あの日灰になったあなた(燐ひめ転生パロ)



【余話 天泣】




 冬のあいだのあれやこれやを経て迎えた新しい春は、短い花盛りを通り過ぎ、新緑の季節へ差し掛かろうとしていた。
 天気は晴れ。今世でメルメルと再会して二度めの五月である。



 冬の雨で身体を冷やした俺たちはあのあと、当然のように風邪を引いた。ふたりして高熱を出してぶっ倒れて、病院へ担ぎ込まれた。入院して点滴を打ってもらっている最中に編集長と副編集長が見舞いにやってきて、隣同士のベッドに無様に横たわる俺とメルメルを見るなり目を剥いていた。……あれ、HiMERUくんだ。やっほう♪ 今の君とははじめましてかな? 『Adam』だったふたりの登場など予想だにしていなかっただろうメルメルは、どうも、と動揺を押し隠して挨拶したきり、バレバレの寝たふりを決め込んでいた。ナギも蛇ちゃんも記憶を持ってるっつうから驚きだ。前世からの知人たちはどうやら、奇妙な縁で身近に集っていたらしい。
 早まってマンションを解約してしまった俺は退院しても家がなく、いくつかあるというメルメルのセカンドハウスに厄介になることになった。現在では当たり前になったロボットやAIの類を排したアナログ一辺倒のアパートの一室は、前世の記憶が戻った俺にはかえって居心地がよかった。

「……ふむ、対談本ですか」
 俺は『月刊宇宙』編集部に新作の持ち込みを試みた。アイドル研究者のHiMERU先生×アイドル作家の天城燐音という布陣で、アイドル産業の深淵へと切り込んでいく一連の対談を連載させてもらえないだろうか、と(『偶像』の続きが書けるまでには生憎もうちょいかかりそうである)。
 題材に興味関心のある連中にはそこそこ名の知れた俺たちで、アイドルの『お客さま』たるファンたちの好奇心を煽れるだけ煽る。大衆ってのは総じてスターの闇や裏側や正体ってやつが好きだ。噂の中身はセンセーショナルであればあるほどいい。そして俺とメルメルが組めば、この上なく刺激的な暴露本がつくれるはず。話を聞いた副編集長は若干の難色を示した。
「『アイドルAI』に異議を唱えるような内容は、検閲の対象となります。つまり業界の権力者から目を付けられる可能性があるわけです。そうなれば天城氏、著者であるあなたは危険思想の持ち主としてしょっぴかれることになるかもしれませんよ」
「安心しろって。丁重~にフィクションのガワを着せてやっからよ」
 今世の俺は憧れたアイドルにはなれない。ならばなれないなりに、俺の武器である文字を媒介にして民衆の心にはたらきかけてみるのはどうか。何年後か何十年後か、『アイドル』の在り方そのものが見直されるきっかけを生むことができるかもしれない。そう考えれば俄然血が騒ぐのだ。無頼の革命児としての血が。
 天城氏は分の悪い賭けがお好きですよねえ、昔から。副編集長はビジネスマン顔で首を傾げた。。……もし何かあっても日和くんが守ってくれるよ、大丈夫。最後は結局、編集長の鶴の一声で連載開始が決まった。つか日和ちゃんもいるのかよ。。


 *


 編集部のある階にはいくつかの倉庫が存在する。資料室を兼ねた書庫がほとんどで、かねてより所属部員たちが収集してきたという貴重な蔵書が大量に詰まった、見るひとが見れば宝の山。で、そこに籠って俺が何をしているのかといえば勿論資料探し──じゃ、ねェんだなこれが。昔から会社の倉庫に隠れてすることっつったら『イイこと』って相場は決まってる。
 連載の『監修』という肩書を持つメルメルが編集部に出入りするようになってしばし。俺は恋人と職場でイチャつくというクソしょうもない背徳感に嵌っていたりする。はじめのうちは強硬に拒んでいた彼も、三回めくらいで完堕ちした。まァ三回も誘いに乗っちまってる時点でダメダメなんだけど、家以外の場所でヤるのはマンネリ打破にもなるからたまにならアリなのだとか。最近は運が良けりゃ向こうから誘ってくることすらある。

「ン、っふ……♡」
 苦しげに吐き出される吐息は砂糖を零したみたいに甘ったるかった。
 そういやァ聞いてなかったなァって。何を、ですか。前を寛げたスラックスに手を突っ込んで、脚の付け根を撫で上げる。書棚に手をついて俺に背を向けている男の腰が、もどかしげに揺れた。
「俺っちがいなかった一ヶ月くらい、おめェどうしてた?」
「どう、とは、ッひう♡」
 背後から抱きしめる体勢で、すべすべの素肌をまさぐる手を止めることなく、問うた。
「とぼけンなって。したっしょ? オナニー」
「っはあ⁉」
 ぐりんと首を捻ったメルメルは、心底呆れたとでも言いたげな表情をした。おーう冷てェ目。おめェのその目、燐音くんはわりと嫌いじゃねェよ。ぞくぞくすンね。
「シィ、声がでけェよ。ここ会社」
 抗議しようと開かれたくちびるを己のそれで塞ぐ。キスが好きなメルメルはこれで完封できる。舌を捩じ込んで奥で縮こまってる奴の舌を蕩かすように触れ合わせてやると、それだけで身を委ねてくる。あとは伸びてきた薄い舌を甘く食んだり、前歯の裏あたりに舌先でちょっかい出してやったりすれば、気持ちよさに負けてあっさり主導権を明け渡すのだから可愛らしい。外ではスンとしてることの多いメルメルの秘密そのいち、快楽に滅法弱い。
「ふ、ぁ♡ んう、は♡ ……ッ♡」
「メ~ルメル~実際どォ?」
 くちびるへのキスをやめ、頬を通って耳へと移動する。鼻梁で横髪をかき分け辿り着いた耳殻をべろりと舐め上げてみたら、「やッン♡」って腰にくる声が上がった。
「し、た、してました……! っあ、週四で付き合わされてた、んですから♡ 急に、んぅ、あんたがいなくなっ、てぇ♡ 自分でどうにかするしか、なかったん……ッうぁん♡ おいやめろ!」
 耳で感じてるあいだも律儀に喋ってくれるとこ、ほんと真面目だよなァ。最後はち~っとばかし怒られちまったけど、聞きたいことが聞けて満足した俺はくっついてた上半身を離した。途端ちょっと寂しそうな顔をするのは狡い。たぶん意識してねェのがまた憎い。
「どうやってたのか俺っちに見せて♡」
「死んでください」
 言うと思った♡ でも一回断られたくらいじゃへこたれねェっしょ♡ イイことを思いついた俺、一歩退いて辛うじて接触してた下半身も離れてみる。すると書棚の方を向いていた彼が思惑を悟って振り返り、涙目で俺を睨んだのだ。俺は両手を上げて降参の姿勢。
「天城っ、あんたな……!」
 さっきまでの触れ合いで半端に兆したメルメルの中心は、俺がいたずらをやめたことで放置の刑を食らっている。お可哀想。わかってンよ触ってほしいンだろ? まったくしょうがねェ野郎だな。
「いっぺん自分で触ってイけたら続きしてやンよ♪」
「最ッ悪だ……」
 清々しいほどに下衆な笑顔を見せつけた俺を軽蔑のまなざしで突き刺してくるけれど、潤んだ瞳と赤らんだ目尻じゃ効果は半減どころの話じゃない。申し訳ねェが興奮するだけで、メルメルにとっちゃそれは悲報である。こいつは自分のスケベな面が男をどう狂わせてるのかを知らない。前世は自己プロデュース百点満点な傑出したアイドルだったはずなのに、メルメルは馬鹿だ。
 まァいい。倉庫の隅にあった適当な椅子を引き寄せたら、俺もジーンズの前を緩めてそこへ座った。
「ほい、ドーゾ。俺っちの脚跨げよ」
 両手を広げて熱烈歓迎のポーズをとる。彼は渋々といった様子でスラックスと下着を片脚だけ抜き、こちらへ歩み寄った。あっ舌打ちしやがったこいつ。メルメルの秘密そのに、お上品な面に似合わず素行が悪い。
「くそ……天城この野郎いつかほんとに絞め殺してやる……」
「ぎゃはは! 楽しみにしてンぜ」
「黙ってろ、または舌噛んで死ね……っ」
 淀みない罵倒を繰り出しつつ、俺の肩に左手を添えたメルメルは言われるがまま椅子に掛けた俺の脚を跨ぎ、右手でゆるく勃ち上がりかけていた竿を擦りはじめた。どこが気持ちいいのかはさして長くはない付き合いの中でおおかた覚えたつもりだけど、やっぱり本人の手の動きは正直だ。ふゥん、亀頭の下側の裏筋との境目あたり、好きなんだ。
「ん、うう♡ はっ、はあ、ッあ♡」
 ……こいつわかってンのかどうか。とっととイっちまおうとして性急にそこを扱くメルメルは、時折俺の股間にてめェのを擦りつけてきている。いとも簡単に煽られちまって、俺のもぐんと硬度を増していく。よォし我慢だぜ俺、メルメルがイくまで触ンの禁止なんだから。
 にゅち、にゅく、と品のねェ音を立てるのは、指に絡んだ先走り。ちゃんと濡れてるあたり、この倒錯的な状況に奴も興奮してるってことだ。ひっそりほくそ笑む俺を見て何を考えたのか、メルメルは不快そうに秀眉を歪めた。いい表情しやがる。こっちは? ほっせェ腰を支えてやってた手を片方伸ばして、アナルの縁を軽く押し込む。びく、と肩が跳ねた。
「……っく、クソ天城……」
 俺の動きをなぞるみたいに、メルメルも自分の手を奥まった場所へ向けた。用意周到な俺がミニボトルからローションを出して周りに塗りつけてやれば、悔しそうに歯噛みしながらもその滑りを使って指をナカに潜り込ませた。
「あ♡ あっ、ぅあ、あん♡」
「……」
 俺の位置からは彼の孔がどうなってるのかまったくわからない。しかしながら尻を弄りはじめてから上がるようになった高い嬌声のお陰で、性器をじかに触るよりもそっちでより強い性感を得ているのだと知る。
「メルメルさァ……」
 俯いて快楽を追っていた顔を上げさせ、目線を合わせた。彼の金いろの瞳が俺より高いところにあるのが新鮮で、これまで見たことのなかった角度から彼を見つめていられることを喜ばしく思ってしまう。
「俺っちがいねェあいだもうしろ触ってたンだ? 前じゃ気持ちよくなれなくて?」
「うる、さいな……!」
「あたり? ケツ弄らねェとイけねェんだ? メルメルかわいそ~、オトコノコなのにちんぽよりアナルの方がきもちいンだ? 俺に抱かれてばっかいるから身体おかしくなっちまったンじゃねェの?」
 あえて酷い言葉で畳み掛けてやれば、指先を触れさせている孔の縁がきゅうっと収縮した。エロい身体になったもんだ。初めてのセックスでは言うほど良くなさそうだったのを、ここまで感じやすい場所に開発したのは俺。貶められることで更に大きな快感を拾ってしまうよう仕立て上げたのも俺。言いようのない愉悦に笑い出しちまいそうになるのをなんとか堪えた。ここがどこかなんてとっくに意識の埒外だった。
「……手伝ってやろうか?」
「え、……っやあァ♡ あまぎっだめ♡」
 既に指が二本入っているそこに、答えを聞く前に自分の中指を侵入させた。突然のことに目を見開いて、半開きの口からは短い息が切れ切れに漏れ出す。抱きかかえた身体が大きく震える。ややあってメルメルの乗っかってる股間と腹のあたりが濡れていることに俺も気づいて、彼が吐精していたことを知った。
「ぁ、は……♡ はーっ♡ はあ……」
 くたりと体重を預けてきた男の背をなるだけ優しくさすった。耳元にあっつい息がかかって妙な気持ちになる。あ~あ、結局我慢しきれずに手ェ出しちまった。でも俺は悪くねェよな、こいつが物欲しそうな顔すンのが悪ィよ、うん。ベッドでする時はイッたら休ませてやったりもしてるンだけど。ちょっと俺が耐えられなそうなのと、体勢がキツそうだから早く終わらせてやりたい俺なりの気遣いと。そんな理由で早々にナカに突っ込む指を増やし、器用に内襞の強張りを解いていく。俺の首すじに額を押しつけてぷるぷる震えるメルメルは、指の腹がナカの一点を押すたびに大袈裟に身体をくねらせ、溢れそうになるよがり声を必死になって抑えていた。……そろそろいいか。
「指抜くぜ。腰上げろ」
 俺の意図を察した男が、膨張しきって上を向いた先端の真上まで尻をずらした。先っぽが孔に吸い着く感覚に、平静を装っている脳の回路が千切れそうになる。挿れンぞ、ちいさく宣言して腰を進めようとした、丁度そのタイミング。ウィンと鳴ったのは自動ドアの開閉音だった。ウッソだろ。
「……!」
 慌ててメルメルの後頭部に手をやり、胸に抱き込んだ。やっべェ~、書庫に誰か入ってきた。内鍵はかけたはず。つーことはだ、入って来られるのはキーを持ってる役職つきの連中でほぼ確なわけで──
「……。…………、悪ィ、無理」
「あ゙ッ♡ ──っ、~~~♡♡」
  ずぷん。忍耐の限界を迎えていた俺は、ひと言断ってから一気に突き入れた。大丈夫、俺らがいるのはいちばん奥の方だし。空調の音に紛れてなんにも聞こえやしねェよ。
 ごめんもうちょい我慢してくんね? 肩噛んでていいから。一方的にそれだけを告げ、ゆるゆると腰を揺さぶりはじめた。気づかれるかも、見られるかもという緊張と興奮とで、体内のぜんぶの血がどくとく巡っているようだ。瞠目したメルメルがギンギンの俺を信じられない様子で見下ろし、罵声も嬌声も喉奥に封じ込めて俺の肩に歯を立てた。痛覚が性感と結びついてうっかりおかしな癖がついちまいそうだ。肉体がコントローラーを離れて暴走を始めるみたいな恐ろしさ。きもちいい。まだ足りない。もっと欲しい。そればかりが全身を駆け巡って、噛みつかれて破れた皮膚が血を流してもちっとも止まれなかった。



「……行ったか?」
「い・っ・た・か・じゃ・ねえ~~ッこのッ■■■■野郎が‼」
「うわァ海外帰りは野蛮だなァ……」
 視界が明滅するほどの興奮の坩堝に叩き込まれ、俺もメルメルも知らぬ間に達していた。正気に戻って周囲を見回す頃には訪問者は立ち去っていた。そんな非常事態下で、見られたかどうかなんてわかるはずもなく。
「さすがにちょっと冷静さを欠いちまったっしょ……平気かよ?」
「へ、平気なわけあるか……あんたたまに怖いぞ……」
 目に涙を溜めて放心しているメルメルには悪いことをした。こりゃしばらく禁欲が必要かもしれねェな。今日に限らず、ここ最近ブレーキがぶっ壊れることが珍しくないから。考えたことをそのまま口に出したら、彼は猛烈に首を振って俺を押し留めた。
「いや、メルメルのために禁欲しようって言ってンだけど……? おめェに愛想尽かされた日には俺っち、往来でのたうち回って大号泣して社会的に死んででも絶対ェ引き留めてやるからな覚悟しとけよ?」
「なんですかその予告、怖……。愛想尽かしませんよ、離れないって言ったでしょう」
 どこででも盛る悪癖さえなんとかしてくれれば何も問題ありませんから、ね? 頭を撫でて宥めてくれる彼は、慈愛さえ感じる穏やかな笑みを湛えている。
「俺も、あなたに求められるのは嬉しい……です」
 ……から。珍しく打ち明けてくれた本心は尻すぼみに消えたけど、嘘みたいに嬉しかった。これで調子に乗るなって方が酷である。
「……うち帰ったらもっかいまぐわおうぜェ、そりゃもう激しく」
「程々に」
 俺の額を軽く弾いたメルメルは先に衣服を整え終え、書庫を出て行った。



 ──雨が止んだあの日以来、考えていることがある。

 俺は今世も、危うくドロップアウトしそうなところをあいつに掬い上げられた。
 前世から続くいくつかの運命とは親しく付き合えている。一時は過去も今も何もかも、なかったことにしてしまいたかったけれど。現状はなんとか、未来へ目を向けることができている。まだぼんやりだけど。大昔に他人に贈った自分の言葉が回り回って現在の俺を立たせてるってのは、なんとも奇妙で因果な話だ。生きてるとこうした面白ェこともある。

 アイドルの俺がアイドルじゃなくなったメルメルと決別した、ラストライブの夜のこと。
 俺の中では一生かけても結論が出せなかったことなのだけれど。たぶん、俺が抱いていたあいつへの感情は、恋と呼べるものだった。俺はアイドルを、一彩を、ニキを、こはくちゃんを愛していたし、当然の流れとしてみんなのと同じ愛をあいつにも向けていた。
 けどなァ。タクシーの車内でろくに考えもせず発した問い掛けに、驚いたのは俺も同様だったのだ。そうして驚いたあと、おまえの答えを聞いてひどく安堵した。『Crazy:B』でなくなってもアイドルでい続けようとする俺の真意をおまえは尊重して守ってくれるはずだと、どこかで期待した。だからあんな甘えたことが言えたのだ。而して期待通りの答えをおまえはくれた。俺はそうした理想を叶えてくれる『HiMERU』としてのおまえに憧れて、恋い焦がれていたのだろう。きっとそれは、俺がそうありたいと願う偶像の姿に限りなく近いものだったから。
 今世の俺があの男に囚われ続けた理由も、結局そこに集約される。おそらく。前世で拾ってやれなかった恋情が悔恨に変わり、長らく俺を縛りつけていたってわけだ。

 その悔恨は無事消えたのか、正直今でもわからずにいる。欲の蛇口が壊れがちな要因のひとつであるのは間違いない。でも──経験が乏しいから自信はないけれど──恋をしたら誰だって俺みたいになるンじゃねェかな。寝ても覚めてもそのひとの姿がちらついて、そのひとのことを知りたくて堪らなくなって、掴んだと思ったもんが上澄みのうっすいところでしかなかったことに落ち込んで、ただただ夢中で求めてしまう。要するに、俺の恋情はとりたてて異質なものではないということなんじゃなかろうか。

 散々好き勝手させてもらった書庫の一角を元通りに整えて、ひとつ伸びをする。

「……よ~しっとォ……仕事、しますかねェ」

 だとしたら。俺が次なる悔恨を生まないようできることといったら、今度はしがらみも隔たりも飛び越えて、ただのおまえが好きだと伝えることだよなァと、そんなことを徒然に考える。恋とは底の抜けた器のようなもの。いくら注いだとて満たされることはなく、時には苦しみだって生む。けれども恋の悦びは、どんな不幸だって遠くに追いやってしまえる、場合もある。
 ──だから、まあ。せいぜい頑張らせていただこうじゃねェの、俺が求めるばっかりじゃなくて、俺だっておまえに求められたい。前世であんだけ無茶したんだし、今世はもうすこし卑近なところでもがいてみたってバチは当たらないはずだ。これはこれで愉快な人生になりそうっしょ?



 ビルの窓から眺めた空はよく晴れていて、なのにどうしてかぽつりぽつりと、ガラスに水滴が当たっては砕けた。世にも珍しい天泣が運んできたものは、たしかに祝福であり、祈りなのだった。



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