にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 鉄製の引き戸を、渾身の力で蹴り破ったんだろう。錆の浮いた重そうな戸が、少しへしゃげて床に倒れていた。
 汚れた窓の多くはダンボールで塞がれて薄暗い。入り口から差し込む日差しに照らされた光景は、映画やドラマで見る乱闘のあとと大差がなかった。だからだろうか。心臓は騒がしいのに、頭はどこか冷静になっていて、そのくせ現実味がまるでない。
 床に転がるパイプ椅子は、倉庫に残されていた備品なんだろうか。いくつかは凶器に使われたと見え、座面が外れているものもあった。どこで調達したものか、倉庫には不似合いなマットレスやらソファ、ローテーブルなどの家具が、乱雑に置かれている。発電機までもが持ち込まれ、複数人がここに入り浸っていることが容易に知れた。
 奥には積み上げられたパレットが残されている。そこにもってきて家具が乱雑に置かれているせいか、建物自体の大きさからすると狭く感じた。ゴミだらけなのも一因かもしれない。床にいくつも転がる空き缶、落ちた灰皿と散らばった吸い殻。菓子の空袋やらコンビニ弁当の残骸は、乱闘騒ぎで踏み潰され、あたり一面に散らばっている。
 マスクをしていても感じる埃臭さには、顔をしかめたくなるほどツンとした、アルコール臭がまじっていた。
 なぜだかそんな細々としたことばかりが、やけに目についた。

 もうもうと舞う埃が、日差しをうけてキラキラと光っている。入り口から差す光のなかできらめく粒は、妙に非現実的で、これは夢だろうかとふと思う。夢であればいい。そう願っただけかもしれない。
 伊黒と宇髄が立ちすくんでいたのは、何分ぐらいだったろう。もしかしたら一分にも満たなかったかもしれない。沈黙の数秒間は何時間にも感じられた。

 倉庫のなかに立っていたのは、義勇と杏寿郎だけだった。
 無言で向き合う二人を包んでいるのは、光の粒。二人の顔に微笑みがあれば、幻想的とすら言えたかもしれない。けれど義勇の顔はひどく青ざめ、しわくちゃになったシャツは土埃で汚れている。杏寿郎と義勇の距離は、たった数歩。
 薄暗い倉庫に差す光のなかで、杏寿郎の金色の髪が、舞う浮遊塵よりキラキラときらめいていた。いつもなら、義勇と見つめあう杏寿郎の顔には、きらめく髪よりも明るい笑みがある。けれどそのとき、杏寿郎の顔に笑みはなかった。
 どんな感情も、杏寿郎の横顔からは見いだせない。血の気の失せた顔は凍りつき、ただまっすぐ義勇を見つめていた。引き結んだ唇が、痙攣するように震えているのが遠目にもわかった。
 二人は黙っている。聞こえてくるのはうめき声。助けてくれ、人殺しと、泣きじゃくりながら訴える声も聞こえる。痛ぇよ、救急車呼んでくれよ。こいつ逮捕しろよ。そんな反吐が出そうな泣き言を繰り返しながら、コンクリの床でうごめいているクズどもに、伊黒や宇髄が怒鳴り散らさなかっただけ上出来だったかもしれない。言葉が出なかったとも言える。
 汚れた床の至るところに、真紅のいびつな水玉模様ができているのが見えた。落ちているパイプ椅子にも、血はこびりついていた。
 そんな床に転がり、芋虫のようにうごめいていている人影は、やっぱり七人。みな、完全に戦意喪失し、血まみれな顔の者もいる。無傷でいるものは一人もいない。
 まさか。伊黒の頭に浮かんだのは、またもやその言葉だ。

 まさか、杏寿郎一人でやったのか……?

 にわかには信じがたかった。杏寿郎はまだ中学一年で、背丈も伊黒と大差がない。倒れている奴らにくらべたら、見た目はずっと非力に見える。
 もちろん伊黒は、杏寿郎が竹刀を握れば高校生にも負けぬ実力の持ち主であるのを、ちゃんと知っていた。得物を持った杏寿郎が、そうそう負けるはずはない。竹刀や木刀でなくとも、同じだろうか。あの血のついたパイプ椅子から、杏寿郎の指紋が出たら……考えた瞬間、ゾッと背が震えた。
 すがるようにちらりと向けた視線の先で、ずっと高みにある宇髄の秀麗の顔は、めったに見ぬほどに険しくしかめられていた。

「杏寿郎……」

 かすれた声での呼びかけに動いたのは、宇髄だけだった。杏寿郎は、ピクリと肩を揺らせたものの、足を踏み出すことはなかった。伊黒だって同じことだ。動けなかった。見慣れているはずの杏寿郎の横顔が、あんまりにも悲壮で。義勇の手首が縛られていることにすら気づけなかったほど、伊黒の視線は、杏寿郎の血の気が引いた横顔だけに注がれていた。
 宇髄が束縛を解くために義勇の前に立つまで、杏寿郎の時間は完全に止まっていたのかもしれない。視界が大きな宇髄の背で塞がれたと同時に、ゆっくりとうなだれていく杏寿郎の横顔を、伊黒は見ていた。
 解放された義勇が、宇髄を押しのけるようにして杏寿郎に近づき抱きしめるのを、黙って見ていた。それでも杏寿郎の顔はうなだれたまま、けっして上げられることがない、その様も、なにもできず、なにも言えず、ただ見ていた。

 伊黒がようやく動けたのは、近づいてくるパトカーのサイレンと、不死川の無事かとの怒鳴り声が聞こえてからだ。
 振り返り見た不死川の顔は、気の弱い者が見たらそれだけで腰を抜かしそうなぐらいだったけれど、ひどく安心したのを覚えている。
 息を荒げて伊黒の肩越しに倉庫内を見やった不死川の目は、ゆっくりと見開かれ、すぐにまたすがめられた。ポンッと背を叩いてきた手に、伊黒の呼吸が少しだけ楽になる。
 一つ深く呼吸すると、不死川とともに倉庫内に足を踏み入れる。不快な臭気はより強く感じられ、伊黒は懸命に吐き気をこらえた。

「スゲェな、こりゃ」
「よぉ。パトカー来てるみてぇだが、呼んだのおまえか?」
「んなわけねぇだろうがァ」
 義勇に抱きしめられたまま動かぬ杏寿郎をチラリと見ただけで、不死川は宇髄へと話しかけていた。互いに声音はどこか軽い。
「かなり物音と声は大きかったからな。近所の誰かが通報したんだろう。……どうする?」
 伊黒も、こともなげな声に聞こえるよう祈りながら、宇髄へと視線を投げた。
「……トンズラってわけにはいかねぇしな。ま、状況としては正当防衛だ。過剰防衛とばかりも言えねぇだろうし?」
 コツンと宇髄の足がなにかを軽く蹴ったのに気づき、伊黒が視線を下げれば、大振りなナイフが落ちていた。アーミーナイフというやつだろうか。目を見開き、サッと倒れている奴らを見回せば、同じようなナイフがいくつか奴らの近くに落ちていた。
 改めて注意深く見まわした伊黒は、マットレスの近くに転がっているスマホに気づいた。近づいてみると、スマホは踏み潰されたのか完全に壊れている。
 なんのために使用していたのか。耳をふさぎたくとも入ってきた声で、伊黒は知っている。非は完全にこいつらにあると知らしめる証拠だが、壊されていてよかった。たとえ未遂だろうと、警察にだろうと、第三者の目にさらされたくはない。証拠なら、伊黒の録音だけで充分だ。それだって、ごまかせるものならすぐにも消してしまいたいが、そういうわけにはいかないだろう。
 伊黒は、込み上げる嘔吐感をこらえつつ、宇髄に向かってうなずいた。
「目撃証言、できるか?」
「誰に聞いてるんだ? 当たり前だろう」
 気遣う色がかすかににじむ宇髄の声に、尊大に胸を張ってみせる。虚勢でしかないのは宇髄や不死川にはバレバレだろうが、二人が揶揄することはないことぐらい、知っている。信じるなんて願望じゃない。知っているのだ。だからこそ、気力を振り絞れもする。

 だが伊黒の意気込みとは裏腹に、そんな会話のあいだも義勇と杏寿郎だけは、終始無言だった。
 怪我はしてないかと宇髄や不死川に聞かれ、パッと顔をあげた義勇が杏寿郎の全身をパタパタと探り、服に散った血がすべて返り血だと確かめるあいだも。
 そうして、ひとしきり杏寿郎が無傷であるのを確かめた義勇が、ふたたびギュウッと抱きついても、杏寿郎は動かなかった。
 義勇に抱きつかれている杏寿郎の姿なんて、みんな見慣れている。けれども、それは一度も見たことのない姿だ。この二人は、どちらかが抱きつけば、すぐさま抱きしめ返し笑いあうのが常だ。だから伊黒たちは、こんな二人を見たことがない。なかった。これから先も、ないはずだった、その光景。
 義勇の顔も青ざめて震えてはいたけれど、杏寿郎の顔はそれ以上に蒼白だ。うなだれたまま、義勇を見返すことすらない。茫然自失した杏寿郎の顔は、絶望の底を覗いてでもいるかのように見えた。
 いつもなら義勇の背を抱く腕は、だらりと下がったままで見るからに力ない。それでも血に濡れた拳は固く握りしめられて、小さく震えていた。義勇の背を、抱き返すことなく。
 サイレンが止まり、驚愕の声が聞こえるまで、義勇は震えながらも杏寿郎を抱きしめていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 感情をどこかに置き忘れてきたかのような、杏寿郎のあの日の顔。あれをまず目にしてしまえば、宇髄たちが、被害者であるはずの義勇に対して以上に、杏寿郎を案じるのは当然だ。
 それぐらい、あの日の杏寿郎は痛々しかった。
 いつだってキラキラと輝いていた瞳に、光はまるで感じられず、焦点すらあっていない。明るいいつもの笑みはどこにもなく、小さく震えていた。きつく引き結ばれた唇は血の気がなくて、叫び声を必死に飲み込んでいるようだった。握りしめた拳も力がこもりすぎ真っ白で、手のひらに爪が食い込んでいるのが傍目にもわかる。
 心が砕け散った人は、きっとこんなふうになるんだろう。そんなことすら思わせる、杏寿郎の姿。それでも、杏寿郎は我を抑えつけていた。いま杏寿郎の身のうちに吹き荒れる感情がなんであれ、それを義勇にぶつけてはならないと、絶望だけを抱きしめている。取り繕うこともできずにいてさえ、義勇を傷つけまいと絶叫も涙も抑え込んで、ただ絶望の淵を見つめている。あんな杏寿郎は、伊黒だって二度と見たくはない。
 誰よりも義勇こそが、二度とごめんだと思っているだろうに。それでも義勇は信じないのだ。他人が自分になんらかの価値を見出すことなど、ありえないと思いこんでいる。
 杏寿郎や煉獄家の面々から注がれる愛情や、うぬぼれでないなら伊黒たちの友情であれば、疑うことなど一切ないくせに。義勇はそれでも、俺なんかに関心を持つ人がいるわけないだろうと、信じている。
 中三のときのあれでさえ、八つ当たりの的にされただけだと思いこんでいるのだから、本当に呆れ返るよりない。
 義勇の流されやすい悪癖が、そんな自己卑下からきていることは、誰の目にも明らかだ。言い聞かせても納得しないから、なおいっそう、みんな義勇をかまい倒してしまう。おまえはちゃんと愛されていると信じさせたくて躍起になる。信じないのなら自分が守ろうと、庇護欲を掻き立てられもするらしい。
 伊黒ですら、なんのかんの言いつつも義勇を放っておけないのだから、面倒見のいい不死川や宇髄は当然、義勇を優先させてしまいがちだ。伊黒がそうならないのは、杏寿郎を案じるむきのほうが強いからにほかならない。
 その理由はと問われても、伊黒には答える気が毛頭ない。従弟だからと言えば、それなりに納得はされるだろう。だが真の理由を口にするのは無理だ。恩人だから。その言葉を口にすれば、いまだ重く伊黒の肩にのしかかる過去が襲いかかってくる。どれだけ注意深くいようとどこから漏れ広がるかわからぬ以上、不用意に話せることではなかった。
 不安はもはや確信に近く、だから伊黒は口にはできない。感謝はいつでも胸にある。それでも言葉にすることはできそうになかった。
 槇寿郎に、命を救われた。杏寿郎には、心を救われた。だから今、伊黒はこうして生きている。血はつながらずとも慈しんでくれる家族に恵まれたのも、気の置けぬ友人を得られたのも、煉獄家の人々あってこそだ。

 それはともあれ、あの事態においては、宇髄や不死川の懸念が義勇よりも杏寿郎に向かっているのはたしかで、義勇の進学が杏寿郎に与える影響を案じているのは伊黒にもわかった。
 伊黒もそれは変わらない。もともと杏寿郎贔屓なだけに、その傾向は伊黒のほうが強くもある。
 だからこそ、義勇が平然と危機感なく歩き回ることに、誰よりも苛立ってもいた。
 不満と疑問に触発され思い出された昨日の昼休みの記憶に、苛立ちはますます深まった。
「……おい、本気か?」
 唐突な伊黒の言葉に、義勇はキョトンと首をかしげている。言葉足らずは義勇の専売特許だというのに、これじゃわかるわけないだろうと、伊黒は舌打ちしそうになった。とどまったのは、義勇の一言によってだ。
「先生には大丈夫だろうって言われた」
「成績の問題じゃない。杏寿郎をどうする気だ。昨日は笑っていたが、あいつは本当に納得しているのか?」
 伊黒の問いに返った答えは、疑問を正しく理解したことを示している。けれども、その答えに納得がいくかは別だ。納得できないのは自分のほうだと自覚しつつも、伊黒は問いたださずにはいられなかった。
「貴様が一人でこの町を離れるなど、杏寿郎が納得するとはとうてい思えんのだがね。どうやって言いくるめた。いや、それよりもまず、貴様が正気か。杏寿郎がどれだけ貴様の身を案じているか、わからないわけじゃないだろう」
 自分も案じているなど、絶対に言ってなどやるものか。意固地になる自分の胸の奥には、ほんの小さな嫉妬がひとかけら、ころりと転がっている。
 空っぽだった自分の心に差し込んだ、暖かな光。自分ひとりのものではないことぐらい、敏い伊黒は幼心に理解していたけれど。

『たい? いちゃいのとんでけしゅる?』
『きょうじゅろはね、みっちゅ!』

 ちっちゃくて温かい手。明るい笑顔。切り裂かれた口を包帯で覆った自分の顔は、幼子には恐ろしく見えただろうに、杏寿郎は、笑ってくれた。
 見舞いに来てくれた槇寿郎とともに病室にやってきた杏寿郎は、なにを言われたのかわからぬままに怯えうつむく伊黒の頭を撫でて、痛いの痛いの飛んでけと何度も真剣な顔で言い、もう痛くない? と笑った。
 伊黒が、もう大丈夫なのだ、痛みに泣きひもじさを耐える日々はもう終わったのだと、心から安堵したのは、小さな杏寿郎のその笑顔を見た瞬間だったかもしれない。
次へ

powered by 小説執筆ツール「notes」

183 回読まれています