かさぶたと花冠
「ところで高野くんは、私の手がけた肖像画をご覧になったことはありますか?」
肖像画制作も佳境に差し掛かりつつあったある日、崋山が画材を片付けながら尋ねてきた。
「いやあ、実はないんス。渡辺さんに依頼するのって偉い人ばっかりでしょう。あの界隈には密な付き合いもないし、頭下げるのがめんどくさくて」
初めほど緊張はしなくなったが、ずっと同じ姿勢で居続けるのは辛い。ぐるぐると肩を回し、首を鳴らし、手足を伸ばして客間で大の字になる。
「皆さん大事にしてくださっているので、見るには少々手間がかかりますね」
「多忙にかまけて先行研究の参照が不足しておりました。猛省致します」
笑いが収まってから、崋山はするすると襷を外した。
「というわけで、今から見学に行きます」
伸ばしていた足を振り上げ、反動をつけて長英は上半身を起こした。
「渡辺崋山の作を見るのに、私以上の伝手はありませんからね。君の肖像画がどんな風に仕上がるのか、君自身も把握しておきたいでしょうし」
長英の依頼を呑んでからこちら、崋山は肖像画制作に積極的だ。私情は脇に置いて、請け負った以上は全力を尽くすのが画家の矜恃なのだろう。『私の名にかけて』と語っていた穏やかな顔を覚えている。
先に立つ崋山の後ろ姿に目をやった。月代が綺麗に整えられ、上衣も比較的継ぎ接ぎの目立たないものを羽織っている。制作に対する身構えかと思っていたが、それなりの場所を訪ねるための礼儀でもあったようだ。
「渡辺登が参りましたとお伝えください」
崋山がおとないを告げた門は、並みの武家屋敷に勝るとも劣らない構えだった。門人千人とも謳われる天下の大儒者、佐藤一斎の邸宅である。
「私が昌平黌に通っていた頃、一斎先生に教えを乞うたんですよ。もうずいぶん長いお付き合いになります」
「なるほどね」
軽く鼻を鳴らして、長英は床の間の掛軸に向き合った。堂々と吊るす主人の心情も理解できるほど、その絵は見事な出来映えだった。
「構図や塗り方を決めるから、画稿は何枚も作るんでしたよね。この時はどれくらい描いたんだます?」
「一斎先生は特に多かったですね。軽く十枚は描きました」
「やっぱり恩義を感じているから?」
「否定はしませんが、それで顧客の扱いに軽重をつけたら怒られますよ」
表装されて掛軸になった一斎の肖像は、今まさに思索の海に潜っている賢人といった面持ちだ。きりりとした眉の下から厳しい眼差しが斜め前を睨んでいる。髭の剃り跡まで描き出されているのは、肖像画にしては珍しい。
写実性も圧巻だが、他にも気になる特徴があった。
「人物の首から上と下とで、描き方が違うんスね」
衣服や小物は見慣れた塗り方だが、顔の部分にはより繊細で透明感のある技法が使われている。特に陰影の付け方が独特だ。それを指摘すると、崋山はふっと遠い目になった。
「これを描いた頃は、人物画の表現を模索している時期でした。もっと良いものが描けるのではないかと、思いついたことを片っ端から試みましたね。それで画稿の数も増えたんです。ご覧の通り、一応無事に結実したのですが……」
言葉を切って、崋山は肖像へといざり寄った。目と鼻の先の距離で浮かされたように呟く。
「まだ足りないところだらけだ」
じっとりとした沈黙が降りた。それを守ったまま、長英は崋山の隣に膝を進めた。気付いた崋山が口許に笑みをつくろう。
「すみません、高野くんの用事なのに。参考になりましたか」
「ええ。連れてきてもらえて助かりました」
ならよかった、と崋山が立ち上がる寸前、長英は言った。
「渡辺さん、どこで西洋画の技法を学ばれたんだます?」
「いやあ、まいったまいった。絵描き仲間でもないのに一発で言い当てたのは君ぐらいですよ」
徳利を片手に、崋山は赤い顔で大笑した。
一斎邸を辞して、二人は手頃な居酒屋の席に着いていた。夕食を兼ねているはずだが酒の方が進んでいる。
「別に隠していたわけではないんですよ。機会があれば話すつもりでしたが、それも必要なくなってしまったなあ」
「今度解説もお願いします。俺は記憶と印象が一致したってだけで、技術的なことは何もわかりません」
景気よく注がれるがままに長英は杯を干した。
鳴滝塾で最も身近にあった西洋画といえば、学問の師であるシーボルトが持ち込んだ資料と、彼が着任後に採集した諸物の記録だ。記録の作成はシーボルト自身も取り組んでいたが、量が量だけに塾生たちも昼夜手伝わされた。江戸参府に随行した川原という絵師も、西洋風の絵画技法に馴染んでいた覚えがある。
「そんな審美眼を養えたのは、やはり長崎にいたのが大きいんでしょうね。いいなあ」
「だから大したもんじゃありませんって」
とろりと濁った酔眼が長英を捉えた。まるで血のように真っ赤な舌が、緩みきった唇を舐めた。
「私ね、長崎で絵を学びたかったんです」
机の下で、長英は片方の拳を握った。初めての手応えを確かめながら、慎重に質問を選ぶ。
「語学、じゃないんだますね」
「そっちは君や三英どのがいますからね、今となってはもう充分。それに長崎に憧れていたのは、責任ある身になる前の若い頃ですよ」
知らなかったでしょう、と言って崋山はへらりと頬を歪めた。
「今でこそ昌平坂の先生にご依頼いただくような大それたご身分ですけど、私が絵を始めたのは家族を食べさせるためでした。仕事といったら燈籠に張る絵が十枚で百文みたいな、要は内職ですよ。幸い適性があったみたいで、あてにできる程度の収入源にはなりまして。人脈らしきものもできるし、ちらほら依頼なんかも来るし。絵の世界を私に教えてくれた人がいなくなっても、私は絵を描き続けました」
ふらつきながら空の徳利を逆さに振っている。目に余って無理やり水を飲ませた。
「それで……どこまで話したっけ。ああ、そうだ。ほんと、口を糊する手段に過ぎないはずだったんです。人から画家と呼ばれるようになったのは、いつからなのかよくわかりません。世間の評価なんて気まぐれに移ろいますし、くっきり線を引けるものでもないんでしょう。でもふと気が付いてみれば、私が絵を描く動機は、もはや食い扶持稼ぎのためではなかった」
単に酔っているだけなら、こんなにも陶然として煌めくような声にはなるまい。絵の道に進み、一心に描き続けた経歴は、崋山にとって誇りなのだ。
「自分は絵描きだぞ、って思うようになってから、世界が急に色づいたようでした。描くことが楽しかった。学ぶのが面白かった。技術を知れば知るほど、描けるものも描きたいものも増える。学んでも学んでもまだ上がある。私は焦がれすぎた挙げ句、あまりにも欲深い、身の程知らずなことを考えてしまった。このまま貧乏藩士として一生を終えるより、いっそ絵の道を極めたい――生まれ持った身分も、愛する家族も、仕えるべき主すら、その夢には要らなかった」
藩費で留学ができるような財政状況なら、そもそも崋山は絵を描いていない。武家の長子であり既に出仕もしている彼が、私用で遠国に旅立つことを求めたならば、その意味するところは。
「脱藩しようとしたのか」
冷え冷えとした長英の呟きが、店内の喧噪に紛れた。
「しなかったんですけどね」
ひくっ、としゃくりあげる喉笛が、咽び泣きに似た音を立てた。
「結局は江戸にいながらにして、ちゃあんと西洋画の勉強ができました。物も人も大抵は江戸に集まってくる。わがままを言うな、と諭されるのも当然ですね」
学ぶことは江戸でもできる。崋山の若い頃に比べれば、学問の環境も経済状況も学びやすく変わっただろう。しかし実際に赴いて現地の風土に触れる経験は、他に替えがきかない。絵の門外漢である長英が西洋画に触れるような体験は、むしろ一つの道を極めるほど遠ざかりかねない。
「今からでも長崎に行こうとは」
「馬鹿を言っちゃいけない! 大黒柱が家族放り出してどこ行こうってんですか、ええ? この歳になっても私は隠居すら認めてもらえないんですよ!」
叩きつけられた拳が箸を跳ね上げ、小皿がけたたましい音を立ててひっくり返った。隣り合う卓の客が迷惑そうに振り返る。
「だからね、それを思うとやっぱり、若い時に何もかも振り切ってしまうべきだったのでしょうね。でもできなかった。私は……私には、父を置いていかれない。今あの時に戻れたとしても、きっと同じ道を選ぶ。わかるんです、自分のことだから。生きてきた中で、思い通りにできたことなんて一つもない」
震える拳の横に崋山の顔が突っ伏した。
「あーあ、君にだけは言うつもりなかったのになあ」
「ぼんやりとしか覚えていないんですが、酔い潰れた私を家まで送ってくださったそうですね。とんだご迷惑をおかけしました」
襷掛け姿で、崋山は申し訳なさそうに肩を縮める。
「それは別にいいだます。渡辺さんあんまり強くないんだから、無茶な飲み方しちゃいけません」
強いて医者の顔を表に出す。あの夜にぶちまけたことは詮索できなかった。あれこれとふっかけて過去を聞き出したのはあまりにも軽率だったと、後悔さえ抱いていた。長英が背負うには重すぎる。
「人生色々ありますけど、後先考えず飲むのは控えましょう」
「はい高野先生。気をつけます」
居住まいを正して、崋山は絵筆を手に取った。紙の前に膝をついて、二枚の鏡が映し出す長英を写していく。
今日が最後の素描の日だった。画稿を作る次の段階では、画家一人の作業になる。構図の参考に呼び出すとしても、一、二回程度で事足りるだろう、と崋山には聞かされていた。
最後だと思うと、期待よりも名残惜しさが膨らむ。肖像画制作の日々は、声を出して語らうのとはまた違う、静かで張り詰めた対話だった。他の誰にも邪魔されることのない、二人きりの時間だった。
崋山はどう思っているだろう、と長英は滑らかに走る穂先を見つめながら考えた。彼にとっては請け負った仕事の一つに過ぎないか。終わりが近付いたとて、何の感傷も抱かないだろうか。
長英にとっては、人生でただ一度だ。
無性に声を張り上げたくなった。喉が震える。頬の内側に力を入れて唇を引き結んだ時、やや厚ぼったい目蓋の下の瞳とはっきり目が合った。すぅと氷が溶けるように崋山の眼光が和らいで、普段の穏やかな彼が現れる。
瞬きした崋山の目から、一筋の涙が流れた。
「動かないで」
優しい声が長英を縫い止める。腰を浮かしかけたまま、伸ばそうとした腕が行き場を失う。無音の部屋に、ぱたり、と雫が落ちる。
「こちらに来てはいけません。君はどうかそのままでいて、私がなれなかった人よ」
触れられるのを拒むように絵筆を構えたまま、崋山は寂しげに泣き続けた。
「君の生き方が眩しかった。あまりに眩しくて、胸が苦しくなるくらい。私はずっと、高野くんのように生きたかったんです」
涙が一滴落ちるごとに、身体に力が入らなくなって、腰がへたりと畳に落ちた。
筆を硯に置く音がして、崋山が畳に手をついて身を乗り出した。肖像画の制作中、決して超えることのなかった一線がいとも容易く破られた。
するりと迫ってきた右手が頬をかすめて、長英の結わえた髪に触れる。鼻先に吐息を感じるほどの距離に、崋山がいる。動けなかった。
さりさり、と絶え間なく耳の後ろから聞こえる。後ろ髪を繰り返し繰り返し、崋山に手櫛で梳かれているのが鏡に映っている。染みついた墨の跡とたこの目立つ乾いた手が、長英からそっと離れた。うなじの後ろでさらさらと髪が開き、間もなく元の通りに静止した。
ありがとう、と小さな囁きが耳に届く。
「高野くんに出会えてよかった。かつて思い描いた夢が、歩めなかった人生が、こんなにも美しいことを教えてくれた。君は思うがままに生きて、そして幸せでなければならない。私が手放してしまった、もう見る資格のない未来を、どうかその目で見てきてください」
「やめてくれ!」
血を吐くような掠れ声を長英の喉が絞り出した。身体が動いた。畳に爪を立てている崋山の左手を、引き剥がすように握り締める。
「俺の人生は羨むようなもんじゃない。あんたみたいな立派な人が憧れていい道じゃない。頼むから、そんな悲しいことを言うな」
忘れようもない面影が脳裏に焦点を結ぶ。かつての婚約者を引き留めるでもなく、なじることもせず、ただ哀しげに見つめるうら若い従姉妹。学問という自分の夢を追うために、長英は彼女の人生を奪った。水沢には戻らない。千越に合わせる顔がないからだ。
「あんたは優しすぎたから捨てられなかったんだ。目の前の人が悲しむ顔を見たくなくて、秤にかけるまでもなく自分の心を殺した。それのどこが悪いんだよ!」
それは、尊い選択ではないのか。鷲掴みにした崋山の手を、長英は自分の胸にぎゅっと押しつけた。
「俺に出会えてよかった、って言ってくれた。それなら今の道を選んだから俺に会えたって、そう考えてくれたっていいじゃないか」
がしゃん、と硯がひっくり返った。手を振り解いて大きく後ずさった崋山の、涙に汚れた顔が凍りついている。
「君一人ごときで何もかも救えるなんて思い上がらないでください」
刃物で抉られたような痛みが胸に走った。無表情がくしゃりと歪んで、崋山がくずおれるように面を覆う。
「だから嫌だったんです。君は誰よりも奔放で、傲慢で、それがどれほどまばゆいことか自覚すらしていないから。ずっと向き合うなんて気が狂う。長崎のことだって、全部黙っているはずだった。こんな愚か者のことなんか、永遠に知らないままでいてほしかったのに」
こぼれた墨が紙に溜まり、畳まで汚していた。鏡が倒れて、あらぬ方を映している。
肩を震わせる崋山の袴に黒い飛沫が滲んでいる。自分の手の甲に同じものが跳ねていることにも気付かぬまま、長英は虚ろに座り込んでいた。
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