あの日灰になったあなた(燐ひめ転生パロ)



 もし、運命とかいうものに貌があったなら。
 それはきっと糸なんていう心許ないものじゃなく、もっと色鮮やかで烈しくて、どの瞬間も目を奪ってやまない、嘘みたいに綺麗な男の姿をしているに違いない。

 そう思わされたあの日、俺の胸の奥の奥の方に、ちいさな火がともった。覚えのある熱。けれど他人の思い出のように遠く、昨日みた夢のように不確かで、宗教画のように不可侵な、決して触れることのできない炎。うつくしい、炎だ。

 話をしよう。
 俺という何者でもない男が、運命と因果に足を取られ、一度は自己の輪郭を失い、惑い、ついには運命の手を取ることを決めるまでの話を。
 自分語りは面映ゆくて、あまり得意じゃねェもんでね。お聞き苦しいところもあるだろうが、何卒ご容赦を。茶飲み話にでもなりゃこれ幸い、ってな。

 そんじゃ、始めようか。





【春の章 緑雨】



『Rいわく』





 百年前の人びとが想像していた百年先の未来は、どんなだったろう。
 人類史における百年なんて地球の歴史に比べりゃ誤差みたいなもんだ。たった百年──でっけェ戦争でも起きりゃ話は別だが、幸い俺の生まれ育った極東の島国はここずっと平和だ──そう劇的に生活が変わるわけじゃない。車は空を飛ばないし、タイムトラベルができる乗り物なんかは依然絵空事だし、ネコ型ロボットもいない。
 ……夢のないことを言うなって? きゃははっそうだよなァ、悪ィ悪ィ。でも生憎だけどこれが現実、これが、俺の生きている『今』なのだ。



 作家の朝は別段早くはない。

 スケジュールを読み込ませておけば『フルオートお手伝いさんベッド』が丁度いい時間に起こしてくれるし、なんなら俺が眠ったままでも、洗顔に歯磨き、着替えまでちゃっちゃと済ましてくれる。ベッドマットの下からうようよと伸びて歯ブラシやらタオルやらを差し出してくるアームにははじめビビったもんだが、今ではこいつがいないと起きられない。ただし、歯磨き粉と洗顔フォームのセット場所を間違えた時はえらい目に遭った。『お手伝いさん』ならそのくらいてめェで区別してくれねェもんかとも思うけど、中古屋で引き取ってきたうちのはなんつうか、ひと昔前のポンコツらしい(そこに妙な愛着が湧いちまって、もうかれこれ五年は使ってる)。
 そもそもの話。仕事さえなければ俺は、いつまででも惰眠を貪っていたいのだ。自堕落結構。そのための文明っしょ。

 時は2×××年──生身のアイドルが『絶滅』してから、数十年もの時が過ぎた頃。俺、天城燐音は不肖ながら、小説家として生計を立てている。



「ん〜んん、今日も湿っぽいお天気だねェ」

 両腕を突っ張って伸びをひとつ。はめ殺しの窓から見える景色は、ここずっと雨。俺は外を眺めようと、腹をぽりぽり掻きつつそちらへ近寄った。
 薄さと透明度を極めた大きなガラス窓は、外側が膨らむ形で流線型を描いている。晴れていればそこにガラスがあることも忘れるくらいに開放的なのだが、今は伝い落ちる雫が次から次へとストライプ柄を描く。水を溜め込んだ雲はどんよりと重たそうな鉛いろで、落ちてきやしないかと不安になる。ため息が出た。

 いつから窓越しの青空を見ていないだろう。
 俺の世界が雨雲に覆われてしまってから随分経つ。局地的に降り続く雨。不思議なもんで、俺ンちから二キロも離れれば雲は途切れ、からりと晴れた初夏の空が広がるのだ。
 こんなもん、異常気象以外の何物でもない。本当に、俺の世界だけが、常識から見離されてしまったかのようにずっと、透ける帳の中にいる。

 ぺたぺたと音を立てて吹き抜けの階段を下りていく。リビングのソファに身体を預けリモコンを天井に翳すと、コンパクトに畳まれていたディスプレイが空中で展開した。今日の天気は快晴、降水確率は0パーセント。画面から飛び出し部屋に降り立ったホログラムの気象予報士が懸命に口を動かしているが、朝のTVは無音と決めているから話は聞いてやれない。悪く思わねェでくれよな、おね~さん。
 さて、飯にしよう。タブレット端末を操作し、摂取したい栄養素とカロリー、それとメインとなる食材を選んでいく。数秒待てば蓋つきのカップにスムージーが注がれて手元に運ばれてくる。大して美味くはないが、日々の食事に楽しみを見出すたちではないからこれでじゅうぶん。今や料理なんてのは一部の舌の肥えた連中の道楽だ。気が向いた時にでも、昔馴染みの店に足を運べばいい。



 黒のTシャツにジーンズにスニーカーというラフな格好で自宅マンションを出た。
 本来なら今は新緑が眩しい時季であるが、せっかくの若葉青葉も灰色の雨模様の中に沈む。そういや明日は俺の誕生日だな、とどうでもいいことを思い出す。長いこと梅雨みたいな天気だからすっかり忘れてた。
 マンションのエントランスからすぐのゲートをくぐり、蜘蛛の巣さながらに街じゅうを這い回るリニアに乗り込む。平日とはいえ既に昼前だからか、オフィス街へと向かう車中はのんびりとしたもんだった。
 目的地へ着くまでライフワークとなっているパチスロの新台情報でも集めることにして、スマホの画面に視線を落とす。丁度その時、車内の電子広告が切り替わった。明るいテクノポップに合わせて、カラフルな光の玉が視界を飾り立て始める。VRのおね〜さんたちがそこらに現れて乗客の目の前でパフォーマンスを繰り広げる、もう一度言う。これは電子広告だ。なんだっけ、ホシプロの新ユニットだよなァ、たしか。
 この過剰とも思える演出はMV監督を務める熊澤先生の十八番だ。以前著作の実写映画化の打診を受けたことがあるが、断った。名誉なことなんだろうけど、俺にとってはあまりいい思い出じゃない。

 街を歩いていても、リニアに乗っても、TVをつけても。日常のどんなコマにも空気のように存在する、『アイドル』。俺が生まれた頃にはとうに、生身の人間の生業ではなくなっていた。
 アイドルってのはファンの期待に応えて彩り豊かな夢だけを与え続ける職業だ。心ある人間は、下世話なゴシップやパパラッチや、スキャンダルに端を発する掌返しに耐え続けられるほど頑丈にはできちゃいない。
 そんでファンってのは、概して身勝手なもんだ。一方的に崇めて飽きたら捨てて、依存先を乗り換えて、期待外れなら容赦なく叩く。潔癖だから、てめェの『神さま』の未熟な部分に失望しては被害者ぶる。そんなろくでもねェ自称『ファン』どもを黙らせるために、人間は『アイドル』を降りた。綻びひとつなく完璧な『アイドルAI時代』の到来だ。
 日本人の大多数は『アイドルAI』を歓迎し、受け入れた。決して自分を裏切らず、汚れず、ましてや歳など取らない、生涯綺麗なままの偶像。なんて都合のいい。ガキの頃の俺は、そんな怠惰が席巻する芸能界に、子どもながらに落胆したものだった。

 なぜか。
 俺は物心ついた時分から、アイドルというものに強く惹かれていた。だからこそ『アイドルAI』が誕生するに至った背景を知るにつれ、憤懣やるかたない思いをしたのである。



 十七の頃。辺境の田舎でしたためた鬱屈を引っ提げて単身都会に出てきた俺は、紆余曲折を経てある編集部の連中と出会い、プロの小説家としてデビューすることになった。題材は勿論『アイドル』。博打だったけれど、幸いにもデビュー作『鏡の偶像』は著名な賞をいくつも獲得し、ベストセラーとなった。
 以来〝『偶像シリーズ』の天城燐音先生〟として文壇で確固たる地位を獲得した俺は、次回作を切望される人気作家連中の仲間入りを果たすこととなる。が、しかし。

「打ち切りィ?」
「はい。誠に遺憾ではありますが、このまま連載を続けていただいても我々の利にはならないと判断致しました。……と、いうわけで! ここはご寛恕願えませんか、天城先生?」

 俺が唯一連載を持っている文芸誌の編集部オフィスに呼ばれたから何かと思えば、告げられたのは死刑判決だった。天城先生の次回作にご期待ください! 敬礼〜☆ 副編集長が無駄にデカい声でお決まりの口上を述べる。それ言われてどんな顔すりゃいいンだよ俺はよ。
「ちょ……っと待ってくれよ。いやわかってンよ? 実際、あんたらが期待してたほどの反響はねェってことくらい。けどしばらく好きに書いていいって言ったのはおたくの編集長だぜ? 〝『偶像』の続きが書けるようになるまでうちで面倒見るから〟って、なァ言ったよなァ? 編集長? 編集長ォ〜!」
 御簾みたいなデザインの電子パーテーションを荒々しく押し退け、編集長室に突進する俺。そこには数少ない俺の味方がいるはずなのだ。頼む、この血も涙もねェ理不尽クソ眼鏡の蛇ちゃんになんとか言ってやってくれ。
「おォいナギ……ッあァ⁉」
 飛び込んだ先の編集長デスクには、頼みの綱である彼の姿はなかった。勢いを失いくずおれた俺は床に膝を、半円形のデスクに額をぶつけた。あとを着いてきた副編集長が軽く肩を竦める。
「閣下ならいませんよ」
「チクショ〜俺っちが大ピンチだってのにどこ行きやがったあいつ!」
「自分が聞きたいですよ。どうせどこぞへ発掘にでも行ったんでしょうけど」
 すっきり整頓されたデスクの上には、端正な筆跡で〝探さないでください 凪砂〟と綴られた和紙の一筆箋が残されていた(今時好んで紙を収集する奴なんてこいつくらいしか知らない)。眼鏡を外して眉間を揉む蛇ちゃんの苦労が偲ばれる。
「まったく。今度はどこのブラジルに行ってしまわれたのやら……」
 仏頂面で眼鏡をかけ直し、副編集長はオフィスへと踵を返そうとした。その時、まるで図ったかのように。
「……茨。私はここ」
 巨大な書棚が音もなくふたつに割れ、その間から男が現れたのだ。これには俺も副編集長もぶったまげて固まった。出てきた男はすたすたと部屋を横切り、何事もなかったかのように編集長デスクについた。書棚もまた音もなく閉まった。おいおい。
「ッ閣下! 今までどちらに⁉」
「……隠し部屋。知らなかった?」
「知りませっ……というかオフィスを! また勝手に改造しましたね⁉」
「……大丈夫。建築基準法は遵守してる」
「そういう問題じゃないっつってんでしょ!」
 副編集長の口からは立て板に水にお小言が飛び出してくる。こいつは長くなりそうだ。俺は全力で気配を消し、そっと編集長室を出た。

「お。燐音はん」
「こはくちゃんじゃん。ちゃ〜す」
 力なく右手を上げた俺に、担当編集のこはくちゃんは表情を曇らせた。彼は外から帰ってきたばかりらしく、脱いだスプリングコートを出迎えた『庶務ロボット』に預けているところだった。
「聞いたんやろ? 打ち切りの話」
「おう……これで四本連続だぜェ? 信じられるか?」
 めそめそと泣き真似をしてみせる。と、こはくちゃんは仁王立ちのまま「すまん!」と頭を下げた。おうおう、武士か何かか。腹でも切りそうな勢いじゃねェか。
「すまん。担当のわしの力不足じゃ。……まさかこないに、」
「……こんなにも、鳴かず飛ばずだとは思わなかったんだよね」
 言い淀んだ言葉尻を引き継いだのは、パーテーションの向こうからやってきた編集長だった。まるで空振りなんだ。君にアイドルの関わらない話を書かせると。いつもの無表情で身も蓋もねェことを言いやがる。だが事実だ。
「……仰せの通りで。恋愛小説にミステリにエッセイ、ドラマの脚本もやらせてもらったけど、どれもしっくりこねェ。読者に見限られるとっくの昔に俺っちが飽きちまってンの。わかってンだろ、ナギ」
 だろうね、と編集長が頷いた。
「……燐音くんの創作の原動力は『渇望』だ。私はそう感じる。君が渇くほどに書きたいと思える題材でなければ、君の……開けっぴろげで大胆で、ひとの心の奥をこじ開けて覗くみたいに無遠慮で攻撃的な、けれど濁流の中からちいさなちいさな宝物を拾い上げる作業のように繊細な、あの筆致は……きっと生まれない」
「その題材というのが天城氏にとっては『アイドル』だと、閣下はそう仰りたいわけですな」
「……うん」
 だから、〝続きが書けるようになるまでうちで面倒見る〟って言ったでしょう。編集長はこはくちゃんの肩に手を置いた。作家を守るのも、編集者の仕事だよ。
「……拾ってあげた恩はもうじゅうぶん返してもらったから、大丈夫。ただ私も、『偶像シリーズ』のファンのひとりだからね。しばらく休んで、またあの物語の行方を聞かせてくれたら、嬉しいな」
 そんなふうに優しく微笑まれてしまえば、俺は承服するしかないのだった。


 *


「っつ〜かんじに! 無理矢理休みを掴まされちまったってわけ! オシマイ! ちゃんちゃん!」
 ドン! とジョッキをカウンターに叩きつけると、昔馴染みのニキが思いっきり顔を顰めた。ここは奴が店主を務めるカフェ兼レストラン、俺の行きつけだ。
 まだ半分ほど中身が残っているジョッキを、俺の手から取り上げようとするニキ。まあまあ、とこはくちゃんが隣の席から手を伸ばした。
「ごめんなあニキはん、今日だけは堪忍したってくれへん? 燐音はんが荒れとるんは半分わしのせいみたいなもんやし……」
「うぐ……」
 五秒ほど歯軋りしてから、こはくちゃんがそう言うなら、と身を引く。俺もニキも、この歳下の青年の『お願い』にはすこぶる弱い。
 俺は上半身を折り曲げて木製のカウンターに懐いた。そういやヴィンテージのマホガニー材が手に入ってうんたらかんたら〜って、店をオープンする際、あいつが自慢げに話していたっけ。本物の木材なんてもうほとんどお目にかかれない時代に、食と、食を提供する空間に対してだけは異様な執着を見せる男が、バイトで貯めた金を突っ込んで設えたカウンター。ニキとはもう十年の付き合いになるけれど、俺にはあまり理解できないこだわりである。



 都会に出てきたばかりの十七の頃、この飽食の世にまさかの行き倒れを経験した俺は、通りすがりの少年・椎名ニキに拾われた。
 俺の故郷は文明から取り残された山深い場所にあって、未だ時代錯誤な生活と文化が根付いている。出るところに出れば因習村だとか揶揄されそうなかんじだ。辛うじてネット環境が整備されてるのは、百年以上前のとある『君主さま』が気を利かせてくれたお陰だという。
 とまァそんなわけで、都会で飯にありつくなんて、当時の俺には土台無理な話だったのだ。路地裏で野垂れ死にかけていた俺を見つけて手料理を振る舞ってくれたニキは、大袈裟でもなんでもない、文字通りの命の恩人。だからすこしでも力になれればと、持て余し気味の知名度と「ほんっと燐音くんは顔だけっすね」と絶賛された抜群の容姿とを振り翳し、気紛れに広報活動を行うこともある。

 次に俺が拾われることになったのは、先の『月刊宇宙』編集部だった。俺の持ち込んだ原稿が先代編集長の目に留まり、大手出版社である『コズミック社』の発行する有名文芸誌に載ったのである。
 今日び、ペーパーレスどころかノーペーパーだ。俺はそんな時勢に逆行するように、原稿用紙に鉛筆で書き殴った紙束をずどんと突きつけ、〝あんたが面白いって言うまで帰らない〟と嘯く世間知らずのクソガキだった。話が面白いかはともかく、面白いガキだとは思ってもらえたのだろう。追い返すでもなく、仕事相手として相応しいかどうかだけをきっちり見定めてくれた先代には感謝している。
 現編集長の乱凪砂はビジネスへの関心はまるでなく、〝本をつくるのは趣味〟と豪語する風変わりな男だ。編集部の舵取りは実質、やり手の副編集長・七種茨が担っていると言っていい。俺の担当編集・桜河こはくとはここ六年くらいの付き合いだ。揶揄いがいのある可愛い奴だけど、ツッコミには一ミリも容赦がない。

 ──何、〝アイドルはAIになったのに本は残ったのか〟って? いい質問だ。
 事実、一時は『読み物』も絶滅の危機に瀕したらしいぜ。わざわざ文字を追わなくても音声や映像から情報は得られる。確かにそうだ。けど文字を読まなくなって、人間の知能は著しく下がった。道路標識の『止まれ』すら読めねェ子どもが激増したンだとよ。つまり読み物は人間に必要だったってわけっしょ。
 あァでも、印刷物の類はお役所の書類を除いてほぼ見なくなっちまったな。本は初版をコレクターズアイテムとして少部数、特別に刷ることがあるくらいだ。社会人必携アイテムの名刺ですら電子化して、最近はカードの形したデータを飛ばすだけ。ビジネスマナーも何もあったもんじゃねェ。紙も料理同様、物好きの道楽になっちまった。

 ま、それは置いといてだ。俺は都会に来てから今日まで、十年近くも処女作のまぐれ当たりに寄り掛かって暮らしてきた。『月刊宇宙』で新たな連載を持てば、俺の名前を知ってる連中はとりあえず一旦は読んでくれる。恋愛小説、ミステリ、エッセイ、などなど。さりとて見切りをつけるのも早かった。彼らの望んでいるのは『天城燐音先生の新作』ではないのだと知った。
 『偶像シリーズ』は爆発的な流行が落ち着いてからも細々と売れ続け、当面は印税で暮らすことができないでもない。とはいえそれも時間の問題だ。書けないままでは俺はいずれ貯金を食い潰すことになる。そして近い将来、作家の肩書すら引っぺがされる事態に陥るかもしれない。デビュー作がヒットした若手にはよくあることらしいが、それじゃあまりにも、あまりにも情けねェじゃねェか。故郷の弟に大言壮語を吐いて飛び出してきたンだ、おめおめと帰るだなんて恥晒しは御免だぜ兄ちゃんは。

「要は仕事がまったくないのが初めてで落ち着かないってことっすよね?」

 そしたらうちでバイトでもしてくれませんかね。ニキが魚を三枚におろしながらぼやいた。透き通る身の色は真鯛だろうか。美味そう。
「俺っち料理はちょっと……」
「燐音くんをキッチンになんか立たせるわけないでしょ、怖すぎっす。そこにちょっとかっこいい顔して座ってりゃ、あんたのファンの子たちは来てくれるっすよ」
「客寄せパンダになれってことォ?」
 何がおかしいのか、こはくちゃんが吹き出した。笑い声に混じって、燐音はんがパンダて! って聞こえる。
「ぬし、そない可愛いもんとちゃうやろ」
「はァ? いやいや、燐音くんは可愛いっしょ。パンダも形無し」
「もっとやらしい顔しとるて。なんやったっけあの……チベットスナギツネ」
「なはっ! 似てる~!」
「てめェらそれ悪口だかンな⁉」
 ゲラゲラ笑ったり心底呆れたりしている間に時は過ぎ、客は俺らだけになった。日付が変わったタイミングでこはくちゃんがハッピーバースデーを歌い出し、ニキが厨房の奥から『ニキくん特製バースデーケーキ』とシャンパンを運んできて、ささやかな祝宴を開いてもらう。つやつやのオペラに刺さった小型パネルに〝りんねくんおめでとう 金返せ〟と表示されたのには笑った。ひと頻り笑ったあと、ニキにヘッドロックをかましておいた。しばし仕事のことを忘れることができた、いい夜だった。


 *


 結局したたかに酔っ払って最終リニアを逃した俺は、こはくちゃんに促されなんとかタクシーに乗り込んだ。自宅マンションを通り過ぎたことには当然気づかず、約二キロの距離を歩いて帰る羽目になる。言い忘れていた。夜だけはこのへん一帯も普通に晴れたりする。毎朝日の出とともに雨雲に覆われるという、なんともおかしな気候である。
 さて、今宵は月夜だ。タクシーを乗り過ごしたのは不運だったけれど、月明かりの降る道をのんびり、酔い覚ましがてら散歩と洒落込むのも悪くない。なんせ俺はバースデーボーイ。今日はこれから運が向いてくるはずなのだ。
「ふっふふんふんふんふーん♪ ハッピバースデーイディア」
 歩調を緩めず、歌のBPMも一定。おまけにスキップしてやったっていい。調子よく歩き、マンションまで百メートルくらいのところまで来た。粗大ゴミ置き場のある角を左に曲がればエントランスだ。
「りん──」
 俺は角を曲がりかけて足を止めた。……見間違いか? 今。そこに。ゴミ置き場に。
 人間が。
 おそるおそる振り返る。

「うおおおおッ⁉」

 深夜だというのに辺り憚らず大声を上げ、俺は飛び上がった。ほんとにいやがる。いや、俺は今〝見間違いだったってことを確認するために〟振り返ったンだが?
 廃棄された旧型のTVモニターや自転車等が折り重なったその上に倒れている、おそらく男の姿。何も見なかったことにして通過すりゃいいっつうのに、残念なことに俺という人間は骨の髄まで作家であった。興味を引かれたものは自分の目で見て触って確かめてみないことには気が済まない。 
「し、死体……だったりして」
 そうだったとして別に怖くはねェが、何らかの嫌疑をかけられても困る。まずはスニーカーのつま先で、投げ出された脚につんつんと触れてみた。
「っ、う……」
「! 生きてンじゃねェかよ……!」
 わずかに身じろいだのを見て取り、急いでしゃがみ込んだ。人間、いやロボットかもしれない。最近のやつは精巧に造られていればそれとわからない。ホログラムではない。面倒事に巻き込まれている予感はビンビンだ。人間なら救急と警察、ロボットなら保健所と警察。どっちだ、と早鐘を打つ心臓を宥めつつ、彼のくちびるに耳を寄せる。
 呼吸……が、ある。間違いなく生きた人間だ。
 そこからは迷わなかった。男の腕を引いて抱き起こし、広い歩道へと横たえる。この時彼の身体が随分と軽いことを知った。
「おいあんた、大丈夫か。今救急車呼んでやる。もうちょい我慢できるか」
 そう声を掛け、ジーンズのポケットを探ってスマートフォンを取り出した。待ってくださいと、その手を押さえられる。他でもない、倒れていた男の手によって。
「待って。病院は結構」
「あァ? あんた何言って、」
「大丈夫ですから。なんともないのですよ。ちょっと寝ていただけで」
「いやいや無理があるっしょいくらなんでも」
 だって道端で倒れてたンだぜ? 行き倒れの先輩(?)である俺にはわかる。拾ったのがニキじゃねェなら、さっさと病院に行って点滴打ってもらうが吉だってな。
 けれど俺の心配を振り切り、男はこちらを見もせずに立ち上がった。
「うるさいな。俺は大丈夫だ、ほら見ろこの通り。では失礼する」
 すぐさま背を向け、思いのほか危なげない足取りで歩き出してしまう。なんつう態度だよあの野郎、本当に大丈夫そうじゃねェか。
 俺はなんとなくその場に留まって、去っていくうしろ姿を見届けようとした。と、数歩進んだそいつがふと足を止めたのである。胡乱に思い様子を窺っていると。
「ゲェ〜〜〜〜〜」
「オワーーーーーー‼」
 なんの前触れもなくゲロ吐いてふらついた男に駆け寄り肩を支えた時、俺の鼻を突いたのは酸っぱい胃液のにおいよりもはるかに強烈な、アルコールのそれだった。おいおい、ただの酔っ払いなら端っからそう言えってンだよ。



 ◆



『Hの失態』





 二十有余年の人生で、これほどまでに己の性質を悔いたことがあっただろうか。

 まず、俺は酒に強い方ではない。しかれども酩酊が表出しないたちである。顔色を変えずに酒を嗜んでいるから、飲める奴なのだろうと勘違いされる。傍迷惑なことだ。
 俺だって飲んだら飲んだだけ酔っ払う。人並みに。けれど家の外では常に人並み以上に気を張っているから、顔に出さないし、まっすぐ歩く。そうして恥をかかずに宴会を乗り切る。その繰り返し。だから血中アルコール濃度が危険な数値にまでなっていたとしても、自分で気づいて対処するのは難しいのだと、たった今思い知った。

「すみませんでした……」

 いいってことよ、と顔の前で片手を振る男。リビングの一角を占める作業机に備え付けのゲーミングチェアへ凭れ、小首を傾げた。
「すっきりしたっしょ? あんたさえ良けりゃシャワーも貸すぜェ。どうする?」
 まさに目覚めたての俺は、むう、と顎に手を当てた。

 すっきりしたのはゲロを吐いたから。見知らぬ部屋のソファに寝かされていたのは、吐いてそのままぶっ倒れた俺を、彼が自宅へ運んで介抱してくれたから。服を着替えさせられているのは、着ていたスーツがゲロまみれになったから。考えるまでもない。

 いっぺんに状況を整理し終え、俺はもう一度謝罪を口にした。
「いーって。初対面でこんなこと言うのもなんだけど、おに〜さんたぶん、そんなしおらしいタイプじゃねェだろ」
 どォ? 当たり? いくらか歳上に見えるその男は、口を開けて笑うと存外あどけない。昔むかしに飲み込んだきりの尖った何かが、身体の内側から心臓のあたりをちくりと刺すような感覚に、貸されているジャージの胸元をぎゅっと握った。
「──そうですね。では図々しくもシャワーをお借りします」
「ぎゃはは、ドーゾ」
 風呂場はそっち、タオルは出してある。シャンプーとか気に入らねェかもだけど文句言うな。ンじゃ、ごゆっくり。てきぱきと淀みなく指示を出すと、男は椅子をくるりと回し、デスクにみっつ並んだ湾曲モニターと向き合ってしまった。
「あ〜あ。誕生日にとんだ拾いもんだぜ、ったくよォ」
 背中でそんなぼやきを聞いた。──そうか、今日は五月十八日だったか。

 使用者の体温を検知して適温のミストを降らせてくれるバスルーム、その天井を仰ぎ、どっと息を吐く。長く長く吐き出す息とともに身体の力も抜け、ついには床にへたり込んでしまった。
 ああ、やっと……会えた。
 アルコールは抜けたはずなのに。まだふわふわと酔っているかのような頭の中を占めるのは、そればかりだった。

 どういうわけか。
 俺には所謂『前世の記憶』というものがあった。『Crazy:B』というユニットで『HiMERU』というアイドルとしてすべてを欺き生きて、死ぬまでの記憶が。
 他人に話せば異常者と罵られただろう。実際嘘みたいな話である。けれど子どもながらに自らの状態の特異さを知っていた俺は、そのことを誰にも話さなかった。当時から異様に達観した子どもだったから、同世代の連中は付き合いづらかったに違いない。学校では遠巻きにされ、肉親からも〝気味の悪い子だ〟と言われ見放された。かといってひとから好かれたいとは思わなかった。俺はいつも独りだった。

 『HiMERU』が表舞台に立っていたのがどれほど前のことなのか、正確に知る術はなかった。『アイドルAI』が台頭してからというもの、人間がアイドルだった頃の話はまったくと言っていいほど語られなくなったからだ。まるでタブーであるかのように、皆がその話題を避けた。図書館を虱潰しに当たったところで、文献どころか当時の新聞記事すらも見つけることができなかった。
 生身のアイドルが存在する時代を生きていた者たちは、とうに全員鬼籍に入った。それだけの年月が経過していた。であるならば、俺が最後の『当時の記憶を持つ者』なのかもしれない。幼い時分から孤独と親しんできた俺に信じる神など在りはしないのだけれど、この時ばかりは神の思し召しとしか思えなかった。

 俺は生まれ持った美貌と冴えわたる頭脳をフル活用し、欧州の大学への編入を果たした。
 留学先で知り合った教授は俺の論文を読み、研究者になることを強く薦めた。国の研究機関であれば、機密として取り扱われているような特殊な文献にもアクセスできるだろうから、と。彼は言った。
「僕も、かつての良きアイドルが喪われたことを悲しく思う。どうか彼らが生きていたことを証明してほしい。君の研究が日本の、停滞し腐敗していくだけの芸能界にとっての希望のひかりとならんことを」

 大学卒業後。件の教授のラボでのアルバイトの傍ら、俺は何でも屋を自称し、様々な依頼を募っては小遣い稼ぎに勤しんだ。研究を完成させて日本に戻るまでのあいだにもうひとつ、どうしてもやらねばならぬことがあったのだ。
 
 記憶の中の俺には腹違いの弟がいた。悲惨な事件の被害者となり、アイドルとしての人生から強制的に降ろされた、要という弟が。
 実のところ俺自身も、自分の記憶が本物なのかはたまた逃避から生まれた妄想なのか、確信が持てずにいたのである。だがもし、もし彼を見つけることができたなら。それは『HiMERU』というアイドルの存在が確かなものであったことの何よりの証であると考えたのだった。
 金を貯め、何でも屋稼業を通じて身につけた技術であちこちのデータベースに侵入し、あらゆる手段を講じて要を探した。もっとも、彼が同時代に転生している保証もなければ、容姿も名前も性別すらも違う可能性だってあった。だとしても会えばわかる、それだけは断固信じていた。そして事実そうなった。
 俺が要に辿り着いた時、彼は高校の学生寮にいた。記憶のままの姿かたちであったが、両親はおろか親類縁者もおらず、身体が弱く、ひとりぼっちだった。よく似た容姿をした俺と初めて対面した際、要は涙を流し、俺を〝おにいちゃん〟と呼んだ。その日から俺たちはふたりになった。
 要に前世の記憶はなかった。それで良かった。ちいさな頃から歌手になるのが夢だったという彼は、今は音大の院生だ。人類がついぞAIに奪わせなかった歌の仕事を、漣ジュンという友人とともに極めるつもりらしい。話を聞いた俺は芋づる式に風早巽のことを思い出してしまい複雑な気持ちになったものの、弟の交友関係を制限しようなどとは(今のところ)思っていない。

 これまで生きてきた中で、俺と同じように前世の記憶を持つ者にはまだ出会えていない。いるかどうかもわからない。ただ、やはりアイドルとしての前世は本物なのだと、今なら断言できる。
 今世で要とともに生きられるのは俺に記憶があったからだ。そのことに感謝こそすれ、恨んだことなど一度としてなかった。



「お風呂、ありがとうございました」
 俺のスーツは? 尋ねると半分寝ているような返事があった。真空パックして置いといた。クリーニング代までは持ってやれねェ、悪ィね。
 いえ、と答えたあと、ベッドで寝たらどうですかと言葉を掛けた。つい咎める声音になってしまった。今世では初対面だというのに。

 天城燐音が転生していることを知ったのは、便利屋を始めてすぐの頃だった。『偶像シリーズ』の評判は欧州まで轟き、俺の耳にも入った。
 かつて、天城とは同じ『ユニット』の仲間だった。否、なんと言うべきか……彼と俺との関係を端的に表現するのは難しい。第一印象は最悪。騙し合い、利用し合って、時には共犯関係を結び、互いに信頼し合うパートナーとなるまでには時間がかかった。そして彼は、他の誰とも違う、アイドルだった。
 天城の小説には、人間ながら並々ならぬ努力を結実させ、実力で頂点へ上り詰めるアイドルの姿が描かれていた。読み進めるうち、俺はある登場人物が記憶の中の『HiMERU』と酷似していることに気がついた。描写される容貌のみならず、話し方に立ち振る舞い、アイドルとしての在り方、目指す理想のかたち、アイドルではない〝ひとりの人間としての〟彼の人物像に至るまで。まるで見てきたかのように克明に、『HiMERU』そのものだった。俺は考えた。天城燐音も俺と同じなのかもしれない、そうであればいい、と。すこしだけ、期待した。

「俺は適当に帰りますから。あなたはもう休んでは?」
「ン〜……あんたどこ住んでんの?」
「十三街区」
 はァ⁉ と頓狂な声が上がった。あそこ、カタギの人間が住んでいいのかよ。思わずといった台詞に薄く笑う。むべなるかな、夜には札付きのワルがのさばる、悪名高い地区である。
「……まあ。家賃も物価も安いですし、昼間はそれほど危険でもないのですよ」
 そもそも俺が堅気だなんて言った覚えはないが、などとは口に出さず、心の中に留めておく。
 グレーのスウェットを着た男──天城燐音は、ゲーミングチェアの座面に胡座をかき、こちらをまじまじと眺めた。
「ふゥん……あんたみてェな綺麗なひとが、無事でいられるとは思えねェけど」
 碧眼が俺の頭からつま先までを舐める。ともかく、尚更こんな時間にひとりで帰らせるわけにはいかなくなったっしょ。品評するかのような視線に居た堪れなくなり、軽口が口をついた。
「……口説かれてます?」
「ん、まァ。そういう解釈もアリ」
「はあ。無責任な作家先生ですね」
 ため息混じりに零せば、お! とつり目が面白そうに輝く。
「おに〜さん俺っちのこと知ってンの!」
 ──なんて無防備な顔をするのだろう。問われた内容より、そちらばかりが気になって仕方ない。
「日本語話者で、あなたを知らないひとの方が稀ですよ。顔出しもしてらっしゃるでしょうに」
 書影で見た時は、もうすこし知的な方とお見受けしたのですけれど。ひと刺しをくれてやれば愉快そうに笑う。
「『You can't judge a book by its cover.』ってなァ。ひとを見かけで判断するなって学校で教わらなかったか?」
「ふふ。俺はね、ひとを見る目には自信があるつもりなのですよ」
 懐かしいとすら思える言葉の応酬。でもそこにノスタルジーを覚えるのは俺だけだ。話してみてわかった。天城燐音には、前世の記憶がない。期待していたぶん実感してしまうとやはり、寂しいものなのだなと思う。
「あんたは?」
「──え?」
 ソファを借りている俺の横。いつの間にか、天城がすぐそばにいた。
「名前。あんたは教えてくんねェの?」
「……、ああ」
 何を聞かれるのかと身構えてしまったが、そんなことか。俺はスマートフォンを操作し、いくつか所持している電子名刺のうち『本職』のものを呼び出して、相手に飛ばした。
「こういう者です」
「……HiMERUゥ?」
「ペンネームのようなものなのです。学者ですので」
「学者」
 受け取った名刺データを興味深げに眺め回し、ひっくり返し、俺の顔と見比べる。東方国際大学メディア研究科アイドル専攻特任准教授、博士(社会学)、HiMERU。どうせ嘘臭いとでも思っているのだろう。お生憎さまだ、嘘ではないが本当でもない。
「見かけによらずお堅い仕事してンのな」
「どういう意味ですか」
「ほ〜ん……アイドル専攻……HiMERU……どっかで……」
 顎をさすりつつうーんと考え込んだ天城は、何かを閃いたのか、あっと叫んで慌ただしくタブレットを取りに行った。すぐにバタバタと戻ってきて飛び込むように隣に座る。ソファが大きく沈んだ。
「なァ! あんたの論文読んだことあるぜ、俺っち!」
 これとかこれとか、そうだろ? 次々とスライドされていく表紙は、たしかに俺が発表してきたものだった。『アイドル恐慌』、『ファン心理のオモテとウラ』、『消費という加害』。感心した。
「よく読みましたね、こんなもの。研究論文ですよ。一般の方が読んで面白いものではないはずですが」
「ンなことねェって! うわそっか、会えるなんて思ってなかった。一度あんたと話してみたかったンだよなァ〜!」
 それは……光栄、です。俯きがちに返した、最後は萎んでしまった。嬉しかった。理由は違えど、この男も相対することを望んでいたと知って。俺も会いたかった、言えない言葉を喉の奥に飲み込んだ。
「いやァびっくりした! あんたみてェな若いひとが書いてたンだな。俺っち聞きてェことがいっぱいあンだよ、え〜っとォ……いざってなるとなんも出てこねェな」
「有り難いことですが」
 興奮気味に続ける男を、掌を突きつけることで制す。このままここにいては俺がぼろを出しそうだから。
「……またの機会に。もう四時ですよ。俺は明日も仕事なのです」
「あァそっか、悪りィ熱くなっちまって……。帰る?」
「ええ。タクシーを呼びます」
「はいよ。もうそれ着て帰れよ」
 お言葉に甘えて黒いジャージの上下を借りていくことにした。玄関でゲロ被害を免れた革靴を履く。完全防水のちょっといいやつにしておいて良かった。

「メルメル」

 手から靴べらが滑り落ちた。心臓が鳴る。息が苦しい。あくまで不機嫌を装い、呼びかけに応えた。
「──HiMERUです。変なあだ名で呼ばないでください」
 見送ってくれるつもりらしい天城を振り返る。腕を組んで壁に寄り掛かり、微笑む彼がいた。初めて呼ばれた気がしなかった。
「なァ。あんた、たまに俺の夢に出てくるアイドルに似てるンだ。俺が憧れて、焦がれて、本にも書いたアイドルに」
「……」
「また会える?」
「……考えておきますよ、天城先生」
 先生はよせよなァ、と本気で辟易したような言いぐさ。では、お世話になりました。笑みを返し、会釈をして背を向けた。


 *


 タクシーの車中で俺は、腕で顔を覆って泣いた。こんなふうに泣いたのは記憶にある限り初めてだったかもしれない。

 今日会ったのはたまたまだ。本当に偶然、この近くで学生論文のコンペがあって、閉会後大人たちは懇親会と称して酒を呑み、酒に呑まれ、結果あのザマ。あいつの自宅の近所だなんて知らなかったし、ましてや会いに行こうだなんて考えるべくもなかった。でも会いたかった。どちらも紛れもない本心だった。
 而して俺たちは出会った。出会ってしまった。そうしてわかったことがある。

 あの男の魂にはアイドルが刻まれている。無意識レベルで当時の記憶を引っ張り出しては、今世を生きている。なのに覚えていないのだ。間違いなく過去に囚われているにもかかわらず。
 馬鹿か。覚えてないならメルメルなんて呼ぶな。話してみたかったなんて言うな。道端に落ちてたからって拾って介抱なんかするんじゃねえよ、馬鹿野郎が。俺は昔から、あんたのそういうところが嫌いなんだ。

「……会いたくなかった……」

 前世の記憶を持って生まれたことを恨んではいない。けれどこの日、俺は初めて、この記憶は呪いなのだと理解するに至った。

 車窓越しには雨雲が、雷を連れて湧き上がろうとしていた。夜明けが近い。


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