帝釈天の衣
……それからだ。
夢から醒めて、どうにかアルジュナの意識をアッチからこっちへ引っ張り戻すのに成功した今。
何をしているかというと。
「ちっとは落ち着いたかよ」
「ッ、ぅん、すまない……、迷惑を、掛けた」
部屋に充満するのは強烈な|香辛料《スパイス》の匂い。アルジュナは俺を背もたれにしつつ、ぐすぐすと泣きながらうどんを口に運んでいる。見た目が物凄く赤い、カレーうどんだ。生地にまで唐辛子が練り込んであるのか、うどんは真っ赤だった。ついでに言うと真っ赤なつゆに浮いたなにかの油まで真っ赤だ。運ばれてきた時はだしの香りも微かにしていた筈なのだが、香辛料の香りがきつすぎてもう嗅覚は麻痺していた。どのくらいキツいかというと、目に刺激を感じるレベルである。それでもまぁ、俺の血肉が散乱した死臭の満ちる部屋よりかは遥かにマシだろう。俺にはとても食えない激辛料理だが、アルジュナは「美味しい」と泣きながら頬を綻ばせていた。
あの後俺にしがみついてわぁわぁと泣きながら謝るアルジュナを宥めていた所、帯刀した女将が慌ただしく部屋に飛び込んできたのだ。どうやら女将は|危険予知能力《心眼》でも持っているのか、施設内の魔力の流動に異変を感じて駆けつけてくれたらしい。布団から畳、襖まで一面血塗れの、至る所に俺の肉片が散乱した猟奇殺人事件現場同然の寝室。そのド真ん中で抱き合う俺たちを交互に見た女将は、面食らったように呆けた顔をしていた。そして深々と溜息を吐き「お二方、御無事で何よりでちた」と安堵の笑みを見せたのだ。
女将は事の顛末をある程度予測していたらしい。何が起こっても対処できるよう、一通り準備を整えていてくれたようだ。日常茶飯事レベルではないにせよ、このような事件はそこそこの頻度で起こるのだとか。なんとも恐ろしい話だが、妖怪の痴話喧嘩程度であればこの程度の血や肉など平気で飛ぶのだろう。ただアルジュナの出自が出自なだけに、危惧もあったそうだ。何せ閻魔大王とはヤマ神を起源としてはいるが、道教の教えでは三尸の虫を使役して人間の寿命の裁定を行う天帝と同一視され、ひいては神仏習合によって牛頭天王と共に日本の英雄神である須佐之男命にまで繋がりを持ってしまった複雑な神なのだとか。天帝と言えば即ち帝釈天。ややこしいことに、それもまたインドラのことだ。そんな大神の血を引くアルジュナが回帰願望に起因する反転暴食を起こせば、女将の手には負えないレベルの災害にまでなってしまうかもしれない、と。そんなところで女将が助けを求めて|閻魔大王《養父》を喚ぼうものなら、暴走したアルジュナが逆に取り込みかねない。だから俺の中にあるヤマ神の権能が一時的にも機能するよう、閻魔大王の力が込められた護符を先んじて手渡してくれたらしい。道理で英霊化で剥奪されていた筈の俺の不死性が復活していたわけだ。
当然ながら血塗れになった布団や部屋は使い物にならず、俺とアルジュナは別の部屋に移された。そして後始末が一通り終わってから、「コイツ腹減ってるみたいだからとりあえず何か食わせてやってくれ」と新しい部屋を用意してくれた仲居の都市に夜食を頼んだのだ。で、出てきた料理がコレだった。女将曰く、以前アルジュナが此処を訪れた際は所作が完璧すぎて料理の味が好みに合っていなかったことなど、一切気付かなかったのだという。今回は以前とまるで違って宿に着いた時からやけにテンションが高かったこともあり、流石に不思議には思っていたそうだが。
俺もどことなく妙だと思ってはいたが……アルジュナの味覚はアルジュナ・オルタ同様、あまり機能していないのかもしれない。俺やナポレオンが熱中症を起こして倒れる程の高温サウナで心地よさそうに何時間も入り浸っていたという|角と尻尾生えた方《あいつ》は、聞けば料理の味や温度も詳細には感じられないらしい。アルジュナが得意そうに十時間以上サウナで過ごせると豪語していた辺り、大凡元の肉体の造りは同じということだろう。そりゃあ素材本来の味わいを愉しむキュケオーンや先ほどの会席料理では物足りない顔をするはずだ。
業腹なことこの上ない事実だが、魔術として見ても感覚を閉じる意味はあるという。
遺伝子操作や手術等の肉体改造で五感の内の一つ、もしくはいくつかの機能を敢えて停止することで、他の感覚は鋭敏になる。例えば人体の中で最も外界の情報を得られる感覚である視覚を閉じれば、不足する情報を補う為に聴覚や嗅覚、触覚等が鋭くなる。そうして魔術師であればそれらの感覚は、一つや二つ閉じた所で代替えの魔術を使えばいくらでも補填は利くそうだ。根本的に閉じた感覚は分からないといっても、日常生活を送る上では何ら支障はないのだとか。そうして一つの感覚を徹底して強化することで、根源に至ろうとする魔術師も大勢居るという。
神代生まれの俺にとっては根源など当たり前のように自分たちの身近にあったものであるが故に、現代の魔術師の考えなどてんで理解が出来ない。あれはただそこにあるだけであって、目指すものではないだろう。祖先から我が身、後に残す子孫の一生全てを犠牲にしてまで、始まりと終わりの一など知りたいと思うのか。現代なら個々の人生はいつだって、どんな時だって自分にしかない、自分だけの自由なものとなったのだろうに……いや、俺が言えた立場ではないか。
味覚や温度感覚が極端に鈍い、となればそこに直結するのは触覚だ。余程の|辛味《しげき》がなければ味を感じない、ということは全くのゼロではないにせよ、痛覚も殆ど機能していない可能性がある。それは火の熱さも、水の冷たさも、刃が|肉《からだ》を裂く痛みも、大地を踏みしめる振動も、感じられないということだ。強化したかった感覚は間違いなく、視覚だろう。なにせアルジュナには生前の修行中からずば抜けた視力の高さを見せつけられていたくらいだ。自分で触れた物、或いはなにかに触れられる感覚が分からないなら、目に映るもので判断するしかない。痛みとて、他人が傷を負った時に痛がるから痛いのだろう、としか判断できないのだ。痛みが分からなければ、危険も予知できない。
時間感覚さえ操作してみせるというこいつの千里眼は、|透視能力《クレアボイアンス》まで備わってしまっている。そんな超人的な力を得る代償に、アルジュナは人間としての生体機能を生まれた時から殆ど奪われていたということになる。そしてそれは、間違いなくアルジュナ自身の望みによるものではない。……授かりの英雄などと、よく言えたものだ。正常な生体機能と引き換えに生まれつき持たされる才能なんてものは、呪いと変わらない。こうしてアルジュナを腕に抱いている俺がこいつの|体温《ぬくもり》を確かに感じられている一方で、こいつにはきっと俺の体温など殆ど伝わっていない。そう思うと、酷くやりきれなくて暴れ出しそうになる。俺たちが当たり前に持っているものを、こいつは太源の意思とやらによって持つことすら許されなかった。それで|他人《にんげん》と同じ観点で物を見ることなど、出来るはずがない。必要とあらばいつでも人間であることを手放せるよう、神に設計された命だ。
「私が、怖いか? いや、怖くない筈がないな……」
アルジュナが、悄気た声でぽつりと呟く。その言葉はまさしく、この男に肉体の痛みが理解できていないという事実に他ならない。
ちらりとその手に包まれた丼を見ると、すっかり空になっていた。あの真っ赤に光る油がたくさん浮いていた汁も、綺麗に飲み切ったらしい。空になった器をアルジュナの手からそっと取り上げて、傍にあった盆に乗せる。
それでもこの男に、憐憫の情など抱いてはならない。『分からない』というその苦しみは全てアルジュナ自身が生涯に亘って抱えてきたものであり、決して俺に体験できることではない。共感も理解も、出来るはずがない。
「……ああ、怖いよ。俺はお前が、おそろしくてたまらない」
努めて声を和らげながら、強く抱きしめなおして告げる。さっきどれだけ俺はお前に肉体を千切られたと思っているのか。腹にまで腕を突っ込まれたくらいだ。……それでもこいつはきっと、俺にそう思われたくないのだろう。傷つけずにはいられないのに怯えられたくはないとは、なんてちぐはくな精神なのか。いっそあのサラスヴァティーの気配がするサディスティックな舞姫のように振り切れてしまえたのなら、気も楽だっただろうが……そもあの少女は根底から人ではない。真っ当に人間として振舞える程度の良識を持っているこの男に、あの娘と同じように開き直るなんてどだい無理な話である。
「こうしてお前と語り合えている今が、おそろしくてしょうがない。……私はお前に、愛される理由が無いんだ」
けれどその断絶は、どうしても突き付けなければならない。
元が同じでありながら、切り離し枝が分かれてしまったことで違うモノに変遷してしまった。それはきっとこいつにとって、受け入れがたい現実だろう。例え遥か遠い未来では|元《一》に還る運命なのだとしても、それは今はたどり着けない、辿り付いてはならない遠い遠い先の話だ。より良い|未来《モノ》を目指す途中であるなら、昔と同じであってはならない。違うものでなければならない。それこそ人間一人一人が、それぞれ全く違う思考を持っているように。
「アシュは、優しいな。やっぱり俺は……『|違う《おかしい》』んだね」
それは諦念か。アルジュナの肩が、ひくりと微かに震える。
俺の肩口に頬を摺り寄せ、顔を埋めたアルジュナの声は、酷く寂し気だった。
「私は|英雄《ニンゲン》だと、ずっと言い聞かせてきたんだ。けれど|混血《どっちつかず》では、どうしても誤魔化せないものなんだな……。ほんとうは、人の心なんて分からない。どれもこれもが知識でしかなくて、実感が持てない。だから私は人間なのかそうじゃないのか、いつも分からなくなる」
そんなことだろうとは、思っていた。それだって当然の帰結だ。
人と神の血が、噛み合う筈がない。肉体の感覚さえも希薄であれば、抱く感情とて希薄になってしまう。自分が人として生きているという実感すら、薄くなってしまうのかもしれない。その溝を少しでも埋める為には、知識が必要不可欠だ。けれどそれはあくまでも知識であって、得られる|経験《かんかく》ではない。見た目は人間と変わりなくても、|生物として《中身》の前提そのものが異なるが故に、どうあっても積み重ねられない経験。だからどうしたって、理解は出来ない。近づけるだけで、そのものにはなれない。
「それでも誰かを助けたい、何かを救いたいと思う限り、お前は|人間《えいゆう》だろ」
「……アシュヴァッターマン。それなら、家族を殺されるって、そんなに憎い? 戦争だから、|救えない《死ぬ》のは当然なのに?」
アルジュナの言葉が、胸に突き刺さる。
……ああ、そこも違うのか。一瞬にして湧き上がる憤怒は、憎悪と混同してはならない。
「……その時は、確かに憎いと思ったぜ。今はそう思うの、止めにしたけどよ」
その境地は、生前の俺にはどうしても理解できなかったものだ。
どれほど受け入れがたくとも、死する運命そのものは受け入れなくてはならない。
それは仇敵への嫌悪ではなく。憎しみにしてはならないもの。
父と友が受けた不条理や理不尽、救えなかった己の不甲斐なさ、それらへ抱く憤怒こそが俺なのだから。
「てめぇは俺が、違反を犯し非道に走った俺たちが、憎かったんじゃねぇのか」
「少し、違うな。哀しかったし、虚しい、互いに愚かなことをしているとは思った。けれど本気で憎いと思ったのは……お前だけだよ」
それでもあの時本当は、アルジュナに恨まれたかった。この男に、憎まれたかった。それは間違いなく、俺の願望でもあった。それはきっと、俺がこいつを否定する為に生まれたものだからなのだろう。俺がアルジュナを否定するものなのだから、俺だってアルジュナに否定されたかった。
大切な家族を卑劣な手段で殺したから、憎まれる。……そうであったなら、どれだけ俺は救われたことか。
「テメェの言うそれは『一族を殺された』から、……じゃねぇんだよな」
どうかこれだけは、否定して欲しかったのだけれども。
「……うん。私はずっと、お前に|選んで《認めて》欲しかったんだ」
アルジュナは顔を上げて力なく笑うと、祈るように呟いた俺の言葉を、残酷にも肯定した。
「あの戦争が始まるまでは、いつだって正しく在り続けた私だから。他の皆はそんな正しい私を選んでくれたから、お前もきっと、私を選んでくれると思ってた。ずっとずっと、……お前がこっちに来てくれるのを、待ってたんだ」
分かっては、いたのだ。そうでなければ、この男の|精神《こころ》はここまで破綻していない。
アルジュナもまた、俺の望んだ答えではないと分かっていたのだろう。
俺が口を開くより前に、続けざまに言葉を紡ぐ。俺の言葉など、聞きたくないと言うかのように。
「両親も、兄弟達も、妻も、友も。皆愛していた。それが全ての人間の、当たり前の在り方だと、思っていた。皆それが当然なのだと思っていたから、私もそのように努めた。……けれど、それなのに私は、殺したくてたまらないんだ。私の息子達が死んだ時、酷く悲しかった。仇討ちも誓い、果たした。けれど私は、心の底では違うことを考えていた」
アルジュナの声は、酷く震えている。涙混じりの声に、怯えが滲んでいる。
それでも伝えなければならないと、意を決したようにアルジュナは言葉を紡ぐ。
「―――どうせあの戦争で皆死ぬ運命にあるのだから、全部私の手で殺したかったんだ」
―――吐き出されたその狂気に、俺は息を呑んだ。
「他の誰かに、おまえに、愛した|命《モノ》を奪われてしまうくらいなら、全部私が殺して、食べてしまいたかった。私の血肉になったなら、|私《・》|が《・》|生《・》|き《・》|て《・》|い《・》|る《・》|限《・》|り《・》|一《・》|緒《・》|に《・》|い《・》|ら《・》|れ《・》|る《・》のだから」
其は人として生きる為に人の皮を被り続けた、人からはかけ離れたモノ。
「……きっと私、はじめから狂っていたんだ。だって―――こうしている今も全部、本気なんだよ。おまえが好きで、恋しくて、愛しくてしょうがない。一族を殺された? 孫にまで手を掛けられた? 一族全てを巻き込んだ大戦争なのだから、そうなるのは当然だ。そんなものより私は、おまえが私を選んでくれなかったことが、憎らしくてしょうがなかった。……今だって、お前が私を大切に想ってくれているのは分かるのに、私はおまえが離れていかないよう、食べてしまいたいとばかり考えている……!」
高い知性が故に、強い理性が故に。
誰もがこの男の裡に潜む闇に気付けなかった。
「だから私は、|私《オルタ》が羨ましくてしょうがなかったんだ。兄も、弟も、友も、妻も、|お《・》|前《・》もみんな、|私《オルタ》の中でずっと一緒にいる。そんなの狡い……! それは私がかつて望んだ、理想の姿だ……! わたしには、できなかった! 私だってずっと一緒に、居たかった……!」
……否、|あの男《クリシュナ》だけは知っていたのだろう。
自らが選択を違えたが為に、全ての役割が反転してしまった。その帳尻を合わせる為に、本来は倒される天魔となる筈だったこの男を、クリシュナという神は英雄に仕立て上げたのか。
「本当は、一人で居なくちゃいけなかった。そんなこと、分かってたんだ! 誰かを愛する程殺して食べてしまいたくなるなんて、そんな私を愛してくれる人なんか、いるはずがない……! だから愛される|存在《私》でいるために、私は私を律して、『俺』を隠さなきゃいけなかった! 英雄なんて、私には一番相応しくない言葉だ! なのに英雄で在り続けなければ、私は、必要とされなくなってしまう……!」
堰を切ったように、アルジュナの慟哭は止まない。しかし叫び続けるその言葉も矛盾だらけだと、この男は恐らく気付いていない。否、|気《・》|付《・》|け《・》|な《・》|い《・》|ま《・》|ま《・》此処まで来てしまったのか。
孤独であらねばならない。真にそう思うなら、人とは関わらないだろう。実際この男はそれを、忠実に実行しようとしていた筈だ。しかしこの男は同時に、常に人から愛されるように振舞う。当然人々はこの男を必要として、近づいていく。この男の周囲にはいつだって兄弟が、妻が、友が。誰かの姿があったのだ。今もイアソンやオリオンを筆頭に多くのサーヴァントたちに慕われ、囲まれて日々を過ごしている。
それは当然のことだ。……この男は人に必要とされなければ、自分の居場所を失ってしまう。
アルジュナが正統な英雄として人類史に刻まれたのは、『英雄であれ』と望まれたからなのだろう。英雄に相応しき「正しさ」、英雄に相応しい「振舞い」、英雄に相応しい「力」……それを神々や人々に求められ、見事その期待に応えきった願望器。愛した者ほど殺して喰いたくなる衝動に苛まれながら、その衝動に呑まれることがなかった。極限まで己を律し続け、その果てに人から愛され必要とされる喜びを、「居場所がある」という温かさを、この男は知ったのだろう。この鋼鉄の理性があったから、裡に潜む魔の衝動を押し込め、誰にも悟らせることがなかったのだろう。何より英雄として数多の期待に応え続けたことで、この男は社会から|魔性《バケモノ》として排除されることなく生きていられたのだ。
しかし得られた愛情と信頼、人として生きられる安堵とは裏腹に、血に宿る衝動との戦いは終わることなどない。
傍らには常に、我が身から第一に遠ざけねばならない筈の愛する者達が居る。
必要とされるよう振舞う程人はこの男に引き寄せられ、男は近寄ってくる者たちを殺し喰わずにいられないという衝動に晒され続ける。
それは生きている限り続く、自己矛盾の地獄だ。この男は死して尚、その地獄に苛まれ続けている。
他者の評価を第一に求め、常に自己の価値を他人に委ね続けるこの男は、根底では自分を愛せないのだろう。それだって当然だ。人間ではないモノの側面を持って生まれ、しかして人間と同じように育てられたこの男は、人間の『正しいとされる振舞い』『必要とされる振舞い』を評価の基準にしなければ、人間として生きることなど出来なかっただろう。故に、己が最も醜いと思う魔の貌など、直視出来る筈がない。他人に魔の側面を見せまいとするあまり、自分までその歪さに目を向けられなくなってしまったのだ。愛する者を殺し喰わずにはいられない血の性質に、相反する人としての良識や道徳を柱にした精神。しかしてその矛盾に気付いてしまえば、心は崩壊する。だからアルジュナは、聡明でありながら自らの狂気に|気《・》|付《・》|か《・》|な《・》|い《・》|フ《・》|リ《・》をし続ける他なかった。
その苦しみは、どうしたって俺に理解できるものではない。一体何度他人と自己の断絶を目の当たりに続けたら、その堅牢な精神に到達するのか。断絶を感じていたのは俺ではない、アルジュナの方だったのだ。
「見られちゃいけない、気付かれてはいけない! だから……だから、孤独にならなきゃいけなかったのに、もう、……もうわたし、隠せない……出来ないんだ……!」
嗚呼、やっとわかった。
|黒《あいつ》が言った「俺がアルジュナを選ぶ筈がない」とは、そういう意味だったのか。
俺たちの犯した致命的な間違いとは、人々の求めた|物語《マハーバーラタ》を破綻させたことにあったのだ。
俺はアルジュナを選ばなかった。
―――当然だ。俺にとっての至上の命題とは、|ドゥリーヨダナ《友たる王》を最期まで守ることだった。
或いは、戦士として誇り高く戦いを全うすることだった。
それが出来なかった、全てを擲ったのは、|ドローナ《父》と|ドゥリーヨダナ《友》が受けた雪辱を晴らす為だ。夜襲という違反を犯し非道に走った俺の贖罪は、俺が果たせなかった戦士の誓いと、救えなかった多くの|人間《なかま》たちの命に対してのものだ。敵は敵だ、間違ってもこの男やパーンダヴァの為などでは無い。ましてやそこに父の報復や友がかつて犯した罪、それに伴い巡ってきた因果など、含まれはしない。それは各々が選んだ道の先にあるものだ。俺が向き合うべき罪と背負うべき罰は、俺が選んだ道の先にしかないのだから。
故に俺がアルジュナを選ぶ理由も、俺からこの男を選んでいい道理も、何一つとして無い。
ほんの少しの間親交があった、幼馴染の一人。俺とアルジュナは所詮、その程度の関係だった。
忠誠を誓った|ドゥリーヨダナ《王》でもなければ、共に戦った|カルナ《盟友》でもない。
仇敵でしかなかったこの男を、他の全てを投げ捨ててまで選べるはずがない。
俺は運命に、選ばれなかったのではない。
俺がこの男を運命に選ばなかったから、|物語《マハーバーラタ》は成立した。世界は、滞りなく廻った。
……この男の手を取ってはいけなかったとは、そういう意味だ。
|黒《あいつ》の言う通り、アルジュナが俺に手を伸ばしてしまうほど『我慢』できなくなったのは、他でもない俺の所為だ。そしてそれは、アルジュナに対しても言えることだろう。俺がアルジュナの手を取ってしまった原因も、アルジュナにあった。
それは根幹、太源など関係がない。回帰があいつの起源なら、回帰の否定が俺の起源。その|軛《レール》を、俺たちは例外に次ぐ例外によって自ら壊してしまった。カルデアによる召喚。|運命《マスター》との出会い。それに伴う、裡なる意思の改革。同陣営での共闘。その中には当然、俺とカルナの再会と友誼を、アルジュナが目の当たりにしてしまったことも含まれているだろう。数え切れないほどの偶然が連なり、積み重なっていった結果、進むべき|道《ルート》が変わってしまった。
「選ばれなかったら、私は、今度こそちゃんと……お前を諦められたんだ! どうしてお前は、今になって俺を選んでくれた。どうして、振り払ってくれなかった……!」
今重なっている|運命《ぐうぜん》のどれか一つでも、欠けていたなら。
例え他の|平行世界《カルデア》で同時に喚ばれていたとしても、俺とこいつは終生手を取り合うことはなかっただろう。
ただ背を預けるのみの一時の仲間として、淡々と戦い続けていたのだろう。
アルジュナもまたマスターとの契約を終える最後まで、誰にもこの闇の全容を見せずに済んだ筈だった。
こんな生い立ちの男だ。他人に頼られるように振る舞えても、自分から信じられる相手なんてものは殆ど居なかっただろう。それこそ兄弟と妻、親友くらいだったのではないか。その信じていたのであろう家族達にさえ、心の闇を見せなかった。兄弟全員が混血で半神、尚且つインドラが失った権能の象徴ともなると、下手すれば兄弟全員がお互いに反転衝動をひた隠しにしていた可能性さえある。……尤も、喰神による神性統合に最も近く都合が良かったのは、インドラの血を直接引いていて英雄神としての権能も集中していたアルジュナだったのだろうが。
そんな神々の都合やアルジュナが抱え続けていた内実など知る由もなかった俺は、|昔《良く》も|今《悪く》も他の奴らと|同《・》|じ《・》|様《・》|に《・》この男に接してしまった。単なる幼馴染として、技を競い合った好敵手の一人として。俺にとってのアルジュナは特別に意識することもない、大勢いた同門の戦士に過ぎなかったが……アルジュナにとっての俺は、さぞや眩しい存在に映っていたのだろう。
だからこの男は、あろうことか|こんな男《俺》を信じてしまった。
初めから自分を選ぶ筈がなかった男を、愚かにも待ち続けてしまった。
心の底から俺を憎んで、それでも尚俺を殺せなかったのは、|俺がシヴァの眷属《殺してはいけない》からだけではなかった。
俺に選ばれなかったことを、最後まで認められなかったのだ。どうしても俺を、諦められなかった。
それなら俺に掛けられたあの呪いも、実のところはクリシュナ本人が掛けたものではなかったのだろう。自己の悪性を認められなかったアルジュナが、いつか俺に|縋って《選んで》もらえるよう無意識に呪ったそれを、クリシュナは俺への罰として扱ったのか。さながらヴェーダ神話においてインドラの罪を肩代わりして|ヴィシュヴァルーパ《バラモン》を殺した、従属神トリタのように。
……ああそんなもの、壊れて当然だ。奪われまいと、必死になるに決まっている。
幾度も夢見て、けれど今度もきっと選ばれる筈がないと諦めかけていたものが、偶然が重なって手に入ってしまったのだから。
そんな奇跡が起きたなら、二度と手放したくないに決まっている。
思えばそれは、異聞帯のあいつも似たような状況だったのだろう。
遠い昔に自ら喰らってしまった男が、目の前にひょっこり現れて。しかし神として必要な力は喰わずとも既に持っていて。ならばもう手放すまいと、呪いをかけたのか。
関わってはならないなんて、俺もこの男も重々分かっていた。それなのに俺たちは、関わってしまった。因縁を乗り越えて、絆を結んでしまった。縋り付くように伸ばされたこの男の手を、取ってしまった。仇敵と慣れ合うことなど出来ないと振り払うべきだった手を、俺は、あろうことか握りしめてしまった。
「さみしい、いやだ、ひとりになんて、なりたくない! お前を愛していたいのに、お前に愛されていたいのに、わたし……おなかがすいてしょうがない! ぜんぶぜんぶ、たべてしまいたい……!」
それでもこの男には、『食べたくない』と思う心がある。愛されたいと思う心には、嘘偽りなど無い。|隣人《すべて》を喰らってしまったら、本当に孤独になってしまう。それは根底から自分が望むものではないのだと、当たり前に分かっている。
血に抗いながら、根本が人でないが故に人を理解できないながら、それでも必死になって人間の営みに適応しようとした。文字通り、血の滲むような努力だったに違いない。この男がマスターや俺へ向ける感情の一つひとつがやたらと重いのは、その所為だ。|他の人間と同じように《人間として》扱っただけで惚れるとか、最初に見たものを親と思い込む雛でもあるまいし。認知の歪みにも程がある。泣きそうな顔で俺を切望したあの時のアルジュナの心も、本当のところは俺への愛などではなかったのだろう。情愛と食欲の区別もつかないまま、妄執と化した|感情《こころ》で俺を見ていただけだ。
最初からそれを分かっていたなら、俺はきっぱりとこいつの手を振り払ってやれた。
―――人間というのは相手が特別に好きじゃなくても、優しくすることくらいはできるものなのだと。
「怖い、ですか。こんな私は。……こんな『俺』は」
―――けれど、それでも。
これがとんだ間違いで、主神の意思にさえ逆らうものであっても。俺はこの手を離さないと、もう決めてしまった。
この男とは金輪際手を切るのが誰にとっても最善であるのは明白だ。だから|太《・》|源《・》はこの男の起源を覚まそうとしたし、抑止力は俺に始末させようとした。しかし俺は、それでもこいつを見捨てたくない。どうにか頑張って必死で隠してきたのに我慢できなくなって、それでもひとりにしないでと子供のように泣きじゃくるこの男を、いじらしいと思う程度には絆されてしまっている。手酷く殺されて危うく喰われる所だった癖に、これからも散々酷い目に遭うと分かってはいるのに、それでもどうにかしてやりたいと思ってしまう。自分を愛せないと嘆くこの男に、どうにか自分を愛せるようにしてやりたいと思ってしまう。なんたる思い上がりと独善だ。こいつが背負った荷物なんか、一つたりとも持ってやれない癖に。
(だって、もうしょうがねぇだろ―――好きに、なっちまったんだから)
惚れ込んだ相手に手を差し伸べるのは俺にとって、当たり前のことだった。
こうも縋られてしまうと俺は、甘やかしたくてしょうがなくなる。嗚呼、思えばそうやって滅んだのがカウラヴァだった。屑を屑のまま甘やかした結果の暴虐。再三忠言しても治ることはなかった、ドゥリーヨダナの旦那の悪癖。本当に俺は、まるで心が成長していない。|息子《俺》にはとことん甘かった|親父《ドローナ》に似てしまった、俺の一番悪い癖だ。
それでも悪だ屑だと分かっていても尚、仕える王にドゥリーヨダナを選んだのは。
俺があいつを好きだったからに他ならない。
理由なんか単純だ。あいつの行いが|正《・》|し《・》|い《・》|か《・》|ど《・》|う《・》|か《・》ではなく、|俺《・》|が《・》|助《・》|け《・》|た《・》|い《・》|か《・》|ど《・》|う《・》|か《・》だった。
だったら俺が第二の人生たる今生でその全部を裏切って、全部を放り出して選んだこの大きな責任は、取らなくてはならない。
俺が今全力で助けてやりたい、支えてやりたいと思うのは……この男なのだから。
「怖いよ。……当たり前だろ、怖くないわけがねぇ」
「ッ…………!」
相互理解など不可能。どれほど残酷だろうと、その現実だけは突き付けなければならない。
元が同じだろうが切り離してしまった以上、何処までいっても俺たちは相容れない者同士であると。今までもこれから先もずっと、俺たちは間違いを犯し傷つけ合う仲にしかなれない。分かり合えない者同士、どうあってもその先には至れない。嫌わないでと怯えて涙する夜の瞳に、容赦ない言葉を浴びせる。
「お前が抱え続けるその苦しみは、俺に理解できるモノじゃねぇ。それはどうしたってお前にしか背負えない、お前だけしか感じられない苦しみだ。共感と理解を示すのはただの傲慢。……だからって耐えろとも言えねぇよ、それもただの独善だ。どっちも苦しみに一人で耐え続けた、お前に対する侮辱になっちまう」
この男が、一番聞きたくなかった言葉。自分の口では言えても、心の底からは認められなかった事実。
……こんなこと俺だって言いたかない。曲がりなりにも惚れた相手だ。
好いた相手を傷つけずにはいられない自我を体現するこの男と違って、俺には愛した者の心身を好き好んで傷つけたいなんて悪趣味は無い。
「……けど、理解できないものをおそろしいと思うのは、誰だって同じだ。俺にお前が理解できなくたって、お前が俺を理解できなくたって、傍に居られないって訳じゃねぇだろ」
それは拒絶ではなく、アルジュナが切望した『共に歩む』ためにこそ必要となる言葉。お互いが心を擦り減らさず、寄り添い続ける為に必要な第一歩。
なかったことになど、してやるものか。戻れもしない、戻る気など毛頭ないのだから、あとは突き進むだけだ。
一度その手を取ったしまったからには、何があっても離してはならない。
この男の抱える大きな闇に気付けなかった俺の失態であり。
俺が新たに負わねばならなくなった責任であり。
……それでもこいつと一緒に居たいと願う、強欲で傲慢で、自分勝手な俺の意志だ。
「っだ、だめ、離せ、離してくれ、わたし、またおまえを」
泣きながらわたわたと藻掻いて俺から逃げようとしたアルジュナを、ぎゅっと抱きすくめて捕まえる。
意地でも逃がしてなるものか、さみしいから一人になりたくないなんて駄々を捏ねたのは手前の方だ。
今更孤独に戻りたいなんて言われたって、聞いてやる道理はない。
「……あのなぁ! てめぇまだ|ひ《・》|っ《・》|く《・》|り《・》|返《・》|っ《・》|た《・》|ま《・》|ま《・》なんだろ! さっきから言ってることめちゃくちゃだぞ! 一緒に居たい、一人になりたくないって言った傍から離れろって何だ! 俺からお前に関わっていい理由なんて、何一つ無かった筈だ! 俺に離れて欲しいなら、最初から俺に近づくんじゃねぇ!」
「っ、う」
「……好きだから、離れたくないと思ったんだろ。苦しくてもいいから、一緒に居たいと思ったんだろ。だからお前は、お前が愛した奴らと同じ道を歩みたくて、今までずっと必死でその|空腹《しょうどう》を堪え続けてきたんだろ。ならお前はそれが、|隣人《だれか》と共に在る為には抑えなきゃならないモノだって、ちゃんと分かってるってことじゃねぇか」
「ちが、ちがう、わたし、なにもわかってなかった……! だって昔は、ちゃんと我慢できた! 我慢しろだなんて、誰にも言われてない! 言われなくたって、ひとりでできたんだ……!」
腕の中のアルジュナは諦めの悪いことに、まだもたもたと身じろいている。アルジュナの肩に掛けた外套がズレ落ちてしまわないよう、しっかりと抑えて抱き込む。伸びたままの鋭い爪で、今度は俺を傷つけないようにと浴衣の袖を握りしめている。離れたいなら容赦なく俺を引き裂けばいい。ロクに力が入ってない時点で、離れたくないのがバレバレだ。
そりゃそうだ、「我慢しろ」なんて誰もお前の中身がどうなっているのか知らないのだから、言えるはずがない。
それは他人が好き勝手に指図して良いことではない。するもしないも、決定権は結局自分にしかない。
アルジュナが自ら「そうしたい」と願い、苦しくとも選び続けた結果、今があるのだから。
「カルデアに喚ばれて、マスターと絆を結んだら、私、どんどん我慢、できなくなって……! ずっと見ないふりしてたのに、私が悪いって認めてしまったら、もう|クリシュナ《俺》の声も聞こえなくなってしまった! 誰の所為にも、出来なくなってしまった……! |黒《クリシュナ》は『きっと後悔する』って言い続けてくれたのに……俺、なにも、わかってなかったんだ……!」
俺を夢に引きずり込んだ男は、俺が思った以上にギリギリの状態だったらしい。もう救援は、二度と望めないだろう。
あれだけの|権能《ちから》を持たされていたら、あの男もまた弱音など吐いてはいられなかったのかもしれない。ずいぶんと損な役回りだ。業腹だが汎人類史でアルジュナが血の衝動を抑えきって往生出来たのは、クリシュナの尽力あってこそだった。うっかりアルジュナに惚れ込んでしまったばっかりに、どうにかアルジュナを生かす道への札を切る度、あいつの胃腸は死んでいたのではないか。さっきだって涼しい顔をしていた癖に、見えないところでは必死に足掻いている。名前を共有しただけあって、そういう所はやっぱりアルジュナにそっくりだ。流石に少しばかり、悪い気がした。
本当に俺たちは、二人そろってどうしようもないろくでなしだ。
神々や親兄弟や友、果ては世界までもを裏切った、とんでもないことをしでかしてしまった。
「―――それでいい。それでいいんだよ」
「……え?」
「|藤丸立香《マスター》に、教えてもらったんだろ。『悪心なんて、誰にでもある』って。お前のソレは英雄として生きるからには絶対に抑えなきゃならねぇものだ。けれどお前がソレを抱いてしまうこと自体は、|どうしようも《悪く》ねぇだろ。だからあいつは、悪心は誰にでもあるって言ったんだ。善人にも|悪心《魔が差すこと》はある、悪人にも|善心《思い遣り》はある。その矛盾こそが人間だ。だから人は罪を認め、罰を許す。お前がそうあるべきだと願った、そう在りたいとおまえ自身が選んだ、……どこにでもいる人の姿だ」
この甘くも苦い幸福は、互いの信念や宿業、起源、その多くを犠牲にして成り立たせてしまったものだ。
覚悟など、とうに決まっている。
堪え続けて、幾千年。
これは心も痛むということさえ知らなかったアルジュナが吐き出せた、本当の|弱音《いたみ》なのだから。
「わたし、いてもいいのか……? アシュの、傍に」
「最初からそう言ってる」
「きっとまた、傷つけてしまうのに……?」
「ッハ! それで黙ってる俺じゃねぇってのは、テメェも知ってんだろうがよ」
「いつかおまえを、……食べてしまうかも、しれないのに?」
「……そん時は、喰われる前に引き戻してやる。その綺麗な面ぶん殴ってでも、何度だって連れ戻してやらぁ」
今なら分かる。
―――鎖で繋がれた、あの白き衣の意味が。
それは友と共に森を焼き、父の手を振り払って巣立った子への、|贐《はなむけ》だ。
神の血に抗う道を選んだ我が子が、自らの手で人の幸福を壊してしまわぬように。
そんな願いが込められた、父が示す|理性《あい》だったのだろう。
終
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