うつくしきかな、蝶の呪い
障子に手を掛け、溜息をひとつ。手入れ部屋に足を踏み入れる。何かしていなくては落ち着かず、けれど傘張りも草鞋編みも浮世絵刷りもまるで手に付かず、眠りもずっと浅い。結局毎日、早朝には此処に戻ってきてしまう。件の男は本体の修復などとうに終わっているというのに、相変わらず布団に寝かされたまま。泥のように昏々と眠っている。
あの惨憺たる任務から帰還して、もう七日が経つ。あと何度日が昇れば、この男は目を覚ますのだろう。指折り数えるのも、いい加減飽きてきた。
「この、馬鹿が。……早く起きろ」
男の枕元に座り、真紅の髪をそっと指で梳く。
馬鹿という方が馬鹿なんだ、という煩い口癖も今は聞こえてこない。それが無性に、腹立たしかった。
*
七日前の話だ。
それは公武合体運動の遠征任務以来、久しく集められていなかった馴染みの六振りでの出陣だった。当時は政府による隔離措置がある程度想定された上での合流であり、敗北前提の撤退任務だったが、今回は始めから揃っての市街地巡視任務だ。南泉、小竜、大包平の三振りは今や練度も上がり、主任務となる合戦場への出陣も増えていたところだった。各々勝手に動く方が効率がいい部隊である為、任務開始当初は以前のように各自で情報を集めてきては、歴史の動きに異常がないかを確認し合っていた。……が、途中で史上の出来事とは全く関係しない妙なタイミングで遡行軍が市街地の各所に現れ、部隊を分けて各個撃破せざるを得ない状況に陥ってしまった。そこに加えての、悪天候である。時折強い風も吹く横殴りの雨、気を抜けば泥濘んだ地面に足を取られそうにもなり、戦いにくいことこの上ない。それでも幸いなことに天気が悪い為か人影は殆どなく、人目を気にする必要はなかった。市街地といってもこの時代では大名家の屋敷が立ち並ぶ武家地や寺社地、田畑などの百姓地も混在する郊外に寄った土地であったことも大きいだろう。練度の差を考慮して和泉守と南泉、肥前と大包平、そして小竜と国広の二振りずつに分かれての戦闘を行っていたが、場所によって敵の数に偏りがあるという異変に気付いた和泉守と南泉が最初に国広達と合流した。そして和泉守や自分たちが相手取っていた数よりも倍近くの敵に囲まれ全く身動きが取れなくなっていた肥前を発見し、その場で報告を受けたのだ。大包平と、引き離されたと。肥前自身は幸い軽傷だったが、槍や大太刀といった大型の妖に囲まれたことで視界を完全に遮られ、大包平を見失ってしまったのだという。国広達が駆けつけた時その場に大包平の姿はなかった。遅かった、そこでようやく全員が気付いたのだ。遡行軍の目的がこの時代の歴史改変ではなく、|こ《・》|の《・》|部《・》|隊《・》|に《・》|所《・》|属《・》|す《・》|る《・》|大《・》|包《・》|平《・》であったことに。国広は真っ先に駆け出したい衝動を抑え、偵察と機動の高い和泉守と肥前を先んじて送り出した。
降り頻る雨が視界を滲ませる。
虫の知らせは止まず、酷い焦燥は地を駆ける足をただひたすらに急かした。纏った襤褸布は雨で重たくなり、纏わりついて煩わしいが、構ってなどいられなかった。影から躍り出る太刀や打刀の妖を即座に斬り伏せ、わき目も振らず前へと駆けた。
『あーくそ、邪魔だテメェら! 退きやがれ、にゃ!』
『大包平のことだし、大丈夫だと思いたいけど……敵の数が多過ぎるね……!』
度重なる進路妨害に苛立った南泉が吠えた。周囲を警戒しながら走る小竜の顔には、明らかな疲労の色が浮かび始めていた。足の速い槍の妖が多い為、傷も徐々に増えてきていた。市街を進めば進むほど敵は増え、容易く先には進ませてくれないそれはまるで、時間稼ぎのようでもあった。
焦っているのは、国広だけではなかった。嫌な予感というのは共に駆ける誰もがずっと、抱いていた。
(頼む、間に合え……!)
敵の数が増えていく場所。しかしより人目に付きにくい場所。それを手掛かりにたどり着いたのは、とある旗本屋敷の広大な庭園の、一際大きな松の木の前だった。この頃には酷い雨風も止み、空は厚い雲に覆われているものの、隙間からはほんのわずかの陽光が差し込んでいた。周囲に積み上がってどす黒い塵をまき散らしていた異形の遺骸は間違いなく、時間遡行軍のものだ。先行した和泉守と肥前は既にたどり着いていたのだが……二人の様子が、どうもおかしかった。
『和泉守! ……ちょっと、和泉守?』
『おーい、肥前ー! 返事しろ、にゃ! 大包平、居たのかー?』
小竜と南泉が後ろから声を掛けても、どちらからも返答がない。此方を振り向くこともなく、立ち尽くしたようにただ松の木の方を向いたままだ。国広の嫌な予感は一気に膨れ上がった。至る所に遡行軍の残骸が散乱し、燃え滓のような塵を風が巻き上げている。敵の影は、もうとうになくなっているのに。
(気配が、消えていない……違う、これは)
遡行軍独特の、怖気が走るような魔性の気配が消えていない。……むしろ遡行軍のそれよりも、色濃く強い『何か』がそこにいた。同時に、自分の裡にこれまで一度も感じたことのなかったおぞましいまでの激しい衝動が沸き上がったの覚えている。
斬れ。
そこにいるものは生かしておいてはならないモノである、と。
たまらず和泉守と肥前に駆け寄り、山姥切国広は二振りの視線の先を見た。
そこにあったのは。
―――いっそ暴力的なほどの『美』だった。
それは血と泥に塗れていた。
焔のごとき紅の髪は乱れて雨粒が滴り落ち、蟀谷や刀を握りしめたままの拳からはとめどなく血が伝っていた。大袖や紅紐は無惨にも千切れ、黒の洋装も悉く切り裂かれ、血でその闇色を一層強めていた。真白だったシャツも裂けて開け、染み込んだ血は雨で滲み所々が薄紅に染まっていた。何度か転倒したのだろう、刀傷でぼろぼろになった洋装や革靴には至る所に泥がこびりついていた。死に物狂いだったらしいその修羅の様相は、口で語るよりも雄弁に戦闘の凄まじさを伝えてくる。
だというのに。
曇天を茫然と仰ぎ、幽鬼のように身体をふらつかせるその男の『美しさ』は、何一つとして損なわれていなかったのだ。
丁寧に磨かれた金剛石のように煌めく、虚ろな銀の瞳。天人が鑿を振るい、魂を込めて削り出したかのごとき完成された鼻梁。傷だらけにも拘わらず、その肌や唇は一層艶めいていた。男の周囲に舞い散る桜の花弁は、薔薇と見紛う程の真紅に染まっていた。雲の隙間から差し込む微かな陽光さえもその男の荘厳な美しさを言祝いでいるかのようで、眼前に広がる光景はまさに一つの絵画であった。天に、或いは神に。祈りを捧げるための、宗教画だ。そんな形容さえ、この男の美しさにはまるで適さないものなのだろう。世に存在する全ての事象が陳腐に思えてくるほどの、ただこの男が刀であるというだけで完成される、究極かつ純粋なる美。
本当なら無事であったことを、喜ぶべき所だった。消えかかってこそいるが地に積みあがった妖の骸を見れば分かる、自分たちが相手にしていた敵の数よりもはるかに多い。百など優に超える。よくぞこの死地をたった一振りで切り抜けたと、称賛すべき所だった筈だ。しかしそれこそがあり得ない、この状況が異常だという何よりの証拠でもあった。戦に慣れた国広でさえ骨の折れる、到底生き残れはしないような敵の数。未だ練度の頭打ちにならない刀剣男士に、|そ《・》|ん《・》|な《・》|力《・》|な《・》|ど《・》|あ《・》|る《・》|わ《・》|け《・》|が《・》|な《・》|い《・》。
(嗚呼―――あれは、もう)
芸術とは人の心を容赦なく揺さぶる。極限に至る美とは人の心を奪い、捉えて離さない。和泉守と肥前がまるで動けなくなったのも当然だろう。小竜と南泉も、同じように動けなくなっていた。言葉さえも、発することができなくなっていた。そんな中で、可笑しな事に国広だけが動けたのだ。刀を握りしめた拳は、ずっと震えていた。腰を低く落とし、足は今にも駆けださんと、砂利を踏みしめていた。他ならぬ自分の事であるが故に、何故自分だけがこうして動けるのか、理由など分かり切っていた。それでも、認めてはいけない。認めたくなどなかった。認められるはずがなかった。目の前にいるあの男は確かに、今までもこれから先もずっと、共に戦う仲間であった筈なのだから。
時間遡行軍は一体、あの男に何をしたのか。あの男を、どうするつもりだったのか。胸のざわつきは止まなかった。雨は上がったばかりで肌寒いくらいの気温であった筈なのに、じりじりと項が焼け焦げていくような熱と不快な心地を覚えた。空を見上げたままだった男の首が、微かに傾く。男と、かちりと目が合う。
『―――あ』
刹那、山姥切の全身が粟立った。
あれは最早、刀剣男士に非ず。
妖怪。
魔性。
化け物。
放っておけば人に、歴史に害を為す、この世にいてはならないモノ。
その時、国広はつくづく実感した。『山姥切』という刀は、そういう運命にあるのかもしれない。そも本歌の『山姥切』という号は名の通り山姥を斬ったことに由来するが、その逸話は惨いものだ。北条家の浪人が山中で産気付いた妻を通りがかった民家に住む老婆に預け、街まで薬を買いに走った。しかし浪人が老婆と妻の元に戻った所、生まれたばかりの赤子は老婆に喰われ、妻は泣き崩れていた。妻子を任せておけると思ったはずの老婆は、人喰い鬼の山姥だった訳だ。怒り狂った浪人は赤子を喰った老婆を斬り付け、正体を現して襲い掛かってきた所を一刀で斬り伏せたという。浪人は救いたかったものを、救えた訳ではなかった。
心を深く抉る、苦い記憶。隊長として、かつて仲間を無事に帰すことができなかったあの経験が、国広の脳裏を過った。両手で掬っても水のようにすり抜けて、流れ落ちてしまう。己も似たようなものだろう。そればかりか今度は自らの手で、守りたかったものを壊さねばならない時が来るとは。これがいつか南泉が言っていた、化け物斬りの『呪い』なのかもしれない。ならば何故そんな呪いを、山姥切の写しである己が被らなければならないのか。名が同じなら同じ化け物斬りであるとでも言いたいのか。斬っていようがいなかろうが、その名でさえあるなら力を得るものは本歌も写しも問わない、とでも。
そんな、……そんな馬鹿げた話があるか。
諦念を促す化け物斬りの本能と理不尽な運命への怒りで、頭がぐちゃぐちゃになったのを覚えている。
【何を迷う必要がある、斬れ】
内なる化け物斬りの『山姥切』は、冷ややかに呟いていた。あれはまだ羽化しきっていない魔、弱っている今ならたった一刀で殺せる。あれだけの激戦でありながらその鋼には刃毀れ一つ見られないのだ、ここで殺さなければ、魔は瞬く間に息を吹き返すだろう。第一に危害が及ぶのは、真っ先に獲物になるのは、山姥切自身ではなく指一本動かせなくなっている仲間達だ。斬らねば斬られるのは此方。殺さなければ、これ以上に取り返しのつかないことになる。殺さなくては、生き残れない。己のものと同じ忌々しい声が、頭の中で無機質に響き渡っていた。
……嗚呼、それでも。
あの時走馬灯の様に瞼の裏に浮かんだのは、真っ当な刀剣男士だった頃の大包平がいつか見せた表情や姿ばかりだったのだ。よく笑い、よく怒り、ころころと目まぐるしいほどに変わる、感情豊かで眩いかんばせ。耳の奥に残る|音《こえ》は煩いくらいに大きく響く、勇ましく頼もしいものばかりだった。最悪だろう、気付きたくなどなかった。何故、……なんだって、今更になってこんな。
斬れ。
斬りたくない。
斬れ。
斬りたくない。
斬れ、斬りたくない、斬れ、斬り、たくない。斬れ、斬り、たく、斬れ、斬れ、斬れ、斬れ、斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ斬れ―――頭の中の、声が、止まない。
必死で否定する己の声は、悉くかき消されてしまう。
頭はもう、割れてしまいそうなほどの痛みを訴えていた。
意識が化け物斬りに乗っ取られかけた、その時だった。此方をただ見つめるばかりだったうつくしい男の口元が、ふっと笑ったのだ。唇が、動く。冷え切った虚な鋼色の瞳の奥に、微かな|光《ねつ》が宿ったのを、山姥切は確かに見た。
『…………ッ、あ』
男の唇は確かに、「やまんばぎり、くにひろ」と紡いでいた。
―――そうだ、そうだった。
一番大事なことを、忘れていたのだ。これはそういう刀、そういう男であると。おかげで以前はやっと死に場所を見つけたと思ったのに死に損なって、折れた仲間の元に逝き損ねた。
仲間を全員無事に帰すのが隊長の役割だと、己のようにはなるなと言っておきながら。
隊長だったあの男を追い出し、閉じかけの世界に残ろうとした。
それが矛盾であると、何よりも誰よりも自分自身が分かっていた筈なのに。
この男に後を託し、傷になろうとして……結局傷にすらなれなかったのを思い出したのだ。
こんな有様になってもまだ、この男は必ず戻る。戻ってくる。血で汚れようと、泥に塗れようと、魔に堕ち掛けようと。それでも尚、光を見失わない。這い上がり、立ち上がり、前に進もうとする。助けに来た筈だったのに、その気高く美しい姿に、山姥切はまた救われていた。
……なんて、情けない。
頭の激痛は止んでいない。己が裡は尚も大包平を斬れと喚いていた。この衝動を完全に振り切ってしまえば、瞬く間にあの魔性の美に取り憑かれてしまう。僅かに意識を取り戻したらしい大包平は、まだその妖気を押し込められるまでは戻ってきていない。お互いかろうじて正気を保てているこの好機を、無駄にするわけにはいかなかった。
己が鋼をその場に投げ棄て、山姥切は駆け出した。化け物斬りの衝動を抱えたまま|本体《かたな》など持っていたら、斬ってしまう。ならとっとと放り出すのが正解だ。ただ頭が割れそうなくらい痛いだけで、他の仲間達に比べれば肉体の負傷は殆ど無い。もし止めるのに失敗してあれがまだ動けたとしても、まぁ一太刀くらいは受けられるだろう。今思えばそんな、無茶苦茶なことを考えていたのだ。無我夢中で襟元の紐を解き、頭から被っていた襤褸布を剥いだ。ただでさえ最も美しい剣のひとつなどと呼ばれた刀が、より一層美しくなってしまって。これ以上仲間達の目に晒すのは、あまりに毒だ。
何より。
(どうせならこれは、俺が独り占めにしたいな)
こんなにうつくしいものを、もう誰の目にも触れさせたくなかった。
大包平目掛けて、広げた襤褸を投げつける。
男の嫉妬は醜いというが、なるほどその通りだとこの時国広は思った。この期に及んで考えたことがそれとは我ながら図太い、呆れたものだ。頭から布切れを被せられた大包平は糸が切れたようにがくりと膝を折り、体勢を崩す。その身が地面に叩きつけられる前に国広は確かと大包平を抱き留め、その本体を掴んだ。
『……大包、平』
濃厚な妖の気は瞬く間に消え失せ、周囲を舞う紅い桜の花弁も姿を消した。襤褸をそっと捲れば、瞳を閉じ浅く息を吐く大包平の顔が見て取れたのだが……消耗が激しすぎたらしい。その身が淡い光に包まれたかと思えば、大包平の姿はすぅっと消え失せた。残されたのは、最初に見つけた時は確認できなかった刃毀れと罅だらけの本体だけだ。けれど、折れてはいなかった。……なんとか、なったのだ。
国広の頭痛は、嘘のように治まっていた。
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