あの日灰になったあなた(燐ひめ転生パロ)



【冬の章 めぐる時雨】



『天城燐音というアイドル』





 渇いていた。ずっと何かが欠けていた。ただ、『それ』はいずれ戻るという確信めいた予感だけがあった。俺という人間を構成する要素を円グラフに表した時、大部分を占めるはずの、大切な何かが。
 そして大いなる欠落を埋めようとするかのように、俺の世界には雨が降り続いた。



 『それ』の正体が知りたくて堪らなくなったのは、夢枕のアイドルによく似た変人の学者先生をうっかり拾ってしまってから。以来、とんとご無沙汰だった勿忘草いろの彼が頻繁に夢に現れるようになった。
 細部が曖昧だったまぼろしは、ゆるやかに輪郭を取り戻してゆく。ビビッドなイエローをイメージカラーに持つ四人組の『ユニット』、『Crazy:B』。それが俺たちの掲げる看板だった。ステージ上で俺を振り返る三人のメンバーはそれぞれ見知った容姿をしていて、しかし一度たりとも見たことのない表情を、揃ってこちらへ向けている。まるで純粋なものを愛おしみ眩しがるまなざし。現実でもそんなふうな目で俺を見てほしいもんだ……なんて、冗談はさておき。
 ゴミ置き場に落ちてたあいつの話に戻ろう。

 あいつは──HiMERUは、時たま俺を透過して別の誰かを見ていた。違和感を抱いたのはいつのタイミングだったか。梅雨の終わり頃からうちに居座るようになって、晩夏にはなりゆきでセックスするようになって。あれ、と思ったのはそのあたりからだった。
 出会った当初から勝手な奴ではあった。気位の高い自惚れ屋で完璧主義、有り体に言えば面倒な男。だけど折に触れて漏れ出る『HiMERU』の薄皮一枚下、きっとこれが本来の『メルメル』なのだろうと思われる気性の荒さや不器用さをこそ、俺は気に入った。気に入ったし、いかにも隙のなさそうなあいつの隙の部分を垣間見るたび、不思議と喜びすら感じたのだ。
 思えば俺がHiMERUという学者に興味を持ったのも同じ理由だった。メルメルの論文の根底に流れる感情は、常に怒り一色だったから。『アイドルAI』がスタンダードな時代に、古き良きアイドルが喪われたことをこれほどまでに嘆き憤ることのできる人間が他にいると知って、素直に嬉しかった。生まれて初めて俺の喪失感に寄り添ってもらえた気がして。そうして腹の内に静かな憤怒を飼っているあの男を、憧憬とともに見つめていた。
 だよなァ、あんたはこうでなきゃいけねェ。聞き分けのいいお利口さんに甘んじるタマじゃねェだろ? ま、優等生のふりがお得意なのはあんたらしいとこだけどよ、なァんて──あァ? ちょっと待てストップストップ。ここだ。なんだこのモノローグは? これじゃ俺は以前からメルメルを知ってたみたいじゃねェか。いいか、俺とあいつとは初対面だ。推敲したらまずこのくだりから削ってやるからな。
 ともかく俺は、夢の中では完全無欠なアイドルの姿をしているメルメルの、完璧になりきれない人間らしさに惹かれていった(まァ顔も好みなんだけども)。俺ではない誰かへ向けられるその視線を独占して、余すところなく俺で満たしたい。そんな欲求を抱いている自分に気づいた時、恋を自覚した。日増しに底なしの淵へと嵌っていく、落ちる恋じゃなく沈む恋だった。

 俺の予想に反してメルメルは、ニキとこはくちゃんを紹介するとすぐに打ち解けて俺たちに馴染んだ。疑問を差し挟む余地もないくらいに、まるではじめから四人でいることが自然であったみたいに。
 いつしかニキの店は俺たちが自然と集まる場になった。せっかく四人だしと自前の雀卓を持ち込んでみたら、ニキが噎せるまで爆笑していた。なはは変わんないっすね燐音くん……って、想定してた反応と違った。絶対ェ怒られると思ったンだけど。



 深刻な事態に陥りだしたのは秋頃からだった。

 メルメルは俺を連れ、かつてのアイドルたちにゆかりのある地をいくつも回った。俺に見せたいものがあること、見せて何かに気づかせたいのだということも、なんとなくわかっていた。彼は意外にも感情が顔に出やすいたちで、期待外れだと知ると無防備なほどに寂しげな面を晒す。それが見ていられなくて、でも一方ではデートへ出掛けられることに浮かれてもいて、内心ぐちゃぐちゃだったのは余談である。
 同時にこの頃からまぼろしが鮮明になりはじめた。結果何が起きたかといえば、夢とうつつとの境が次第に不明瞭になっていった。いや違うな、夢が現実を侵食してきたってかんじか。
 経験していないはずの映像が白昼夢として目に映るようになった。メルメルとの日常の中で妙な既視感を覚えることが増えた。彼の発する言葉が、見せる表情が、勿忘草いろのアイドルとダブって見えた。俺は段々と恐ろしくなってきた。これは一体いつの、誰の記憶だ?
 そうだ、このあたりから俺は疑いはじめていた。これまで単なる夢だと思い込んできたものは、本当は過去、実際にあったことなんじゃないか? 欠けている『何か』と関係があるんじゃないか? 細部がくっきりしてくるにつれ、疑念はますます膨らんだ。普段通り、なりゆき任せに事に及ぼうとした矢先のフラッシュバック。熱気と疲労で眩む視界に目を凝らす。アイコンタクトの瞬間、アイドルの金の瞳が初めて見る甘い色彩に蕩けた。ばちん。耳元で何かが焼き切れる音がした。

「──満足、しましたか」
 〝いつもと違うあんたが見てみたい〟と無茶振りしておっぱじめたセックスの最中、俺は欲に溺れたふりしてじっとメルメルの様子を観察した。ンでわかったこと。寝ても覚めても俺はHiMERUに恋をしているのだという、今更すぎる事実。言わせンな恥ずかしい。
「ん〜さいっこう、メルメル超ォ~可愛かった♡」
 できたのはおどけて戯言を吐くことだけだった。どれだけ快楽に堕としてみても、この男のうつくしさは損なわれることがない。この日はいくつも知らない表情を見せてくれたけれど、そのどれもが俺を惹きつける。ここまで手の施しようのない恋は初めてだ。思春期のガキでもあるまいし、こうも盲目になれるもんかねェ。
「あ~あ。もう来るとこまで来ちまってンなァ……」
 あいつのにおいのする枕に顔を埋め、独りごちた。俺の次なるミッションは風呂から戻ったメルメルを普通の顔して迎え入れて、今夜も一緒に眠ることなのだ。考えただけでどうにかなっちまうっしょ。



 冬が来る頃には眠るのが怖くなっていた。もはや寝てるか起きてるかなんてのはお構いなしにアイドルの影が見えるのだから、眠ったって良かったンだけど。異常なまでに具体的な幻想にこれ以上浸っていいものか、果たして俺はどうしてしまったのか、気紛れな時雨を窓から眺めてはひとり悶々と思い悩む日々。だけど恋い慕うアイドルに会えたら嬉しいし、小説の続きだって書けるかもしれない。そんなかんじで何を解決するでもなく新年を迎えた。

 ニキの店の奥は居住スペースになっている。『新年会は酒飲んでTV観てだらだら過ごす』と家主に黙って俺が勝手に決め、こはくちゃんとメルメルを呼びつけた。中央にレトロな掘りごたつが据え置かれた部屋で男四人脚をぶつけ合いながら、ニキが腕を振るったおせち料理をいただいた。
「──桜河は眠ってしまいましたね」
「なはは、ほんとだ。熟睡してるみたいっすね~」
「正月休みはご実家に顔見せて、そんで今日こっちに戻ってきたっつってたしな。疲れてンだろ」
「まさか飲む前に寝ちゃうなんてねぇ……せっかくこはくちゃんの好きな大辛口仕入れたのに」
 起こさなかったらあとで怒られません? 熱燗を携えてキッチンから戻ってきたニキが苦笑した。
「いいえ、寝かせておいてあげましょう。愛らしい寝顔なのです」
 微笑を浮かべるメルメルの見下ろす先を覗き込み、三人揃って破顔する。俺たちはこの最年少を必要以上に可愛がっている。ちょっとしたいたずら心でぷっくりした頬へ手を伸ばした。
「あ! つついちゃ駄目っすよ燐音くん」
「お~悪ィ。なんか懐かしいなと思ってよ」
 俺は片隅にとっておいた思い出を引っ張り出し、何気なく──本当に何気なく、語ったのだ。
「前にも俺っちたちで、こうやってソファで寝落ちしたこはくちゃんを囲んだっしょ? あン時は専用衣装のアイディア出しでえらい苦労して、」
 言い掛けて口を噤んだ。俺は何を言ってる? これは今の俺らの思い出なんかじゃねェぞ。やおら顔を上げた。黙したままただ視線を交わすふたりの強張った面を見て、俺は確信した。

 なんだ──おめェらはぜんぶ、知ってたンじゃねェか。

「……帰るわ」
「! 待って燐音くん、」
 ニキが立ち上がった拍子に空の猪口が転がり落ちた。当たりどころが悪かったのかまっぷたつに割れるそれ。静寂が部屋を覆い、誰もが言葉を発することを躊躇った。あまりの静けさに目を覚ましたらしいこはくちゃんが身を起こしたけれど、ただならぬ雰囲気に何かを察したみたいに、きゅっと瞼を閉じた。ああ、おめェもか。
「メルメル。今日はニキんちに泊まってくれ、できればしばらく」
 背中越しに軽く手を振って短く告げ、返事を聞きもせず店を出た。



 いちばん眩しくひかる、夢を見た。

 俺はでっけェステージに立ってるアイドルで、隣にはメルメルがいて、ニキもこはくちゃんもいた。ライブの進行はオンタイム、次に控える曲は『PARANOIA STREET』、サス位置はここ。すべて覚えていた。『Crazy:B』が初めて全国行脚を行ったアリーナツアー初日のことだ。胸の裡の底の底、大事に大事に仕舞われていた『俺の記憶』。俺自身の記憶。そうでなけりゃ知ってるはずがねェんだ。前後のセトリも、スタッフさんたちの顔と名前も、なぜか一般チケットで一彩と藍ちゃんが来てたってことも、珍しく重要なMCで噛み倒した俺をフォローするHiMERUがこっそりくれた、キッツいひと睨みも。
 わけわかんねェよ。じゃあ俺は誰で、これは誰の人生なんだ? 頭を働かせるのをやめた瞬間に気が触れちまいそうだ。

 なァおめェは知ってたンだろ、メルメル。昔の俺が『天城燐音というアイドル』だったこと。俺たちは随分前から運命共同体だったってこと。
 これが前世の記憶だってンなら、俺がどうしようもなくアイドルというものに惹かれてしまう理由にも説明がつく。たぶんおめェを拾った理由も。ああでも、駄目だ、何も考えたくない。俺は。
 あんなにも命懸けで愛し、生涯のすべてを捧げた過去を、今の今まで綺麗さっぱり忘れていられたのだ。背信だ、こんなのは。許されない。許していいわけがない。俺は。俺が。殺したんだ。
 アイドルを殺したのは、俺だった。



 ◆



『HiMERUというアイドル』





 俺は天城に嘘をついていた。ひとつめ。奴と俺とは初対面であるということ。ふたつめ。家が燃えてしまって行くあてがないということ。
 燃えたこと自体は嘘じゃない。いくつかある何でも屋の拠点のうちのひとつが、俺を目障りに思うチンピラ連中の仕業で無くなったのは、残念ながらノンフィクションだ。
「……おにいちゃん?」
 数ヶ月ぶりに自宅へ戻ってきた。
 天城のマンションは知らぬ間に引き払われていた。どれだけ探し回っても、あいつの痕跡はこの街のどこにも見つけられなかった。
「どうしたのですか電気もつけずに……びっくりするから帰って来ているなら教えてくださいね?」
 ちょうど荷物を取りに立ち寄ったのだという要と鉢合わせた。久しぶりですねおにいちゃん。ねえ聞いてください、今度大学でやるオペラの定期公演の主役を勝ち取ったのですよ。ふふん、まあぼくの実力ならこの程度朝飯前ですけどね。嬉々として語られる近況に笑顔をつくって相槌を打つが、無理をしていることなど弟にはお見通しである。
「……何か、あったのですか」
 行儀悪くもソファの座面に胡座をかく俺の足元に、彼はしゃがんだ。下から覗き込んでくる瞳が不安げに揺れている。心配をかけるのは忍びない、けれどこうして顔を見られてしまった以上、何か話さないともっと不安にさせてしまうだろう。
「ああ……ごめんな、要。その、すこしひとりになりたくて、それで」
「! ごめんなさい。タイミング悪く──」
「いや、いい……大丈夫。大丈夫だからいてくれ、好きなだけ」
 困り顔で首を傾げる要。兄として格好悪いところを見せまいとしてきた俺はしばし考えたのち、腹を括って弱音を吐いてみることにした。
「……ここにいてほしい。頼む」
 聞くなりぱっと瞳を輝かせた素直な弟は、嬉しそうにはにかんだ。

 俺がついていた嘘のみっつめ。
〝ど~お? そろそろ燐音くんにメロメロってとこじゃねェの?〟
 果然。俺はたしかに天城燐音に心を奪われていた。けれど彼を透かして過去を見ている自分の不誠実さに嫌気が差して、その感情に蓋をすることに決めた。愛みたいに整ったかたちをしていない、恋みたいに甘やかな口当たりでもない、そんな嘘で騙していたのは自分自身だった。
 でもあの男を見失ってみてわかった。俺はちゃんと、今の天城燐音のことも慕わしく思っているということ。失くすのが怖い。今世では何も手放したくない。これは誤魔化しようのない執心だった。元よりこの時代に生まれ落ちた時点から大きな喪失を抱えていたのだ。俺は。俺たちは、運命共同体のはずだろう。あんたも同じ気持ちなんじゃないのか。

「──要は、」
「はい。なんですかおにいちゃん」
 なんでも聞いてください! と、きらきらした目で見つめてくる弟に居心地が悪くなる。隣に座る彼に顔を見られぬよう、すこし低い位置にある肩に頭を凭せかけた。
「大切なひとが傷ついていると知ったら、どうする?」
「大切な……、まさか恋の悩みですか⁉」
 ぼく、おにいちゃんにそういう相手がいるなんて知りませんでした。恋愛相談ですね、どうしよう、ぼくはあまりそういうことには明るくなくて。どんなひとですか? 素敵なひとなのでしょうね、おにいちゃんが好きになるような相手なら。ひと息に捲し立てられて思わず距離を取る。
「急に饒舌になったな……質問に答えないのならこの話は終わりだぞ」
「ああっごめんなさい! つい……」
 そうですね、と要は真剣な顔で考え込み、答えた。
「ぼくなら……傍にいてあげたいと思います」
「……相手が、それを望んでいなかったとしても?」
「望んでいないと、本人が言ったのですか?」
「え?」
 きょとりとまばたきをしてもう一度、彼は問うた。
「だから。そのひとは本当に、おにいちゃんに傍にいてほしくないのでしょうか」
「……」
「一度でも聞いてみましたか?」
「……いや」
「ならまずは聞いてみることです」
 大切なら対話をすべきです。独り善がりに決めつけるのではなくて。俺が諭されているのはごく簡単なことだ。思えば天城を見つけてからの俺はずっと〝独り善がり〟だった。
「怖いのはわかります。ぼくも対話が下手くそで……でも理解し合いたい相手がいるから、頑張ってみます。これから先も一緒にいられるように」
 おにいちゃんは大丈夫です。花が綻ぶような笑顔が広がる。
「家族になった日、おにいちゃんはぼくに言ってくれたでしょう? 〝ずっと探してた、会いたかった〟って。ぼくはあの時きみを信用に足る人物だと判断したから、着いていくことを決めたのです。このひとにぼくの人生を預けてみようって」
「……どうして」
「きみが本心を語ろうとする時は笑わないから」
 ふふ、知らなかったでしょう。きみもまだまだですね、おにいちゃん。要は胸を張ってしたり顔だ。まったくこの弟には敵わない。
「──ぼくはきみのお陰でぼくの人生を愛せたのですよ。おにいちゃん。次はきみの番」
 要の掌が俺の両手を掬い上げ、包んだ。とても、とても、あたたかい手だった。
「すべてが理想通りとはいかなくとも、幸せになることはできます。きっと。必ず。……ねえ、もう自分を許してあげてくれませんか」
 だってぼくたちはもう、じゅうぶん苦しんだでしょう。

 眉尻を下げて笑うこの子はおそらく、俺が思うよりも遥かにたくさんのことをわかっている。……ありがとうな、要。おまえはいつだって俺の、生きる希望なんだ。


 *


 小雪は積もるよりも先に雨へと変わった。灰白の雲がその範囲を広げ、水に浸った廃墟までも底冷えのする愁雨が覆い隠した。

 かつての大帝国の城下をはしる通りの名は『タイムストリート』。繁華街としての面影は、打ち捨てられた建物の骨組みなどからわずかに窺い知ることができる。靴が濡れることも厭わずに、ある種の予感を抱いて通りを歩いた。雨の中に佇む黒いダウンのうしろ姿を見つけるや否や、俺は手にしていた傘を放り出し、駆け出した。
「天城っ!」
 呼ぶ声に反応したそいつは、ゆったりとした動作で振り返った。湿って緋を濃くした前髪が目元に影を落とし、表情は判然としない。構わず追いついて強く腕を掴んだ。
「ッ、どこへ──」
「〝どこへ行こうというのですか〟か? 懐かしいなァそれ」
 こちらへ向けられた顔は拍子抜けするほどいつも通りだった。うるせェな、行かねェよ、今帰ってきたとこだっての俺っちは。言って肩を竦める。
「え、と……行かないのですか……?」
「なんッだその反応はァ? どこも行かねェつってンだろ喜べよ!」
「いえ……なんか思ってたのと違ったので驚いてしまって……」
 姿を見るなり全力で逃亡されるだろうと思ったのに(かといって逃がすつもりなど毛頭なかったのだけれど)。掴んだ腕さえも振り解かれずそのままだから、あてが外れてぽかんとしてしまう。
「もう、会う気はないのかと」
「あ~そのつもりだったけどなァ。追い返されちまった」
 天城がいなくなってからひと月近くが経とうとしていた。二月に吐く息は真っ白で、白い天幕が降らせる氷雨のために風景まで白く塗り潰される。精彩を欠いた世界で、俺たちだけが互いの色を知っていた。

 彼はしばらくのあいだ故郷へ引っ込んでいたのだと語った。
「一彩がな。はやく都会に帰れって、生意気な口ききやがンの」
 毎日住民に混じって雪かきなどに精を出せば、たしかに気は紛れた。政への助言もしてやれたし、〝いてくれて助かる〟との言葉ももらった。しかし天城弟は〝兄さんは変わったね〟と悲しげな顔をしたのだという。
「何かを求めてがむしゃらに勉強したり鍛錬したりする兄さんはかっこよかった、ってさ」
〝以前の僕なら戻ってきてくれて嬉しいと言っただろうね。でも、今の兄さんにそう言うのは間違ってるってわかるよ。僕も馬鹿なりに成長したんだ、今なら多少は兄さんの気持ちを想像できる……あなたはまだ何も、納得なんてしていないんだろう?〟
 弟の話をする天城は遠くの尾根の更に先を眺めていた。雲が途切れ、明るい青が覗きはじめた空を。
「未練たらたらです〜って顔でここにいられてもみんなが扱いに困る、つって叩き出されたンだよ。そうまで言われちゃ留まるわけにいかねェだろ? 慰めてもらいに行ったってのに、あいつ俺っちに厳しすぎっしょ」
「帰ってきてくれてよかったです」
「あン?」
 男の持つ鮮やかな色を、目を逸らさずにただ見つめた。
「帰ってきてくれて、よかった」
 またも俺は何もできぬまま失うのか、と。否、もしかするとこれから本当に失うことになるのかもしれないけれど、話もできずにお別れだなんてことにはならずに済んだ。話した上で〝やっぱりもう会いたくない〟になるのなら、まあ仕方ない。受け入れようじゃないか、それがあんたの結論なら。天城は俺を見て目を瞠り、俯いて、それからゆるゆると目線を上げた。
「……抱きしめてい?」
 数センチ見上げたところにあるしょぼしょぼと情けない面が、これまた情けない声を出した。三秒くらい考えて、どうぞ、と腕を広げる。照れが生まれるよりも早く、きつく抱き寄せられた。
「ぶっ、つめた! ずぶ濡れじゃないですかあなた、いつからここに」
「……また」
 力の入りすぎた彼の指先が上腕のあたりに食い込んで痛い。俺の身体だって、この雨でとうに冷えきってしまっている。触れ合ったところであたたかくはないだろう。
「またここで追いつかれちまったかァ……」
「──」
 言葉が出てこない。天城の漏らした〝また〟がどの過去を指しているのか、すぐさま理解できた。MDMのステージでアイドルに呪詛を吐き、無知で暗愚な大衆の憎悪も怨恨もその背に負って舞台を下りた彼を、らしくもなく息を切らして追いかけた。あの時彼を見つけたのもこの場所だった。
 そうだ、尋ねなければ。そして傷つけたことを謝らなければ。俺はそれだけのために、街じゅう駆けずり回ってこの男を探したのだ。
「あ、なた……本当に、記憶が」
「うん。思い出した、ぜんぶ、覚えてンよ」
「……っ、」
 だからおめェならここで俺っちを見つけてくれるンじゃねェかって思った。腕の中に俺を抱えなおし、マフラーで覆った首元にぼすんと額を埋める。胸が苦しい。
「俺さ、あン時おめェが掛けてくれた言葉に救われた。でも同じくらい縛られもした。俺が別の人生でまで『アイドル』ってもんに囚われてるンだとしたら、はじまりはたぶん、あン時のおめェだ」
 なんて言ったか覚えてるか? つっても俺っちは一ヶ月前に思い出したとこなんだけど。むろん覚えている。誰かの内側に感情を喚起するのがアイドルならば、あなたは確かにアイドルでしたよ──天城憐音。

「アイドルになりたかった。憧れてた。俺が肯定され愛されるにはこれしかねェって信じてたし、諦められなかった。散々カッコつけたくせに未練がましくてダセェ、女々しい男だよ。そんな俺を『アイドル』って呼んでくれたのはあの瞬間、世界におまえひとりだった。そンならさ、なァ、よすがにしたっていいだろ。ちょっとくらい」

 消え入りそうな語尾に心が痛んだ。同時に後ろめたさとともに腹の奥に沁み出したのは、じっとりと湿った仄暗い悦びだった。どうかしている。だけど今のではっきりした。彼を縛ったのは俺、俺の言葉に縋ったのは彼、だから天城燐音は不幸にも、偏執を手放せない。だがそれだけだろうか?
「……縛られたのはあなただけだと思いますか?」
 あの日の一連のやりとりの中で天城はHiMERUに──HiMERUの役を演じていた『俺』に、別れしなにほんのすこしの本音を晒した。HiMERU、そう名乗ってる誰かさん、最後に話せて嬉しかったぜェ♪ 立派なアイドルになってくれよ、願わくは、おまえは『おまえ』として。
 きっと奴にとっては戯れのような会話。もしくはあいつのことだから、すべて計算通りだったのかも。ともかくそのひと言が、幽霊みたいに日々を過ごしていた誰でもない『俺』に特大の揺さぶりをかけたのだ。滑稽なことに俺たちは互いに呪いをかけ合っていた。意図していようとしていまいと、輪廻転生を経た次の生すらも『アイドル』に搦め取られてしまうほどの、至極強力なまじないを。
 抱きしめられていた状態からわずかに身体を離す。未だ俯き加減の表情をよく見ようと、彼の頬骨のあたりに手を添えた。髪の先から水が滴り、掌を伝って袖を濡らす。
 あんたに火をつけられたばっかりに、俺は俺の目的を一度は断念し、代わりに『Crazy:B』の一員としてアイドルにしがみつくことを選んだ。舗装されていない荒れた道を、急カーブや分かれ道にぶつかるたびに四人でぎゃあぎゃあ喚きながら、歌って踊って愉快に馬鹿馬鹿しく、『はぐれ者』の俺たちらしく歩んできた。面白いことをしようぜ。面白きことのないこの世界で。
「俺はあなたに思い出してほしかった。前世の記憶を持つ俺たちは今世でもやっぱりはぐれ者で、故にか誰といてもどこか孤独で、空虚で。何かが欠落していて。そんな俺たちは『Crazy:B』でいるあいだだけは満たされていられるのですよ、特に過去に強く引っ張られている俺とあなたは。だから思い出して、あるべき場所に収まるのが最良と考えました。たとえ時代が移ろった結果喪われたものの大きさに絶望することになろうとも」
「……けど俺は忘れたままだったンだぜ、ずっと」
「それがなんです?」
「何もかも注いだのに忘れちまってた。あんなに一生懸命愛したもんを、忘れていられた。俺はそれが許せねェんだよ。ショックでショックで、故郷に逃げ帰る程度には凹んだし自分自身に失望してる。今更思い出しても俺のなりたかったアイドルはもういねェ、この世界のどこにも」
「──天城」
「だってそうだろ? アイドルは忘れ去られたら死ぬンだ、俺たちみんな死んじまった、ぜんぶ終わった! もう──」
「天城!」
 咄嗟に両手で顔を挟んで正面を向かせた。ようやく視線がぶつかると、互いの脈動が溶けてひとつになる気がする。暫時乱れた呼吸が落ち着いてくる。綺麗な碧眼は心なしか潤んで見えた。いや、雨のせいかもしれない。……悲しませたことは謝ります。でも嘆く前にひとつだけ。あなたに聞かせてほしいことがあるのです。静かな口調で続けた。
「──HiMERUは、どんなアイドルでしたか」
「……。完璧だったよ」
 懐かしむみたいに瞼を閉じる。
「理想のアイドルだった。あんなふうになりたかった。見たら誰もがそう感じたはずだ。隙のねェ身のこなしに長い手足、凛とした美人さんだけど意外と表情豊かでさ。笑うとかわいーの。ステージのどこにいても目を引く華がある、どのポジションよりもセンターが似合う。歌もダンスも演技も万能にやれンのは、途方もねェ研鑚の賜物だって今となりゃわかる。ンなもん一ミリだって悟らせやしなかったけどな。天晴れだよ本当」
「あとは?」
「あとは⁉ あとそうだなァ、端正なだけじゃねェ個性があるからバラエティにも強ェよな。ずっと浸ってたいような甘くて色っぽい声が魅力的で……まだやンのこれ?」
 どういう拷問? だんだん恥ずかしくなってきたっしょ……。逃げられぬよう両肩をがっしりと捕まえている俺のまなざしを避けるように、天城の目線が斜め下の方へ滑っていった。俺は笑ってしまった。これだけ大した褒めっぷりを披露しておいて今更照れるのか。
「──天城は」
「ンだよ!」
「HiMERUのことが好きすぎませんか」
 些か異常なのですよ。真顔で瞳を覗き込むや、るっせェ~! と怒号が返った。可愛いですね、天城。ハイハイ俺っちは可愛いです!
「昔っからおめェのことをメンバー以外の他人が語るのがどーーーも気に食わなくってなァ。てめェにメルメルの何がわかンだよ、つってヤキモチ妬いてビッグマウントとるくらいには可愛いぜ、俺っちは」
「ふふ。ほら、よく覚えているじゃないですか」
 濡れた目尻を指の背で撫ぜる。赤い睫毛が瞬いた拍子にいくつかの雫を生んだ。
「──俺もです。俺も、アイドルだった天城燐音のことをよく覚えています」
 かつてのアイドルは死に絶えたと思いましたか? もういないと断ずることで己が殺してしまったとでも? けれどこんなにも、アイドルはあなたの中に生きているじゃないですか。ああ、と天城のくちびるが動いた。
「アイドルは、ひとは二度死ぬ。一度めは肉体が滅んだ時。二度めは誰からも忘れ去られた時。あなたの言った通りです」
「……あァ」
「けれど。誰かの記憶に残っていられれば、どれだけ時代が移ろったとしても生きていられる。俺たちはそんなアイドルになろうとしたはずでしょう? この世で呼吸すら満足にできないろくでなしたちにとっての、ひかりに」
 事実、HiMERUはあのラストライブで引退した。しかし死んだつもりなどさらさらなく、今世、果たして天城燐音の中で偶像は生きていた。視界を覆う雨雲を取り払ってみれば『ほんもののアイドル』は絶えず瞬いていたのだ、真昼の空にひっそりと息づく星々のように。

 なあ天城、あんたはいつか俺に言ったよな。〝どれだけ強く望んでも、人間は過去には戻れねェ。だから未来を見るンだよ〟──その言葉、そっくりそのままあんたに返すよ。

「俺がいます」
「……おまえ、が?」
「ええ。HiMERUがいます。あなたの傍に。去れと言われてもいます。欠けているなら俺が埋めます。今度は離れない、離れてなどやらない」
 肩を掴む手に力が籠る。変に自己肯定感の低いところのあるこの男は、傍にいてほしいだなんて決して口にできないと知っているから。だから俺が伝える。〝独り善がり〟に決めつけて。なあ、思い出したならわかっているだろう? あんたの背中を預かったのは、俺だ。ざまあみろ。
「たしかに俺たちは今生でアイドルになることはできません。ですが絶望するにはまだ、早いと思いませんか?」
 できることを探しましょうよ。今の俺たちだからこそ、できること。あなた、そういう起死回生の一手みたいなの、得意でしょう。

「──もう一度問います。天城は、生まれ変わってもアイドルになりたいと、思いますか」

 深い夜、病院からの帰り道、タクシーの車中。このままどこかへ、ふたりで。あの時返事が聞けたのかどうかは、どういうわけかいつも回想が途切れてしまうせいでわからずじまい。答え合わせのつもりで問い掛けた。
 わずかに目を見開いた天城は眉宇を上げて挑発的に笑い、それから、まさしくあの夜と一字一句違わぬ台詞を口にしたのだ。
「思わねェよ。生まれ変わった俺がどんな人生を選んだって構わねェ。俺はこの一生でぜんぶやってやる。アイドルとしてやれることぜんぶ、悔いなく、振り返らず、〝ああやりきった、思い残すことなんてひとつもねェや〟って笑って死ねる一生にしてやる。だからやり直したいとは思わねェな、『アイドル・天城燐音』はたった一度、ドカンとでっけェ花火ブチ上げて誰かの記憶に焼きついて終わるンだよ。かっけェっしょ?」

 ──ああ、この笑いかた。俺の愛した偶像が、いつでも触れられる場所にいる。
「……おかえり」
 やっと、会えた。長らく灰いろだった記憶の中の天城燐音が、ド派手な色彩とひかりと熱とを纏った。このまま焼かれてしまってもいいとすら思える、うつくしい炎。
「ん、ただいま。待たせた」
 強い意思を宿した瞳がやわらかく細められる。延々と降り続いた雨は弱まりつつあった。雲間から幾すじも差した淡いひかりが、赤い髪を炎の色に染めていく。まるで彼のためのスポットライトが降ってきたようだ。わけもなく鼻の奥がツンと痛んだが、悪態をつくことで誤魔化した。
「俺を待たせるとは、相変わらずいい根性してますね。天城」
「おめェこそ。相変わらず尊大で理不尽で友達少なそうじゃねェか、メルメル?」
 言いすぎだ。革靴の踵でスニーカーをぎゅうと踏みつけると「イデデ!」と本気の悲鳴が上がった。俺っちにだけ暴力的なの直せよなァ! 先に言葉の暴力を仕掛けてきたのはそちらなのですけれど? そんな軽口の応酬が嬉しくて、幸せだった。
「……ありがとな、メルメル」
「礼を言うくらいなら何か寄越してくださいよ」
「うへェ、がめついとこも健在か」
 何が欲しい? 雨上がりの廃墟を軽やかに横切りつつ尋ねる天城。俺はすきっとした冬日和の空を見やってから、能天気な面したそいつの首に不意打ちで齧りつき、くちびるを奪った。

「──キスを。あなたにズブズブに惚れたくなるような凄いやつを、ください」

 ねえ、今すぐ。誘惑するつもりで見上げれば、明らかにぐっときていそうな、なんとも言えない表情が待っていた。
「……てめェ帰ったら覚えてろよ」
 小悪党の捨て台詞みたいな物言いにくすくすと笑い、口づけを受け入れながら抱き着く腕の力を強めた。もう俺たちに言い訳は要らない。本当の気持ちを仕舞っておく必要は、ない。俺は過去も現在も、おそらく未来も、天城燐音という人間に魅入られる運命なのだ。

「今世では前よりももっと、好きにさせてくださいね?」
「エッ」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった天城に笑みを向け、さっさと踵を返す。奴はまだしばらく動かないだろう。今頃さっきの言葉の意味を必死に考えているから。
「さ、帰りましょうか」
 それで、帰ったらゾンビ映画でも観て、でろっでろにエロいセックス、しましょうか。いつかと同じ台詞を聞こえよがしに投げてやった。……言われなくてもめちゃくちゃ抱くっつの。頼もしすぎる答えに、俺はいよいよ吹き出してしまった。


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