かさぶたと花冠


「ついに完成ですか! ということはつまり、渡辺崋山の最新作をこの目で見られるんですね」
 江川があまりにそわそわ動き回っているので、弥九郎がたしなめている。
「完成はめでたいとして、わざわざ例会の席に持ってきたんですか。ご親切に披露してくれなくてもいいんですよ」
 首をひねる三英に、長英はちっちっち、と指を振ってみせる。
「これはあなたらに見てもらわないと意味がないから。ねっ」
「ええ、ぜひ皆さんにご覧になってほしいです」
 崋山と目を見合わせて、にんまりと笑い合う。
「ええ~なになに、早く見せてくださいよ」
 川路が嬉しそうに手を打った。
 机と座布団は部屋の隅に寄せた。文箱を手にした崋山が、広くなった空間の中央に陣取る。彼を囲んで、尚歯会の主たる面々がぐるりと集った。長英だけは障子の前に立って、得意げにとんとんと足を鳴らしている。
「では、ご覧あれ」
 左右に微笑みかけて、画家が蓋を開けた。わっと頭が寄せ集まる光景に、長英は我慢できずに大声を張った。
「じゃーん。俺の肖像画、大公開だます」
 へ、とか、あれ、とかいったざわめきが口々に漏れて、場が静まりかえる。大きな眼をしばたたいた江川が、ゆっくりと顔を上げて問うた。
「これは……私たち全員?」
「はい。尚歯会の皆さんを描きました」
 畳の上に広げられた絵には、大勢の男が碁盤を囲んでいる様子が描かれていた。立って後ろから覗き込む者や碁石を手にしている者、その周囲には湯飲みや刀が無造作に転がり、賑やかでざっくばらんな空気が伝わってくる。端にはきっちり崋山の名前を書いて、落款も押してあった。
「名付けて〈囲碁の会図〉です。紙が小さいのであまり細かい書き込みはできませんでしたが、一応どれがどなたのつもりかは全部決めて描いたんですよ」
 衆目は顔を見合わせたかと思うと、一斉に喋りだした。
「もしかしてこれ私ですか?」
「お、私っぽいのがちゃんといる」
「これは幡崎どのでしょう、でこっちが羽倉どのだ」
「信淵先生もほら、ご覧になってください」
「見事なものですのう」
 賑やかな輪の中心で、崋山の表情は面映そうに、それでいて誇らしげに輝いている。
「この〈囲碁の会図〉には長英くんも描かれているんですよね?」
 伸び上がって川路が尋ねた。
「もちろん、”高野長英の肖像画”だますから」
「さんざんそう聞かされておいてこのオチは肩透かしというか」
「堅苦しいのは、やっぱ俺には似合わないんでね」
 呆れ返っている三英に、長英は平然と肩をそびやかした。崋山が腹を抱えて笑った。
 輪の中から、するりと音もなく抜け出す者がある。長英以外の誰にも気取られないまま、その男は廊下に面する障子を引いた。すれ違いざまに会釈した林蔵の顔に、和やかな安堵が浮かんでいた。

 
 夜空に機嫌のいい鼻歌が溶けていく。
〈囲碁の会図〉披露の後、誰が言い出すともなく大宴会が開かれた。大人数で楽しい夜を過ごして、ずいぶん遅くなった。
 長英は自宅が近い崋山、三英と一緒に帰路についている。風呂敷に包んだ文箱を抱える崋山の隣で、珍しく三英は鼻歌など歌っていた。
「三人で帰るのも久しぶりな気がするだます」
「本当ですねえ」
 それきり会話はなく、三人は心地よい夜の静寂に揺蕩いながら、それぞれの家が集まる辻へ歩みを進めた。
「ではまた」
「はい、また」
 別れの挨拶をしたものの、全員その場を動かない。
「いや帰りましょうよ」
「私は高野くんに用があるので」
「あ、そうなの」
「なら私は一抜けします。少々疲れましたし」
 拳を作って肩を叩きながら三英が言う。
「そうそう、いい機会だから私も言っておきますが。君たちを引き合わせることができたのは、私の人生で最上の幸福ですよ。じゃ、おやすみなさい」
 背中側で指を組んで、三英はくるりと背を向けた。ぴたんと戸が閉じ切ってから、二人は顔を見合わせる。
「三英さんも素直じゃないなあ」
「同感です」
「で、何だます、用事って」
 崋山が風呂敷包みを差し出した。
「これは高野くんが持っていてください」
 すぐには受け取れなかった。
「いいんスか?」
「経緯はどうあれ、君の依頼を請けてできた作品には変わりありませんから」
「……わかりました」
 歩み寄って、両手で受け取る。託された宝はほんのり温かいような気がした。質量としてはごく軽い、その質感を生涯忘れまいと思う。
「君の気が向くようなら、正真正銘の肖像画も描きますよ」
「え、でもあれは途中で」
 代金未払いの分、制作は中断するということで落着している。
「下書きはとってありますから、続きはいつでも作れます」
「そういうのありなんだますか」
「ありなんです。何を隠そう私自身の肖像画も、弟子が素描まで済ませてくれています」
 思い至らなかった。崋山も描かれる側に回ることがあるのだ。
「福田さんだますか?」
「また別の弟子です。福田くんは山水専門ですから」
 佐藤一斎ではないが、崋山の門だって弟子は多い。長英の知らない弟子など一人や二人どころではないだろう。妬いていたらきりがない。肖像画ができあがったら見せてくれるに違いないから、それで充分だ。
「完成が楽しみスね」
「君も楽しみにしてくれるんですか?」
「もちろん。その頃には金も払えるだろうし、また俺のこと描いてください」
 勢い込んで頼むと、どういうわけか崋山はわざとらしく咳払いした。爪先で地面をぐるぐる削り、もじもじと足を踏み替える。やがて強い眼差しが、まっすぐに長英を見据えた。
「いつか……たぶん十何年も先の、隠居後になってしまうけど……私、長崎で画会を開こうと思います。もし君さえよかったら、そこで高野くんの肖像画を、私の肖像画と並べて展示させてほしいんです。……今はまだ、ただの夢物語ですけど」
 宵闇の瞳に星が宿っているようだった。紅潮した崋山の頬が、はにかみにほころんだ。
「叶った暁には、君も見に来てくださいね」
 答える前に、長英は文箱を片手に持ち替えた。両腕を広げて、崋山の身体を力いっぱい抱きしめる。
「来てくれなんて水臭い。一緒に行かせてくださいよ……」
 わあ、とか、ひゃ、とか言っていた崋山が、ぴたりと静かになった。そろそろと腕が回されて、きゅっと背中の布地を握られる感触がする。
「ええ、喜んで。一緒に行きましょう。初めての長崎を、高野くんと共に見たい」
 すり寄せられた頬から熱が伝わってくる。長英は目を閉じて、肌身の感覚に集中した。きっと崋山もそうしているだろう、という確信があった。
 長崎と繋がる夜空の星の下、あらん限りの願いを捧げた。
 どうか君の行く末に、ありったけの花冠を。

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