帝釈天の衣




「………………ッ、あ?」

 生臭い、酷い臭いがする。
 噎せ返るような、鉄のかおりがする。
 思考はずっと霞んでいた。何も食べていないのに、蟀谷が動いているような微かな感覚がする。どくどくと、脈打っている。胃を逆さまに揺さ振られているような気分の悪さだ。しかし空腹は酷く、どうせ吐いた所で何も出やしない。
 それにしても、私は一体何をしていたのだろう。珍しく夢を見ていたような気もするが、とにかくずぅっと腹が減っていたことくらいしか思い出せない。誰かが一緒に居た気もする。けれど誰が一緒だったのかも、さっぱりだった。視界もやけにぼやけている。何度か瞬きをして、滲んだ視界の原因が涙だったことを知った。

 ……腹が減って泣くなど、いくらなんでも幼子じゃあるまいし。何を泣いているのだ、私は。

 落した涙のお陰で視界が、自分の置かれた状況を認識し始める。
 目の前が、あかい。

「え……?」

 薄暗いが、そこは見覚えのある部屋だった。閻魔亭の、客室だ。
 しかし見渡す限り、夥しいまでの赤一色だった。
 
 しろいふすまに、あかいえきたいがぶちまけられている。なんだろう、これは。

 身体が動かない。どうしてだろう。うろうろと視線だけを彷徨わせて、ようやく私は誰かに抱きしめられていることに気付いた。

 さらさらした、綺麗な赤い髪。
 あかいはだをした、人の肩。
 けれど肩の肉は裂けて、酷く抉れている。

 はだのあかとにくのあかとえきたいのあかにまぎれて、かすかにしろいほねがみえている。……これは、なに。

 私を抱くだれかは、ぴくりとも動かない。おそろしくなって視線だけを、だれかから逸らす。
 畳だ。そこも大量に飛び散った赤が染み込んでいる。吸い切れない程まき散らされたその赤は、所々が水たまりのようになっている。

 そのあかいえきたいのうえに、なにかおちていた。
 あちこちに、なにかのかたまりがたくさんちらばっていた。
 どれもこれもあかくて、くろい。
 ころがっているのは、あし? ゆび?
 ちぎれたほそながいあれは、……はらわた?

 こわくてたまらなくて、固まっていた手を動かそうとした。
 ぐちゃ、となにかをつぶすようなおとがする。
 いやだ、……きもちわるい。

「……ァ、ぐ、ッ」

 わたしをだきしめるだれかから、声がした。くるしそうだ。
 わたしはいったい、なにをしていたのだろう? 目だけを動かしても、もう見えない。

 そんなのうそだ。ほんとうはぜんぶみえているけど、みたくない。みたくないけど、みなくちゃいけない。

 だれかから身体を離して、首を下に向けて、自分の手の先を見て―――愕然とした。

「ぁ、……なん、で?」

 ひとのはらに、わたしのてが、うまっている。
 どうして。
 しらないしらないしらないわたしじゃないおれのせいじゃないだれがこんなひどいことをしたんだ。

「ちが、……ちが、う、わた、わたし、こんな、おれじゃ」

 きっとわたしはわたしをだきしめるこいつにひどいことをされたんだろうおぼえていられないくらいいたいことをされたのだやられたからやりかえしただけだだからこれはせいとうぼうえいだきっとそうだそうにちがいないそうにきまっているそうじゃなきゃこんなこと、……できない、のに。

 どうしておれは、どこもいたくないんだろう?
 いつから、いいや、いたみなんて。
 ……|うまれたとき《さいしょ》から、しらないくせに?

 項垂れるだれかの顔を、のぞき込んだ。
 知りたくない、知らなくてはならない。
 わたしをこんなにした奴の、……かお。

「あ、ぁ、あぁ、ああぁ……!」

 ―――しってるひと、だった。
 ひどいことなんて、されるはずがなかった。
 ばかだ、きっといたいことをしたのは、わたしのほうなのに。
 だっていたみなんて、わたしはかんじたことがない。だから『いたい』ってなんなのかが、わからない。

「そん、な、おれ、……わた、し、こんな、いや、いやだ、わたし、ッ」

 わたしをだきしめていてくれたそのひとは、ずっとずっと、わたしがほしくてたまらなかったひとだった。
 とほうもないじかんをかけて、つかんだきせきだった。

 満天の星の中からたった一粒を掴み取るような|運命《ぐうぜん》で、やっと私を、選んでくれた人。

 なのに―――なまえが、おもいだせない。
 だれだったっけ、なまえ、なんだっけ。
 なんで、なんでおもいだせないんだろう。だいじ、なのに。
 だいじなのに、わたし、なんでころしてしまったんだ。
 やりたくないのに、いつかぜったいにやるから、やっちゃだめだから、ずっとがまんしていたはずなのに。

「おれ、なんで、……がまん、できなかった、の……?」

(端末の名を覚えている意味などない)

 どこかからきこえたてんのこえは、むしした。
 きが、くるいそうだ。
 あのこえがきこえると、わたしはまっくろにぬりつぶされる。
 わたしがおいやられてしまう、とじてしまう、わたしがわたしで、なくなってしまう。

 いたくないのに、なみだはとまらない。
 どうかうばわないで。おねがいだから、とらないで。
 ちゃんといいこにもどるから、もっていかないで。もうおそいだなんて、いわないで。
 ―――やっと掴んだ、|幸福《きせき》だったのに。

 腹に埋まった手を、ずるりと引き抜く。
 私を抱きしめてくれていただれかの体はもう今にも崩れそうで、泣きながら夢中で抱き返した。
 相変わらず、空腹は酷い。けれど食べたいなんて気持ちは、これっぽちも湧かなかった。
 
 自分の肩に掛かっていた白い布を見て、少しずつ思い出す。
 だれかと一緒にここにきたこと。
 だれかと一緒に、なにかをみていたこと。
 あひるのおもちゃを買ったこと。
 けれどもっともっと前からあった、一番思い出したいことが、どうしても思い出せない。
 どうしてどうしてと泣きながら、赤に塗れた身体を抱きしめていたら。

「―――ッてぇなぁ、この、やろー……」

 ふと、だれかの呻き声がきこえた。

「…………ッえ?」

 さっきより声が、ずっとはっきりしている。
 抱きしめてくるだれかの腕の力が、強くなった。

「派ッ手に暴れやがって、俺の|肉《からだ》散乱してんじゃねぇか……。いつもは器用な癖に、もちっと上手くやれねぇのか、クソがぁ……」

 そういえば、変だ。
 腕も指も千切ってそこら辺に転がっているのに、なんでこの人は私を抱きしめていられるのだろう。
 思わず、傷のあった場所を見る。肩の抉れた傷は消え、腹部に空いていた筈の穴も、綺麗に塞がっている。足や指も、ちゃんと付いている。
 ……どうして、こんなにいっぱい殺してしまったのに。

「いき、てる……?」
「舐めんじゃねー、俺がこの程度で死ねるかよ。……俺が|往生際《あきらめ》の悪い男だってのは、テメェが一番よく知ってんだろうが」

 ―――変なの。生きてた。
 殺したのに、生きてる。
 ああ、よかった。ころしても、へいきでいてくれるひとだった。
 ……生きて、いてくれた。

「あの、なまえ……なん、でしたっけ」
「あぁ!? テんメー……散々俺を|愛《ころ》しておいて薄情にも程があんだろ……!『アシュヴァッターマン』だよ!」

 ……全くだ。
 殺してしまうくらい大好きなのに、なんで忘れていられたのだろう。自分ではどうしても思い出せなかった名前を、彼はちゃんと教えてくれた。いっぱい悪いことしたのに、見捨てないでいてくれた。

「あしゅ、アシュヴァッターマン、……よか、った、おもい、だせた」

 アシュヴァッターマン。噛み締めるように、何度も彼の名前を呼ぶ。
 もう忘れないように、消えないように。

「自分の名前、覚えてるか」
「もち、ろん。アルジュナ、です」
「ならいいや。もう忘れんじゃねーぞ、めちゃくちゃショックだったんだからな……」

 私を追い遣る天の声は、もう聞こえなくなっていた。



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