かさぶたと花冠


 手の平にかいた汗を膝に擦りつけてから、鬢のほつれをちょいちょいと耳の後ろに流した。掲げた右肘の内側に糸くずを見つけ、慌てて払い落とす。糸くずが崋山の目に入ったからといって絵に反映されるはずはないのだが、やはり描かれるとなると己の風体が気になるものだ。
 長英がもそもそ動いているのはそれだけが理由ではない。左右を鏡に挟まれているせいで、いたく落ち着かなかった。これが崋山流の描き方だという。偉くなるのも楽じゃねえなあ、と一人ですっとぼけても、口の中は乾いたままだ。
 今日は肖像画制作の初日だった。崋山宅の客間を借りて、墨書きで対象者を写生するところから制作は始まる。まず対象を顔や身体の部位ごとに素描し、それらを組み合わせるようにして画稿を作り、構図と彩色の方針が固まったら清書、というのが大まかな流れらしい。準備があるので待っていてください、と言い置いて崋山は席を外していた。
 身繕いに見切りをつけて座り直した時、がたがたと音を立てながら建て付けの悪い襖が開いた。
「お待たせしました」
 襷掛け姿の崋山が入ってきて、画材を置くと襖を閉め切った。長英は袷に指を引っかけて、崩れない程度に引き下げた。妙に息苦しい。
「そんなに緊張しなくても、取って食いやしませんって。その調子じゃあ終わる頃には疲れきってしまいますよ」
 手際よく画材を並べる崋山に、からかい混じりに言われて長英はむっとした。
「俺のことはいいから始めてください」
「よくはないんですけどね、いわば共同作業ですから。自然体でいてもらわないと」
 膝を突き合わせて、描く者と描かれる者がいよいよ相対する。憎たらしいほど和やかな目許に、こっちは素人だぞと文句の一つも言いたくなった。
「まあ、多少顔が強張っても平気ですよ。私の名にかけて、本当の高野くんを描きますから」
 そのためにこの場をもうけたんです、と画家は何の気負いもなく口にした。
 口答えを考えつく前に、崋山が目蓋を閉じた。ゆっくりと息を吐き、一度だけ深く吸った。
 静かに目蓋を開いた刹那、彼の身に纏う空気が変わった。
 手元に並べた筆には見向きもしない。ただ長英を見据えている。いつもより黒々と光る一対の瞳が、魂の奥底まで見透かそうと挑んでくる。二枚の鏡にちらと目をやったり、少し鏡面の角度を変えたりしながら、描くべきものを懸命に捉えようとする崋山の姿を、長英もまた見ていた。
 数日前に会った時に比べて、心なしかこざっぱりしている。ひょっとして髭をあたったかな、と長英は思った。襷掛けも相まって、まるで身を清めたかのようだ。ただ長英の絵を描くためだけに、彼はそんな支度を。
 くっと喉が動いて唾を呑む。総身を震えが走った。緊張とは違う、興奮の武者震いだった。
 ――取って食いやしないだなんて、どの口が。
 ひとりでに唇が弧を描くのを感じた。全身を覆っていた強張りが解けて、すとんと肩が落ちたような感覚がした。
 滑るような動きで、崋山が絵筆を手に取った。


「じゃあ結局描いてもらえたんですか、肖像画?」
 のけぞって仰天する江川に、長英は自慢げに胸を張る。
「ええ。一昨日が二回目の制作でした」
「順調そうで何よりですけど、そもそもよく頼みに行けましたね」
 三英からも同じ台詞を頂戴している。あちらは『恥ずかしげもなく』とか『図々しく』とか、その辺の言葉を付け足したそうな口ぶりだったが。
 そよ風が心地よい昼下がりである。江戸の喧噪を離れて閑静な郊外を四半刻ほど歩き、二人はこぢんまりとした料亭に着いた。
 入り口をくぐる長英は風呂敷包みを携えている。素人が描いた絵を見せるだけのことなのに、江川はえらく張り切った場所を用意してくれた。
「渡辺どのは遅れていらっしゃるのでしたね。いつ頃になられるかご存知ですか?」
「正確な時間は聞いてませんけど、そう長くかからないって言ってましたよ」
 簡単な食事を手配してもらい、酒は遠慮した。
「なんでも渡辺さんの同僚が急病で欠勤したとかで、その埋め合わせらしいだます」
「左様でしたか。その辺りは俸禄を食む身である限り、どうしても付いて回るものですな」
 致し方ありません、と江川は肩をすくめた。俸禄か、と長英は自分とは縁の切れた言葉に思いを馳せる。
 少し前、崋山が公務の一切を退きたいと願い出たというので、田原藩邸中が騒然としたことがあった。尚歯会の常連でもある羽倉簡堂が近く伊豆諸島を巡視するという話を聞き、その巡視に同行するため、というのが名目だった。現在進行形で大量の責務を抱えた藩家老の隠居など当然の如く容れられず、崋山当人も説得されて願書は引っ込めた。羽倉の元には弟子を代行させたらしい。
 長英たちの仕事場は政務の空間から離れた下屋敷だから、伝わってくる情報は打ち寄せる波の高さで沖の潮目を知るがごとしだ。それでも当時の崋山のいつになく沈んだ顔色と、程なくして彼の自宅を訪ねた時の光景は忘れられない。壁三面の棚を埋め尽くし、床にまで積まれていた蔵書の山がごっそり消えていたのだ。
 崋山の細君から長英の妻へと流れてきた噂曰く、崋山はほぼ全ての蔵書を藩の御文庫に寄贈して、家中で広く共有して役立ててほしい、と藩主に申し出たそうだ。これだけ代償を払うのだから自分の要求も認めてもらいたい、というわけだ。いつも二言目には大恩ある田原藩だの主君への忠義だのを持ち出す男が、どうやら本気で致仕を考えていたようなのである。
 内向きの政治には関心を示さない三英が、いつだったか下屋敷を出た帰り道にぽつりと言っていた。
「渡辺さんを見ていると、私は武士の家に生まれなくてよかったと痛感しますよ。あれじゃ生まれつき首に縄をかけられているようなものです」
 退役願が通っていれば、崋山の縄は解けたのだろうか。禄を返上し藩家老というくびきから逃れて、彼はどこへ行くつもりだったのだろう。
 料亭の入り口辺りから話し声が聞こえたかと思うと、足音が二人分近付いてきた。崋山が着いたらしい。もう一人は案内の者だろうか、それにしては妙に力強い、と長英が廊下の方を見やった時、無造作に襖が引き開けられた。
「邪魔するぞ、江川」
 すらりとした立ち姿に、江川が目を見張る。思いがけない来客だった。
「弥九郎じゃないか。何かあったのか?」
 目が合った長英は、互いに軽い会釈を交わした。斎藤弥九郎は伊豆代官江川の用人である。彼は練兵館という剣術道場の師範にしてひとかどの知識人でもあり、尚歯会にも時々顔を出すという関係だ。
「遅くなってすみません。斎藤さんとは店の前で偶然行き合いまして。江川どのにご用だそうです」
 弥九郎に続いて、崋山がようやく追いついた。少しだけ失礼します、と長英たちに断ってから、弥九郎は江川の隣に片膝をつく。
「国元から使いが来た。急ぎの要件じゃないが、知らせておこうと思ってな」
 手渡された分厚い文に、江川は素早く目を通した。
「この件なら、去年と同じ対応で構わん。既に屋敷の方で差配してあるはずだ」
「わかった。では」
「まあ待て、お主もさして急ぐ身ではなかろう」
 立ち上がろうとした弥九郎の袖を、ぐわしと掴んで江川が引き留める。
「長英くんが絵を見せてくれるんだ。いい機会だから、弥九郎も目に焼き付けておけ」
「ああ、道理でやけに張り込んでいると思った」
 稀に見る風通しの良い主従である。弥九郎の同席を快諾して、長英は風呂敷包みの結び目をほどいた。
「ほお、竹ですか。大したものだ」
 大きな眼を輝かせて、江川は熱心に見入っている。
「君、やはりどなたかに師事されていたのでは?」
「こう見えて素人芸だます」
 江川の言葉に、さしもの長英も苦笑いした。自分が真面目に学んだのは蘭学と医学ばかりだ。
「文人風なのですね。私はてっきり……」
 静かに鑑賞していた崋山が何事か呟きかけた。長英が目を向けたが、それきり黙ってしまう。
「こちらは何の絵ですか? 鯨とも鮫とも違いますね」
「サカマタ鯨という海に棲む生物だます。長崎の塾で提出した論文に添えたものでして」
 弥九郎が指した白黒の生物の生態を解説しながら、鳴滝塾での日々を思い出した。故郷とは比ぶべくもない高い空、風が運ぶ海の匂いまで、広がる記憶は昨日のことのように鮮やかだ。
 一番気心の知れていた岡研介は、今は大坂で医者をやっているらしい。鳴滝塾生らしからぬ大人しいやつだったが元気にしているだろうか。ドクトルには最後の最後で酷い目に遭わされたが、勉学も遊びも最上のものを与えてもらえたことは間違いない。しかし酷いといえばこのサカマタ鯨の論文だってそうだ、課された時は唖然とした。こっちは語学と医術の勉強をしに長崎まで来ているというのに、あのこんちくしょうは次から次へと欠片も関係の無い主題を――
「どうしたんです、長英くん」
 我に返ると、江川たちが揃って目を丸くしている。長英はぱちんと手で口を押さえた。
「すみません。ちょっと、考え事を」
 そうだ、長崎だ。蘭学を修めたあの土地は、きっと崋山の隠し事に関わりがある。
「ははあ、さては肖像画の件ですね。期待で気もそぞろ、ですか」
 膝を打つ江川にぎくりとした。弥九郎の手前なんと言うべきか迷っていると、江川があっさり経緯を話してしまう。
「先日長英くんは崋山どのに肖像画の仕事を頼んで、ものの見事に振られてしまったんだ。何か巡りが悪かったようでね」
 こわごわと隣を窺う。眉を下げて笑う崋山の唇が、まいったなあ、と声を出さずに動いた。
「ご友人の頼み事を拒むとは、あなたにしては珍しい」
「でも結局はお請けになったんでしょう? いかにも崋山どのらしい顛末ですよ」
「ええ、まあ、熱意に押されたと言いますか」
 面白がるような弥九郎たちの言葉に、崋山は頭を掻いている。江川を挟んでいるとはいえ、彼らの間にそれほどの親交があったのか。きょとんとしている長英に向かい、江川は順繰りに三人を指さして言った。
「そうか、長英くんは知りませんよね。崋山どのと弥九郎と私は、同じ剣術道場に通ってたんですよ」
 頭を殴られたような衝撃だった。
「わ、渡辺さん、剣やってたんスか?」
「一応これでも侍ですから。お二方の腕前には及びもしません」
「崋山どののご同輩が練兵館に通われているのも、確かその縁でしょう」
「よくご存知ですね、江川どの」
「とはいえ我々が同門だったのは、ずいぶん昔の話ですよ。渡辺どのが道場をお辞めになったのも私が独立したのも、江川が代官になるより前のことですから。今となっては、高野さんの方がずっと親密にされていると思います」
「や……仲良くはしてますけど、まだ数年の付き合いスから。知らないことばかりだます」
 ぎゅっと拳を握り込んだ。知らないのは、画家としての顔だけだと思っていたのだが。
「にしても渡辺さん、ほんと顔が広いだますね。流石というか、ほうぼうで縁をぶっちぎってきた俺とは大違いだます。その気になりゃ画家一本でやっていけるんじゃないスか」
 話題を逸らすつもりで長英は軽口を叩いた。あわよくば隠し事のとっかかりが引き出せればいいな、という程度の下心が無いではなかった。
 だから部屋の空気が微妙によそよそしくなったのは予想外だったし、それ以上に江川が大声を上げたのには飛び上がるほど驚いた。
「長英くん! なんてことを言い出すんですか!」
 ただでさえ迫力のある眼がくわっと見開かれている。
「崋山どのの画名は押しも押されもしない位を張っているし、私も尊敬しています。だが事もあろうに武士の本分というものを蔑ろにするのは、いくら君でも看過できない」
 あまりの剣幕に長英は一言も発せなかった。弥九郎に羽織の袖を強く引かれて、江川は慌てて声を荒らげた旨を詫びた。
「失礼。しかし実を申せば、私は以前から君の口ぶりが気になっていたんです。長英くん、崋山どのの画業に対する認識が少しずれていませんか?」
「認識?」
 思わず崋山を見やると、彼はじっと考え込むような顔をしながら江川を注視している。
「主家に仕える武士たる者、どこまでいっても、画業は教養か趣味の一つに過ぎません。崋山どのや私の師である谷文晁先生のように、文人として生きるなら別ですがね。生まれ持った責務を捨てるに等しい選択なぞ、生半可な覚悟ではできませんよ」
「でも」
 反駁しかけて口を閉じた。崋山は藩家老職を辞そうとしたではないか、などと無闇に言い立てるのは、流石に躊躇われた。
「これは全くの邪推ですが……画名が高まれば高まるほど、あるべき姿から遠ざかることに焦りが募る、という心の動きがあってもおかしくはありません」
 眉をひそめ、江川は気遣わしげに崋山の方を窺った。目が覚めたように崋山が瞬きした。
「それは、おっしゃる通りかもしれません。ありがたいことではあるのですが、どっちつかずで収まりが悪いというか」
「無理もないことです。何しろ元は生活のために始められた余技なのでしょう。辞めどきを見失って続けているうち、気付けばこんなに深入りしてしまった……。私が崋山どのに知遇を得た時、頂いた便りにはそういったお話が書かれていましたよ。もちろんご謙遜もあるでしょうが」
 ゆるく首を振って、江川は長い話を締めくくった。
「ですから、崋山どのの画家という職種を取り上げて殊更に特別扱いされるのは、控えた方がよろしいと私は思いますな」
 陽が暮れて風が出てきた。料亭を囲む木々のざわめきが打ち響いてくる。大きく揺れる梢が見えているかのように、弥九郎が壁の向こうを睨んでいる。
 ふと江川は崋山に向き直り、朗らかに声をかけた。
「そうそう、崋山どのの分の食事は弁当に詰めさせてもらいました。よろしければ持ち帰ってください」
「これはどうも、ご親切に」
 嬉しげに頭を下げる崋山は、もういつも通りの様子だった。
 帰りは江川が駕籠を二丁呼んでくれていた。健脚な主従は徒歩で帰るという。手厚いもてなしに一礼し、風呂敷包みを抱えて駕籠に乗り込む間際、長英は弥九郎を見上げた。
「俺、練兵館行ったことないんだます。近いうちにぜひ寄らせてください」
 ちらりと送った目くばせに、弥九郎が顎を引いた。
「いつでもお待ちしております」


 移転したばかりの練兵館の建物は真新しく、切り出した木のよい香りが漂っていた。門前で長英が訪問を告げると、まもなく道場主自ら出迎えてくれた。
「高野さんにはお忙しいところをご足労いただきまして」
「こちらこそ急に押しかけてすみません。俺は往診の帰りがけだますから、お気になさらず」
 弥九郎は手拭いで首筋を押さえながら、長英が提げている薬箱に目をやる。さまになる仕草だ。
「うちの門下生の間では、高野医院の薬が打ち身にいっとう効くと、もっぱらの評判ですよ」
 微笑む弥九郎に、それはどうもご贔屓に、と長英はおどけてみせた。
 互いに仕事中なので、自然と道場の隅で立ったまま話す流れになる。
「この前江川さんが話してたことだますけど」
「腑に落ちていないご様子ですね」
 ずばりと切り込まれ、長英は薬箱を持ったまま軽く両手を挙げた。
「話が早くて助かります。次の肖像画制作の日に、改めて渡辺さんに訊いてみたんだます。専業でもないのに画家扱いされるのは嫌かって。そんなことはないって言ってました」
 嘘か真かはこの際置いておくとしても、本心の核を突いた感触はなかった。
「俺の言い方に気を悪くしたから断られたわけじゃないんだ。あの人はまだ何か隠してる」
 空いている左手をひらひらと振りながら、長英は弁解した。
「江川さんの見立てが見当違いって言いたいんじゃありませんよ。れっきとした正しい鍵だけど、俺が開けたい扉には合わなかった、みたいな感じで」
「わかってますよ。あいつは代官の務めに邁進することが生きがいなんです。渡辺どのの学識を高く買っているからこそ、自分と同じ奉職者に違いないと思い込んであんな物言いになるのでしょう。許してやってください」
 弥九郎が苦笑して、すぐに笑みを収める。
「藩に仕えながら画家としても求められる今の状態に、渡辺さんご本人が満足している、と江川は思っている。渡辺さんに迷いがあるとするなら、武士の務めを趣味の技芸に侵されることだ、と。だが、あなたはそう思わないわけだ」
 静かな眼差しが長英を見た。
「高野さんのことも、江川から少し伺っております。それを踏まえて、私の身の上話にお付き合い願えませんか」
 稽古場には掛け声と竹刀を打ち合う音が絶えず響き渡っている。門下生たちの練習風景に顔を向けながら、弥九郎は過去を語り始めた。
「私は越中の農家の生まれで、武士に憧れて十五の頃に一人で江戸に出てきました。遠い親戚の旗本を頼って、屋敷の片隅で寝起きさせてもらう生活です。ともすれば見失いかねない夢と明日の糧を、必死に繋ぎ止める毎日でした。やがて剣術の師や江川に出会って、今はこの通り、なんとか剣で身を立てております。学問に縁づいたのも、その日々の副産物のようなものです」
 彼が長英の思考を汲める理由がよくわかった。自分たちは似ているのだ。
 視線を戻した弥九郎の、引き締まった顔つきが陰る。
「だが”こうはなれなかった私”が、江戸には数え切れないほどいるはずです。江戸だけではない。他の国にも、年代もさまざまな、上手くいかなかった私たちが燻っている」
 故郷を離れて立身しようとすれば、確実に運も絡む。仮に実力ですべてが決まるとしても、それで人が大それた夢を見なくなるわけがないのだ。
「昔は苛立ってしょうがなかったものですが、周囲が反対するのも当然です。このままでも真っ当に暮らしていけるはずの大切な我が子に、わざわざ道なき道を歩むよう勧める親はいませんから」
「素直に周りの言うことに従ってたら、俺と斎藤さんがこうして話すこともありえませんでした」
「そういうことですな」
 享受してきた窮屈な幸福を、そっくりそのまま還元するだけの人生が、自分たちにはどうしても許せなかった。
「江川の考えにも一理あるのでしょう。生まれ持ったものと求めるものが決定的に違えた時、普通は生まれ持ったものを守るべきなのです。それでも己の夢を諦められなかった人間が、何を捨て去ることになるのか。我々は知っているはずです。そして決断が間違っていようといまいと、失った痛みは永久に消えない」
 つと弥九郎は顔を寄せて、低い声で囁いた。
「憚りながら、あなたにも心当たりがあるのでは」
 かさぶたが剥がされるように、褪せた色彩が脳裏に蘇る。つまらない故郷の光景の中、ただ一つ哀しげな面影が、物言わぬままいつまでも佇んでいる。
「俺には、後悔なんて」
 首筋を汗が伝った。それ以上の言葉が、どうしても続かなかった。
「私に話す必要はありません。高野さんの抱えたものに焦点を当てれば、それが鍵になるかもしれない。私はそう申し上げたいのです」
 裂帛の気合いとともに一際派手な音が炸裂する。審判役の声が、いっぽーん、と朗々と響いた。
 医院兼自宅の方角に足を向け、一丁ほど進んだところで練兵館を振り返って、長英はぼそりと独りごちた。
「流石は剣の達人だます」
 避ける暇すら与えられず、気が付いた時には喉元に切っ先を突きつけられていた。
 首を振って早足で歩き出す。斬られる前に、己自身と向き合わねばなるまい。わかってはいるのだ。
「逃げる方なら、お手のものなんだけどなぁ」
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