審神者が心配していたのは、あくまでも均衡が一時的に崩れた国広の自我。そこに呪は含まれていない。誰も彼もが呪に触ろうとしなかったその理由が、やっと分かった。正しく、から騒ぎだ。誰だって馬に蹴られて死にたくはない。ただそれだけのことだった。

「断る」
「ッ何故だ!?」
「俺は責任を取ってくれと言った筈だが?」
「ッッその節は俺が悪かった、間違いなく俺に非がある! 責任なら取る! 取るからそれだけは、返してくれ……!」
「嫌だ、|呪《あいつ》も俺の裡で居心地良さそうにしていたしな」
「山姥切……ッ!!」

 恰好がつかないにも程がある。応じてやったくらいのつもりでいたのに、まさか、気付いていなかったのは自分だけだったのか。そんな無意識状態の呪で多方面に国広への好意と執着を主張するばかりか、手前が素直に甘えられない分恋刀を甘やかすことで誤魔化していたなどと……稚拙なごっこ遊びにも程度があるだろう。己の醜さをまざまざと見せつけられているかのようで、羞恥で折れてしまいそうだ。けれど懇願しても、国広は首を縦になど振ってくれない。吐いた唾は飲み込めないということを、大包平は今日、嫌と言うほど思い知った。

「お前が俺にくれたんだから―――これはもう、俺のものだ。お前にだって、返してやらないさ」

 普段の仏頂面は何処へ行ったのか、国広は満面の笑みを浮かべた。
 ……それを言われてしまったら、此方としてはもう何も言えなくなってしまう。あの呪は国広にとって、恋い慕う相手がくれた|感情《たからもの》になってしまったのだ。そんなもの、嬉しいに決まっている。執着、情欲、殺意さえ、|恋刀《こいビト》がくれるものなら一つたりとも取りこぼしたくない。それはどう足掻いたって、お互い様なのだから。

 何もこんな時に、そんな滅多に見られない愛らしい笑顔を見せてくれなくたっていいだろうに!




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