妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)




五、惚れた腫れたの斬った張った


 本丸の裏手。どこまでも広がっていく草地を、二頭の馬がただひたすらに駆けていく。大包平の乗る小雲雀は、久方ぶりの戦とは無縁な遠乗りにいたくご機嫌のようだった。蹄で軽快に草と土を跳ね上げ、国広を乗せて前を駆ける望月を追い越そうと躍起になっている。落ち着かせるのも大変だ。愉しそうに走ってくれるのは喜ばしいが、突出して突っ走られると道が分からなくなって困る。万屋街にふたりで出掛けたことはあるが、遠乗りは初めてのことだった。天候、雲一つなき快晴。絶好の|逢引《デート》日和である。日差しは穏やか、吹き渡る風も爽やかで心地の良い、そんな清々しい日。……が、目的は逢引には程遠かった。否、ふたりきりでこうして遠乗りに出かけている時点で逢引には違いない。だが、普通逢引で向かう先が仕合の為の修練場な訳があるか。向かう先は時の政府から正式な所有領域として認められた、この本丸の霊山である。普段は大倶利伽羅や山伏国広などが長期の休暇を取った際、鍛錬に使っている山なのだそうだ。

『……手合せ?』
『ああ。相手になってくれるか』

 誘われたのは、今朝方のことだった。初めて共に眠りについた日の夢で、怪士の国広と交わってから数日。あれ以降怪士の国広が夢に現れることはなくなり、目に見えて乱れていた国広の精神状態はどうにか持ち直しつつあった。彼方は彼方で国広の裡に戻る気になってくれたらしく、それについてはほっとしたのも束の間である。現実では情交の伴わない清い共寝だったというのに、そのたった一夜で音を上げたらしい国広からは、この数日間全力で『接触』を避けられていた。避けるといっても大包平自ら、主に国広の世話を進言した手前である。様子を見る為に顔は毎日合わせていたし、話もした。ただ、一緒にいるのに触れられない。しばらくは俺に触らないでくれと、拒否されていたのだ。凡そ察しはついてしまった。あの夜手前が怪士の国広と交わったように、彼方もまた妖の呪いと交わったのだろう。……この際それはいい、お互い様だ。気に入らないのは、あんなにくっついて寝ていたのに、たった一夜しか共寝が出来なかったことだ。流石にちょっと、いやかなり拗ねたとも。怪士の方も戻ってくれたことには安堵したが、一夜きりの情交で満足されてしまったのも、それはそれで気に入らない。全く欲深い癖に我慢強い、矛盾だらけの厄介な男である。この遠乗りと手合せは、そんな悶々としながら日々を過ごしていた矢先の誘いであった。以前は手合わせも大包平の方から積極的に申し込んでいたのだが、国広が妖の夢を見るようになってからはずっと控えていたのだ。国広の方から手合せを願い出てくるのは至極珍しいことだった。随分と回り道をしたようだが、やっと決心がついたのだろう。……否、いい加減我慢するのを止めたということか。

 それにしても何故、本丸にある道場や庭ではなく態々霊山に向かうのか。端的に言えば、絶対に野次馬が出来るからだ。この本丸に所属する刀剣たちは、如何なる時でも自身の本体である刀を用いて手合せを行う。しかしそれでも、剣を交わすまでに限られる。切っ先が掠ることはあっても、相手の肉体に深く斬り込むまでのことはしない。今から霊山でやるのはその領域に踏み込んだ、最も実戦に近い模擬戦闘である。だから果し合い、決闘。そんな血沸き肉躍る正真正銘の真剣勝負、刀剣男士ならその殆どが見たがるに決まっている。酒飲み連中の良い見世物になってしまうばかりか、博多藤四郎辺りまで台頭して博奕まで始める始末になることは必至。そして残念なことに、この本丸の一期一振は荒稼ぎしようとする弟を止めるどころか煽るタイプの兄である。手に負えない。誰の介入も無く、気が済むまでぶつかり合える場所がいい。そういう訳で国広が指定してきたのが、この本丸の霊山だった。

 霊山の麓は、広大な草原を抜けた先にあった。望月と小雲雀から降りると、ここまで乗せてくれたことへの感謝と労いの言葉を掛けて二頭を撫で、刀装の玉へと仕舞う。見上げるとそこには切り出した巨木を鳥居の形に打ち立てただけの、簡素な門があった。山道の、入り口のようだ。周囲は鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ、森から山道へと続いているようだ。

「……少し待っていろ」

 国広は門に近づくと、鳥居の柱に触れた。掌が重ねられた所から淡く白い光が門全体に広がっていく。やがて光は門全体を包み込んだ後、粒となって霧散した。促されて山門を潜ると、ほんの一瞬、薄い膜のようなものを通り抜けた感覚があった。

「これは……結界、か?」
「ああ。いつもは太刀の兄弟が修行で使う時に張ってるんだ。兄弟のそれに比べれば微々たるものだが……俺の霊力を通している今日は、誰も寄りつかない」
「山伏国広……。成程、修験道か」
「兄弟と違って齧っただけの俺では、精々真似事程度だが。霊力に乏しい俺でも似たような事が出来るのは、俺を打った堀川国広の影響なんだろうな」

 修験道は山岳信仰を基に神道や道教、仏教、そしてそこから派生した密教などを取り入れて成立、独自に発展した宗教だ。霊山での厳しい修行によって自然霊や神仏、権現と一体になる神通力……験力を獲得し、即身成仏、悟りの領域に到達することを目的としたものである。そして山姥切国広を作刀した堀川国広という刀工は、元々藤原氏を名乗っていた武士の出であるという説から、中世日本最高学府である足利学校出身の文化人であり、諸国を旅した浪人、修験者、山伏でもあったという様々な経歴が残る人物だ。作刀した時期や本籍地を丁寧に刻んでいることで知られる刀工国広が山伏国広と山姥切国広を打ったのは、今日国広の名として著名な京都の地名である一条【堀川】という銘を刻むようになるよりずっと前の、山伏として修行していた時期だったという。……そういえば、脇差の堀川国広の刀身には大黒天が彫られていたか。大黒天は大元のインドにおいてはシヴァと称され、戦や破壊、墓場を司る憤怒相の凶暴な神とされていたが、この国では神道における国造りの神である大国主等との神仏習合により、豊穣や財福を司る柔和な笑みを浮かべた福の神に転じている。シヴァは修験道の主尊である不動明王のルーツであり、厨や台所を守る神でもあるそうだ。一方山伏国広の刀身には、不動明王の持つ三鈷剣に大日如来と地蔵菩薩の梵字、不動明王像まで刻まれている。他の刀剣にも倶利伽羅竜や毘沙門天など仏尊の彫り物を数多く施している刀工国広は、余程修験道を主とする仏教から影響を受けていたのだろう。いつも好き勝手に傘張りやら草鞋編みやら浮世絵刷りをしてせっせと小遣いを稼いでいる山姥切国広は、まるで太平の世で食い扶持に困って内職をやっていた江戸の浪人武士のようだし、堀川派の刀達は刀工国広が持っていた様々な側面を色濃く映し出しているのかもしれない。……となれば堀川国広が炊事を始めとした家事全般をこなす器用で穏やかな気性でありつつも、戦闘においては一転して冷酷無比な奇襲や騙し討ちを得意としているのは、刀工国広にとどまらず大黒天や|土方歳三《元の主》の側面も備えたが故なのだろうか。大包平がそう言うと、国広は「あいつ、あれでいて結構おっかないからな。怒らせない方がいいぞ」と笑った。

「結界はこの霊山を含めた本丸全域に掛けられているだろう? 何故山伏国広はここにも結界を張る?」
「本丸の結界は外敵に対して働きかけるものだが、この霊山の山門に張る結界は本丸の内部に働きかけるものだ。『部外者』を退ける為のな。本来兄弟が張る山門の結界は、仲間を不用意に立ち入らせないよう、苛烈な修行に巻き込まない為に張るものなんだ」
「いつもこんな所で何をやってるんだあいつは……」
「なんでも。洞窟に篭って断食の瞑想、滝行、火渡り護摩の火生三昧……色々あるが、どの苦行にも耐え得るのは太刀の兄弟だからだ。素人が首を突っ込んで簡単に真似できるものではない。そもそも修行中の|修験者《あいつ》には不動明王が降りてくるからな、俺達が下手に近づけば験力で弾かれて即手入れ部屋行きだ」
「……そっちの方が怖いだろ!」

 結界とは境界線を設け、区切ることを差す。そこから転じて仏教などでは|清浄《神仏》の域と|不浄《魔》の域に仕切りを設け、修行の為の障難を退けることを意味するようになった。山伏国広は、周囲への配慮として結界で修行の為の区画を設けているということなのだろう。同じ結界でも山門に張る結界は、本丸が常時展開している結界とは術式の方向性が異なるようだ。

「と言っても、俺の力では兄弟が張る程の強制力はない。本丸内の連中がこの霊山へ何らかの用があったとしても、『それは今じゃない』と認識を逸らす程度だ。……修験道の専門家である兄弟だったら、結界を張っている間は霊山の存在自体を認識出来ないようにしてしまえる」
「気付く奴は気付く、ということか」
「とりわけ霊力の強い刀……御神刀連中や三池兄弟、鬼丸辺りなら、霊山の周辺に来れば認識阻害に気付くだろうな。それでも『立ち入り禁止区域の看板が見えている』に過ぎない状態だ。その上で態々首を突っ込んでくる行儀の悪い連中ではないのは、お前も分かるだろう」

 本丸全域に張り巡らされた結界は、主に時間軸における本丸の座標を隠蔽する役割がある。無論、時間遡行軍による本丸への襲撃を防ぐ為のものであり、物理的な攻撃を防ぐ障壁などという便利なものではない。刀剣男士も時間遡行軍も、過去の時間軸を辿って目標を特定し、戦っているのだ。当然、拠点さえ捕捉出来るのなら攻め込むことなど容易い。知られたくない情報は、そもそも認識させないに限る。その理屈は、この山門に張った結界も同じらしい。

「……ふん。そういうものか」
「現実に依るか、幻想に依るかの違いでしかない。お前が気にする必要もない」

 こういう時、大包平はひどく歯痒い思いをする。今は関係者である為こうして霊山に立ち入ることが出来るが、これがもし『当事者』でなかったなら。きっと簡単に認識を阻害されて、何も気づけないのだろう。打った刀工や置かれた環境によって備わった力。それは神秘に依る逸話を一切持たない大包平にとって、どうあっても埋められない差だ。適材適所と分かってはいても、持たざるものにとってはその羨望を消すことなどできはしない。

 ―――或いは、妖の貌が表に出ている時なら。
 そういう力も持てるのかもしれない。

 付喪神が持つ妖怪の側面、妖の貌は空想の領域だ。それは指向性を持たないエネルギーの塊であり、むしろ力の方向性を『信仰』という形で固定されている神の方が現実に近いと言える。故に、踏み込んではならない領域でもある。裏の顔を引き摺り出され、敵も味方も構わず意のままに意識を縛り上げ操った時の、得も言われぬ高揚感。あれこそ討伐されて然るべき、魔性の類だろう。そういう意味でもあの時の大包平は、この本丸を危機に晒していたことになる。遡行軍による呪術で中身を弄くられ、妖の貌が表に出たままの刀をそのまま本丸へ持ち帰るということは、遡行軍側の逆探知で本丸の位置が特定されてしまう危険性もあったということだ。ウイルスに感染したファイルを持ち込むような状態に近い。こんのすけの進言で審神者によって施された結界強化は、脆弱性に対応し座標を隠蔽し直す念の為の|更新《アップデート》だったという訳だ。……だからこそ、刀剣男士のままに突出した才や力を振るえる者たちが、羨ましくてならない。そしてそれは、この本丸の古参であり写しながら刀工や名に由来した神秘の逸話を有する、国広に対しても思う所だった。

 ―――それはどうあっても届かない星へ、手を伸ばし続けるような苦しみ。

 出来ないことを嘆いてもしょうがない。出来る事をやるしかないとは、和泉守兼定も口癖のように言っていただろう。頭を振って、大包平は山道を睨みつけた。山門を抜けてすぐ待ち構えていたのは、巨岩や張り巡らされた剥き出しの木の根。およそ人が通ることなど想定していない、険しい山道だった。そんな中を進みながら、国広は平然と話を続ける。珍しいものだ。普段は碌に口を利かない癖に、今日は随分と饒舌な。

「元々山に棲んでいる生物や精霊に関しては、修験道においては皆山神の遣いだからな。そちらは『関係者』扱いだ」
「……熊に遭遇することはないのか?」
「此処に棲んでる熊は大体、日頃から山を使っている刀にとってみれば皆顔見知りだ。俺達は|人《いきもの》じゃないからな、警戒や恐怖の対象にはならないんだろう。見掛けても此方から呼ばない限りは寄ってこない。ああ、お前が本丸に顕現するよりずっと前の話だが……太刀の兄弟と一緒に、熊と相撲を取ったこともあるぞ」
「お前が!? まるで怪力無双の坂田金時……金太郎のようだな」

 世間話でもするかのような、なんでもない風に嘘か真か分からないようなとんでもない話ばかり転がり出てくる。怖ろしい。その度に踏み外しそうになる足を踏ん張って必死で堪えていた。時折国広の手を借りながら、険しい山道を登っていく。やがて山腹に差し掛かった所で、砂利と土、周辺には草むらのみの、木々の遮りがない平らで開けた場所に出た。崖崩れや土砂崩れなどで自然に出来上がる、山の『段』というそうだ。この山には複数あるらしく、気分転換の登山や修験修行の際には休憩所にもなるのだとか。成程、大倶利伽羅は普段こういう場所も稽古場にしているのかもしれない。太刀を振るうにも障害となるものがなく、稽古にはもってこいの場所だ。……以前は本丸の庭で寒稽古を共にしていたが、今度押しかけたら流石に嫌がられるだろうか。
 山の段の中央まで来ると、国広が立ち止まる。懐から取り出したのは、四枚の短冊のような札だった。

「……それは?」
「呪符だ、これも兄弟が持たせてくれた。これでこの場所一帯を囲って、演練場に近い空間を作る」
「修験者でもないのにそんなことまで出来るのか、お前は……」
「出来るも何も、兄弟や石切丸達御神刀に呪符を作る力があるというだけの話だ。験力の行使のみなら、刀剣男士であれば誰でも出来る」
「……俺にも出来るのか!?」
「真言さえ間違わなければ、な。機会があったらお前も太刀の兄弟に頼んでみればいい」

 元々『符』とは参詣や祈祷の証として人々に授ける為に作られた、神仏の加護を込めた力の断片だという。何の力も持たない人間達にとっての符は、神仏の加護を以て除災を願う標に過ぎない。だが、刀剣男士であれば別だ。妖の貌も持ち合わせる曖昧な存在の端くれとはいえ、付喪神は一柱の神霊にも分類される。絶大な数の人間が信仰する宗教の神仏は刀剣男士にとっては遥か彼方、格上の存在だが……、神秘としての距離だけならただの人間よりずっと近しい。その域には遠く及ばずとも、刀剣男士自身が人の空想や信仰によって成り立つ存在だからだ。そして宗教や宗派によって方法そのものは異なるとはいえ、修験道の山伏に限らず巫女や僧侶といった神仏に仕える立場にある者は皆、人々への救済儀礼を行う為に一時的に各々が崇めている神仏の力を借り受ける。術者が扱う符は力の方向性を定めた|規定《ルール》であり、簡易的に神仏の機能を行使する為の術式を記した呪術の道具となる訳だ。言うなれば呪符は、呪術を組み上げる為の設計図。予め必要な術式を記している為、通常なら時間を掛けて形成しなければならない呪術も素早く組み上げられる。行使に必要な霊力も、刀剣男士であれば顕現した時から持ち合わせている。後は術式を起動するための詠唱、この呪符であれば記された神仏や権現の|真言《マントラ》さえ唱えればいい。四枚の呪符には、上部に記号のように並べられた日と月の文字があった。中央にはそれぞれ大日如来、愛染明王、飯綱権現、孔雀明王の文字。全ての符の下部には急急如律令、とある。

「急急如律令……まるで陰陽道だな」
「そりゃあ陰陽道も修験道も、中国から伝わった道教が基礎の一つになっているからな」

 聞けば【急急如律令】とは、元は中国からもたらされた道教で使われていた、悪魔祓いの呪文だそうだ。それが後に陰陽道、修験道等にも取り入れられたのだとか。悪魔祓いというと西洋圏のイメージが強いが、要は悪い憑き物を落とすこと。加持祈祷は何も、|石切丸《神職》の専売特許ではないのだという。むしろ修験道は昔から憑き物落としを盛んに行ってきており、『お祓い』は神社でも寺でもやるものだ。加護を借り受ける先の神仏や儀式の作法が異なるだけであり、神官でも巫女でも、寺の僧侶でも、やっていること自体に大きな違いはないそうだ。

「……ん? 不動明王ではないのか? 山伏国広にも降りてくると言っていただろう」
「それは俺も兄弟に聞いたんだが、不動明王では今の俺と験力が合わないそうだ。その代わりに愛染国俊の霊力を借り受けて、愛染明王を入れたと。俺が抱えているお前の呪いが『三毒の貪に近いから』らしい」
「……ああ、そういうことか。流石は山伏国広だな」

 不動明王は人心に巣食う貪欲・瞋恚・愚痴という三つの煩悩……三毒を破して祓い、人々を救済する修験道の主尊だ。貪欲は読んで字のごとく貪るように求めることであり、瞋恚は怒り、愚痴は無知であることを差す。大包平の呪いによって国広の裡の【求める心】に火が点いてしまったというのなら、愛着による葛藤を祓い、煩悩即菩提を掲げる愛染明王の方が適切なのだろう。

「―――|唵・阿毘羅吽欠蘇婆訶《おん・あびらうんけんそわか》」

 国広は大日如来を始めとする四尊の神仏を示す真言をひとつひとつ唱えていくと、四枚の呪符を同時に空に向けて放つ。舞い上がった呪符はそれぞれがひとりでに四方へと散った。広大な山の段の端まで飛んでいくと、ふわりと宙に浮かんだままの状態で制止する。呪符を中心に光の幕が広がり、ドーム状に繋がった後、見えなくなった。これも結界のようなものなのだろう。空間の制御は|宙《そら》そのものである大日如来の験力、|霊力《エネルギー》を霊山から引っ張ってくるのは飯綱権現から借り受ける験力だそうだ。そして霊山から直接流れ込む霊力が国広と大包平に供給されるため、どれだけ斬り合って血を流そうとも疲れも折れもしないのだとか。これが延命、治療を司る孔雀明王の験力。飯綱権現の験力が引っ張ってきた霊力の用途を、大日如来と孔雀明王の験力で指定している、といった所なのだろう。

「頭を砕いて心臓を斬り刻んで完全に破壊すれば、流石に死ぬかもしれんがな」
「……そこまでやる気なのか?」
「そこまでされる程もう弱くはないだろう、お前。単なる保険だ。……悪いが、今は加減出来そうになくてな」

 国広がその言葉を発した途端、周囲の空気が変わった。大自然に囲まれて長閑だった空気の流れはぴたりと止み、一瞬で張り詰めた戦場のそれへと変貌する。知らず大包平は、砂利を踏み締めていた。国広はひとり歩き始め、大包平と一定の距離を取ると立ち止まる。

「―――さぁ、準備は整ったぞ。始めるか」

 国広が襟元の紐を解き、襤褸の外套を投げ捨てる。睨むように大包平を見据える蒼碧の瞳は、獲物に狙いを定めた猛獣のそれだった。ならば呪符に囲われたこの場は獲物を捕らえる為の罠であり……呪符が作ったのは閨を仕切る、帳だろう。

「ただの手合わせ、ではないんだな」
「先に言っておくが。俺の|欲《エゴ》でしかないこの仕合で、お前が得られる利益は何一つとしてないだろう。お前の呪いなんか関係ない、だから俺に付き合う義理だって無い。降りるなら、今の内だぞ」
「っは! まさか、元より手加減など無用だ! 俺を|斬らねば《抱かねば》とても治まらんということだろ?」
「……ああ。俺は俺を、抑えられそうにない」

 いつになく国広が饒舌だったのは、此処に来るまでに少しでも情欲を抑える為だった。態々誰も寄りつかないよう幾重にも張り巡らされた結界は、これからやることが誰にも見せたくない、決して見せてはならない|情交《死合》だから。国広が発する言葉は、酷く熱を帯びていた。

「大包平―――どうか俺に、|壊《あい》されてくれ」

 互いに間合いを取って、身体は遠く離れている。それなのに国広の声はまるで、耳元で囁かれているように甘やかに響いた。身体の奥が、かっと熱を持つ。これは国広が飲み込んだ大包平の【呪い】を祓う為の聖域などではなく、ただ刀としての欲望の限りをぶつける為の舞台だ。最初から呪いを祓うつもりなら、不動明王の験力は必要不可欠だっただろう。

「いいだろう、受けて立つ。……だが」
「なんだ。……ッ焦らすな」
「前にも言ったろう」

 全く「降りるなら今の内」などと、よく言えたものだ。此処まで連れてきておいて言う事がそれとは、つくづく野暮な男である。殊勝そうに形だけの遠慮を見せて、可愛いこぶるのも大概にしろ。囲った時点で逃がすつもりなどないだろう。どうせ袖にされるだなんて、欠片も考えていない癖に。応えるよりも先に、大包平は|刀《おのれ》を抜いた。

「―――俺は、黙って|貴《・》|様《・》に斬られてやる男ではないぞ?」
「……っは、そうでなくては困る!」

 柄を握り締めた。呪術の結界が保険に過ぎないなら、あてにしてはいられない。僅かでも気を抜けば、きっと国広が言った通りに頭を砕かれ心臓も斬り刻まれて殺される。
 鞘は投げ棄てた。騎馬戦を想定して作られている太刀の鞘は当然長い、動いている内に必ず邪魔になる。抜刀術など向かない上、そも納刀している暇だって与えられはしないだろう。ならば、腰に提げているだけ無駄でしかない。

「いざ、尋常に―――勝負!」

 互いの声が、重なる。決戦の火ぶたは切って落とされる。元より死ぬ気などない。さりとて死なせるつもりも全くない。ほぼ同時に、地を蹴って駆け出す。
 鋼のぶつかり合う音が響き渡るのは、その直後のことだった。



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