あの日灰になったあなた(燐ひめ転生パロ)



【夏の章 神立】



『Hの追想』





 夏を迎えるたび、蘇るのは遠い記憶。『Crazy:B』になりたての頃、ESのアイドルを害する毒となり、捨て身の特攻を繰り返した最低な日々。俺たちが再スタートを切ったMDMのまばゆいステージ。
 あるいは『Crazy:B』を終わらせたあの日。真っ白なスポットライトの下、この身を燃やし尽くして、そうして灰になってかき消えてしまっても構わないと思えた、あの日。暑い、夏の日だった。昔むかしのお話だ。



「HiMERUはん‼」

 イヤモニと真うしろの両方から、桜河の叫び声が聞こえた。スローモーション。なわけはない、錯覚だ。
 ガシャンと耳障りな音がすぐ傍で鳴った。数拍遅れて自分が床に倒れ込んでいることを知った。

 上手ステージ袖の舞台機構が誤作動を起こした。本番中、暗転のさなか、落ちた幕が袖に置かれていた照明機材の脚に当たり、近くにいた俺を巻き込んで倒れた。不慮の事故だった。
 『Crazy:B』のラストライブと銘打ったツアーの最終公演だ。予定通りならセットリストはあと三曲。アンコールも含めれば六曲。いける、いけない、止める、止めない。技術スタッフたちが忙しなく駆け回る中で、年齢不相応に泰然としたプロデューサーの彼女が、冷静に指示を飛ばしていた。
『天城さん、椎名さん、いけますか』
 下手で待機しているふたりには音声だけが届いている。息を飲む気配が、イヤモニを通して伝わってきた。
『なんかあったなこりゃ……。よォし、任しとけ。補給は終わりだ、ニキ!』
『はひ⁉ ふょ、っほ……待って!』
『セトリ変更します。今からアンコール予定だった天城椎名コンビ曲。曲終わりMC長めにとって繋いでください。バンドの皆さん、準備オーケーですか。照明さん……はい、そのかんじでお願いします。スタンバイ』
『うぃ〜す、燐音くん入りまァす』
『ニ、ニキくん入りま〜す!』
 ふたりだけがステージへ戻ると、オーディエンスは一瞬静まり返った。が、天城の曲振りでドームの天井を突き破るほどの悲鳴が上がる。ホーンセクションの迫力ある音色がリードするこのナンバーは、三年はライブで演っていないレア曲だ。今日この場に居合わせたファンたちには、生涯忘れ得ぬ宝物のようなひと時になるだろう。
「HiMERUはん……っ、立てるん?」
 泣きそうな顔をした桜河に笑みを向けた。当たり前でしょう、なんて顔してるんですか。この子は成人して何年も経つのに、そういう表情をすると出会った頃と変わらない。いつまでも愛らしい、末っ子だ。
 機材の下敷きになった右足首をガチガチにテーピングしてもらい、疼痛を堪えつつ立ち上がる。痛み止めが効くのを待っている時間はない。間奏、フォーエイトのサックスソロに入ったところで、天城の抑えた声がイヤモニから割り込んだ。
『このあとはセトリ通りでお願いします。……いけるな、HiMERU』
 この〝いけるな〟はお伺いではない。異論を呈されるとは微塵も思っていない口ぶりである。身内からは暴君と称されることもあるリーダーは、間髪入れずに続けた。
『おめェが出てこられねェってンなら会場じゅうの水色のペンラ、ぜんっぶ赤にしといてやるけど』
 言ってくれる。知らぬ間にくちびるが曲線を描いていた。
「──生意気ですよ。天城」
 返ってくる言葉こそなかったが、短いやりとりから確かな信頼を受け取った気がした。こいつは本当に、ひとをその気にさせることにかけては天才的なのだ。
 ステージの昔馴染みふたりが即席漫才で間を持たせているあいだ、袖で呼吸を整える。スタッフが椅子を勧めてくれたけれど、一度座るとギリギリで繋げている糸が切れてしまいそうで、立ったまま耐えた。
『そろそろMC畳んでください。V終わり、二曲続けていきます』
 不安はなかった。胸の前に拳を持ってきて桜河と目を合わせる。拳同士が軽くぶつけられた。彼はもはや、すこしも心配などしていないようだった。
「いくで」
「はい。桜河」
 頼もしくなりましたね。そう告げるのは今ではない。すべてが、終わってから。
 グリーンのレーザーがドームのまあるい空を切り裂く。横に広いステージ背面に三面ある巨大サイネージが映像を映し出す。これまで何百回と繰り返し、されど過去の焼き直しは一度たりともしなかった『Crazy:B』のライブを高密度に圧縮したような、今夜のためだけの特別な代物だ。〝ここで全ファンが大泣きっしょ☆〟と企画段階で豪語していた男がいたが、さてどうだろう。
 さあ、ラスト二曲。映像が流れる中、暗いステージ上を蓄光のバミリを頼りに移動し、立ち位置につく。──よし、大丈夫。動ける。この場所まで連れてきてくれた、十万もの瞳の前でパフォーマンスを止める選択肢は元より、ない。
 とん、と誰かの熱が背に触れた。振り向かずとも呼吸でわかった。
「おまえに、俺の背中を預ける」
 ヴォーカルはおまえがリードしろ。そのひと言で、天城が何をしようとしているのかを察した。首肯する。返事はいらない。暗闇。静寂。意識して深くとったブレス。バックサスが照らした、前方列の女性へと微笑みかける。

『♪ トランクにでっかい夢のせて──』

 俺が最初のフレーズをメロディに乗せれば、割れんばかりの歓声が大波となって押し寄せた。
 歌唱パートのスイッチが意味することを、椎名も桜河も即座に汲み取った。オーラスにしてぶっつけ本番、HiMERUを中心に組み上げる『Crazy Anthem』。いかにも俺たちらしい急拵えである。かといって上手くいかないはずがない。何せ俺たちはアドリブ上等、お騒がせ上等の『Crazy:B』なのだから。
 センターポジションに立つ俺を囲むような位置取りで、三人が軽快に踊る。おまえは歌に集中しろ、ダンスは不自然に見えない程度に最低限入ってこい。そう天城の視線が訴えてくる(ファンには〝今日の燐音とHiMERU、アイコンタクト多くなかった?〟くらいに受け取られるだろう)。
 頬が緩んだ。このユニットで『HiMERU』は、こんなにも大事にされている。求められればどんな瞬間にも浮かべることのできる完璧な笑顔よりも、よほど自然に笑ってしまっている自覚があった。HiMERUにはそぐわない表情かもしれない。でも良いのです、今日は。今日だけは。HiMERUは『Crazy:B』のメンバーとしてステージに立てて幸せだと、最後くらいは全身で叫んでみたいのですよ。今までHiMERUを応援してきてくれた皆さんなら、受け止めてくださるでしょう?

 『Crazy Roulette』で締め括った本編。そののちアンコールを予定通り三曲、それでも止まない拍手と呼声に応え、急遽二度目の『Crazy Anthem』を客席とシンガロングして、『Crazy:B』のラストライブは幕を下ろした。
 最後だからといって湿っぽくしたくはないと、別れの挨拶はしなかった。ただ、俺の肩に腕を乗せて歌っていた天城が、時折声を詰まらせていたこと。ステージを端から端まで駆け巡ってファン全員を指差し、『俺をアイドルにしてくれてありがとう』と一生ぶんの謝意を述べた背中──つまりあの男がたった一度だけファンに見せた、痛々しいほどに剥き出しの天城燐音の姿は、どれだけの時が過ぎたとしても忘れることはない。



 終演後、俺はすぐさま病院へ運び込まれた。患部は紫いろに腫れ上がって酷い有様だったが、『HiMERU』を演じきることができた安堵からか、もうどうなったっていいとすら思ったものだった。骨にヒビが入っているだとか、二ヶ月は動かせないだとか、医師にあれこれ言われたことも耳を素通りした。

 天城は、俺の怪我を案じる素振りを欠片も見せなかった。いつも通りセンターを割る相棒あるいは好敵手として、煽り、鼓舞し、ただ隣にいた。〝サポートしてやる〟だの〝俺らを頼れ〟だの、あの男は決して言わない。足を引っ張りたくない俺の心情を慮って、ああいう言い方をした。
 ──〝俺の背中を預ける〟、か。あんたらしい。預かってもらったのは俺の方だろう。
 パフォーマンスの最中は無我夢中で、怪我を庇うことすらも忘れていた気がするけれど。俺に絡むふりした天城が、その実さりげなく肩を貸してくれた場面が幾度もあった。ターンの瞬間足に負担がかからないよう、背中合わせでくっついたあいつが支点になってくれて、ペアダンスをリードするみたいに俺をくるりと回した。ようやくわかった。『Crazy:B』のダブルセンターでいるあいだ、天城はずっと、俺のいちぶだった。



 夜間出入口に横付けされたタクシーは事務所が手配してくれたものだ。すっかり気を抜いて開いたドアへ近づくと、後部座席に先客がいた。
「お~う、おつかれ」
「──あなた」
 ひらひらと手を振る天城そのひとである。静かにドアが閉まり、俺たちを乗せた車は夜道へと滑り出した。
「帰らなかったのですか。いつから待って……」
「たいして待っちゃいねェよ」
 ならば尚のこと帰ればいい。終演してからも片付けやら挨拶やらで長い時間拘束されていただろうに。せっかく解放されたというのに、深夜にわざわざ病院まで来る奴があるか。
「椎名と桜河は、帰したのでしょう? あなたも帰って良かったのですよ」
 べつに迎えになど来てもらわなくても。そう手元に目を落としつつ呟けば、いやァ俺っちリーダーだから、と返ってくる。『ユニット』の長としての最後の仕事だとでも言うつもりか。こいつも俺も柄にもなく、感傷的になっているのかもしれない。

 しばらく無言の時間が続いた。スマホにはメンバーや関係者からのメッセージが溜まっている。返信……は、明日でいいか。だいじょぶ? 抑揚のない声が掛けられる。横を見やるが、天城は窓の外を眺めており目は合わなかった。
「怪我のことなら問題ありませんよ。しばらくギプス生活になるでしょうが、HiMERUは引退するのです。日常生活が多少不便なくらいなのですよ」
「あァうん、そっか……そうだったな」
 改めて言われると寂しいもんだなァ。それは俺に向けられたというよりは、ほとんど独り言だった。
 
 要がアイドルに戻れるまでに回復することは、ついになかった。『Crazy:B』はHiMERUだけのものではなく、いつになるかもわからない弟の復帰をひたすら待つという祈りにほど近い行為に、メンバーを付き合わせ続けるわけにはいかなかったのだ。だから見切りをつける必要があった。これは仕方のないこと。どうしようもないことだ。何度も己に言い聞かせ引退を選んだ。『俺』自身がアイドルにのめり込んでしまったのは、どこまでも想定外だった。
 寂しいのは俺も同じだ。楽しかったのだ、『Crazy:B』でいることが。そんな揺らぎを感じ取ったのだろうか。天城がこちらを向き、薄く笑った。なァ、メルメル。
「このままどっか行っちまわねェ? ふたりで」
 本気かどうかも不透明な、曖昧な笑み。否、泣き顔だったか。街路灯の素っ気ない白さが時折横切っていくだけの暗い車内の、彼からは見えない位置で、手のひらに爪が食い込むほど握り締めた。
「……。魅力的な提案ですけれど。あなたはアイドルだ、これからも」
「……」
「だから、『俺』はあなたとは行けない」
 ひかる目を見つめ毅然と突っ返せば、おまえならそう言うと思った、と息を吐き、低い天井を仰ぐ。よもや緊張していたのか、天城燐音ともあろう者が? この時の瞳の色をよく覚えていないのは、俺も平常心ではいられなかったからなのか。あのステージで己の持ちうる何もかもを火にくべて、本当に燃えかすになってしまった俺たちは、もう色彩さえ失っていたのか。今となっては知る由もない。

「最後にひとつ、聞いても?」
「ん。なァに、メルメル」

 以降、俺は要を連れてヨーロッパの片田舎へ移住し、かつての仲間とは時折インターネットを介して近況を拾い読みする程度の仲になり、アイドルからはすっかり遠ざかることとなる。

「あなたは──天城は、生まれ変わってもアイドルになりたいと、思いますか」

 前世の俺と天城は、そうして別れた。



 ◆



『Hの現在地』





 長いながい時を経て。今世ではふたたびの、前世も含めれば三たびの邂逅である。

「こんにちは。あの時助けていただいた鶴です」
『……ど〜も、せんせェ』

 集合エントランスのモニターに相手の渋面が大写しになる。そこから数秒かけてじわじわと顔が離れ、自動ドアがアンロックされた。
 ちょうど着いていたエレベーターへ乗り込むと、カプセル型のかごがレールの上をすうっと移動してゆく。ベルトコンベアに乗せられた荷物の気分を味わうことしばし、次に扉が開いた時には目的の部屋だった。さすがは有名作家の住むハイクラスのマンション。玄関のたたきに降り立った俺は、お招きに感謝してぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです」
 腰に手を当てだらりと立つ天城は、モニターで見たままの渋面だ。なんという歓待だろう。つい吹き出してしまう。
「久しぶりィ……恩返し目的なら、正体がバレた時点でミッション失敗してンぜ」
「おや。大昔の民間説話をご存じとは、さすが作家先生ですね」
「先生はよせっつったっしょ? 学者先生」
「よしますよ。あなたがやめてくれたらね」
 スリッパを出すために屈んだ天城は変な姿勢のまま考え込み、ややあって記憶の中で嫌になるほど呼ばれた名を口にした。ンじゃあ、メルメル。
「……気に入ったのですか? そのおかしなあだ名が」
「ンだよおめェは気に入らねェの? いいじゃねェか、メルメル♪」
「HiMERUです」
「はいはい。ホレ、おめェも。呼んでみ?」
 好奇心に満ちた碧の瞳がこちらを見下ろしてくる。今世でも身長は奴の方が高いのか、くそ。俺が呼ぶまでスリッパを置かないつもりらしいその男を、一度睨み上げた。
「天城」
「呼び捨て!」
 何か文句がありますか、天城。もう一度呼べば、恩人を呼び捨て! とけらけら笑う。散々笑って満足したのか、ようやく俺の足元にスリッパが置かれた。
「燐音って呼んでくれてもいーのに」
「いきなり馴れ馴れしすぎませんか? あなたじゃあるまいし」
 そう答えたけれど建前だ。俺が呼ぶ名は『天城』と決まっている。百年も昔から。
「アレェやっぱ俺っち嫌われた? すげェ冷てェじゃん」
 リビングへ先導する背中がひょいと振り返る。だから七月ンなるまで連絡くれなかったの? あれからまあまあ経ったし、もう会えねェもんかと諦めてたンだぜ? 急に来るンだもん、びっくりしたっしょ。弾む声に、おや、と思う。
「歓迎してくれていないのでは……?」
 だって酷い顰めっ面だったぞ、さっき。尋ねるとあの頃と変わらぬ笑い声が返る。
「きゃははっ、悪ィ! 随分焦らされたから大喜びで迎え入れンのもなんか癪でなァ、ちょっと意地悪してみただけ。歓迎してンよ」
「本音は?」
「ん〜フフ、また会えて嬉しいぜェ。メルメル」
 ま、座れよ。以前俺が寝かされたソファを親指で示し、天城はキッチンへ向かった。



 この家の周縁には雨が降り続いている。あとすこし遅かったら激しい雷雨に見舞われていたところだ。
 とはいえ今日は全国的に雨。俺はペンほどのサイズに縮めた折り畳み傘をジャケットの内ポケットに仕舞い、緩やかなカーブを描く窓から眼下を見渡した。ゴロゴロ、ぴしゃ。遥か遠くの空が真っ白にひび割れた。吹き抜けのリビングは天井が高く、天気さえ良ければこの壁一面のガラスは優秀な採光窓となるはずなのだけれど。分厚い雨雲のせいで、昼間にもかかわらず室内は薄暗い。
「鬱陶しい天気っしょ?」
 カップを手にやってきた天城は窓辺に佇む俺の背に声を掛けると、さっさとソファに腰を下ろした。とうに見飽きた景色なのだろう、そちらを見もせずにぼやく。
「せっかくの七夕だけど、今頃天の川は大氾濫だなァ……珈琲で良かった?」
「ああ、ありがとうございます。珈琲は好きです」
「ん。なんかそんな気ィしてた」
 いただきます。ちいさく言ってから湯気を立てるカップに口をつける。芳しい香りに驚いた。今や一家に一台万能ドリンクメーカーがある時代だ。ボタンひとつで栄養補給用のスムージーから嗜好品までを提供してくれる優れものだが、味や匂いはあくまで再現である。天城の珈琲からは明らかに本物の香りがした。
「これ……もしかして、豆から?」
「お、あんた違いがわかるひとだねェ。そうだぜェ、いつも店で買ってンの、豆。昔馴染みがカフェの店長やってンだよ」
 テーブルにカップを置いた俺は、思わず黒いTシャツの肩口を掴んでいた。あまりにも聞き覚えのある話だったから。
「カフェ……⁉」
「んえ、何なに⁉ 行きてェの? ニキのカフェ」
「〝ニキのカフェ〟‼」
 俺の突飛な行動に、彼はびくりと身を竦ませた。当たり前だ。普通こんなふうに過剰反応するような話題ではない。けれど俺に限っては違う。椎名ニキがいる。その事実はどれだけ知りたくても知り得なかった、光明だ。
「俺っちたまァ〜にSNSで宣伝してンだけど……知らねェ?」
「あなたの投稿は九割パチスロのプレイ動画でしょう。埋もれてしまって見つけられやしませんよ」
「嘘つけェ! 八割っしょ」
 つうか俺っちのアカウントフォローしてンの? しっかりファンじゃねェか! にやけ面で言われて、咄嗟に否定してしまった。こまめにチェックしているのは事実である。むろん見張りのためだ。
「どうでもいいのですそんなことは! 会いた──じゃなくて、行きたいです」
 連れて行ってほしいと前のめりで懇願する。と、天城の目が左右に泳ぎ、それからやんわりと肩を押し返された。そこでやっと、ソファに片膝を乗り上げて彼に掴みかかっている自分に気がついた。
「……近けェ」
「あっ……すみません。つい」
 俺がすごい勢いで食いついたから引いているのだろう。悪いことをした。こいつと俺とは、今世ではまだ知り合ったばかりなのだ。距離感を誤ってはいけない。せっかく、会えたのだから。



 偶然拾われたあの日からひと月半ほど。今になってここへ来ようと思ったのは、独り善がりな望みを捨てきれなかったからだった。白昼夢のごときあの日々の記憶を肯定し、共有してくれる仲間を。二度目の生を授かって以来ずっと、俺は諦められずにいる。
 しかし同時に思う。見つけてどうする? 打ち明けたとして、俺が前世の記憶だと信じているものを、妄想だと一蹴されたら? おそらくその方が正常だ。人生二回ぶんの膨大な情報を蓄積・処理する能力は、人間の脳には備わっていない。だから忘れるようにできているし、忘却は時に救いでもある。今世の要がそうであるように。おかしいのは俺の方だ、そんなことは再確認するまでもない。
 椎名は、どうだろう。あいつも覚えていなかったとしたら、俺はまた絶望するのかな。それはちょっと、怖い、な。
「今夜店開けてるみてェ。連れてってやってもいいけど、どうする?」
 俺が脳内で三百字くらい喋っていることなど露ほども知らない天城の、のんびりとした口調。不安に駆られている時でもなぜだか身を任せたくなる鷹揚な態度に、かつては幾度も助けられた。今も。
「そ、れなら……あ、いや」
「? なんかある?」
「ええと……今夜は弟の誕生日を祝ってやる約束をしていて」
「弟がいンのか! 今日誕生日?」
「まあ、はい。俺もですが」
 へェ、と天城が目を細めた。兄弟揃って七夕生まれか、なんかいいな。おめでとう。
「っ、その……あなたは、兄弟は」
「俺っち? いるいる、うちも弟」
「ふうん? 似ているのですか?」
「あァ……まァ、似てるって言われンな。目元とか。一彩ってンだけど」
 ──天城一彩。あの子もこの時代を生きているのか。今日は新たな情報が次々と浮上する日だ。兄の方の天城は何か感じるものでもあったのだろうか、ひとりでうんうん頷いている。
「弟のためならなんでもしてやりてェよなァ。よォくわかるぜ」
「ええ……本当に、そう思います」
「いい兄ちゃんなんだな、あんた」
 俺はひどく狼狽してしまった。こんなふうに皮肉でもなんでもなく、てらいのない好意をこの男から向けられるのはむず痒くて、黙って聞いていられない。
 こうして過去との決定的な違いを思い知るたび、考える。俺はあの頃の天城燐音を諦められない。手のつけられない苛烈さで周囲を巻き込み、常識に唾を吐き、誰よりもアイドルに憧れていた男を。太陽にはなれずとも、紛れもなく誰かを導く青い星だったひとりのアイドルを、現在の彼の中に求めてしまうのだ。己の愚かしさに呆れる。
「……そういうわけなので。今度、連れて行ってください」
「おう、珈琲の味がわかる奴なんて滅多にいねェからな。ニキも喜ぶ」
 そうならいいが。無言で珈琲を啜ることで同意を示した。

 認めたくないことだけれど。俺はきっと、彼を愛していた。目に痛いほどのひかりが愛おしかった。隣で感じる熱が好きだった。彼の方がどう思っていたかは知らない。病院から帰るタクシー、すべてが灰になった夜、寂しさに押し潰されそうな彼を突き放した俺には。知る権利などない。

 だけど、だから、今世では賭けてみることにした。

「では本題です」
 どすん。俺は持参した大きなボストンバッグをテーブルの上に置いた。
「は、何? 爆弾?」
「ふふ。面白い冗談ですね」
 いいですか、良く聞いてください、大事なことをお伝えします。丁寧に段階を踏んでから、俺は告げる。
「しばらくのあいだここに泊まります」
「誰が?」
「HiMERUが」
「HiMERUが⁉」
 聞いてねェけど! 今初めて言いましたからね。俺の一方的な宣言に当惑する天城には気の毒だけれど、これは決定事項である。前世の記憶を取り戻させたい俺、バーサス、何も知らない天城燐音。ショック療法みたいなものだ。
「改めまして。よろしくお願いしますね、天城」
 食い違ったままのふたり暮らしを、今から勝手に始めさせてもらう。まずはルームキーの使用許可をいただくところから。にこりと微笑むと、天城は「圧がすげェ……」などと失礼な感想を吐いた。



 ◆



『Rは自問する』





 よくわかんねェうちにメルメルと住むことになってた。
 いや、うん、俺はまた会いたいと思ってたよ? されどあの夜以来音沙汰はなく。縁は切れたもんだと、仕方がないと受け入れていた。ひととの出会いなんてそんなもん。それが今日、驚きの新展開を半ば無理矢理飲み込まされたわけだ。メルメル本人が持ち込んだ。

「家が燃えまして」
「ほらァ~! 無理してあんなとこ住んでっからだよ! 反省して二度と近づくな!」

 こいつの家があるという十三街区はとにかく治安が終わっている。反社のアジトがあるとか、夜間は銃声が聞こえるとか、そんな噂がまことしやかに囁かれる程度には酷い。ジャパニーズヤクザなんざアイドルよりよっぽど早急に絶滅するべきっしょ。対して俺ンちのある中央第二街区は著名人の多く住むいわゆる高級住宅街で、安全性は折り紙つき。次に住むとこが見つかるまでうちで預かる程度、なんてことはない、が。
「わかったもうわかった、おめェはここに住む。弟くんは?」
「弟は──要は、大学の寮に入っているのです」
 聞いたところによると。音大の院生である『要ちゃん』は、防音室や録音スタジオ完備の学生寮で暮らすのがベストなのだそうだ。うんうん、夢があンのはいいことっしょ。
 ンで、俺の気になってることはまだ他にもある。
「てか俺っちでいいのかよ」
「いいのかよ、とは?」
「おいおいよく考えろ、俺ら知り合ってから会うのは二回目っしょ? 関係性で言やァまだ顔見知り止まりだ。よく知りもしねェ男ンとこ転がり込んで、なんかあったらどうすンだよ」
 他にいねェの? ダチとか。何気なく尋ねたのだったが、メルメルは首を横に振った。海外生活が長いためこっちに友人はいないとのことだった(普通に友達がいねェタイプだろうとも思う。なんとなく)。
「何かあったらいけませんか……? 天城はどう思います?」
「……」
 これは、困ったことになった。にこにこと無害そうな(芝居だ。こいつの中身は間違いなく性悪!)笑みを浮かべる彼から顔を逸らし、俺は頭を掻き毟りたい衝動を堪えた。
 初めて会った日、忘れもしない五月十八日の午前四時。〝口説かれてます?〟と問われて否定しなかった。勿論軽口の範疇ではある。だがそれだけか? 否。たぶん俺は、本能からこの男を欲していたのだ。夢に見るほどに。それはアイドル研究の第一人者である『HiMERU』としてだけに留まらず、『メルメル』という人間に魂が強く引っ張られるような感覚だった。

 もし、運命とかいうものに貌があったなら。それはきっと糸なんていう心許ないものじゃなく、もっと色鮮やかで烈しくて、どの瞬間も目を奪ってやまない、嘘みたいに綺麗な男の姿をしているに違いない。
 三十年弱の人生で『運命』を感じた瞬間は何度かある。一度目は行き倒れたところをニキに拾われた時。二度目はコズミック社の先代編集長に仕事相手として選んでもらえた時。三度目はこはくちゃんと組んでシリーズを軌道に乗せた時。どの瞬間にもパズルのピースがぱちりと嵌る音がして、俺自身の物語みたいなものが、ぐんと先へ進んだかんじがした。あの誕生日の夜に感じたのはまさしくそういう引力だったし、だから俺にとってメルメルは四度目の『運命』なのだ。おそらく。たとえ互いを見つけたきっかけがゲロだったとしても。
 あるいはこの男は何か、俺がどうしようもなくアイドルに惹きつけられるワケを握っている。確信はねェ、けど……このひとだったらいいなと、期待せずにはいられない。だから同居そのものはやぶさかでない。

 ──ただひとつ問題があるとすりゃァ、健全なルームシェアが保証できねェかもしれねェってことっしょ。

 現にさっき迫られた時はちょっと危なかった。間近に顔を寄せられても全然嫌じゃなかったし、なんならキスしてやろうかとも思った。よく押し返せたもんだ。偉い、俺。これから毎日こんなふうな我慢を強いられるのだろうか。試される燐音くんの理性。
「つかぶっちゃけ好みなんだよなァ、顔が……」
「えっ」
「えっ」
 こっちを向いたメルメルとがっつり視線が絡んだ。えっ俺今なんか言った? 聞いた? 今の。完全に無意識だったけどなんかまずいこと言ったような気がする。メルメルが、目で俺を捕らえたままじわりじわりとにじり寄ってくる。ああこいつの瞳、綺麗な金いろしてンだな……じゃなくて。やべェ、殺られる。
「──天城」
「……ハイ」
 表情を変えずに物理的な距離を詰めてきたその男。なんて言ったと思う? 「趣味がいいですね、天城」だとさ。もうなんなんだよ。

 つまるところ、俺の人生が急にラブコメの様相を呈してきた。完全に専門外だ。助けてくれニキ、こはくちゃん。取り急ぎ布団をもうひと組買おうと、思う。


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