帝釈天の衣
その日の私は、とてもお腹が空いていました。
どうせ何を食べても、さして味はしないのです。故に『|断食《たべない》』ことに、苦を感じたことはありませんでした。何を口に入れても美味しくないから、食欲だって湧かないのです。それに私は今も昔も、食べなくたって簡単に弓を引けるし、何だって出来ました。……なのに、その日の私はとてもとても、おなかがすいていたのです。なにかをたべたくて、しょうがなかった。いつもはちゃんと良い子でいられるのに、今日はどうしても我慢出来ないのです。……どうしてなんだろう?
とにかく何かを食べたい。口に運びたい。そう思って、ふと気付けば木の前に立っていました。いつここに来たのか、わかりません。けれどそんなことは、どうでもよかったのです。
鼻に付く香しい匂いに誘われて視線を上げると、そこには熟した柘榴がたんまりとぶら下がっていました。
食べたって、どうせ味はしないはずなのに……不思議と口の中には、唾液が満ちています。
あまいにおいのするその実はとても―――おいしそう、だったのです。
丸々とした愛らしい実の一つをもぎ取って、花が付いていたらしき先の部分を千切り、親指の先を差し込んで二つに割りました。実の中には粒状の紅い果肉がたっぷりと詰まっていて、指を入れるとぐち、と潰れて地面に零れていきます。分厚い皮をぶちぶちと千切る感触には楽しささえ覚えて、もっとずたずたに引き裂きたくなりました。
溢れだした瑞々しい果肉に、触れた指先はどんどん真っ赤に染まっていきます。むせかえるような、甘い甘い鉄の匂いがします。口の中の唾液は更に溢れ、もう今にも唇から溢れてしまいそうで、たまらずごくりと飲み込んだのです。この粒の果肉をひとつひとつ取り出すなんて面倒だ。はやくたべたい。まるごと齧り付きたい。……でも。
頬張る筈だった果肉を、何故か私は、そのまま握りつぶしてしまいました。
(……?)
力加減って、難しいな。
でも大丈夫、たくさんあるから少しくらい|潰《ころ》したって構わない。
形がなくなるくらい壊したら、また木から取って、そっちを食べればいい。
私の欲望を促すように、誰かの声が聞こえます。早くお食べ、たくさんお食べと、声がするのです。
聞いたことがあるような、……聞きたくなかった声の、ような。
食べないと、お腹は満たされません。
今日のわたしは、とにかくおなかがすいているのです。
いつもは我慢できるのに、我慢できないくらいおなかがすいているのです。
お食べ、お食べ、と誰かの声は大きくなります。
食べないと、いけない。
食べたい。
たべ、……たく、……あれ?
「わたし、なん、で?」
食べたい、のに。柘榴が水に滲んでよく見えない。どうしてわたしは、泣いているのでしょう。
視界はずっと滲んだまま、なみだが、とまらないのです。割った柘榴の実を口へ運びたいのに、手が動かないのです。
食べたい。食べなくちゃいけない、食べてしまいたい。たべたい、のに。
わたし、どうしてしまったんだろう。
……どうすれば、いいのだろう。
「―――だめだよ」
ぼろぼろとなみだをこぼして立ち尽くしていたら、声がしました。
さっきからずっと頭に響いている声とは、違う声です。振り返ると、焔のような少年が立っていました。紅蓮の髪、濃い褐色の肌、金色に輝く瞳。長い前髪から少しだけ覗いている額のあれは、黄色い宝石のようでした。少年の瞳はうつくしくて、おそろしかった。純粋に、ただ真っ直ぐに私を見るから、まるで私は責められているような心地になるのです。
わたしは、なんにも悪いことなんかしてない。
どうしてそんな気持ちになってしまうのだろう。
あれとよく似た目を、知っている気がしました。思い出したくもない、誰かの目と似ている。けれどきっと、あの男ほどではないのかもしれません。……あの男はもっともっと、私に厳しい筈だから。
「それは、食べちゃいけない」
「……どう、して?」
「それを食べたら、戻れなくなる」
「もど、る? どこへ……?」
「君の居たい場所に、帰れなくなるんだ」
少年の言葉は、よくわかりませんでした。私の居たかった場所って、『何処』なんだろう。わたしはただ、ひどくおなかがすいていて。たまたま目の前に、おいしそうな柘榴の実があって。空腹に耐えかねて、食べようとしていただけです。こんなにおいしそうでかわいいものを、どうして食べちゃいけないのか、分からない。
……ああ、でも。どうしてなんて、わからないのに。
「君はそれを食べたくないから、口に運べないんだろう?」
食べたく、ない。
嗚呼、そうだ、わたし―――食べたくなかったんだ。
少年のその言葉だけは、確かに私の真実でした。こんなにおいしそうで、きれいで、あいらしくて、いとおしいくてたまらない。それなのに、私は食べたくないと思ったのです。少年は私の代わりに、私の心を肯定してくれたのです。果実を食べろと促してきた声は、いつの間にか消えていました。
私はそれが、どうしようもなく嬉しくて。
どうしようもなく、哀しかった。
嬉しくて、なのに哀しくて、私はその場に崩れ落ちてしまいました。少年が、此方に向かって歩いてきます。その手には、うつくしい白と青の衣がありました。その衣も、私はきっと知っているのでしょう。けれど今の私には、相応しくないものであるはずです。纏う資格が、ありません。それでも少年は、私に衣を差し出してきます。
「今までもこれから先も、君の腹を満たすことはきっと出来ない。けれど君が帰りたい場所は、私が知っている」
少年が、私の肩にふわりと衣を掛けた途端。強い風が吹き荒れました。ざぁ、と柘榴の木は大きく揺れる音がします。葉が舞い散る程、強い風です。ぼとぼとと、実が地面へと落ちていく音もします。けれど私は、衣を汚すわけにはいきません。私の手は真っ赤に染まっているから、衣を押さえられません。
きっとこの風は、衣を纏いたくない私の心。
だって泣いても哭いても、赤く汚れた手は洗い流せない。もう二度と、……綺麗になんてならない。
それでも少年は、許してくれませんでした。
飛ばされないようにしっかりと肩に手を置いて、衣を押さえ続けて、しまいには衣ごと私に抱き着いて離れなくなりました。
……そうして、風が収まった頃。
「―――さぁ、帰ろうぜアルジュナ」
私を抱きしめていた目の前の美しい少年は、私より一回りも背が高くて大きな、逞しい青年の姿に変わっていたのです。
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