うつくしきかな、蝶の呪い




 そんな数々の目も当てられないような出来事があって、七日目の今に至る。気付かされてしまった想いはもう、どんなに見ないふりをしようとしても誤魔化せなかった。どうにか逃げる道はないものかと悩み続けても、答えなど出る筈もなかった。大包平の呪が未だに纏わりついているというなら、さっさと切り離して欲しい。けれど石切丸当刃からも「私には斬れない、斬るべきではないものだよ」とまで言われてしまっては、どうしようもなかった。

『私にはその呪を斬る、【権利】がないんだ。貴方は大包平さんの呪を自ら欲し、呑み下し、己が物とした。呪いとは暗示だ。あの四振りや彼に討伐された遡行軍達は皆、大包平さんの呪を|呪《のろ》いとして受け止めた為に縛り付けられ、動けなくなった。けれど貴方は違う。貴方はそれを|呪《のろ》いではなく、【山姥切国広】として走り続ける為の|呪《まじな》いとして受け止めたんだ。それはあなたが大包平さんにだけ奉げた|誓《こころ》だ。私にはとても斬れないよ、それは私が斬っていい|縁《よすが》ではない。だからこそ、その呪は誰かの手で断つ邪悪な欲望ではなく、貴方が自ら向き合うべき感情なんだ。大包平さんを求めた貴方自身が破らなければならない、最後の殻だなんだ。貴方自身で壊さなければならない、最後の壁だよ』

 分かるのに、分かりたくもない。休養を言い渡されたのに、まるで休めている気がしない。自覚したらもう後は膨れ上がるばかりで、大包平に対する理不尽極まりない怒りが腹の底に蟠っている。

 この怒りが大包平からすれば極めて不当な感情である、というのは重々承知している。誑かされたと言った所で、大包平にはそんな意図などないのは明白だからだ。国広に限らず、誰に対しても大包平の態度は変わらない。自信のない刀は全力で応援する。真面目に仕事をこなす刀には労いの言葉を掛ける。調子の悪そうな刀が居れば、真っ先に駆け寄って気遣う。怠ける刀には怒り、活を入れる。相手がどんな刀でも当たり前のように真剣に、真摯に向き合う。天下五剣の大典太光世に対してさえ最初こそ大包平は一方的に張り合っていた。けれど次第になんだかんだと世話を焼くようになり、共に唄う程仲良くなっていったのだ。だから大典太も今回の任務で大包平が肉体を保てぬほど霊力を消耗したと聞き、兄弟刀のソハヤノツルキと共に手入れ部屋に駆けつけた。大典太曰く、大包平には一度では返せぬほどの大きな借りがあるのだという。いつかの祭でも、今も、世話になりっぱなしだからと。

 大包平はもう、あの頃のような鍛え導くべき顕現したての新刃ではない。国広を追い越していくのも時間の問題だ。早く後を任せられるようになってもらいたい、その日が待ち遠しいとさえ思っていた筈なのに、今は大包平の目覚ましい成長が憎らしくて疎ましくて苛立たしくてたまらない。国広はこの男の善性に救われるばかりだというのに、この男にとってその手は誰にでも差し伸べるものであり、やって当然のことでしかない。その中には、何も残りやしない。今更気付いたって特別になんか、なれないのだ。だったらいっそ滅茶苦茶に傷つけてしまいたい。傷ついてしまえばいいとさえ思うのに、この男には傷一つだってつけられない。己ばかりが、こんなにも狂っている。ひどい独占欲だ。

 大包平の肉体を再構築出来る様になった三日前の朝、国広と入れ違いに手入れ部屋を後にしたソハヤノツルキは言っていた。

『―――それでもお前は情も欲も全部飲み込んで、耐え抜いたんだろ? だから大包平もお前も、生きて此処に居る。だったらその想いまで捨てちまうなんて、あまりに勿体無い。誇れよ、山姥切国広。本歌のお墨付きなんざ、中々得られるもんじゃねぇぜ?』

 お互い途方も無い力を持つ霊剣の写しであるというのに、彼方は随分酷なことを言う。こんな感情、どう誇れというのか。

 何も知らない大包平は、穏やかな顔で今もすやすやと寝こけている。頬をそっと撫で、紅の髪を指先に纏わせるように弄ぶ。優しく触れることは出来るのに、裡ではこの美しい顔をどうにかして曇らせてやりたいなどと考えている。自信に満ち溢れた快活で懐っこい笑みを何より好いていた筈なのに、腹の底では恥辱に濡れ苦痛に歪み涙を零す顔が見てみたいなどと考えている。この美しい男を穢しかねない醜い感情ばかり湛えた自分が、傍に居ていい筈がない。なのに事情を知る仲間達も本歌も兄弟でさえも、誰ひとりとして国広がこの手入れ部屋に通うことを止めてくれなかった。国広自身もこの男の傍を、離れられなかった。その目に己を映さないのが、気に喰わない。その口が己の名を紡がないのが、気に入らない。目が覚めた時大包平が最初に見る刀は、山姥切国広でなければならない。この男が最初に目覚めた時傍にいる刀が、自分以外だなんて絶対に許せない。そんな身勝手なことばかり、考えている。

 情愛と呼ぶにはあまりに稚拙。されど恋慕と呼ぶにはあまりに苛烈。
 認めたくない、けれど認めなければならない。
 山姥切国広は、どうしようもないくらいこの大包平という|刀《おとこ》を欲している。

 気付いてしまったこの大包平への独占欲と嗜虐心が、化け物斬りの本能と合わさった時―――きっと国広は、大包平を『殺したいほど愛おしい』と思ってしまう。それが長義の言った、山姥切国広の『化生』としての顔なのだろう。

 何故、こんなにも一振の刀に対して執着しているのか。昔なら考えられなかった。息災でさえあるなら誰がどこで、何をしていようがどうでもいい。むしろ一人になりたい、放っておいてほしい。そう思っていた筈なのだ。あの遠征任務を終えた後でさえ、こんな感情には苛まれなかった。

「この馬鹿が。全部、お前の所為だぞ……」

 誰に言われなくても嫌という程理解している癖に、何がお前の所為だ。勝手に惚れて、勝手に狂っているのは手前だろう。それでもどんなに身勝手な感情だと自分を責めても、心は止まってなどくれない。

 布団の外に出されていた大包平の手を取り、指を絡め、祈るように両手で握りしめる。
 ……すると、大包平の指先がぴくりと微かに動いた。

「……!」
「っ……ぅ」

 掠れた小さな声に、弾かれた様に顔を上げる。

「……やまんば、ぎり?」

 閉じられていた白銀の瞳は、眩しそうに緩く薄く開かれていた。
 使っていない喉は声を嗄らし、酷く掠れた音で国広を呼んだ。
 腹が立ってしょうがなかったというのに、たったそれだけで、馬鹿みたいに胸はかっと熱を帯びた。

「……目が、覚めたのか。大包平」
「ッ、……おれ、は、どれくらい、ねて、いた……?」
「もう七日になる、この寝坊助め」
「っくそ、そんなにか……。まったくだ、かえすことばもない……!」

 動揺を悟られぬよう、平静を装って声を掛けた。布団から体を起こそうとする大包平を助ける振りをして、気付かれぬように絡めた指をそっと離す。全く心とは、感情というやつは度し難い。自覚したらしたで、今度は悟られないように隠そうとしてしまう。

「んッ、けほッ、……声、うまくでないな」
「ほら……水だ、飲め」
「すまん、ありがとな」

 霊力の大半を失って四日、再顕現して更に三日。尚も飲まず食わずで眠り続けた所為だろう。喉を押さえて咳き込む大包平に、国広は用意してあった水を手渡した。大包平はいつもの人好きするような、けれどいつもより眉を下げた少し遠慮がちな笑みで受け取ると、グラスを一気に呷って飲み干す。一杯だけでは足らないだろうと空になったグラスに水差しで注いでやっていると、大包平がふは、と小さく噴き出した。グラスに注がれた水が、ちゃぷんと小さく揺れる。

「なんだ」
「いや、お前にしてはめずらしいと思ってな。……そんなに心配を掛けたか」
「……ッ、当たり前、だろう」

 心臓が、跳ね上がる。ちり、と胸に刺すような痛みが走る。ずけずけと相手の本質ばかり見抜く男だ、隠しても無駄かもしれない。けれどこの感情に気付かれたら、どうなるのだろう。嫌うだろうか。遠ざけるだろうか。あたたかな陽の光を擬神化したようなこの男が、こんなしがない化け物斬りの写しの本心など知った所で、気にも留めないかもしれない。そう思うのに、『もしかしたら』という漠然とした不安は消えない。

「……悪かった。あいつらにも謝らないとな」
「覚えているのか。自分がどんな目に遭って、何をやったのか」
「ああ。……所々朧気ではあるが、全部忘れてしまうよりずっといい」

 普段のような覇気に欠けているのは単に病み上がりの起き抜けだから……だけではなかったようだ。どうやら、大包平には意識が妖に傾いた際の記憶があるらしい。大包平がしっかり喉を潤した所で、お互いの主観を交えた情報を交換する。大包平は、敵に包囲された当時の状況を。国広は、大包平を助け出してから今日までにあったことを。こんのすけの戦闘履歴の解析とそれに基づいた見解は、概ね正確だったようだ。少々違っていたのは痛めつけられる直前、遡行軍からの降伏勧告があったということか。やはり今回の任務で遭遇した遡行軍の目的は歴史改変ではなく、【この本丸の大包平】を誘き出すことだった。従うなら遡行軍は大包平を連れて撤退、命の保証はする。他の刀達にも、手は出さない。その是非を問う、と。当然大包平は間髪入れずに否と叫び、結果孤立状態での一方的な戦闘の末、化生の顔を引き摺り出される事態になってしまった……という顛末だ。包囲網を突破しようとすればその度に斬り付けられ、しかして四肢や首を斬り落とすような真似は決してしない。折られることこそなかったが、さながらそれは蝶の翅に一つずつピンを刺していく……標本作りのようだと国広は思った。

「可笑しいとは思わなかったのか」
「思ったさ。わざわざ俺だけを連れてきて孤立させた上での勧告だ。普段の任務で遭遇する奴らと違って、俺に対する殺気もまるで無かった。連中の狙いはこれか、とは思ったんだがな……だったら徹底的に利用して、お前達が駆け付けてくれるまで意地でも此処に踏み止まってやると考えたんだ」
「……全く、無茶をする」

 当刃曰く、始めは怒りに任せて呪をまき散らし遡行軍を片っ端から斬っていたが、その内手前の美しさに魅入られた連中を嬲り殺しにするのが楽しくてしょうがないと思うまでに精神が高揚してしまっていたそうだ。この時点でかなり危険なのだが、幸か不幸か精神の浸食よりも痛めつけられた肉体の方が先に限界に近付いていた為か、肥前と和泉守が迎えに来た時にはもう刀を振り上げることさえ出来ないほど消耗しきっていたそうだ。二振りが呪に罹ったことにさえ悦んでいる己が居ることに気付き、その時になってやっと大包平は、霞む思考の奥で拙いことになったと後悔したのだという。この状態で二振りに視線まで寄越してしまえば、己が何をしでかすか分からない。だから大包平は、ただ立ち尽くす他なかった。

「なにせ妖の顔など一度も使ったことがなかったからな……。俺が|大包平《おれ》でなくなっていくような気がして、恐ろしくもなった」
「普段から耳に胼胝ができるくらい、自分の事を『美の結晶』と謳っている癖にか。言霊を侮るな。確かにお前のそれは事実ではあるが、自己暗示でもあるだろう。俺達が一番影響されやすい概念だぞ」
「っ、ぐ……しょうがないだろ……あの数を何もなしに切り抜けるなど、無理だぞ。かといって以前のように逃げられそうな道も隙もまるでなかった。無論俺としてもあれを使うのは不本意ではあったが……あんな奴らの手先になど、なりたくもない。元より黙って付いて行った所で、俺が『大包平』でい続けられるとも思えん」
「……それで? あの時俺だけに視線を向けたのは何だったんだ」
「ああ、あれか。俺が相対した奴らや和泉守達には明らかになかった、『本気』の殺意をお前からは感じたんだ。それがお前の化け物斬りとしての本能だったとは知らなかったが……あれは相当怒っているな、と思ったんだ。だからお前が俺を、どうにか引き戻してくれる筈だと信じた」

 大包平の言葉に、それまでどうにか治まっていた怒りが再びこみ上げてくる。この男、殺意までしっかり受け取っておきながらなんの躊躇もなく信用してくる。もう少し舌戦で是非の返答を引き延ばしてくれれば、お互いこんな本能に苛まれる事なく安全に助けることができたかもしれないというのに。……否、遡行軍にそんな猶予を与えるつもりがあるなら、妖に堕とす術など端から準備してこない。大包平が欲しいだけなら、すぐにでも回収は出来た筈である。詰まる所大包平はそうせざるを得なかった……ということだろう。遡行軍が狙っていたのは、長義が言っていた通りの展開なのかもしれない。同士討ちで此方の五振りを破壊し、生き残った大包平のみを回収する。大包平が消耗しきっていても五振りの意識が大包平によって剥奪されてさえいれば、後は遡行軍だけで国広や仲間達を破壊するのも容易だ。ただ一振りでも『生き延びる』という極限まで高まった、大きな可能性を得られる。物語、人の想いという概念で形成された付喪神である刀剣男士だからこそ、それは計り知れない力にもなるだろう。……まるで蟲毒だ。どうせ回収するつもりなら、その方がいいに決まっている。そのための手駒だって、遡行軍であればいくらでも用意できる。
 
「お前の判断、責める気はない。引き摺り出されたその力を、お前自身が利用して抵抗していなければ、俺達もきっと間に合わなかった。それが分からない訳ではない。ないが……ッ、もう少し、どうにかならなかったのか!」

 あの世界から逃げおおせた遡行軍達の中に、見ていた奴がいたのだろう。あの時国広を助ける為に閉じた世界をこじ開けて見せた、大包平の力強くうつくしい姿を。あの姿に、魅入られないものなど居るはずもない。遡行軍は確かに大包平を求めていたが、その理由自体はもっと単純だったのかもしれない。ただその美しいものを、どうにかして美しいかたちのまま、最も美しく輝くかたちで手に入れたい。それだけだったのかもしれない。

 手前の美しさには絶対の自信がある癖に、その美しさが執着の対象になりかねないという自覚はまるでない。……本当に、困った男だ。
 気付けば国広は大包平の腕を引き寄せ、その体を強く掻き抱いていた。

「……ッう、ぉ!? や、山姥切?」

 嗚呼、ようやく分かった。大包平に誑かされたのは、あの遠征任務で助けられた時だ。妖に傾いた大包平の呪を受けて、気付いていなかった想いが爆発しただけだ。だから本丸の仲間たちは誰も、この呪に触ろうとしなかった。石切丸も、呪ごと呑み下してしまった国広のそれだけは斬るべきでないと判断した。これは仲間の死に囚われていた国広を、前に進ませるための決定的な戒めになる。いつまで経っても己を赦すことが出来ず、どんなに光を当てられても心のどこかでは死に場所を探してしまう国広が。仲間達と共に必ず生きてこの本丸に、大包平の元に帰ってくる、強力な|縁《よすが》となる。……全く、我ながら朴念仁にも程がある。

 ふざけるな。
 妖魔共になど、渡してたまるか。
 ―――このうつくしいおとこはもう、俺のものだ。

「約束しろ、二度とあんな罠に掛かるな! あんな顔を見せるな! 二度と俺に、お前を『殺さねばならない』などと、思わせてくれるな……!」

 後頭部を掴むように、湯帷子の上から背に爪を立てるように、強く抱き締める。国広のそれはまるで、縋り付くような抱擁だった。無茶な要求をしている自覚はある。けれど、言わずにはおれなかった。ややあって背に大包平の腕が回ってきたのを感じ、国広は安堵の息を吐く。

「……すまん。俺は、お前の古傷まで抉ってしまったんだな。本当に悪かった」
「絶対に、許さんからな」
「ぅ、わ、悪かったと言っているだろう……! 次はない、今回は勘弁してくれ」

 大包平の手のひらは、とん、とん、と一定の間隔で慰めるように優しく国広の背を叩く。普段の大包平ならこういう時は勢いを付けて力いっぱい背を叩いてくるだろうに、今この時はひどく穏やかな仕草だった。本歌といいこの男といい、後から来た癖にどいつもこいつも童扱いだ、気に入らない。新参で後輩、なのにこういう時だけ年上ぶって古刀の顔を見せる。実力は未だ国広の方が上で、当然刀剣男士としての経験だってずっと国広が上で。なのに敵わないと、思い知らされる。しがみつくように固くその身を抱きしめ続けていると、大包平は珍しく歯切れ悪そうにぼそぼそと耳元で呟いてきた。

「なぁ、いつまでこうしているんだ? その……、そろそろ離れないか?」
「いやだ」
「いやだ、ってお前なぁ」
「責任を取れ」
「責任!? 何のだ!? 俺は他にも拙いことをしたのか!?」

 心配と迷惑を掛けたことならもう散々謝っただろうと、大包平は慌てている。抱擁の一つでもすれば感づくかと思いきや、全く忌々しい男だ。この期に及んで自分のやったことが国広にとってどれだけ致命的だったか、何ひとつとして気づいていない。他者の本質を見抜くのが得意な癖に、どうして直接手前に向けられる感情にはこうも鈍いのか。全部言葉にしないと、分からないとでも。

 だったらもう、黙ってなど居られない。
 黙っていたら、他の誰かに奪われてしまう。
 そんなもの、耐えられるはずがなかった。

「……俺はお前に『山姥切』としての本能を掻き立てられた! お前も気付いたんだろう、俺がお前に向けてしまった、本気の『殺意』に! 俺はあの時確かにお前を失いたくないと思ったのに、あんな魔性の気を纏った姿よりも、いつものお前が見せる笑顔が何より眩しく愛おしいと思ったはずなのに……! 今は同じ心でお前を|壊《おか》し、傷つけてやりたいとさえ思っている……!」

 ええい儘よと、国広は胸の奥に巣食っていた澱みを吐露した。抱きしめたその体を離す代わりに、布団へと押し倒す。逃がしてなどやるものかと、その両手首を掴んで布団に縫い付ける。それまで話が見えないと訝し気にしていた大包平の、表情が変わった。鋼色の視線が、鋭くなる。けれど一度吐いた言葉はもう、二度と呑み込めない。

「お前の妖としての顔を見てから、……もうずっとだ! 誰からも愛され誰からも必要とされるお前が誇らしくて愛おしい! なのにそれが、憎らしくて疎ましくてしょうがない! 俺を早く超えてしまえと今でも思っているのに、お前において行かれるのがおそろしくてたまらない! お前があの時いつもの調子で待っていたなら、こんな醜い|感情《こころ》になんて気付かなかった! 俺だって、こんなもの気付きたくなんかなかった! ……あんなに綺麗なお前を見せられたら、我慢なんか、出来るわけないだろう……!」

 ……嗚呼、けれど。

「―――大包平、お前が欲しい。こんな想いに気付かせた責任、ちゃんと取ってくれ」

 最後に精一杯絞り出した声は、泣きそうなほど震えていた。抑えつけた両腕も、大包平が少し身じろげば簡単に解けてしまいそうなくらい、力がまるで入らない。傷つけたいなんて言葉を投げつけておきながら、結局そんな度胸どこをひっくり返しても出て来やしない。はぁ、と溜息を吐いた大包平が、言葉を紡ごうと口を開く。返答など、聞きたくなかった。否と言われるのが、目に見えているから。無理矢理口付けて塞いでやりたいくらいなのに、そんな覚悟だって出来ないのだから情けない。

「しょうがないなぁ、お前という奴は」

 しかし、耳に届いたのは国広が予想していた言葉とは微妙にズレた返事だった。その意図が分からず、条件反射のようにいつもの卑屈な言葉が零れ落ちる。

「……なんだ、やはり俺の様な写しでは不満か。お前とは釣り合わないとでも」
「お前は本当に性格が暗いな! 俺を口説くならまず自分を卑下するな、誰もそんなこと言ってないだろ。それに、俺が美しいのは当然のこと。ただの事実だ。勝手に惚れて勝手に狂った貴様が悪い!」
「っは、道理だな。そうだ、俺だけがお前に惚れて、狂っている。そのくらい、言われなくたって分かってる……」

 縛り付けていた腕は、案の定あっさり解かれる。大包平の言葉が胸に、突き刺さる。自嘲するように笑えば、頭に腕を回されこつんと軽い頭突きをかまされた。

「話は最後まで聞け。絶対に俺の所為ではないが……いい機会だ、今回だけは敢えて俺の所為だということにされてやろう。自分だけだと思うな、俺にだってそのくらいの情はある」
「……ッ!」
「大体写しの何が悪いというんだ。お前の美しさは、俺も殊更気に入っているんだぞ」
「……こんな俺を、美しいとか、言うな、っ……!」
「ふはは、諦めろ! 何度だって言ってやるとも、お前は美しい! この俺が認める程にな!」

 ……この男、本当に狡い。
 頭を抱きかかえられたまま、鼻の先が触れ合いそうな程の至近距離で、逃げられもせず口説き返されている。捕まえたつもりが、逆に捕まっていた。やっぱり良いように誑かされているのではないかという暗い感情が脳裏に過る度、頭や首の後ろに回ってしっかりと抱きすくめてくる逞しい腕が、国広の疑心を何度でもぶち壊す。

「今のお前は俺を傷付けたいと言いながら、いつもよりずっと大切に俺を扱うじゃないか。お前は己の内に『俺を損ないたい』という狂気があることを認め、それでもその先に踏み込んではならない、侵してはならないと、当たり前に耐えている。お前の美しさは、見目だけではないんだ。『山姥切』の宿業も、衝動に紐づいた欲望も、超えてはならないものとして最後の一線を引くことが出来る。その心もまた強く、美しい。これほど俺に相応しい|刀《おとこ》は居まい」

 信じてもいいのか、なんてもう聞くまでもなかった。顔どころか全身熱い、火でも出そうだ。耳に劈く程の声で吠えると思えば、今はその声があまりに静かで優しい。その低く甘やかな響きに、胸の奥底がひどくむず痒くなった。けれど今この腕を振り払って襤褸頭巾で顔を隠してしまうのは、あまりに惜しく離れがたくて。

「生憎今の俺は審神者の持ち物だ、全部という訳にはいかんが……。お前にだったら、渡せる分くらいは俺をくれてやってもいいさ」
 
 大包平の長い指先が国広の頭を撫で、被っていた頭巾をするりと背に落とす。誰かの前でこれを取るなんてあんなに嫌だった筈なのに、もうどうでもいいと思ったのはこれで二回目だ。金の髪を梳き、遊ぶように頬に触れてくる指を捕まえ、国広はその手のひらに頬を摺り寄せる。

「本当に、俺でいいのか。……いつか、耐えきれなくなる時が来るかもしれないんだぞ」
「くどい! 何度も言わせるな、俺はお前が良いんだ。そういう時が来ても、俺は絶対に黙っていないから安心しろ」
「ならもう、遠慮なんてしないからな」
「お前が俺に遠慮したことなんてあったか?」
「……ははっ、無いな」

 額を合わせ、笑い合う。言わなければ伝わらない、どこまでもいっても大包平の言う通りだった。全部言ってしまえば疎まれると恐れていたのが、馬鹿みたいだ。ああでも、面と向かって壊したいと言われても尚受け入れる、この男だって大概馬鹿だろう。それならきっと、似合いの二振りになるに違いない。
 ……夢見心地のまま唇も重ねようとした、その時。

「―――いよーうおふたりさん! 朝っぱらからお盛んなことでぇ!」
「……ッ!?」

 すぱん、と障子が開く小気味の良い音と共に、通り過ぎる程良く通る声が部屋中に響き渡った。背に落ちていた襤褸布を咄嗟に引っ張り上げ、国広は身体を横にずらす。その瞬間、大包平が布団から飛び起きる。お陰で衝突は避けられたが、「二人とも息ぴったりだねぇ」と笑う、爽やかな声まで聞こえてきた。……しまった、と国広は内心で悪態を吐く。もうじき来るだろうと思っていた筈なのに、すっかり忘れていたのだ。

「えーと、お取込み中失礼するね?」
「仲良いのは良いんだけどよぉ、手入れ部屋でおっぱじめんのは流石に拙いだろぉ?」
「……アンタら、此処で睦むのやめろ! これから手入れされる度に微妙な気分になるだろうが、どっちかの部屋戻ってからにしやがれ!」
「七日も出てこねぇから心配して様子見に来てやってんのに、元気じゃねーか、にゃ! なーんか損した気分だぜ……」

 満面の笑みで仁王立ちしていたのは、和泉守だ。そのすぐ後ろで、肥前が顔を赤く染めて怒鳴っている。あけ放たれた障子の陰からひょっこりと顔を出して笑っているのは、小竜と南泉だ。

 ……棚上げも良い所ではあるが朝っぱらからなどと、そちらもひとの事は言えないだろう。
 この七日間、結局揃いも揃って毎朝のように大包平の様子を見に来ていたのだから。

「き、き、貴様ら、いつから聞いて……!?」
「大包平が起きた所から、かな?」
「全部ではないか!! 入るならもっと早く入ってこい!!」
「本当はもっと早く入るつもりだったんだけど……」
「和泉守がよぉ、『まぁ待て、まだだ。一番良い所で突撃してやっから』って言うもんだから……にゃぁ?」
「い、和泉守、貴ッ様ぁ……!!」
「いーじゃねぇか、お互い言いたいこと全部吐き出せたんだろ? むしろそれまでこいつらを抑えた俺に感謝してほしいくらいだぜぇ?」

 和泉守め、本当に良い性格をしている。それにしたって目の前の男に夢中で、釘付けで、仲間達に全部見られる事態を想定していなかったなんて大失態にも程がある。もう暫くはまともに顔が上げられそうにない。ちらりと横目で盗み見た大包平も、顔を耳まで赤く染めてぷるぷると両肩を震わせていた。

「さぁて山姥切、大包平、朝餉にしようや! 国広がよ、『もう準備出来てるから、食べられそうならおいで』っつってたぜ」
「……あんたらがそういう仲になったのは構わねぇけどよ、話すにしろ睦むにしろせめて飯食ってからにしろ。空きっ腹じゃろくなことにならねぇぞ」
「再度顕現してから何も食べてないんじゃ、流石にね。あぁでも大包平、食堂まで来れるかい? お膳、こっちまで持ってこようか」
「おっ、なら折角だし俺達も飯持ってきてここで一緒に食えばいいんじゃねーか? 今食堂は他の奴らでいっぱいだろ? 暫くは結界強化と精神保護の術式組むのに出陣控えるから、手入れ部屋が必要になる予定は無いって主も言ってたし」
「そりゃいいな! よーし運ぶのは国広と鶴丸にも手伝ってもらうとして……山姥切! 俺らで飯用意してやっから、その間だけ二人っきりにしといてやらぁ!」

 まるで慌ただしい刀達だ。各々好き勝手に動く癖に、勝手に纏まって頼んでもないのに方針を決めてしまった。一週間前の巡視任務の時も、いつかの遠征任務の後も、ずっとこんな調子だったか。ようやく戻ってきたいつもの風景に、柄にもなく鼻の奥がつんと痛む。

「……小竜、南泉、肥前、和泉守!」

 大包平が、意気揚々と食堂に向かおうとしていた四振りを呼び止める。

「本当に、すまなかった。……ありがとう」

 なんだなんだと一斉にこちらを振り返った小竜達に、大包平は静かに頭を下げた。目を閉じて膝の上で固く拳を握り、深々と首を垂れる大包平に、四振りは敢えていつものようにへらりと笑う。

「うん。大包平がいつもの『大包平』に戻ってくれて、ほっとしたよ」
「やっぱてめーはあんなゾッとするほどキラキラした澄まし顔してるよか、その馬鹿真面目な面が一番だ、にゃ!」
「心配かけんじゃねーよ、こっちは冷や冷やしたんだぜ。……次はねぇからな」
「山姥切とのイイ仲見せてもらったし、これでちゃらにしといてやるっての」

 四振りはそれだけ言うと、ばたばたと騒がしい足音で手入れ部屋を後にする。ややあって、「こらそこ、廊下を走るな」という蜻蛉切の大きな声が聞こえてきた。廊下を歩く複数の足音や、ざわざわとした刀の声が耳に届く。皆それぞれ支度をして、食堂へ向かい始めている。……こんな日常の喧騒すら、大包平が目を覚まさなかった間はずっと、聞こえてこなかった。

「全く、どいつもこいつも……」
「けど、それが良いんだろう?」
「……ああ」

 それはまるで、失った色を少しずつ取り戻していくかのような。
 けれどそれまでにはなかった、鮮やかな色が差し込まれていくかのような。
 顔を上げた大包平と、国広は触れるだけの口づけを交わす。

 ―――|呪《おも》いとは、かくもうつくしきものだったか。 

 この蝶を独り占めにできるなら心を持つのも悪くないと、国広は思うのだった。







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