あの日灰になったあなた(燐ひめ転生パロ)
【秋の章 白驟雨】
『Rと刹那のあわい』
長引く残暑をやり過ごし、ここ数日の気温はようやっと秋めいてきた気がする。
十月。本来なら行楽シーズンのはずが、相も変わらず俺の世界は雨模様が続く。唯一季節を感じるポイントといえば、同居人の服装が長袖のシャツに変わったことくらいか。
──最近またアイドルの夢を見るようになった。すっかりうちに居着いてしまった、勿忘草いろの男とよく似た姿を。
夢の中で、俺もアイドルだった。文学賞の授賞式で登壇した舞台なんか比較にもならない、縦横に何十倍も大きなステージ。スタンド席をみっちりと埋め尽くすひと、人、ひと。顔を上げれば俺を見下ろす幾多のライトに目が眩む。開閉式のドーム屋根には見覚えがある、以前執筆のための取材に赴いたあの場所だろうか。形はそのままだが設備は何世代も前の物に見える。
赤、水色、ピンク、青。思い思いに揺れていた無数のペンライトが、ある瞬間からぽつぽつと色を変えていった。やがてそれは一面のイエローに染まったのだ。音はない。色彩だけがひたすらに鮮やかだった。真夏の向日葵畑の濃い黄金いろを思わせる、どこか郷愁を誘う光景に、俺は言葉を失っていた。胸を衝く感情を言い表す術を知らなかった。どうしてだろう。俺はこの景色を見たことが、ある。
ふと肩に乗せられた腕、モノトーンにアクセントカラーを効かせた、揃いの衣装。勿忘草いろのアイドルがマイクを片手に微笑んでいた。メルメル、とひとりでに口が動く。おまえ、そんなふうに幸せそうに笑うこともあンのか。知らなかった。彼は目線で客席を示し、俺に何かを伝えようとする。言葉が聞こえない。なんとか聞き取ろうと顔を寄せた刹那、無音だったはずの空間は突如黄色い悲鳴と熱気を帯びて──
そこで目が覚めた。
「……さむ」
畜生急に冷えるじゃねェか。俺はすこしでも身体を温めようと足を縮こまらせ、布団の中で丸くなろうとした。が、腹のあたりを拘束されていて身動きが取れない。あとなんか背中がぬくい。
「……」
よくよく耳を澄ますと、背後からかすかな寝息が聞こえてきた。寒みィからって俺を湯たんぽにしてやがったなこの野郎。
「メルメルゥ起きろ〜」
「ンン……」
どうにか半身を起こし、薄い肩を揺さぶる。ベッドに搭載された目覚ましAIが今日一日の予定を読み上げてくれる。十月二十九日火曜日。天気は晴れのち曇り。HiMERU、大学に出勤。本日の担当講義は二時限目の『マスメディア概論』、四時限目の『社会学講義Ⅲ アイドル史』です。小テストの採点は済んでいますか? それではいってらっしゃいませ──二時限目ってことは、今から支度すりゃあ朝飯食べる時間もとれンな。
「オラいってらっしゃいだとよ、シャッキリ起きろっての」
「ん~~~もうちょっと……」
「ったくしょうがねェ先生だな……」
同居を始めてからというもの。こんなふうに奴が俺のベッドに潜り込んでくることがままあるせいで、俺のポンコツお手伝いさんベッドが機能しなくなった。あれはひとり寝用だし、そもそも成人男性ふたりぶんの体重に耐えうる造りをしていない。最初のうちはメルメル用にと購入した布団で寝てくれてたはずが、そっちで眠る夜はいつしか週五になり、週三になり、今ではほとんど使われなくなってしまった。だからベッドの方を新調した。最低限の目覚まし機能だけが付属したクイーンサイズで、まァものすごく高価ってわけじゃねェけど、完全に予定外の買い物である。
そしてメルメルはあまりにも寝汚い。布団でだらけるのは俺だって好きだが、こいつは自堕落のレベルが違う。俺が起こさなけりゃ一生寝てるンじゃねェかって勢いだ。甲斐甲斐しくお節介を焼いてやり、身支度を整えて送り出してやる毎日。連載を抱えていない今、俺のタスクは専らメルメルの身の回りのお世話となっている。執事さんに転職した覚えはねェんですけど。
「……もうちょい寝よ」
今朝も無事大学へ送り出してやった。ひと仕事終えた俺は、無職の特権を行使して二度寝を決め込むことにした。ふふん、最高に贅沢な時間の使い方っしょ。
洗濯乾燥機のスイッチを入れてからいそいそとベッドへ舞い戻れば、香水をつけていない時のあいつの、素のままのにおいが香った。数十分前に見下ろした油断しきった寝顔を思い出し、自ずと笑いがこみ上げる。あの気紛れな猫みてェな奴が随分と懐いたもんだ。
最近はニキに教わって、時々自宅で料理をすることもある。なんだか気分がいいし、今夜はメルメルの好きなものを作ってやろうか。そんなことを考えつつ、掛布団を鼻が埋まるまで引き上げた。
*
明るい空が降らせる秋の驟雨は白くけぶり、都会の風景の他人行儀な冷たさを、ほんのすこしだけ和らげてくれる心地がする。こうも毎日続くと今更雨に対してなんの感慨も湧かなくなるもんだが、この時季の凛とした気候は、田舎にいた頃からどこか特別だった。
メルメルは休みのたびに俺を連れ出した。
大都市を流れるとある川に、巨大な中洲が存在する。何十年か前までは綺麗に整備された緑地だったのだろうこのエリアは、増水により半分ほどが水に浸かったことで、今ではひとの寄りつかない廃墟となり果てている。
ぱしゃ、と音を立てて水溜まりを踏んでいく革靴。紅葉前の街路樹、その伸び放題の枝葉越しに降り注ぐ陽光が、淡い色の髪を透かしてきらめかせる。ふわりふわりと舞う毛先を見るともなしに追った。
「この地にはかつてアイドルの大帝国が存在したのですよ……なんて、嘘みたいな話でしょう? ほんの数十年前のことです」
あァ、それなら俺も聞いたことがある。アンサンブルスクエア、通称『ES』。かの天祥院財閥が中心となって組織されたと言われる、かつてのアイドル産業の中枢。最盛期には国の経済を左右するほどの一大ビジネスであったにもかかわらず、今やお伽噺レベルにまで風化してしまった砂上の楼閣。
乏しい知識を引っ張り出してきてメルメル先生の反応を窺えば、ここではない遠くを見ていた目が柔らかく細められた。さすが、よく調べられていますね。
「この場所は、HiMERUにとっての戦場で……聖域でした」
言葉の真意を図りかねて首を捻った。前をゆく彼は、そんな俺を見て薄く笑った。
「天城も──」
「ん?」
黄色と黒のバリケードテープなどは意味をなさず、いつ踏み越えてきたのかすら覚えていない。
「──いえ。天城は、ここへ来るのは初めてですか?」
「お~そうだなァ。俺っちも自分なりに調べたけど、正確な場所までは特定できなかったし。連れて来てもらえて感謝してる」
どういうわけかESに関する資料はほとんど残っていないゆえに、俺ひとりでは決して辿り着けなかった場所だ。きっと専門家でないと手を出せない領分なのだろう。この変人にはだいぶ面倒を掛けられているけれど、総合点では〝知り合えて良かった〟の方に天秤が傾く。作家ってのは知見を与えてくれる相手におもねる生き物。
「……今日はもう、帰りましょうか」
それで、帰ったらゾンビ映画でも観て、でろっでろにエロいセックス、しましょうか。つま先で水を蹴って歩くメルメルは振り返らなかった。返事を求めているわけではない。あいつの中では既に決まったことなのだ。
「あんたがそう言うなら」
でも、また連れて来てくれよ。歩く速度を上げて追いついて、その指先を捕まえた。自宅を囲む雨雲の下さえ潜り抜けたなら、青々と高い秋の晴れ間が広がっている。こんな陽気の日にはまたあんたと歩きたいよ。こちらを向いた男はなぜか、切なさを押し固めたような無表情でただ頷いた。
*
──ああまた、アイドルの夢だ。
この夢を繰り返すごとに、大半に靄のかかっていた視野はじわりじわりと鮮明さを取り戻していく。見える範囲は真ん中から徐々に広がって、勿忘草いろのアイドル以外の周囲の人物も判別できるようになる。馴染みのある色味に背格好は、ニキとこはくちゃんにそっくり。どうやら俺たちは四人だったらしい。
隣にいるのはやはり彼で、すっかり見慣れた端正な顔がほんのり汗ばんで上気している。激しく踊ったあとのようだ。身の内から湧き上がる火照りとステージ照明がもたらす物理的な暑さとで、俺自身もくらくらしていた。呼吸がなかなか整わない。横を見た。同時にこちらを向いていた彼と、ばっちり目が合う。金いろの瞳がとろりと蕩け、蜂蜜にも似た甘ったるさを帯びる。不意に首を擡げた情動は、明らかに肉欲の発露だった。
「っ……まぎ、天城!」
名を呼ばれ、はっと我に返った。メルメルが泡を食った様子で俺の肩を押していた。自室のベッドで、シーツに彼を押さえ付けているのは俺。彼の着衣を乱したのもたぶん俺。週末の夜、互いにその気だったから寝る前にイチャイチャし始めて、なぜだか途中からの記憶がすっぽ抜けてる。夢の中で見たばかりの蕩けた瞳と上気した頬が、組み敷いた現実のメルメルとオーバーラップした。……起きたまま夢を見てたってのか、俺は?
「び、っくりした……どうしたんです? 目が据わってましたよ、あなた」
「わり……急激に興奮したせいか頭に血が上っちまって」
グワ~ッて。ジェスチャーで示してみせたらメルメルは安心したのか、眉間に寄せていた皺を解いた。その手が髪に挿し込まれ、くしゃくしゃとかき混ぜられる。それからすこし伸び上がってこめかみに可愛らしいキスをくれた。
「──優しくしてくれなきゃ、嫌ですよ」
甘ったれた声色には、明確にこちらの情欲を煽る意図が籠っている。わかりづらいようでわかりやすい男だ。俺たちがこうした接触をするようになって二ヶ月ほど経つけれど、たまになら少々乱暴に抱いてもそれなりに愉しんでくれる、そう俺は知っている。
「……善処しまァ~す」
けど、加減できなかったらごめん。なんか余裕ねェかも。まだ冷めきらない火照りをくちびるから逃がしながら、片手で乱雑に前髪をかき上げる。寝転んで俺の仕草をじいっと見つめる瞳、その金いろがどうほどけてどう潤むのか、一部始終をこの目で見届けてやりたいと思った。
◆
『Hは承服しない』
天城に暴かれるということは、この上なく甘美な苦しみだ。
今も俺を割り開いて中を荒らす熱塊が、なけなしの正気を霧散させていく。息の仕方さえも忘れる。意識しないとまともに酸素を取り込むこともできず、その苦しさが快感をより高次のものへと昇華させていく。
〝いつもと違うあんたが見てみたい〟
そんな台詞から始まった今日の行為は、いつになくゆっくりと進んだ。殊更に慎重かつささやかな触れかた。されどそれは優しさなどではない。じくじくと身体を蝕み溶かしてしまう甘い毒に全身を浸されるような、いつまでも終わりの見えない拷問。気がおかしくなりそうだった。
俺は腕を伸ばして彼の首に縋った。背中がシーツから浮くと挿入の角度が変わり、おまけにナカを穿たれるたび、性器が相手の腹にじかに擦られる感覚も加わる。その拍子に喉が引き攣り高い嬌声を溢れさせた。
「ぃあっ! う、んっ、んぁ、や」
「や?」
低い声で問われ、背骨がわななく。この声にこんなふうに震えさせられたことなんて、昔はなかったのに。
「やぁ、だ、天城……! これ、じゃ、あッ……俺、」
「イッちまいそ?」
俺は天城の首すじに鼻梁を擦りつけては必死に頷いた。
「はっ、あ……! あん、ぃ、やああイく、イ……ッ」
「まだ駄ァ目」
「ッあ!」
信じられないことが起こった。ぎゅ、と性器の根元を何かが戒めたのだ。あとちょっとのところで解放を妨げられ、見開いた俺の目から涙がひと粒零れ落ちた。下腹部では熱いものがどろりと渦を巻く。見るとそこを握っているのは天城の手だった。同じ男だから吐き出せないつらさはよくわかっているはずなのに、動きを止めたそいつは碧い瞳にぎらぎらと鈍いひかりを湛え、酷薄に俺を見下ろしていた。
「やだ……な、んで、」
「ン~? イくのやなんじゃねェの?」
「ちが、イきた……っ」
「そォ?」
そんならイかせてやンねェと可哀想だよなァ。そんなことを宣い、抽挿を再開する。しかしねっとりと捏ねる腰遣いは決定的な刺激にはならず、生殺しのような快楽が続く。時折ナカのいいところを掠めていくだけでいちばん欲しいものはくれない。天城が俺をどうしたいのか、このまま好き勝手されたら俺はどうなってしまうのか、見当もつかない。既に正常な思考すらもままならなかった。
「ン、ぁ、あま、ぎ、っん」
覆い被さってきた彼にくちびるを塞がれた。呼吸ごと奪うみたいなキスに次第に息苦しくなり顔を背けようとするが、叶わない。息継ぎのために開いた口の隙間から厚い舌が侵入してくる。このふた月ほどのセックスですっかり性感帯にされた口腔を、不埒な舌先がのたくって執拗に苛んだ。
はじめは俺からだった。前世の天城と『そういう関係』だった記憶はないけれど、どんなきっかけで思い出すかなんてわからないだろう? 俺のこの頭脳と肉体で試せることならば、なんだってしてみようと考えたのだ。
男相手はどちらも経験があったし、家に引きこもって執筆ばかりしている奴なんかより、俺の方がよっぽど上手くやれるはずだという根拠のない自信もあった(前世のあいつは公のイメージに反してウブだった気もするし)。でも実際誘いをかけてみたら、奴の手練手管であれよあれよと丸め込まれ、俺の方がぺろりといただかれていた。曰く〝メルメルのおゆるしが出るのずっと待ってたンだぜ俺っち。イイ子っしょ?〟とか、なんとか。
──で。肝心の記憶が戻る兆しは今のところ、ない。ならどうしてこんな不毛なことを続けているのかというと、単にこの男との行為そのものに嵌ってしまっているからに過ぎない。俺は悪くない。こいつが想定を裏切って上手いのが悪い。ここまでが理由の半分。
「う、ンふ……ぁ、んん、ッ!」
ろくに言葉も発せない俺を嘲笑うかのように、ナカに収まった大きなものがごつん、と無遠慮に最奥を殴った。途端、全身を貫く落雷。
「っぁ、イっああ、あ……!」
ぬるい性感だったものが、制止する間もなく俺を飲み込む大渦となる。ああ、溺れる。全身で相手の身体をかき抱き、途方もない痺れにひたすら耐える。きもちいい。びく、びく、と不随意に跳ねる腰。勢いを失した情けない射精に涙が滲むほど感じ入ってしまう。きもちいい。とけてしまいそう。浮遊感はしばらく続いた。背中にシーツの感触が戻ってくると同時、弛緩した手足がぱたりとベッドに落ちた。
俺が絶頂のただ中にいるあいだ、天城は大人しく抱き締められていた。けれど呼吸が落ち着いてきた頃を見計らい、酷い男はまた容赦なくかたい杭を打ち付けはじめたのだ。今度は両膝をつかされた俺はうしろからがつがつと腰を送られ揺さぶられ、感じるところをおそろしく正確に擦られて、身も世もなく喘ぎ散らすしかない。戒めから解き放たれた己の性器はしどけなくぶら下がったまま、だらだらと涎を垂らすばかり。どう頑張っても閉じない口からは、男に媚びた聞くに堪えない声が漏れていく。はしたない。自分の身体なのにすこしも言うことを聞いてくれない。
「……! 待っ、あんっ、待って、ぇ」
「は、やだね」
「だめ、ひッぁ……!」
背後から腕を引かれるまま上体を起こすと、よりいっそう深いところまで先端が潜り込んだ。繋がった場所がきつく収縮する。天城が息を詰め、耳元に獣じみた呻きが降る。自らの腹の中が悦びうねるのを、まざまざと感じた。やばい、また、すごいのがくる。
「う……っ」
「っく、ァ、あン、あ、~~~っ!」
腹に埋められた男根をぎゅうぎゅうと締めつけ、俺は限界まで胸を反らして達した。天城がナカで大きく脈打っている。奥で放たれる飛沫の熱さといったら、火傷してしまいそうなほど。快楽中枢がバグっているのか、直腸の行き止まりをびしゃびしゃ濡らされる感覚にもひどく感じてしまい、ひとりでにぽろぽろと涙が零れた。あちこちの栓が壊れてしまったみたいだった。
「……っん、はァ……」
長い射精を終えた男が、俺を抱えてずるずるとベッドに崩れる。脱力した俺の目元にかかった髪を丁寧に退け、キスをしようと顔を近づけて、ぎょっとして固まった。
「あッ⁉ ウッソ俺っちが泣かした⁉」
「……」
ずび、と鼻を啜る俺。沈黙を肯定と受け取ったのだろう、まん丸に開かれた目が猛烈に瞬きしはじめる。……さっきまでの凶悪面はどうした。
「ごめんほんとごめんメルメルゥ~痛かった? しんどかった? 泣かすつもりはなかったンだってェ……マジで! でもちょ~っと夢中になっちまったっつうかァ……」
「ん……平気です。そういうのじゃないので……」
目を擦ろうとした手首を取られ、手の甲に口づけられる。続けてうしろから抱き着いたまま、髪、耳、目尻、頬、うなじ、肩。子どもをあやすのと同じ親愛の仕草、かと思えばおとがいをそっと持ち上げられ、くちびるにも優しいキスが落ちた。
事後の恋人まがいの睦み合いを、不要だといくら言って聞かせても彼はやめない。まだ快感の余韻で靄のかかった俺の脳は、単なるご機嫌取りを特別な好意に変換してしまう。下らない。俺たちはべつに、今世でもそうじゃない。
「──満足、しましたか」
いつもと違う俺が見たかったのでしょう。望むものは見られたのですか。天城はにへらと締まりのない顔で笑い、またくちびるで触れてきた。
「ん〜さいっこう、メルメル超ォ~可愛かった♡」
「……そういうことが聞きたいわけではないのですが……」
「照れンなってェ」
「うるさいな、照れてません。この万年発情男」
「おめェみてェな色っぽい美人さんと添い寝で終われる奴の方が稀っしょ」
「それはどうも。ではHiMERUの美貌を前に自制が利かなくなった天城の負けということでよろしいですね」
「ブフッ、なんの勝負? 満更でもねェじゃんよおめェだって」
今日のメルメルすっげェ感じてくれてたし、おめェも良かったンだろ、なっ? やけに上機嫌な男に一瞥をくれてから、全身の倦怠感を押してベッドを抜けだした。布団の中から伸びてきた指がいたずらに俺の手首を擽り、麻薬にも似た戯言が晒された素肌を撫でていく。
「ど~お? そろそろ燐音くんにメロメロってとこじゃねェの?」
「……」
「えっちょ、無視すンなよ恥ずいっしょ……。風呂?」
「ええ、どこかのバカモノが中出ししやがったので」
先に寝ててくださいと肩越しに声を掛け、階下のバスルームへ向かう。わ〜りィ! もうしません! などと心の籠らない謝罪が頭上から降ってきたが、どうせあいつはまたやらかすのだから、返事をするだけ無駄だ。
素足でフローリングを踏みしめ歩く。ふるりと背すじが震えたのは夜気の冷たさのせいだけではない。
不毛な行為を続ける理由の残り半分。ぎらついた碧い虹彩の奥、ぬらぬらと揺らめく炎の色が、在りし日の『天城燐音』の激しさと重なる。その色に焼かれたくて、繰り返す。
結局のところ俺が見ているのは現在の天城を通した過去の天城で、彼の触れかたを情愛と錯覚するたび、酷い自己嫌悪に陥るのだ。愚かで、最低だ。あの情け深いひとを、終わった恋の代替品にするなんて。
いっそ何もかもなかったことにして離れられればいいのに、離れられない。自ら傷口を広げにいく俺こそが大馬鹿者なのだと、今になって思い至っても遅すぎた。俺たちはとうに後戻りできないところまで来てしまっている。
*
椎名の店にはひとりで訪れることの方が多い。決まって天城のいないタイミングを選ぶ。
「いらっしゃ……わっHiMERUくん!」
ちょっと久しぶりじゃないっすか? そうでしょうか、最近ゼミの方が忙しかったからですかね。当たり障りのない会話を交わしながら、脱いだトレンチコートをハンガーに掛ける。この店は利便性よりもひとの手によるおもてなしを大事にしていて、上着を預かってくれるホール担当ロボットを雇っていない。コンパクトな店だとはいえ椎名ひとりで切り盛りするのは大変じゃないか、と以前問うたことがある。彼は〝料理に関わる苦労は美味しくいただくためのスパイスっすよ♪〟と片目を瞑った。俺には理解できない考え方だ。
「HiMERUはんこんばんはぁ。お仕事お疲れさんやなあ」
「桜河もお疲れさまです」
カウンター席にどっしりと居座る桜いろの客に近づく。ブラウンのスーツ姿が案外さまになっている歳下の彼の、隣の椅子を引いた。
「ほんでどないしてん? 燐音はんは」
手酌で焼酎を嗜んでいた桜河は、俺の表情から何事かを察したらしい。早速切り込んできたことに驚く。
「──HiMERUはそれほど、話したそうな顔をしていますか」
「しとるしとる。なあニキはん?」
「うん、してるっすね。HiMERUくんってばわかりやすいから」
「そ、うですか……」
俺は気恥ずかしさに押し黙った。昔から彼らの前で隠し事はできない。
桜河と椎名は俺と同じだ。この人生で初めて出会った、前世の記憶を保持したまま今世を生きている人間だったのだ。
聞けば彼らもこの記憶のせいで相当苦労してきたようだったけれど、それでもアイドルではない今世を当たり前に謳歌していた。かつての自分とはそれなりに上手く付き合って、あの頃と何もかも違う今を受け入れて。そんな中『Crazy:B』が一堂に会したことは、誰ひとり予想もしていなかった幸運。ギャンブル狂いのリーダーに倣って言うならば運命の女神さまの悪戯だ。三人で百年以上ぶりの再会を喜んだ。しかし彼らは俺や天城のように過去に囚われてはいなかった。
〝HiMERUくんも燐音くんも、アイドルに呪われてると思うっすよ〟
椎名のあっけらかんとした物言いに眉を顰めた俺だったが、成程その通り。今は百年後で、まったく別の人生を生きている俺たちは、当然別の生き方を選び取ることができる。ただ俺の場合はすすんで呪いを引き受けているし、天城は──わからない。覚えていないくせして誰よりもアイドルを渇望しているように見える。たしかにこれは前世からの因果なのだった。
「ねえ……燐音くんは、本当に昔のことを思い出した方がいいのかな」
早じまいした店内には三人だけ。珍しく真顔で口火を切った椎名は、迷っているようだった。
「ESがあった場所に連れてったんすよね? 『Beehive』にもタイムストリートにも行ったんでしょ? 僕らがライブをやった野外ステージにも」
「大阪にも行ったっち言うてたな」
「ああ、『サドンデス』の? もう旅行じゃんそれ」
「やなあ。……そんでも何も起きひんかった」
「──はい」
椎名と桜河が無言で目配せした。
「ええと……それより前に僕とこはくちゃんと会ってて、毎日HiMERUくんが一緒にいて。そんで何も思い出す気配がないんでしょ? それってさ、こんなこと言うのもどうかと思うんすけど……思い出したくないってことなんじゃないんすか?」
それきり沈黙が落ちた。俺は椎名の言い分に対する反論を持ち合わせておらず、何も言わない桜河もおそらく同じ考えなのだろう。店内BGMをオフにした空間の静けさを破るのは、ブウウンと冷蔵庫が唸る音だけ。
「……すみません」
誰への謝罪だろうか。この瞬間口にできることが他になかった。
「そうかもしれません。ですが、そうではないかもしれません」
「HiMERUはん……」
桜河がつらそうに眉を寄せた。他人の機微を繊細に読み取る、優しい子だ。
「あんな、わかっとると思うけど。仮に燐音はんが思い出したかて、今の時代生身の人間はアイドルにはなられへんのやぞ。あのおひとはアイドルに憧れてアイドルとして生きて、アイドルとして死んだんや。前の記憶取り戻して、望む生き方ができへんっち知ったら、あいつはたぶん傷つく。わしはそれが怖いんよ。MDMん時のこと、思い出してまう」
ふたたびの沈黙。三人ともが昔むかしの同じ出来事を想起していた。まだ互いをよく知らなかった頃のこと。天城燐音という稀有なアイドルを一度は喪いかけた、あの日のこと。苦い記憶だ。
「あいつが、燐音はんが傷つくとこは、もう見たない」
「……僕もっす」
「ええ……わかります」
よくわかる、あなたたちの気持ちは。人生のすべてを賭けてアイドルで在ろうとした我らが親玉を、俺たちは不器用に敬愛していたから。
「だから、」
味わったことのない緊張感の中、深く息を吐き出す。
「──一年、ください」
HiMERUくん、と咎める声。ああそうだよな、椎名は誰よりも天城の心の柔らかい部分に触れてきているから。嫌なことや悲しいことから守ってやりたいと考えるのは、ごく自然なことなのだろう。だけど俺は食い下がる。ごめん椎名、俺のこういう頑固なところ、あんたは面倒臭がるって知ってる。
「一年。次の五月が来るまでです。それまでに何も変わらなかったらすっぱり諦めます。金輪際天城にも、あなたたちにも関わりませんから」
「はい? うええ、そこまで?」
自分の中ではあらかじめ決めていた期限だ。さあ、これであとに引けなくなった。
「そのくらいの覚悟が必要なことなのです」
賭けに負けた者は大切なものを手放さなくては。それが社会のルールなら。
大真面目な顔で豪語した俺に椎名は、や~っぱHiMERUくんと燐音くんって似てるっすよねえ、と半笑いで零した。
*
季節は巡り、秋が過ぎ、慌ただしい冬がやってきた。年を跨ぎ、冷たい雨は霙に変わり、ついに小雪がちらついたある日。
天城燐音は、俺の前から姿を消した。
次へ
powered by 小説執筆ツール「notes」