うつくしきかな、蝶の呪い
これにて巡視任務の報告を兼ねた即席の軍議は終了。部隊もこの任務完了をもって解散となった。全員暫くの間、休養を兼ねた長期の非番を言い渡されている。そして和泉守達が先に退席した後、国広が審神者に礼を言い執務室を後にした直後だ。腕を組みすぐ傍の柱に凭れて立つ、男士の姿があった。本歌である、山姥切長義だ。国広達が審神者への報告を終えるまで、態々廊下で待っていたらしい。
『……何か用か、長義』
『今回ばかりはお前を褒めなくては、と思ってね。……我が写しにして国広の傑作よ。【山姥切】の本能、よくぞ抑えきった』
どんな嫌味を投げかけられるのかと思いきや、駆けられたのは全く予期していなかった労いの言葉だった。ついでにぽん、ぽん、と頭も撫でられている。今思えば幼子扱いされているようでどうにもいたたまれない気持ちが湧き上がってくるが、この時はあまりの珍しさに数秒程固まってしまった。突っかかって来ては小言を投げていくことが大半の本歌が、この卑屈な写しを、初めて褒めたのだ。明日は槍でも降るのではと思う程、国広にとって衝撃的な出来事であった。
『…………い、意外、だな。お前のことだから、小言が飛んでくると思っていた』
『そりゃあね。本当なら《偽物君は俺の名で顔を売るばかりか、やってもいない化け物退治の逸話まで使おうとしたとは。図々しいにも程があるんじゃないか?》と、言ってやりたい所だけど。……お前で良かった。お前だったから、全員無事に帰還できた任務だ』
『どういうことだ?』
長義曰く、あれは同じ山姥切でも『国広』だから最善の結末にたどり着いたのだとか。しかしてそれはあくまでもこの本丸にとっての最善であり、長義の考える最善とは違うものでもあったという。
『その場にいたのがもしも俺だったなら、化け物斬りの本能に従い、迷うことなく大包平を斬っていた。俺にはお前が大包平に抱くような情など無いからね。魔に堕ちたならそれが仲間であろうと、容赦なく斬る。俺ならそれが最善だと判断していたよ』
この本丸の山姥切長義は元々聚楽第任務を経て配属された政府直属の刀であり、審神者に顕現されてはいない。それがこの本丸の仲間達との絆の深さに影響する訳ではないが、直属であった分任務に対する認識が異なるのは当然だろう。歴史をあるべき形に護ることが最優先である刀剣男士としてなら、長義の方が正しい判断だったかもしれない。大包平を救出できたのは本当に、偶々だ。本体まで投げ棄てて、この身一つで妖に傾いた大包平に突進したのだ。こんのすけも話していた通り、あんな無謀がいつでも成功する保証など、どこにもない。
『けれどお前は【山姥切】の本能に抗い、大包平を斬らずに連れ帰ることに成功した。隊長がお前でも俺でもなかったなら……その時は五振り折れて、残った大包平はまんまと敵の増援部隊にでも回収されていただろうさ。だからこの任務は、お前でなくては全員無事に帰還出来なかった……と言っているんだよ』
『そうか。そう、か…………』
その時国広はうれしくも面映ゆい心地になった。あれは失敗していた可能性の方が遥かに高いだろう。長義が言うように仲間達と共に折れて大包平を救うこともできず、回収されて魔に堕ち切った大包平の処理を、本丸の仲間達や長義自身に任せる事態にもなっていたかもしれない。長義はそれを分かっている上で、今回ばかりはと叱責より評価を優先したのだ。耐えかねて襤褸を目深に被ると、こんな時くらい胸を張って欲しいんだけどな、と一層わしわし頭を撫でられた。
『……ひとつ、聞いても良いか』
『なんだよ?』
『お前にも、【化け物斬り】としての衝動はあるのか?』
それは純粋な疑問だった。己でああなら本歌である長義の精神状態は一体どうなっているのだろうという、単純な疑問だ。勿論、不躾なことを聞いた自覚はあった。けれど長義は何のことはないという風にふっと笑い、あっけらかんと答えたのだ。さながら誰しもが口にする、世間話の一つのように軽やかに。
『あるも何も、そんなの日常茶飯事じゃないか』
『―――ッ!!』
その時国広は、思わず息を呑んだ。これが、『山姥切』の本歌。あんなおぞましい感情が、この男にとってはほんの日常であるとのたまう。
『俺はお前と違って、そうまでして抗う理由がないというだけだ。そら、俺達は他の刀より遡行軍の気配に敏感だろう? それが化け物を斬りたくなる【衝動】という奴だよ。まぁ、機でない時にまで疾く斬れとせっつかれて、鬱陶しいと思うことはあるけど。……俺だって、化け物斬りの業を写しであるお前にまで背負わせてしまったこと、少しは悪く思っているんだよ』
長義は微かに眉を潜めて言った。長義の評価の訳は、ここにあったらしい。どうやら長義は魔性に傾いた大包平の姿に引き摺られ、図らずも『山姥切』としての本能を発露してしまった国広を心配してくれていたようだった。
『……それは、俺達にはどうすることもできない。お前が気遣うような事ではないだろう』
長義の言うそれは、物である自分たちにどうにかできる現象ではない。山姥を斬ったという逸話だって、時代を超えて広めてきたのは人間たちだ。込められた人の想い、願いがあるから長義と国広は付喪神としての魂を得て、けれどそれがあるから化け物斬りの刀であることに縛られている。想いとは時に、呪いにもなる。魔性に傾いた大包平のあれだって同じだ。家宝として扱ってきた池田家やあの刀を保護し続けてきた人間たちの、情熱と執念。『何としても大包平を美しい姿のまま後世に残す』という、並々ならぬ想いが元となっているのだろう。国広には山姥なる怪異を斬った覚えなどないのにそんな力が備わっているというのだから、それは人間が長きにわたり伝えてきた『物語』の力に他ならない。
『いいや。その業は本来、【山姥切】の本歌たる俺だけが背負うべきものだ。名を共有するというのは本当に、難儀なことなんだよ』
それでも。溜息を吐きながら、長義は真っ直ぐに国広を見据えて言い放った。それは『山姥切』という名を得た自身の誇りであり、宿業でもあると。だから写しである国広にまで背負わせたくはない、重すぎる荷でもあったのだと。長義がそう思ってくれていたことを知れたおかげで国広も心持ちがほんの少し軽くなったのだが……その後長義は、とんでもない言葉を投げかけてくれた。
『どちらかというと俺が文句を言ってやりたいのは大包平の方でね。顕現したのが遅かったとはいえ、由緒正しい備前古刀の癖に、四世紀も年の離れた新刀を|誑《・》|か《・》|し《・》|て《・》……目を覚ましたら顔を貸せと伝えておいてくれ』
若干の苛立ちが滲むその言葉を聞いて、一瞬。国広の頭が真っ白になった。
誑かした、とはなんだ。大包平の呪のことだろうか。しかし部隊の全員が苛まれた呪は、国広にだけは効かなかった。あれが違うとなると長義が言う『誑かされた』とは、一体いつ、どこでの話だろう。
とんだ爆弾発言をかましてくれた長義はひらりと手を振ると伝えるべきことは伝えたとばかりにさっさと廊下を歩き始めていた。そんなご無体な。我に返った国広は、慌てて長義を呼び止めた。
『……ま、まて、長義。俺は、大包平に誑かされているのか?』
『はぁ? これだから偽物君は……、そんなの誑かされてる以外の何物でもないだろうに』
『……!?』
長義は振り返るや否や、心底呆れたという顔でどすどすと足音立てて国広に詰め寄ってきた。
『じゃあ聞くけど。お前、石切丸に呪は斬ってもらったのかい?』
掛けられたのは、妙な質問だった。斬るも何も、呪に掛かっていたら国広は動けなかった筈だ。化け物斬りの本能があったから、動けた。少なくともこの時の国広は、『山姥切』という名を持った刀の力をそう認識していた……の、だが。
『いや、そもそも俺は大包平の呪に罹っていない。それは化け物斬りの本能で遮られたんじゃないのか?』
『あのさぁ偽物君、妖の呪と山姥切の本能ってのは矛盾しないんだ。神剣じゃあるまいし、俺達に妖を斬る力はあっても、妖の呪を跳ね除ける力なんてものは無いよ。お前だって大包平を【美しい】と思ったんだろう? お前は大包平の呪を受けて、その上で大包平を《斬りたい》と思ったんだ。だからお前だけは動けた。それは紛れもなくお前の【化生】としての|側面《かお》だからね。全く、なんでそんなことも分からないんだよ、お前は!』
……否、それでは可笑しい。
大包平の呪とは、美しさでこちらの精神を支配し意識を剥奪することにあるのではないのか。未だ国広がそれに囚われているというなら、石切丸は仲間達と同じように呪を斬ってくれていた筈だ。それにあの場に居たのが長義で、『山姥切』としての本能でも呪の力を遮れないなら、他の刀達同様動けなくなっていたということなのではないのか。だったらなぜ、長義は『俺なら迷わず斬った』と断言できる。
第一、だ。
美しいものは、侵せない。壊せないと思うのが、普通ではないのか。
美しいから斬りたい、殺したいなんて思考に、なるものなのか。
それが山姥切国広の、化生としての側面だというのか。
『ま、まってくれ長義、……それじゃあなんで、石切丸はこれを斬らなかったんだ!?』
『そんなの決まってる、斬らなかったんじゃなくて斬れなかったんだよ。お前の【山姥切】の本能は大包平が妖に傾いたから表に出たものだ。けれどお前は大包平の呪を呑み込み、尚且つ【山姥切】の本能も自らの意思で跳ね除けて、どちらの衝動も抑えきった。その呪はもう切り離せないんだよ、お前が自分のものにしてしまったからね』
『い、意味が分からん……! あそこにいたのが例えお前だったとしても、動けたんだろう……!?』
『当たり前だろ! むしろ大包平の呪は俺達化け物斬りの刀にとって、好都合なんだよ! |こ《・》|の《・》|世《・》|の《・》|も《・》|の《・》|と《・》|は《・》|思《・》|え《・》|な《・》|い《・》|程《・》|美《・》|し《・》|い《・》なら、|そ《・》|れ《・》|は《・》|化《・》|け《・》|物《・》|に《・》|違《・》|い《・》|な《・》|い《・》。だから斬らずにはおれなくなる。同じ化け物斬りの衝動でも俺と今のお前じゃ、|動機《りゆう》が違うんだ。だから俺は、《お前は大包平に誑かされた》と言っているんだけど!』
『ッ、ど、どういうことだ……分かるように説明してくれ……!』
『お前って奴は……この朴念仁が! もう知るか! あとは自分で考えるんだね、偽物君!』
―――そんなもの、認められる筈がない。
しかし結局長義はそれ以上何も話してくれることはなく、国広は廊下にただ一振り置き去りにされてしまった。
ここまで言われて分からないなんて、それこそ己に対する欺瞞であると国広は思う。けれどこの時はそれでも分からないふりを続ける他なかった。長義の言い分に、納得なんて出来るはずがなかった。二度と失いたくないから、何としてでも救いたいと確かに思ったのだ。だから必死になって、『妖は斬らねばならない』という本能に抗った。なのに、……それなのに、この仕打ちか。それじゃあ、あの『独り占めにしたい』という幼子染みた嫉妬心は、一体何だったのだ。それ以上、考えてはいけないものなのではないか。
認めてしまったら、狂ってしまう。
散々大包平に心を、命を、救われた身でありながら。
互いに信頼を寄せ、背中を預ける友のような間柄となった身でありながら―――。
残された国広はその場から動けず、しばらくの間廊下で呆然と立ち尽くしていた。
次へ
powered by 小説執筆ツール「notes」