かさぶたと花冠
「尚歯会に何かご用だますか」
会所の廊下で高野長英に声をかけられて振り返ったのは、ずんぐりとした丸顔の青年だった。例会では見たことのない顔だが、記憶のどこかにうっすらと引っかかるものがある。
「すみません、こちらに崋山先生はいらっしゃいますか?」
部屋の前で立ち往生していた、いかにも人のよさそうな訪問者は慇懃な物腰で尋ねてきた。端麗な表装が施された二本の筒を大事そうに抱えて、袴に矢立を差している。その出で立ちと、『崋山先生』という呼称で、彼の素性の見当がついた。
青年の代わりに障子を引いて、師匠を呼んでやる。
「渡辺さん、お弟子さんが来てますよ」
残り少ない顔ぶれの中から、すぐに彼は立ってきた。
「やあ、福田くんか」
「今日は尚歯会においでだと奥様に伺ったもので……お取り込み中でしたら、出直してきます」
「いや、もう会はお開きになったんだ。今は囲碁なんぞやりながら世間話しているだけだよ」
言いながら渡辺崋山は廊下に踏み出してくる。あまつさえ長英に向かって、閉めてください、と手振りで示すものだから、逆にその肩を捕まえた。
「中で話せばいいじゃないスか。福田さんも、どうぞ入ってください」
崋山は肩に乗った手をちょっと見て、ぽんと払う。
「隅の方なら、お邪魔にはなりませんかね」
二人に促され、青年は恐縮しながら敷居をまたいだ。
「福田さん、っていったな。どっかで見た顔なんだけど」
床の間の前に座布団をしつらえて話し始めた師弟を眺めながら、長英は首をひねった。
「渡辺どののお弟子さんなら、一度くらい顔を合わせていてもおかしくないでしょう」
小関三英がちまちまと碁石を片付けながら言う。さっきまで崋山と碁を打っていたのだ。傍らに置かれた湯呑みの中を覗いて、長英は急須を引き寄せた。
「そりゃごもっともスけど、どこで会ったか思い出せなくて悔しいんだます。注ぎましょか」
「おや、どうも。長英くんの記憶力でそう言うぐらいなら、会ったといってもほんのすれ違い程度なんじゃないですか」
「私もあの青年は見知っておりますよ」
溌剌とした声音に、長英と三英は顔を上げた。向かいに座る人物の、大作りな面をまじまじと見返す。
「江川さんが?」
「お茶あふれますよ」
急いで急須を引き上げてから、二人は改めて江川英龍の話に耳を傾けた。
「お二人もご存知の通り、崋山どのは多くの方に絵を教えていらっしゃいますけど、福田さんはとりわけ優秀な門下生だそうです。山水画を描かせたら江戸でも右に出る者はいないとか。あの様子をご覧になればおわかりでしょう、実直なお人柄ですから、良き師の元でさぞかし懸命に修行なさったのだと思います」
要領を得た江川の語りに、湯飲みを両手で包んだ三英が納得した面持ちで頷いた。
「そういえば江川どのは、渡辺どのと兄弟弟子のご関係でしたね。道理でお詳しいわけです」
「画会で福田さんにお目にかかって、ご挨拶したこともありましたな。ま、知っているといってもこの程度です」
「なるほど。そういう方なら、渡辺どののお家にも繁く出入りされているでしょう。長英くんが見覚えあるというのも、大方その辺りで居合わせたんじゃありませんか」
ね、と同意を求められた長英は、しばらく沈黙した末に言った。
「山水画で右に出る者がいない画家……のお師匠、だますか。なんか忘れがちなんスけど、渡辺さんって結構すごい絵描きでしたね」
無論、知識としては頭に入っている。かつて引き合わされる前にも三英から説明されたし、江戸どころか遠国の画壇でも渡辺崋山の名前は揺るがぬ地位を築いていた。
本格的な制作風景までは見たことがないものの、崋山がささやかな素描に取りかかる姿ならたびたび目にしている。肌身離さず携帯している帳面を開いては、知人の何気ない仕草をさらさらと描きとどめてみせ、酒の席では大らかな筆運びの縁起物を即興で描き上げる。名の通った画家でありながら、彼は実に身軽に絵筆を取る。
しかし依頼されて仕上げるような大がかりな作品や、そういった仕事に向き合う姿勢に関しては、長英は何も知らないに等しかった。一番長く顔を合わせている尚歯会では、会合の趣旨もあってか滅多に話題に上らない。不思議なことにそれ以外の場においても、崋山自身の口から画業について語られた記憶はほとんどなかった。自分の業績を殊更に喧伝するような人物ではないが、まるで口をつぐんでいるようなさまが今更のように不自然に思われた。
「すごいなんてものじゃありませんよ。武士でありながら、手慰みのはずの画業でもあれだけの極みに達している。どれほど研鑽すれば追いつけるのか、いやはや常人にはおいそれと真似できますまい」
江川の熱弁に相槌を打ちつつ、部屋の片隅を見やる。ちょうど話がひと段落ついたところらしく、福田青年が持参した掛軸を巻き取っているのが見えた。崋山が膝立ちになって手伝ってやっている。
「江川さん。実は俺も、ちっとばかし絵の心得があるんだます。鳴滝……もとい、長崎で学んでいた頃に、必要だったもんで」
後ろ姿しか見えない崋山の肩が、ぴくりと跳ねた。
「へえ! 初耳ですね」
「ほんのたまにですが、今でも描きますよ」
「ぜひ一度拝見したいものです。そうだ、せっかくですし、君も崋山どのに師事されてはいかがですか」
「それはやめときます。俺の絵こそ、手慰みに過ぎませんから」
長英は勢いよく手をつくと、一動作で立ち上がった。茶が手にかぶった三英の悲鳴を聞き流し、ずんずんと部屋を横切る。
振り向いた崋山に、口を挟む間隙も与えず言った。
「渡辺さん。俺を描いてくれませんか」
「肖像画のご依頼、ですか」
弟子を見送ってきた崋山は、代わって長英と差し向かいになった。
渡辺崋山が得意とする画題ぐらいは、雑談のついでに小耳に挟んでいる。花鳥画、俳画、人物画に風景画。中でも複数の技法を調和させた肖像画の表現はほとんど革命で、依頼が引きも切らないほどの評判だということも。
うーん、と唸ったまま腕組みをして動かない崋山の姿に、長英は少し戸惑いを覚えた。まさか難色を示されるとは思いもしなかったのだ。
「……理由をお伺いしても? いえ、君らしからぬ物言いだと思いまして。これが大先生でござい、と自分の顔を塾の正面に掲げる柄でもないでしょう」
一体どういう風の吹き回しですか、と聞き返してきた崋山から、長英は決まり悪く目を逸らした。
「まあ、他人に顕彰されなくても俺は偉人スから」
「はいはい、それで?」
「えーと、渡辺さんが俺を描いたらどうなるのかなぁって。せっかく本職の絵描きとお近づきになったんだし、この機を逃すのはもったいないなあ、なんて。ほら、さっきお弟子さんがいらしてたんで、ふっと浮かんだだけだます。だから、別にかっちりした感じじゃなくていいんス。飾らない素のまんまの俺、みたいな」
にわかに崋山は表情を明るくして、腕組みをほどいた。
「そういうことでしたら、実はもう描いています」
「え!?」
今日一番の大声が出た。三英たちのいる方から、ちくちくと物見高い視線を感じる。
「そ、それって見せてもらえます?」
「よかったらこの後うちに来ますか」
「行きます」
「三英どのも江川どのも、ご一緒にいかがですか。酒くらいは出せますよ」
結局居残り組はぞろぞろと田原藩邸長屋に向かった。急な来客なら崋山の細君は慣れっこである。
夕餉のもてなしもそこそこに、長英たちは崋山の私室へ通してもらった。この文箱の中のどれかには入ってるので、と言って崋山が紙の山を無造作にひっくり返す。手伝いを申し出て丁重に遠慮された三英は、部屋の隅にちんまりと腰を下ろした。江川は壁に吊ってある彩色前と思しき作品を興味深げに眺めている。長英は懐手をして柱にもたれかかったり、かと思えば廊下に首を突き出して無意味に左右を見回したりしていた。
「あったあった、出てきました。ここじゃ狭っ苦しいですから場所を移しましょう」
「ここで構いません。早く見せてください」
長英と三英が部屋の入り口側に座り、江川は崋山の傍らに回った。筒状に丸められた紙が広げられる瞬間を、長英は固唾を呑んで待った。心ノ臓が一際強く脈打つ。
――真っ先に、崋山が作品を取り違えたのかな、と長英は思った。本人の様子を見て、そうではないらしいと察すると、次に自分の目をごしごしと拭ってみた。
現れたのは長英とは似ても似つかぬ、法衣を纏った髭面の男だったのだ。
「達磨様じゃないですか。私これ見せていただいたことあります」
覗き込んだ三英が拍子抜けしたような声を上げた。
「私も画会で拝見しました。なるほど、そう来ましたか崋山どの」
厳つい髭面を前にして、江川はしみじみと感嘆している。
「あの……どういうことだます? これ達磨なんスか、俺なんスか」
「これはですね、高野くんを達磨聖人になぞらえたんです」
「はあ……」
絵画素人の混乱を察したのか、江川たちが口々に言葉を添えた。
「よくある表現手法ですよ」
「私も渡辺どのに教えていただくまで知りませんでしたけどね」
「誰にもおもねらず信念の道を行く、高野くんの気高さを聖人に仮託しています。と、ご本人を前に語るのもいささか無粋ですが」
「な、なるほど……」
褒められているし、悪い気はしない。筆遣いや彩色といった技巧の優れていることは、素人目にもなんとなく分かる。これはこれで確かに素晴らしい作品なのだろう。
「でも俺が思ってたのと違う」
隣から肘打ちが飛んできた。
「友人だから許されるったって限度があるんですよあなた」
小言までいただく。友人に肘打ちするのはいいのかよ、とぼやきながら脇腹をさすった。
「ご満足いただけませんでしたか」
「いや、そうじゃなくて、あーもうやっぱだめだ!」
がりがりと髪を掻き回し、長英は振りかぶるようにして頭を下げた。
「渡辺さん、今ここで正式に依頼します。もういっぺん、俺のことを見たまんま、描いてくれませんか」
たっぷり三拍置いて、崋山を半ば睨み上げながら身体を起こした。
そっと隣を窺うと、三英は眉間に皺を刻みながらも気遣うような視線をよこしてきている。向かいの江川は大きな眼をしばたたかせて、長英と崋山の反応を交互に見守っていた。
端座する崋山の手が膝頭の布を掴んでいることに初めて気が付く。その指を微かに震わせ、彼は目を伏せて、ふっと静かに息を吐き出した。
「高野くん」
返ってきた言葉に束の間、息をするのを忘れた。
悲しげなまでに沈んだ面持ちで、しかしきっぱりと告げられたからだ。
「それはできません」
長英の脳裏からすべての情報が失せた。恐らくは、この場の誰もが予想だにしなかった答えだった。
「な……な、んで」
かさついた音が響き、あっという間に聖人図像は作者の手の中で丸まっていた。つっと顔を背けた崋山の動きで、ようやく思考が復旧する。
「納得できません。何故、どうしてだます。俺が断られたのが不満なんじゃない、あんたが絵の仕事を断る理由が皆目見当つかない!」
「今はお忙しいんじゃありませんか? 半年、いや二ヶ月もすれば崋山どのも手が空きますって。そうなんでしょう?」
気を回した江川の言葉さえ、黙殺された。
「長英くん、今日のところは引き取りましょう」
「なんでだよっ」
叫ぶ声が涸れた。腕を取って立たせようとする三英の動きには抗わず、ただ両の目だけは意地でも崋山から離さなかった。
「俺が依頼した理由を訊くんなら、あんたが断る理由も話してくれ!」
畳を蹴り飛ばすようにして退室する間際、崋山の唇が小さくわななくのが見えた。
一番近くにいた江川の耳には、『ごめんなさい』と聞こえたという。
長英がしおらしい面持ちで崋山の住まいを訪ねてきたのは、それから十日後になる。
「先日はどうも不躾な真似を致しまして申し訳ございません。よくよく思い返せば大事な作品を見せてくださったお礼すら申さずに、全くとんだ失礼をしました」
夫人に詫びたのとほぼ同じ台詞を口にしつつ、長英は手をついて殊勝に頭を垂れた。台所と居間の方から、ほんの心ばかりと献上した羊羹に喜ぶ声が聞こえる。
「いえ……やめてください。私の方も、悪かったと」
「ところで、これもお詫びのうちと思って俺もちょっとは絵のことを勉強してきたんスけども」
歯切れの悪い社交辞令を遮り、やにわに長英は身を乗り出した。反射的に身を引いた崋山に畳みかける。
「渡辺崋山の一門は、写実性をいたく重んじる流派だそうですね。対象物を目の前にして、よく観察して、時には直接触れて、紋切り型ではなく魂を写し取ったような絵を描く、それが売りであり信条だと。もちろん、肖像画においても例外ではない。依頼者が誰であろうと、どのような状況でも、写実の精神を全うする。だからこそ図抜けた評価を得た」
言い尽くしてしまうと、長英は裾をさばいて座り直した。何気ない風に二の矢をつがえる。
「観察なら、俺も得意だます。蘭方医の心得としては基礎中の基礎スから。物事を捉える上での心構えという意味では、共感できるつもりだます」
蘭方医の単語を出した瞬間、崋山の瞳がはっきりと揺らいだ。
恐らく長英の肖像画を断った理由に絡んで、崋山は何かをはぐらかそうとしている。その秘密を知りたい。どうして隠したがるのかも。
「俺は、あんたが絵を描いているところが見たい。同じ理念を持つ者として、渡辺さんのやり方に興味があります。渡辺さんがどんな風にものを見ているのかを、この目で知りたい。だから、俺の目の前で、俺を描いてほしいんだ」
暴き立てようというつもりはない。ただ知りたいのだ、長英が知らない崋山の顔を。
眉を下げて、崋山は弱々しく抗弁する。
「私が絵を描くところなら、何度もご覧になっているでしょう」
「足りません」
斬って捨てられるのを予期していたように、長いため息が聞こえた。片手で額を押さえて、崋山は俯く。
「いくら駄々をこねても、納得してくれませんよね」
やがて顔を上げて長英を見返し、崋山は静かにいらえた。
「お請けします」
それから制作の日取りを決め、代金の相場と前金の提示が滞りなく行われた。
帰る時になって、夫人と一緒に渡辺家の子どもたちが姿を覗かせた。どの顔も上等なおやつを分けてもらってご満悦だ。
「高野せんせい、さようならー」
父親に瓜二つの少年が手を振ってくれる。手を振り返しながら長英は思わず苦笑いした。医者だからそう呼ぶように躾けられているのだろう。親同士の方が気楽なくらいだ。
次へ
powered by 小説執筆ツール「notes」