帝釈天の衣
……む? アシュヴァッターマンじゃないか。
珍しいこともあるものだな。今日の講義には顔を出していないと思っていたら……此処にいたのか。
ずいぶんと顔色が悪いぞ、胃の調子でも悪いのか? そういう時に珈琲を飲むと、余計に胃が荒れるからやめておきたまえ。……女神から賜ったものを無駄にするわけにはいかない? 自らの根幹にも程近い女神からの施しであれば、君が蔑ろに出来るはずもないか。……難儀なものだな。
あまり調子が悪いようなら、アスクレピオスに頼んで魔法薬でも……うん? どこぞの誰かに比べたらそこまで弱ってはいない、と。……結構。神話の英雄とて、私の講義を受けたからには私が面倒を見るべき生徒だ。悩み事があるなら相談には乗るが……どうする?
……成程。これは深刻だな。
カルナもアルジュナもそうだが、君もまた|衝《・》|動《・》|に《・》|苛《・》|ま《・》|れ《・》|て《・》|い《・》|る《・》とは。
ひとつ、講義をするとしよう。
私の持つ知識の中で君たちの状態に最も近いと思えるのは……起源覚醒、というものだろう。魔術世界における起源とは、個々の存在を決定する方向性。魂の原点。『そうしなければならない』という絶対命令、混沌衝動のことだ。持って生まれた宿業とも言えるだろう。謂わば知覚出来ない本能。どれだけ系統樹が分かれようとも存在する、全ての生物、知生体の鋳型。しかしてそれはあくまでも個の発生原因であり、個を支配するものではない。……これは根源が身近にあった、神代生まれの君の方が詳しいだろう。
だが、生まれつき起源に近い人間というのも現代には存在する。代を重ね肉体改造等で少しでも元を維持しようとする魔術師は、一般人よりはそれに近い。英霊であれば神代生まれである程、その方向性や指令も強まる筈だ。神から直接賜った肉体であれば、猶更と言っていい。それは殆ど、神の|模倣《コピー》のようなものだからな。物事の発生には必ず意味がある。神が君たちという端末を生み出した理由も、必ずある。その理由こそが原初の方針、太源の意思というものだ。自らの|大元《オリジナル》である太源の神の方針を前にしては、端末である君たちは太刀打ちできない。|神《起源》が辿ってきた歴史と一個人の自我という歴史では、持てる方向性の強さが桁違いだからだ。これは起源から遠ざかったただの人間であっても、その他の生物であっても、同じことだ。
起源覚醒したものは、自己の人格というものが消え失せてしまう。結局の所、それは自分が望むことでしかないからだ。君たちは恐らく、元が近い為にその本能、衝動を自覚しやすい。普通の人間とは構造や強度が異なるからか、|抑える力《人格》もそれなりには強いのかもしれないが……その分抑えられなくなった時の反動も大きいだろう。……君もアルジュナも、よく耐えているものだ。アルジュナの夢に接続して君達を助けたというクリシュナ卿も、|君《・》|達《・》|を《・》|救《・》|え《・》|る《・》|か《・》|ど《・》|う《・》|か《・》はギリギリの所だったのだろうな。
無論、絶大な信仰を持ち、万能とも称される彼にだって起源はある。
英雄でありながら単体でも成立する神霊としての側面もある以上、むしろ君たちより更に起源に近い。限りなくシステムに近い存在である筈だ。もしかすると閻魔亭で先に仕掛けてきたのはインドラではなく……ヴィシュヌの方なのかもしれないな。
アラヤにせよガイアにせよ、抑止力というものはあくまでもカウンターだ。起こったことに対してしか、発動できない。
しかし予め物事の原因となる起源の覚醒が促されていた場合は、どうなる?
排除する為の抑止力を引き起こすだけの要因を、誘発させることは可能だろう。
彼もまた君たちと同じく、太源の意思に苦しめられていたのかもしれない。
ヴィシュヌからすれば、……|ど《・》|ち《・》|ら《・》|で《・》|も《・》|良《・》|か《・》|っ《・》|た《・》のだろうよ。
……ああ、君もそれなりには見当が付いていたのか。ならば私から言えることは何もないな。当事者である君にこれ以上踏み込んだ話をするのは、いくらなんでも不躾だろう。……ああお互い、悪辣な縁者に振り回されて苦労するものだな。
それでも言うべきことがあるとするなら、ひとつだけだ。自己を強く持ちたまえ。
答えとは自らの裡より編み上げるものだ。自ら考え、悩み、迷い、決断し続けることで|自我《方向性》は確立していく。
それはかつて世界を運営するシステムであった神々には、不可能な選択だ。
|アシュヴァッターマン《君》が|君《アシュヴァッターマン》である限り、アルジュナがアルジュナである限り、衝動を抑え、抗い続けることは出来る。
今君たちが選択した道そのものが、神々の誤算なのだから。
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