にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 想い出は鮮やかだ。伊黒にとっては、両親と本当の親子になれたのと同時に、大切な友達ができた日でもある。
 おそらくは一生忘れることのできぬ、秋の一日。
 そんなに強く抱いたら蛇が潰れるぞと伯父や父があわてるその顔や、「ごめんなさいっ、大丈夫!?」と伊黒のシャツのなかを覗き込んだ母が、シュルリと顔を出した鏑丸にチロリと鼻先を舐められてあげた「ひやぁ!」という素っ頓狂な悲鳴。みんなの笑い声のなかで、顔を見合わせた母と伊黒も照れくさく笑ったそのときを、伊黒はけっして忘れない。
 煉獄家の座敷で声を揃えて歌ってもらったバースデーソングも、ケーキに立てられた六本のロウソクを戸惑いながら吹き消したのも。なにもかもが色鮮やかに、記憶のなかで輝いている。
 伊黒だけでは消せずに、おてちゅだいと杏寿郎が吹き消した火のほうが多かったのは、なんだけれども。いまだに「小芭内くんお誕生日おめでとう」のプレートが乗ったバースデーケーキが出てくるのも、そろそろ恥ずかしいんだがと思わなくもないけれども。
 十八になった伊黒は、もうちゃんとケーキのロウソクぐらい全部一人で消せるから、まぁいい。父と母が声を揃えて歌ってくれるバースデーソングにあわせて、鏑丸がゆらゆら鎌首を揺らせるのもかわいいから、多少の羞恥など吹き飛ばしてみせよう。

「あの日は大騒ぎだったな」

 声を上げて笑い出すのはどうにかこらえたようだが、義勇の声はやっぱり笑みに震えていた。
 増えた友達は、一人じゃなかったな。思って、伊黒のマスクで隠した口が、ちょっぴりへの字に曲がる。
 正しくは、一匹と一人だ。少々癪に障らぬでもないが、杏寿郎を横取りした義勇への反発が薄れた由は、明らかにあの日の笑顔であるのは間違いない。

 あのころの伊黒にしてみれば、三人で遊びなさいと大人が言うのに不満を燻ぶらせてはいたものの、わがままなど言えるはずもなかった。しぶしぶ一緒に行動していたが、義勇に対する本音はといえば「おまえなんか杏寿郎のおまけだ」である。
 杏寿郎には笑みを見せることもできたが、義勇に対しては我ながらそっけなかった。義勇も人見知りを発揮して、初対面時などは自分よりも小さな杏寿郎の背中に隠れるようにしてもじもじと、伊黒に直接話しかけることすらできない様子であった。
 伊黒もまだ自分から人に話しかけるのはハードルが高く、結果として、しばらく杏寿郎は、義勇に耳打ちされては伊黒に伝え、伊黒から囁かれる内容を義勇に教えと、両隣に座る二人の通訳となっていた。なんとも忙しいことだ。本人はまったく気にする様子もなかったけれど。
 最年少で誰よりもつたない言葉遣いの杏寿郎が、大きな声で「おばにゃい、ぎゆうがおにごっこしゅる? って言ってる!」だの「ぎゆうっ、おばにゃいがかくれんぼにちようって!」だのと言うのを、大人たちはなんとも言えぬ苦笑を浮かべ見ていたものだ。
 そんな具合だったから、伊黒としては、義勇と仲良くなるなどとうてい考えられなかった。けれどもあの日、義勇が小芭内と同じなら怖くないと笑わなければ、すんなりと母が鏑丸を受け入れてくれたかわからない。いや、むしろ伊黒が諦めるほうが早かっただろう。
 だから少しぐらいは感謝しているし、あの日から友達だと認めてやってもいる。義勇本人にはもちろん、誰にもそんなことを言う気はないが。

「ふん、一番騒がしかったのは貴様らだろう。安易な名前ばかりあげて、貴様のネーミングセンスはなんなんだ。白いからシロとは、安直すぎる。それでいくならパンダやシマウマは全部シロクロか。まだら蛇ならマダラでしま蛇ならシマとでもつけるつもりだったか? 考えが浅い、浅い」
「わかりやすくていい名だと思ったんだが……」

 ほんのちょっと眉を下げ、しょんぼりとした顔になった義勇に、伊黒はいかにも横柄なさまを装い鼻を鳴らしてみせた。
「それが安易だと言うんだ。まぁ……杏寿郎がつけようとした名前より、多少はマシだったがね」
「雄か雌かもわからないのに、ミミはたしかにちょっと……蛇、耳ないしな」
「雄雌の問題じゃない。ミミズからとったのが丸わかりだろうが」
 杏寿郎贔屓が激しい伊黒ではあるが、さすがにアレはないと、ちょっぴり遠い目にもなる。
 どうしてみんなが苦笑するのかすら、たぶんあのときの杏寿郎は、さっぱりわかっちゃいなかったろう。キョトンと大きな目をしばたたかせる顔には、ただただクエスチョンマークが浮かんでいた。

 いやでも、まだ四歳だったし。素直で天真爛漫な杏寿郎らしかったし。……でもやっぱり、アレはない。

 げんなりと脱力しかけた伊黒に気づいているのかいないのか、義勇はまた笑顔になって言う。
「鏑丸って、いい名前だな」
「父や母と一時間も考えてつけたんだから、当然だろう」
 またフンと鼻を鳴らしたものの、伊黒自身にもそれは自慢げに聞こえた。
 幼稚な自慢など唾棄すべきものだ。そういう輩を伊黒は軽蔑している。けれど、リビングのソファで父の膝に抱えられ、みんなで辞書を引きながらああでもないこうでもないと頭を捻りあったのだって、愛おしい想い出なのだ。どうしたって声には誇らしさが滲んだ。
「物事の始めを表す鏑矢からとったんだったか。縁起物なんだろう? うん、いい名前だ。小芭内もいい名前だと思う」
「お愛想はやめろ。どうせ貴様は、杏寿郎が一番いい名前だとでも思ってるんじゃないのかね?」
 少しばかりの照れ隠しを含んで言えば、義勇は反発するどころか、ちょっと真剣な顔すらしてうなずくから嫌になる。
「洗濯機に貼られた半紙を見るたび、つい見惚れる。瑠火さんの文字がきれいだから、よけいにかもしれないが、杏寿郎って本当にきれいで格好いい名前だ。杏寿郎にピッタリだ」

 おい、少しは恥ずかしがれ。堂々と惚気るんじゃない。だいたい、あそこに書かれているのは「杏寿郎、触れるべからず」だぞ? 白物家電クラッシャーへのバリアーだ。見惚れるとはなんだ、あんなものを貴様はうっとり眺めているのか。正気か、コイツ。

 なにが嫌かって、義勇自身は惚気だなんてこれっぽっちも思っちゃいないことだ。たぶん杏寿郎だって同じこと。杏寿郎に借りた辞書を思い出し、いっそう伊黒の肩から力が抜ける。
 絶対に辞書が必要な授業なのに忘れたとしても、二度と杏寿郎から辞書のたぐいは借りない。否、二度と忘れ物などするものか。伊黒はそう決意している。あのとき自分がなにを調べようとしたのかなど覚えちゃいないが、義勇という言葉に引かれたマーカーは、目に焼き付いて離れそうにないのだ。
 ついでに、麗しいとか愛くるしいとか、なにを連想したのかわかりたくもないのにわかってしまう文言に引かれていたラインも、できることなら忘れたい。
 性的な言葉に線を引いて騒ぐ馬鹿というのは、小中学生ぐらいではクラスに一人はいるものだ。そういう輩は、幼稚すぎて見ているだけで恥ずかしい。だが、杏寿郎の辞書は別の意味で恥ずかしさが満載だ。前者と違って絶対に黒歴史だなんて思わなそうなのがまた、頭が痛い。
 義勇――正義と勇気。義勇の名にふさわしい言葉だと、杏寿郎は心底うれしげにマーカーを手にとったに違いないのだ。定規まで使って丁寧になぞられたのが丸わかりな青いライン。本当に、コイツラが息を吸うように繰り出してくる惚気には、胸焼けがする。まだ恋人にすらなっちゃいないくせに。

「……そんなに好きなら、なぜ離れようとする」

 問う声音は知らず責めるものになった。沈黙が落ちる。
 ツクツクボウシが秋の訪れを告げる声を聞きながら、伊黒と義勇は、しばらく無言で見つめ合った。
 遠くで子供がはしゃぐ声がした。止まった時間が動き出したかのように感じられ、伊黒は、フッと苦く息を吐きだした。
「おい、行くぞ」
「……図書館は?」
 踵を返し言った伊黒に、義勇の声は戸惑いがあらわだ。図書館はもうすぐそこなのに来た道を戻ろうとしているのだから、それも当然だろう。ましてや、今日のように偶然居合わせるのでもなければ、伊黒が義勇一人を誘ったことなど一度もない。
 振り返り見れば、不安がる様子こそないものの、義勇はポカンと目を丸くしている。
「間抜け面を晒すな。図書館で話などすれば迷惑なことぐらい、貴様でもわかるだろう」
 図書館は庭を臨んで本が読めるよう屋外にベンチもあるが、昼間は近所の老人たちが井戸端会議していたりする。聞かれてはまずい話題になるかもしれない以上、人目は避けたいところだ。
 義勇も伊黒の真意を理解したのだろう。ほんの少し困り顔めいた苦笑を浮かべていた。
「話ができる場所、あるか?」
「俺の行きつけのペットショップなら融通がきく。聞き耳を立てるような客もいない」
 もっと詳しく言うなら、そもそも客がいないのが通常運転だ。鏑丸の餌を買いに行くのにつきあったことのある義勇も、すぐに思い出したらしく、スンッと表情が消えている。
「あそこか……」
「なんだ、文句でもあるのか?」
「……いや、べつに」
 義勇の反応もわからないでもない。なにしろ、犬猫やらハムスターといった、もふもふとした愛らしい生き物など皆無な店だ。体毛のある生き物もいることはいるが、ぶっちゃけ生き餌用のマウスである。おかげで同好の士しか寄り付かない。近所の小学生たちにとっては、薄暗い店内にうごめく爬虫類は恐怖の対象であるのか、度胸試しスポットにすらなっているという店なのだ。

 小学生のころに初めてみんなを連れて行ったときの反応は、思い返しても笑えるというかなんというか。伊黒が二度とコイツラとはくるまいと誓ったほどである。
 面白がりの宇髄が、まったく物怖じしないどころか、派手派手じゃねぇかとカラフルなカエルに釘付けになっていたのはべつにいい。完全に及び腰になっていた義勇とは、えらい違いだ。義勇もゲージに入った蛇やらトカゲを見るぶんには気にならなかったようだが、白いマウスが餌だと知るなりサァッと青ざめ、俺だってお肉食べるしとブツブツつぶやきながら涙目になっていた。
 杏寿郎も最初のうちこそ、うぞうぞとひしめきあってうごめくコオロギやワームにちょっぴり頬を引きつらせていたけれども、義勇がギュッと腕にしがみついた途端にパァッと笑顔になっていたから、蛇やらカエルなんて目に入っていなかったかもしれない。「大丈夫だ義勇、俺がついてる!」と笑う顔は、いかにも上機嫌だった。
 一番びくついていたのは意外なことに不死川で、これまた爬虫類などは平気なくせに、冷凍されたひよこの袋詰を直視できなかったらしく、ずっと視線が天井を向いていた。たぶん、不死川が即思い出せるあの店の光景は、天井と照明に違いない。
 それはともあれ、爬虫類や両生類をこよなく愛する店長は、利益度外視、店の営業は完全に趣味という御仁だ。接客よりも売り物の蛇やらトカゲを愛でることに忙しいぐらいである。客がなにを話していようと、かわいい蛇やトカゲの悪口でもなければ、まったく興味を示さない。
 鏑丸と出逢ったその日に父が調べて連れて行ってくれた店だから、伊黒を幼いころから知ってもいる。鏑丸がアルビノのアオダイショウだと教えてくれたのも店長だ。とある地方では神の使いとも言われており、その地に生息するものにかぎっては天然記念物にすらなっているのだと、店長はかなり興奮しつつ熱心に飼育方法を教えてくれたものだ。
 もう成体な鏑丸の食事は、一週間に一度すればいい程度だけれども、それでも伊黒はかなりのお得意様らしい。伊黒が行くと店長は、ゆっくりしてきなと手製のお茶を振る舞ってくれさえする。内密な話をするには最適な場所と言えよう。

 図書館からはそれなりに離れているけれども、まだ日も高い。話をしたあとでも閉館には間に合うだろう。なんだかドナドナされる子牛の如き風情で半歩後ろをついてくる義勇に、伊黒は、呆れをあらわに眉をひそめた。
「おい、辛気臭い顔をするな。貴様に餌やりしろと言っているわけじゃないだろう。それとも、よほど理由を言いたくないのか?」
「すまない。かわいそうだなんて言うのは、傲慢だとわかっているが……あのネズミたち、すごくかわいかったから。理由?」
「まとめて返事しようとするんじゃない。いや、それよりもなぜあの店に向かっているのか、忘れてるんじゃないだろうな。貴様が地方に進学するなど言い出した理由だっ」
 ペットショップの引き戸を開けながら噛みつくように言った伊黒に、こともあろうか義勇はぱちくりとまばたき、そういえばそうだったと言いたげな顔をした。
 呆れを通り越し、苛立ちをあらわに伊黒がこめかみに青筋を浮かべると、ブンブンと首を振り「言いたくないわけじゃない」と慌てたように言う。どうだか、と、鼻を鳴らした伊黒に、義勇はまたわずかに眉を下げ弱り顔で笑った。
「理由を言うのはべつにかまわない。だが……杏寿郎には、内緒にしておいてほしい」
「……内容次第だ。入るぞ」
 やっぱり、結婚する姉についていきたいなんていうのは建前か。伊黒の眉間に刻まれたシワが、我知らず深くなった。
 納得したふりはしてみせても、伊黒だって、当然一緒に聞いた不死川やメッセージアプリで伝えられた宇髄だって、本当はそんな言葉信じちゃいない。だって、義勇なのだ。杏寿郎から離れるなんて、天地がひっくり返ったってありえない。
 杏寿郎が付和雷同と義勇との別離を飲んだのだって、同じことだ。珍事なんて言葉じゃ済まない。むしろ伊黒たちのほうが、そんな杏寿郎と義勇を許容し難かった。世界が終わると言われるほうが、よっぽど信じられる。
 なのに、義勇は平然と地方に行くと言い、杏寿郎はそれを受け入れ笑っていた。
 二人の言動の核になったものは、なんだ。決まっている。三年前の、あの事件だ。

 自分一人で核心に迫るのは、少しだけ怖くもある。けれどもう、引き返すわけにもいかない。
 薄暗い店内に足を踏み入れた伊黒の決意は固く、だが足はほんの少し震えていた。もしも、あの日の自分の行動が誤っていて、それが二人の別離に繋がったのだとしたら。後悔と煩悶は、伊黒の心の片隅に、剥がしそこねたシールの跡みたいにぺたりと張り付いている。

 大丈夫。俺は強い。強くなった。なにを言われようと、今度は間違えない。臆病風に吹かれなどするものか。もう、二度と。

 胸中で繰り返しながら振り返り見た義勇の顔は、静かに凪いでいた。

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