かさぶたと花冠


 尚歯会の会合が終わると、長英は挨拶もそこそこに部屋を抜け出した。部屋の中から崋山の話し声が聞こえてくるのを確認して、ほっと息をつく。今日に限って用事が無いんだよな、と悩みながら会所の廊下を歩き出した。
「聞きましたよ長英くん! 手の込んだ似顔絵を描いてもらってるんですってね」
 いきなり背中を叩かれて長英はたたらを踏んだ。
「もしかして尚歯会中に知れ渡ってるんだます?」
 踏みとどまって肩越しに振り向くと、川路聖謨は明るく片目をつぶってよこした。
「広まってはいると思いますけど、何も言いふらして歩いてるわけじゃありませんよ? 長英くんが絵を頼むなんて意外なんで、印象に残るんです」
 調子はどうですか、と尋ねられて、束の間目が泳いだ。制作の進捗を訊かれているだけだと気付く。
「下絵は終わったみたいス。先日までは俺も渡辺さんの家に通ってましたけど、あとはお任せだます」
 川路は半身を引いて、しげしげと長英を眺める。
「そうか、渡辺どのは見て描くんですもんね。連日差し向かいってことですよね。うわあ、緊張しそう」
「めちゃくちゃ緊張しますよ。だんだん慣れますけど」
「経験者っぽい台詞だ。よかったらお話もっと聞かせてくれませんか?」
 長英は背中を押されるようにして会所の玄関に向かった。川路は愛嬌があるだけでなく、とかく目端が利いて気の回る男である。胸の内で感謝しつつ、元々川路が別の知人と予約してあったという小料理屋へ同道した。
 座敷に上がり、ほんの一瞬だけびくりとする。もう警戒心など消えたはずなのだが、困ったことに第一印象が抜けてくれない。
「間宮先生、お待たせしました」
 躊躇なく隣席に落ち着いた川路に、間宮林蔵は頭を垂れて簡潔な挨拶を返す。
「お気になさらず。先に出て先に着いただけです」
 林蔵は驚異的に足が速い。長英たちとほとんど同時に会所を出たはずなのに、後ろ姿を見かけもしなかった。
「ちょうど行き合ったので、長英くんもお誘いしたんです。先生には事後承諾で申し訳ないんですが」
「私は構いません」
 太い眉の下からぎょろりと丸い目が向けられた。初老にさしかかった林蔵の風貌は、特有の理知的な輝きを宿しているものの、むしろ朴訥とした人相に見える。
 北方を始めとする各地を己の足で踏破した彼の開かれた世界認識は、直接言葉をやりとりする中で深く理解している。だから長英は川路を信頼するのと同様に、林蔵も信用することにしていた。
「ここは蕎麦が美味いんですよ。たまたまなんですが、天の采配というやつかもしれませんね」
 農村向けに蕎麦の紹介を書いたことがある長英は力無く笑った。我ながら相当参っている。
「高野さん、元気がないようですね」
 対照的に林蔵は遠慮なく突っ込んでくる。誰に対してもこういう言い方で、その点は長英と気が合うかもしれない。
「尚歯会の渡辺どのが絵を描かれるのは間宮先生もご存知でしたよね。長英くんは、最近あの方に肖像画を描いてもらっているんです。ところが……何やら揉めちゃったようで」
「肖像画ですか。私なら御免被りますな」
 少し眉を上げた林蔵の言葉は、文面の印象とは裏腹に感嘆を帯びていた。
「誤解なさらないでください。ご友人との間に深い信頼関係を築いていらっしゃるのだな、と思ったまでです」
「そうだと嬉しいんスけど」
「描かれるのを許すということは、そういうことでしょう」
 林蔵は断言した。注文を取ってから、川路が興味深げに尋ねる。
「先生は肖像画を描いたり描かれたりするのに、技術だけではなく人としての信頼が関わってくるとお考えなんですか?」
「描かれる側の心の持ちようですね。ただ外見を写しただけの絵なら、さほどの価値は生まれんでしょう。本当に優れた画家なら必ず外見以上のものを描く。それを承知の上で依頼するのだから、画家に対する一定の信頼を伴うと言えます」
 崋山なら描けるだろうな、と長英は思った。喰らいついてくるあの眼差しには、そう思わせるだけの迫力があった。
「絵に描くことができるということは、少なくとも画家の目には外見以上のものが見えているということです。描かれる側は画家の前で丸裸になる、いや、はらわたを開かれるも同然だ。奥の奥まで見透かされて、己すら知覚していない顔が暴き立てられる。表面上取り澄ましても無駄なことです。それを許すことが信頼でなくて何でしょう。絵画にせよ文書にせよ、ものを記録して留めるという行いは、信頼があって初めて成り立つのではありませんか」
 言語も文化も異なる土地を巡り、人々と対話を重ねてきた林蔵の経験が言わせる言葉なのだろう。
「てことは長英くんは、渡辺どのになら一切合切ゆだねてしまっても構わないと思ってた、ってことですね。ふう〜ん」
 川路が目玉だけこちらに向けて、物言いたげに口先を尖らす。
「なっ何だますか、その言い方」
 まごつく長英をよそに、林蔵は静かに首を振った。
「私には無理です。己のすべてを明らかにする行為は、致命的に危ういと感じてしまう。いくらその人を心から信頼していても、本能が危険を訴える。ましてやそれが形になって残るなど考えられません」
 林蔵の容貌に束の間恐ろしい鋭さがよぎって、背筋がすっと冷えた。
「私は誰の記憶にも残らなくていい。闇にうずもれ、塵となる定めで構わない。……そうこぼしたら、川路さんに怒られましたが」
「怒ったなんて人聞きの悪い。もう日記に先生のこと書いちゃいました、って慌てただけですよ」
 薄くはにかむ林蔵に、川路はにやりとしてみせた。
 膳が運ばれてきたので、一同は食事に移る。ざる蕎麦を一口啜り、またこの店に来ようと長英は思った。江川に弥九郎、三英と崋山も誘って。
「さっきの間宮さんのお話に則れば、渡辺さんも今まで描いた人らに内面をそっくり見られてきたってことだますよね。画家も大変スね」
 湯呑みを片手に長英が言うと、蕎麦つゆに山葵を山盛り入れていた川路がきょとんとした。
「いや、普通の依頼者はそんなことしませんよ」
「は?」
「だって描くのは相手の仕事じゃないですか。相手を観察するどころか、よく描いてもらおうと自分が格好つけるので精いっぱいでしょ」
 取り繕おうと思っていなくても、じっくり見られると意識しない方が難しいものだ。蕎麦をつるつると啜ってから、川路がまた口を開く。
「間宮先生みたいに考えられる方は少数派です。それに画家の内面なんて、上手ければ誰でもいいとまでは言いませんけど、別に深く知る必要はないじゃないですか。一度っきりの付き合いの仕事相手に興味持ちますか?」
 川路は箸を持ったまま、組んだ指の上に顎を乗せて、あくまで爽やかに長英の嘘を暴いた。
「さては君、自分の肖像画を描いてもらうのが目的じゃありませんね?」
 ご明察。
「降参だます。俺は、画家としての渡辺さんの顔が知りたくて……」
 言いさして、口をつぐむ。
――俺が本当に知りたかったのは、それだけじゃない。
 長英のすべてを見透かされていたことよりも重大な事実は、自分がそれを苦に感じていないことだった。川路の言う通りだ。長英は崋山になら何を見られても構わないと思っている。
 だから、崋山にも同じくらい曝け出してほしかった。情けない顔も頼りないところも、あますところなくぶちまけてほしかった。
「あんたの全部を知りたい、なんて、そりゃ傲慢って言われるはずスよね……」
 頭を抱えたくなる。
「まあねえ、私も普段渡辺どのを見ていて思いますけど、あの方は見た目よりややこしいですよ。ともすれば君以上の激情を煮えたぎらせているのを、お腹の底にぐっと押し込めて蓋をして、おくびにも出さないようにしている。本音をひた隠しにすることに慣れすぎて、率直に打ち明けるのが怖いんじゃないでしょうか」
「表向きに作った性格を使い続けると、いつの間にか本来の人格にも影響することはままありますね。仮初の性格を本性だと思い込んでいるだけの人もいますが」
 二人の言葉は長英自身の過去をも照射した。江戸に出てきてからこちら、生まれつき孝行心の欠片も持ち合わせていない人間として通ってきた。長英自身も己をそういう人間だと定義して、だから自分の心はちっとも痛んでいないと思っていた。
「心って、自分でさえ忘れてしまうものだますね」
 長英はぽつりと呟いた。
 世界を知る目を最初に授けてくれた義理の父は、別に嫌いというわけではなかった。水沢の鄙びた雪景色も、雪の少ない長崎まで離れてみれば悪いものではなかった。もし長英がもっと平凡な人間に生まれていたなら、千越とともに家を守って暮らしていくことに何の迷いもなかっただろう。それらの素朴な情愛よりもなお大切な、自分の命に替えても成し遂げたい夢があっただけなのだ。
「人って自分でも忘れてたような本心を不意に突かれると、びっくりして反射的に拒絶してしまいますからね。わっと感情を出してしまうってのは、むしろ長英くんに気を許している証明ですよ。大丈夫大丈夫、仲直りできます」
「川路さん……」
「親交は回復できるでしょうが、元の願望は捨てた方がよろしいと思います。人間は部分的にわかりあえることもありますが、根本的には一人一人が別の宇宙に住んでいるようなものです。誰かのすべてを理解することなど元より不可能ですよ」
 励まされる暇もなく林蔵にばっさり言われてしまった。横で川路も遠慮なく吹き出している。
「でしょうね。自分のことすらわかってないんスもん」
 長英は耳の後ろをほりほりと掻いた。さっきからこの辺りが火照って仕方ない。
「それでも、俺はあの人に手を伸ばしていたい。一番近くで、今のあんたに会えてよかったって言い続けたい。だって俺、尚歯会で喋ってる時も、一緒に蘭書の翻訳してる時も、絵を描いてる時も、酒飲んでる時も、全部の渡辺さんが好きなんだます。――理解することは叶わなくても、祝福ぐらいなら、俺にもできると信じています」
 結わいた髪を指先で梳き、きっぱりと長英は言い切った。
「そう思い込めるのなら、私が口を挟む余地はありませんな」
 林蔵が眩しげに目を細めた。蕎麦湯をとぽとぽと注ぎながら川路が言う。
「間宮先生にも、誰かのすべてを理解したかったことがあるんですか?」
 湯気の向こうに、郷愁に似たほろ苦い表情が浮かんだ気がした。
「もしかすると、あったのかもしれません。私は自分の感情さえよくわからないまま終わってしまいました」
 その人生もまた、長英が口を挟むことではないのだ。
 

 川路たちと別れた蕎麦屋の店先で、ぱんっと音高く両頬を叩くと、長英は大股に歩き出した。途中で思い立って麹町の自宅に寄り、すぐ三英の家に向かう。
「おや長英くん。何のご用です」
「いや、借りてた蘭書返そうと思って」
 例会に持っていけば事足りたのだが、ぼんやりして忘れていた。
「君が物忘れするほど頭を悩ませることねえ」
 ぱらぱらと蘭書をめくりながら、三英は本に語り聞かせるように言った。
「何があったか知りませんが、早く仲直りしてください。君と渡辺どのがぎこちないと、とうとう見放されたかと思って不安になるんです」
「はは」
 戸口にもたれかかり、長英は空を仰いだ。丸い雲が浮かび、陽光が穏やかに軒下を暖めている。
「なあ三英さん、あんたは大切な人のことは全部知りたい? それとも理解できない存在のままでいたい?」
 眉間に皺寄せて、三英は蘭書をぱたりと閉じた。
「長いこと、書物だけが私の救いでした。学問の世界に耽溺していられるのが何よりの幸せで、人にどう言われても気にならなかった。知識さえ得られれば、他には何も望まなかった」
 横書きの題字をなぞっていた指先が止まる。
「今は、君たちと毎日でも話していられたらいいのに、とも思っています。そのぐらいが私みたいな偏屈者にはちょうどいいんです」
 よっと弾みをつけて長英は身を起こす。
「俺は三英さんのことも友達だと思ってますからね」
「光栄ですね」
「だからお望み通り、ずっと一緒にいましょう。そんで、まだ俺が知らない貴方のこと、いっぱい教えてくださいね」
 にっと上目遣いに長英は笑って、くるりと踵を返した。戸を閉めながら三英はへの字に唇を曲げて、もぐもぐと呟く。
「やれやれ、よくもあんな小っ恥ずかしい台詞を……。老後も退屈しなさそうですね」


「俺に仮病を使うとは、なかなかどうして図太い神経をお持ちだます」
「お医者様相手には分が悪かったようですね。今後は別の手を考えます」
 くつくつと喉の奥で笑う長英に、崋山はしらっと澄まし顔で返してみせた。
 田原藩邸長屋の私室に立てこもっていた崋山を引っ張り出し、長英たちは大通りまで出ていた。ゆるやかな人の流れに沿って、当てもなく歩く。今日に限っては、これぐらい騒がしい方が話しやすかった。
「今朝、国元からわかめが届いたんです。近いうちにそちらにもお裾分けしたい、と家内が言っていました」
 建ち並ぶ商店を見るともなしに、崋山が独り言めかして呟いた。
「それはどうも。母もおユキも喜ぶと思います」
「詫びと思って受け取ってやってください。あの後私はずいぶん叱られたんですよ。お世話になっている高野先生に、それでなくとも酔っぱらって迷惑をかけたのに、その上あんな暗い顔で帰らせるとは何事だって」
 しんと互いに黙り込む。今だ、今しかない、と長英は己を奮い立たせた。
「渡辺さん。俺は全然あんたのことを知らない。昔のあんたがどんな人だったとか、何があったとか、聞けてないことが山ほど、いいや、たとえ全部話してくれたって本当の本当にはわからないんだ。あんたを理解してるだなんて、俺の思い上がりだった」
 表向きの顔が虚飾だった、というわけではないのだろう。忠義の理念も絵の道も、崋山にとって同じくらい大切だから悩むのだ。武士としての彼も、画家としての彼も、どちらも崋山の内包する一面なのだ。
「あんたが選んだ行動はあんたのもので、あんたの人生はあんたのもので、俺にはどうこうする力も権利もない。俺はそれがものすごく悔しいけど、あんたの人生はあんた一人で背負うしかない。けれど」
 袖の触れ合う感触がした。雑踏の中でも、崋山は隣から離れずに歩を進めている。すぐ側で聴いてくれている。だから長英は顔も見ずに最後まで話せる。
「人の命は、自分だけで完結するものじゃない。関わってきた全ての人と、互いに影響を受けたり与えたりして作り上げられてる。あんたの言動や存在そのものが、誰かの運命を変えたことだってあるはずなんだ」
 言葉を切って、浅く息を吸った。拍動が速すぎて胸が痛い。
「例えば、俺たちが初めて会った時のこととか」
「……三英どのに引き合わせてもらった時ですか?」
「ん、そっちじゃなくて」
 崋山の目が大きく見開かれた。
「長淑先生の葬儀でお会いした時、あんたは長崎に幕府公認の蘭学塾が作られると言っていた。俺はなんにも知らなくて、後で周りの奴に詳しい情報を聞き回ったよ。ずっと行きたかった長崎に学び舎ができると知って、じゃあ次はそこしかないって思ったんだ」
 吉田長淑という無二の師を失い、あの時の長英は途方に暮れていた。故郷を飛び出してから必死に抱えてきた灯りがかき消えて、暗闇に鎖されるかと思った瞬間、新しい道が照らし出されたのだ。導きの光となったのは、紛れもなく崋山との出会いだ。
「つまり、俺は渡辺さんのお陰で長崎に行く機を掴んだ、とも言えるわけで」
 また浅く息を吸い、反応が怖くて早口で続けた。
「やっぱ覚えてませんよね。まともに話してないし」
「変な人もいるもんだなあ、って思っていましたよ。吉田塾の自称一番弟子さん」
 考えるより先に足が止まる。懐かしげに目を細める崋山の面差しが、あの日の記憶に重なる。
「まさかまた会う日が来るなんて、夢にも思わなかった」
 微かに震えた声音に、何か返そうとした長英の喉が詰まった。通行人にぶつかられて、慌てて二人は人の流れに沿い直した。
「あの日私がしたことなんて、長淑先生のご霊前で偶然に君と出会って、ほんの二言三言交わしただけです。たったそれだけの、すれ違い同然のやり取りが、高野長英という最高の蘭学者をこの世に生み出したのなら」
 俯き加減に、崋山は目頭を押さえた。
「私が長崎に行けなかったことも、無意味ではなかったのかもしれませんね」
 そうだ、と長英は声に出さずに頷いた。崋山が己の過去を許せた。運命の意味なんて、それだけで充分だ。
 すんと音を鳴らして、崋山は鼻先を上げた。鼻が鳴ったのをごまかしたいのか、くすくすとおかしそうに肩を揺らす。
「それにしても『失礼ですがあなた様は?』なんて、今の高野くんじゃ考えられない言葉遣いでしたね」
「ちょっ、今でも言うべき時はそれぐらい言えますから」
 もっと気安い関係になったから、口の利き方も変えたまでだ。
「今の君が、あの頃の私とだいたい同い年ですか。若かったなあ。君は髷を結っていたし」
 言い終える前に、崋山の腹に何かが勢いよくぶつかった。
 それは砂埃が立つ地面の上へ、鞠のように転がった。がたがた震えながら顔を上げたのは、まだ年端もいかない子どもだった。
「あ……お侍さま」
 子どもはひび割れた唇をわななかせながら、ぎこちない動きで後じさる。くるぶしの浮き出た足元は草鞋すら履いていない。垢じみて破れそうな着物の裾が、土を擦っていっそう汚れた。
「ま、前、見てなくて、あの、……ごめんなさい、ごめんなさい、どうかお許しを」
 額を擦りつけて這いつくばる子どもの前に、崋山はかがんで膝をついた。
「怪我はないかい?」
 華奢すぎる肩を軽く叩いて、顔を上げるよう促した。脂で固まった前髪を払って、そっと頭を撫でてやる。
「うん、どこも血は出ていないね。立てるかな」
 手を貸して立ち上がらせてからも、子どもは口も利けずに崋山を見上げていた。
「おじさんはなんともないから。さ、お行き」
 子どもは控えめに照れ笑いを浮かべ、おずおずとお辞儀した。長英にも会釈をしながら、身を縮めて二人の間をすり抜けようとする。
 その細い二の腕を、はっしと長英が捕まえた。
「高野くん!」
 全身を強張らせた子どもの様子に、見たこともないほど崋山が青ざめた。必死の形相で長英と子どもの間に割って入ろうとする。
「やめてあげてください、私は気にしていませんから、どうかこの子は許してあげて」
「坊主、それは置いていきな」
 逃れようともがく子どもの耳元に口を近付けて、長英は低い声でぴしゃりと言い放った。子どもの動きが止まる。
「番所沙汰にはしたくないだろう。俺らにとってもそうだよ」
 その言葉にあっと声を上げ、初めて崋山は懐をまさぐった。財布は言うまでもなく、素描のために持ち歩いている帳面まですられている。
「お見事……」
「感心してる場合じゃないでしょ」
「いや、君の手際も含めて」
「あんたが危機感なさすぎるだけだます」
「ちくしょうっ離せよ、離せったら」
 掏摸をはたらいた子どもを身体の陰に隠すようにしながら、裏長屋の密集する路地に引っ張っていく。適当な空き家の上がりかまちに子どもを座らせ、両隣を長英たちで挟んだ。
「役人の前に連れてかれたくねえなら、黙って盗ったもん返しな」
 観念したのか、子どもは忌々しげに舌打ちした。帯の中に手を突っ込み、薄れた矢絣文様の財布をふてぶてしく取り出す。
「あの、帳面は」
 ぷいとそっぽを向いて、子どもは舌を出した。
「大事なものなんです。何だったらお金はあげますから、返してください」
「やだね」
 子どもは強い視線で長英たちを睨めつけた。
「あんた医者だろ、髪型で分かるよ。そっちなんか二本差しじゃん。明日の飯にも寝床にも不自由しないくせに、おいらからこれ以上奪って楽しいかよ」
 ぐっと唇を結んで、崋山が目を伏せた。こういう時に傷ついておきながら何も言わないのが、どうしようもなく崋山である。
「言って聞かないならしょうがねえな」
 けっと子どもは唾を吐き捨てた。
「肩を外す? 脚を折る? どうにでもしなよ」
 世の中を恨む暗い瞳の中に、怯えの影が揺れていた。おどおどした偽りの姿と同じ、身体を抱きすくめて泣き出しそうに震える、あまりにも小さな影がそこにあった。
「これと引き替えならどうだ」
 長英が突き出したのは、自身の財布だった。
「盗みはよくない、だから帳面はちゃんと返すこと。でもこれは俺がお前にあげたんだ、わかるな?」
 まじまじと長英の頭から爪先までを見つめ、信じられないと呟きながら、子どもは袷を開いて帳面を取り出した。
「おじさん、いつか痛い目見るよ」
「もう見てる。二度も三度も変わりねえさ」
 子どもの額をつんと小突く。
「でもそれを使い切っちまって、また他人様のものに手を出してたら世話ぁない。そうならないために、いいか、今から言うことをしっかり頭に叩き込め」
 長英が噛んで含めるように教えたのは、高野医院の裏手に建っている神社の名前だった。
「そこは今、ちょうど下働きを募集してる。この神社に行って、働かせてもらえるよう真剣に頼んでみな。請人は誰かと訊かれたら、今から渡す紙を出すんだ」
 長英は懐紙を取り出し、崋山に矢立を借りた。自分の名前と住所を書く。神主とは顔見知りだから、多少融通をきかせてくれるだろう。
「この紙だ、しっかり持っときな。お前の周りに字の読める人はいるか?」
「うん。姉ちゃんが読める」
「よし、じゃあこっちも渡しとく。これはかな文字で神社の名前が書いてある。忘れたら姉さんに読んでもらえ」
 懐紙二枚を手にこくりと頷く子どもの頭を、長英はぐしゃっとかき混ぜた。
「達者でやれよ」
 空き家を出て、子どもが辻を曲がって見えなくなると、崋山は長英に深々と頭を下げた。
「誤解して申し訳ありませんでした」
「いいってことよ」
 たぶん過去に何かあったんだろうな、と長英も察していた。その事情は一生知らず仕舞いかもしれないし、崋山の気が向けば知ることがあるかもしれない。
「それから、取り戻してくれてありがとうございます」
 財布を袂に入れ、帳面は大切そうに懐に仕舞った。
「やっぱり金より大事なんじゃないスか」
「お金では買えませんから」
 懐を撫でてから、崋山はつくづくという面持ちで長英を見上げる。
「しかし君ねえ、財布まるまる渡す人がありますか」
「あそこでちまちま小銭を摘まめと?」
「そうは言ってません」
「第一財布なくしたところで、早々困ることなんて……あ」
 顔をつるりと撫でた手が口許で止まる。全身の血が、ざーっと足下に落ちるような気がした。
「肖像画の代金、払えねえ……」
 まだ前金しか渡していないのだ。そしてもちろん、長英の小遣いからの持ち出しである。
 崋山があんぐりと口を開けた。どうしよう、全部台無しだ。
「すみません……しばらく待ってもらえないだます? それかあの、分割でもよければ……いずれにせよ半年はかかるんスけど……」
 崋山は俯いて答えなかった。おろおろする長英の前で肩を震わせ、背中を丸めてうずくまり、とうとうこらえきれないという風に吹き出す。
「ああ高野くん、きみ、きみって人は、本当に!」
 汚れるのも構わず膝をついて地面をばしばし叩いている。二の腕を掴んで持ち上げてもしゃがみ込んだままだ。笑いすぎて立てないらしい。
 起き上がる気配がないので、仕方なく隣に長英もしゃがんだ。腕に顔をうずめて、ぷっと膨れっ面を作ってみる。
 息をぜいぜい切らしながら、崋山はよろよろと上半身を起こした。ようよう呼吸を整えてから、しゃがんでいる長英に目を向ける。先ほど長英がした仕草と同じように、拳の先でちょんと額をつつかれた。
「そういう後先考えないところが、私は心の底から大好きですよ」
 小皺を刻んだ目尻に笑い涙を滲ませたまま、崋山は完爾として言った。
「さて、夕飯くらいおごります。お礼も兼ねていますから好きなもの言ってください」
「あの、肖像画は」
「うーん」
 暮れなずむ夕陽をしばし仰いで、食べながら考えましょう、と崋山はあっけらかんとして笑った。
次へ

powered by 小説執筆ツール「notes」