にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 図書館に向かう途中で道の先に見えた後ろ姿に、伊黒は、我知らずマスクの下で顔をしかめた。
 そろそろ色を変えだした木々は秋の訪れを感じさせ、人気のない往来には夏の終わりを惜しむツクツクボウシの声がひびいている。そんな時期のことだ。

 一人道を歩く後ろ姿は、てちてちとやたら幼い擬音が聞こえてきそうだ。そのくせ、歩みはえらく早い。ときおり色づく木々を見上げて立ち止まる。背後からでは見えぬ顔はきっと今、ふにゃりと腑抜けた笑みを浮かべていることだろう。イチョウやカエデの葉に誰を思い出したのか、丸わかりな顔をしているに違いない。簡単に想像がついて、伊黒は痛むこめかみを思わず押さえた。
 ポヤポヤしてるのに気が強く、マイペースなくせに流されやすい同期生。常に隣にいるのが当然な金色が、今日はなぜだか見当たらないけれど、見間違えるはずがない。冨岡義勇だ。
 友人とか幼馴染のくくりになるのは間違いないが、伊黒は義勇がちょっと苦手だ。従弟の杏寿郎があいだにいなければ、関わり合いになることも避けただろう。
 杏寿郎と遊びたいと思ったら、セットで義勇がついてくるのだからしかたない。一人違う学校だった小学校のころでさえ、煉獄家に行けば必ずと言っていいほど義勇もいたから一緒に遊ばされることが多かったし、中学高校は同じ学校でもある。おかげでつきあいは長い。

 とはいえ三人で遊んだ期間はそう長くもない。幼稚園時代はともかく小学生になって以降は、どこに行くのもなにをするのも、二人を通じて知己を得た年上の宇髄や同じ学年の不死川もまじえた五人でだ。たまに、不死川の弟の玄弥だの杏寿郎の弟の千寿郎をまぜてやったりもする。
 増えることはあっても減ることはめったにない。いつのまにかそんな五人組になっていた。
 かといって、個人行動を牽制しあってベッタリとくっつきあう、仲良しこよしなんてものではない。一匹狼タイプの不死川や――宇髄に言わせると、ありゃツン九割五分なツンデレだろとなるが――自由気ままな宇髄も、一人が落ち着く伊黒だって、個人でいることは多かった。常に一緒は杏寿郎と義勇ぐらいなものだ。
 それでも、示し合わせるわけでもないのに自然と集まり盛り上がる。好きにすればいいだろと放置しているように見えて、いつでも心の隅で気遣いあっている。そんな仲間。親友と呼ぶのはむず痒く、ただの友人と呼ぶには、親密さはともすれば家族よりも深い、不思議な縁だ。
 そんな具合なので、義勇のことを友人と言い表すのに異論はないのだが、気が合うと言うなら、不死川のほうがよっぽど仲はいい。杏寿郎と義勇のバグった距離感目撃被害者同盟の観が、なきにしもあらずだけれども。

 ともあれ、無口な義勇と伊黒の二人きりでは、正直なところ間が持たない。話せば話したで義勇の口下手は伊黒をイラつかせることが多いから、二人だけでの会話はなるべく避けたいところだ。
 向こうが気づかないのなら、このままやり過ごそう。つい歩みを遅めた伊黒だったが、不意にゾクッと背を走った悪寒に言いようのない不安に襲われ、チッと舌打ち一つ。けっきょくは、小走りに義勇を追う羽目となった。
 だって、このシチュエーションは、似ている。三年前の七月と同じだ。まさか同じことが起きるわけがないと思いはするが、それでも不安は拭い難い。
 あんなのは二度とごめんだ。伊黒は焦燥を覚えつつ歩む背に声をかけた。
「冨岡」
 義勇はすぐに振り返った。豊かな睫毛に縁取られた目がパチリとまばたくさまは、どこか幼くて、出逢ったばかりのころを思い出させる。
 そのころはもちろんのこと、中学生だった三年前よりさらに大人びた義勇の顔は、少女と勘違いされることはなくなったし、体格だって華奢な伊黒よりはるかにたくましい。それでも、こういう幼い表情をするといまだに中性めいて見えるから、年下の杏寿郎でさえも、目を離すのは危ないと思ってしまうのだろう。
 杏寿郎の場合はそればかりでもないし、伊黒の危惧よりも、よっぽど不安は大きいに違いないが。

「杏寿郎はどうした」
「槇寿郎さんがぎっくり腰になった」
「伯父上が? ……なるほど、伯母上では起き上がらせるだけで一苦労だな。で? なんで貴様は一人でこんなところにいる」
 たずねるまでもない質問だ。この道の先で用がありそうなのは、図書館ぐらいである。伊黒だって借りた本を返しに行くのだ、義勇だって同じだろう。聞きたいのは『一人で』の理由だ。
 義勇は過たず伊黒の問いを理解したらしい。かたわらに並んだ伊黒を少しだけ目を細め見た。かすかな笑みは苦笑めいている。
「本の返却が今日までだ」
「ふん、余裕を持って行動しないから、期限ギリギリになるんだ」
 自分のことは棚上げし言った伊黒に、義勇はむくれるでもなくぽやんとしている。ほのかな苦笑の意味も、心配しすぎだとの意思表示だろう。
 こういうところがイライラするのだと、伊黒は思わず顔をしかめた。義勇は、自身に向けられる悪意に対する危機感が薄すぎる。

 義勇だって高三だ。杏寿郎のつきそいがなければ行動できない幼児じゃない。
 わかっているが、義勇が一人でここを歩く後ろ姿は、嫌な記憶が呼び覚まされるのだ。場所だって同じだ。だというのに、当事者である義勇の危機感のなさはなんなのだ。また複数人に取り囲まれ、連れ拐われたらどうする気だ。
 万が一同じことが起きでもしたら、今回も俺を居合わせさせるとはいったいどういう了見だと、伊黒は天を恨むに違いない。腕っぷし自慢の不死川や、体格からして誰もが怯む宇髄でもよかろうに。むしろ、そうすべきだろう。神様とやらがいるのなら、そいつは絶対に面白がりだ。しかも、宇髄とは違い極めつきに人の悪い嫌な野郎に決まっている。
 伊黒は苛立ちとともに、口中に知らずたまる苦さを無理やり飲み下した。

 もう、三年も前の話だ。あれ以来、不穏な出来事だって起こっちゃいない。義勇だって身長がぐんと伸びて、細身であっても弱々しさなど感じられない体型だ。実際、体育で柔道をやったときなどは、不死川といい勝負だったらしいし――一勝一敗だったと、不死川が苦虫を噛み潰したような顔をしていた――腕っぷしの強さもそれなりである。
 幼い子供じゃないのだ。心配するようなことがまた起きる可能性は、今となっては低いかもしれない。思えども、義勇の容貌の美しさは、当時から変わらないのだ。むしろある種の男たちにとって支配欲やら征服欲をかきたてる清廉さは、かえって危うくすらある。静かな佇まい……というか、伊黒から言わせれば薄ぼんやりした様子を、与しやすいと勘違いする馬鹿は、どこにでもいるのだ。

 ――ムカつく。生意気。ちょっとばかり強い奴らとつるんでるからって、いい気な面して俺らを見下してやがって。お高くとまってみせたって、本当は誘ってんのが丸わかりだぜ、オカマ野郎が――

 なんて馬鹿馬鹿しい。おぞましくも腹立たしいばかりの一方的な思い込みだ。馬鹿げた憶測と身勝手な欲望をないまぜにして義勇に向けられた理不尽な言い分は、杏寿郎ほどではなくとも伊黒にだって許しがたかった。
 伊黒にも同様に、そういった理不尽な八つ当たりが向けられることはままあるが、奴らは伊黒にその手の欲を向けることはない。オッドアイを隠したくて伸ばした前髪から透かし見る眼差しの、怨念めいた強さや、常に外さぬマスクへの胡散臭さが、近寄りがたく感じるのだろう。お調子者の馬鹿などは、暴力的な悪意や揶揄を向けてくることもあったが、伊黒は即座に反撃におよぶので、そういったこともすぐなくなった。
 誰しも、唐辛子スプレーで目潰しされたり、やたらと虫が寄ってくる悪臭を吹きつけられるリスクを負ってまで、伊黒にちょっかいをかける勇気は持ち合わせていないものとみえる。しかも伊黒の場合は、五倍返しですめば御の字だ。散々な目にあったうえ、いつまでもジトリと睨まれるとあっては、気が気でないに違いない。
 だから自然と伊黒への悪意は、遠巻きな舌打ちや陰口だけとなっている。不死川や、卒業していてもなにかと話題に上がる宇髄絡みの陰口よりも、いつのまにやら「あいつになにかしたら呪われる」なんていう噂としてだ。

 けれども義勇に対しては違った。その象徴が、中三のときの事件だ。

 義勇の中性さを残した秀麗な顔立ちは、思春期の少年たちにとって、昇華しきれぬ性的欲求をかきたてられるものであったらしい。未成熟なうちや閉鎖された環境では、よくある話だ。
 それでも義勇が男性であるのに変わりはない。同性に欲望を覚える自分への不安をごまかすために、理不尽な理由を後付けして義勇へと責任を転嫁する輩の、なんと多かったことか。

 ――ホモ野郎。オカマ。尻で不死川や宇髄先輩に媚びうってんだろ。変な目で見んじゃねぇよ、誰がおまえみたいなオカマの誘いに乗るか。話しかけんな、ホモが移る――

 そんな馬鹿どもの言葉が義勇を傷つけた……と言えば同情もするが、当の本人はまるでこたえちゃおらずぽやぽやとしたままだったのだから、頭が痛い。
 それでも義勇だって最初のうちは、ポケッとした顔で「なにをこの人は言ってるんだろう?」と言わんばかりに小首をかしげてはいた。言い返しもせずにいる義勇に、ますます笠に着てからかおうとする奴らはことごとく不死川の鉄拳制裁の餌食になっていたから、気にする暇もなかっただけかもしれない。
 本気で鳥肌立てた不死川が、気色悪いこと言ってんじゃねェとの怒鳴り声とともに振り下ろした渾身の拳は、相当痛かったものとみえる。一度でも殴られた奴らは、二度と義勇に近づかなかった。

「なんで俺がコイツと乳繰りあわなきゃなんねぇんだァ! 見ろ、この鳥肌を!」
「乳繰り合う……不死川は意外と語彙が古いな」
「そういうこっちゃねぇんだよ! 時代劇マニアのてめぇに言われたかねぇわァ!」
「時代劇が好きなのは槇寿郎さんだ。俺じゃない。でもこのあいだ観た『眠狂四郎』は面白かった」
「おぉ、意外となァ! って、そうじゃねェって言ってnだろ、てめぇもぶん殴るぞっ!」
「……殴ってから言うのはズルい」

 そんな気の抜ける会話がつづくせいで、不死川とデキてるなんていう噂を信じるものが少なかったのも、一因だろう。義勇の脳天に落とす拳骨はだいぶ力加減されていたのは間違いないけれども、見ているこちらのほうこそ、頭が痛いというかなんというか。
 まぁ、伊黒自身も噂の相手にされるたび、きっちりしっかり実力行使で異議申し立てしていたのだから、あまり不死川のことは責められない。自衛グッズの効力を己で試したいものは、そうそういないだろう。義勇と伊黒がデキてるなんてあり得ぬことを口走る馬鹿でも、かろうじて危機回避能力は備わっていたとみえる。

 ところが、防衛本能を持ち合わせていないのか、はたまた自分を全知全能の神だとでも勘違いしているのか、身勝手な妄想がすべて現実になると思い込む度し難い馬鹿も世の中にはいる。
 そんな馬鹿どもがとうとう、義勇に対して抱く不埒な欲望を、義勇本人で晴らそうとした。口にするのもおぞましい、理性のかけらもない理不尽で非道徳的な行為で。
 言葉にすればありがちな、けれども、当事者たちにとってはいまだ憤怒で身のうちが焼き付きそうな、そんな出来事。中三のときに起きたのは、そういうたぐいの事件だった。

 それでも、義勇があんまり平然とした顔をしているから。杏寿郎に、なにもなかったのと同じと笑うから。いつしか伊黒たちも、腫れ物に触るような慎重さも薄れて、今では以前と同じように気兼ねなく笑いあっている。
 けれど、懸念が消えたわけではないのだ。
 年齢が増すごとに、義勇を女性の代用品として見るむきは減っていったが、そんなごまかしすら装わぬあからさまな欲が向けられることだって、ある。むしろそういう傾向は強くなった。

 だというのに、なんなんだ。俺たちの心配をよそに、一人でひょこひょこと呑気に出歩くとは、正気かコイツ。連れ拐われた現場だぞ、ここは。俺達にとってはトラウマものだ。なのになんで性犯罪被害者になりかけた貴様がそんなに呑気なんだ。馬鹿か。馬鹿なのか。杏寿郎が冨岡馬鹿としか言いようがないのは承知しているが、コイツの杏寿郎馬鹿っぷりもどっこいどっこいだろうに。いつもの御神酒徳利っぷりをこういうときにも発揮しろ、馬鹿め。貴様が一人で図書館に行ったなど、杏寿郎が知ってみろ。なにも起こらずとも真っ青になって、なぜ俺は呑気に家にいたんだと、自分を責めるに決まっているだろうが。父上を背負ってでも義勇と一緒にいるべきだったと、伯父にとってはたいそうはた迷惑この上ないことまで考えるに違いない。いや、考えるだけじゃない。もしもまた伯父がぎっくり腰になったら、杏寿郎は絶対にそうする。冨岡が絡むと、杏寿郎は本気で馬鹿になるから困る。いやまぁ、杏寿郎はいい奴だけれど。お日様のような朗らかな笑顔に救われたのは事実だけれども。それでも、少しは常識を思い出せと言いたい。あぁ、伯父上……なんておいたわしい。ご無念、察してありあまる……っ。

 自分の想像で思わずクッと忍び泣きそうになった伊黒だったが、義勇はそれには気づかずに、ほんの少しすねた顔をして首をすくめ上目遣いで見てくる。あざとい。杏寿郎ならかわいいと脂下がるかもしれないが、俺がほだされるわけないだろうと、伊黒は眉間にシワを刻み込んだ。
「……思い出したのが、今朝だった」
「借りた本の期限くらい把握してなくてどうする。その本を次に借りるつもりの人がいたら迷惑になるとは思わないのか。覚えていられないお粗末な記憶力なら予定はすべてカレンダーにでも書いておけ。だいたい一番の問題はそこじゃない。杏寿郎と別行動になるならなるで、なぜ誰にも告げず一人で行動しようとするのかと聞いているんだ。まぁ貴様の考えなど嫌でもわかるがね。どうせ貴様のことだ、杏寿郎を誘おうと電話したものの伯父上がぎっくり腰だと言われ、お大事にしか言わなかったんだろう。あとでお見舞いに行くとかなんとかごまかして、杏寿郎には図書館に行くことを告げていないに決まっている。だったら不死川なり宇髄なりに連絡すればいいものを、迷惑かけるわけにはだのなんだのといらん遠慮をしたんだろうが。くだらん、本当にくだらん。図書館ぐらい一人で行けると言うなら、それこそ、宇髄たちだってつきあうぐらいなんでもないと快諾するに決まっている。貴様の遠慮はかえって迷惑だとなぜわからない。貴様の脳みそに学習能力は備わってないのかね。いい加減、自己卑下はやめろと何度言わせる気だ」
 ネチネチと説教され落ち込むかと思いきや、義勇は、ふにゃっと蕩けるような笑みを見せた。
「伊黒はやさしいな」
「は? おい、ふざけるな」
 イラッとねめつける伊黒に、義勇は心外と言わんばかりの顔で、ブンブンと首を振っている。
 これだから、本当にコイツは苦手なんだ。ごまかしやごますりなら、くだらん奴だと切り捨てられるものを、本心で言っているから始末が悪い。
 伊黒は少しそっぽを向き、それこそ我ながらごまかしが見え見えだと自嘲しつつも、フゥッとマスクの下でため息をついてみせた。

「もういい。くだらん言い合いで時間を無駄にする趣味はない。行くぞ」

 ホッと頬をゆるめてうなずく義勇と、肩を並べて歩く。
 日差しはまだまだ暑く、けれども吹く風は秋の気配を漂わせている。街路樹の葉はまだ緑が濃いけれども、せっかちに色づいた黄色や赤の葉が風に舞い落ちるたび、義勇の顔にはほのかな笑みが浮かんでいた。
 一人でいるときにはたやすく笑みを見せるなと、杏寿郎が口酸っぱく言い聞かせていたはずだが、これだ。誰にともなく浮かべた笑みの理由など伊黒には筒抜けだが、思い込みの激しい第三者がどこで見ているともかぎらない。だというのに、ふにゃふにゃ微笑むとは、危機意識がなさすぎだ。
「……人前で笑うのはやめたんじゃないのかね」
「伊黒が一緒だ」
 だから『一人でいるときは』という前置きのある約束を破ってはいないと言いたいのだろう。
 なかなか慣れぬくせに、なつけばたちまちゴロゴロと喉を鳴らし、手に頭をこすりつけてくる猫みたいだ。知らず識らずそんなことを思い、うっかり頭を撫でそうになった自分に気づいた伊黒は、ハッと目を見開いた。

 危なかった。これだから本当にコイツは嫌だ。冨岡義勇恐るべし。

 人見知りなくせに、ひとたび受け入れてしまえば掛け値なしに気を許す義勇の気質は、微笑ましくも、やはりどこかしら危なっかしい。伊黒ほど人を警戒しろとは言わないが、もう少し用心しろと言いたいところだ。
 流されやすいタチなのも同じことだ。人の都合ばかりを優先しがちな義勇の性格は、伊黒にとっては少し腹立たしい。
 悪意と欲に満ちた卑劣な暴力にさらされかけるという、トラウマになりそうな経験をしたというのに、平然と笑っていられる義勇の神経が信じられなくもあった。ただそれは、杏寿郎への信頼あってこそと言えなくもない。
 伊黒のSOSに杏寿郎が即座に駆けつけなければ、どうなっていたことか。最悪の事態にならなかったのは、運が良かったとしか言いようがない。伊黒一人で七人も相手に立ち回るのは、さすがに無理だ。最悪の結果を想像しただけで、伊黒は、おぞましさと罪悪感に吐きそうになる。

 忘れてしまいたいと願うのに、伊黒の記憶からどうしても薄れてくれないあれは、梅雨も終わり間際だった。街には七夕の竹飾りが揺れ、当日は晴れますようにと空を見上げる時期のことだ。
 かたわらを歩く義勇の、なんの憂いも見えぬ顔を横目で見上げ、伊黒はマスクの下で唇を噛む。
 あの日も伊黒は、図書館への道を歩いていた。

 期末テストの最終日ということもあり、放課後とはいえ、まだ日暮れは遠かった。
 不死川は弟妹の誰やらが夏風邪を引いたとかですぐに帰宅し、杏寿郎は、たしか……そうだ、七夕の竹を取りに行くと笑っていた。
 伯父の知人が所有する竹林に竹を貰いに行くのは毎年恒例だけれど、例年ならば杏寿郎は、義勇や伊黒も一緒にと誘う。なのに今年にかぎって杏寿郎は、今年は一人で行ってくると宣言した。一番キレイで丈夫そうなのをとってくるから、義勇は楽しみに待っててくれと笑う顔は、真っ赤に染まっていた。
 義勇がそのときどんな顔をしたのか、伊黒はあんまり覚えていない。七夕に晴れることをやたらと願っていた杏寿郎の赤く染まった幼い笑顔は、不思議とよく覚えているのだけれど。
 ともあれ、その日の放課後の行動は、いつものメンツの全員が単独行動となったわけだ。

 久しぶりにあの図書館に行ってみようか。伊黒がふと思いたったのは、偶然か、必然か。いずれにせよ、伊黒があの図書館へと向かう気になっていなければ、事態はもっと悲惨なものになっていたはずだ。それだけは、伊黒は神とやらに感謝してやってもいいと思っている。運命だなんて、口が裂けても言わないけれど。
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