100万年きみを愛す


 人が一人増えただけでこうも状況が好転するとは、と丹恒は少し後ろに下がり、周囲を俯瞰して見ていた。神策府内の雰囲気も先ほどまでとは打って変わり、切迫した緊張感から現状を打破しようと活気に満ち始めている。
 今は昔と同じ名の響きで、星簇(せいぞく)と名乗る彼女は、どうやら司鼎代理の采配で先んじで例の治療を行われたらしく、まだ目覚めて間もなく体力も回復しきっていないにも関わらず、起きてすぐに医者の静止を振り切り、この神策府まで飛んできたらしい。
 彼女が眠っている間の数週間の状況を簡単に把握するや否や、彼女の指示は的確に神策府や各司へ飛んだ。今現在過去問わず役職勤めの者をさっとリストアップし、使える者は既に老いて隠居した者でも無理に引っ張り出す。老人たちは連絡を入れると、ゆっくりとしたかったのになどとぶつぶつと文句を言いながらも、彼女の申し出を受け、行政の空いた穴を埋めるべくすぐに動き出した。
 一通りの連絡を終え人員を配置につかせた後、彼女はひとまず下準備はした、と漸く病み上がりの体を休ませた。これじゃあどちらが将軍かわからないわね、と符玄がぼそりと呟いたが丹恒は無言を貫いて一旦状況を静観する。彼女は臥せっていた所為で体力が落ちた体に丹薬を詰め込みながら、後は頼みました、と将軍に現場を引き渡した。
「この件で老人たちを引っ張り出したのであまりいい顔をしない者も出てくるかとは思いますが、これで、いずれ人手不足の穴は……まあ一時的にはありますが、いつもの八割程度くらいまでは元に戻るでしょう。問題は、そこからまた再び似たような状況にさせないことです。現状、未だこの件で私を含めた人々が倒れた原因までは明らかになっていませんから」
「今丁度、おまえが来る前に被害者に何か共通点がないか、洗い出そうとしていたところよ。おまえに聞きたいのだけれど、倒れる直前に何か思い当たるようなことをした覚えはない?」
「うーん……そうですね……、特に思い当たるものは、残念ながら……。変わった事と言えば、件の怪奇現象を目撃したくらいでしょうか」
「怪奇現象……というと、幽霊騒動?」
「はい。はじめは歳陽の封印が緩んだかと懸念していたのですが、どうにもあれは歳陽ではないというか、……私自身、よく覚えてはいないのですが、倒れている間は、どうやら長い夢を見ていたようなのです」
「心拍は落ちて、ほぼ仮死状態ではあったけれど、患者の脳波は皆、睡眠中に夢を見ている時の脳波と一致していた。おまえも例に漏れずそうだったのでしょう。夢の内容は覚えている?」
「ええと……掻い摘んでなら、少しだけ。不思議な話なのですが、今は殆ど思い出さない時の夢を見たんです。……かつて、幼い頃に私の世話役をしていた、かつての龍女様が夢にいらっしゃって、私は彼女と珠露殿の庭で白木蓮の花道を話しながら散歩をしていました。龍女様が私の世話役を買って出たのは、前将軍との間にあったお約束であったと存じています。ですが、当時の龍女様は既にお若く見えてもご高齢で、精々十五年程度しか一緒にお過ごしできませんでした。その間、龍女様と散歩をしたのは、覚えている限りほんの数回です。ですので、その時の事を私はもうよく覚えていないんです」
「でも夢に見た、と」
「はい。……本当に不思議なのですが、夢というよりは実際にその場に行って、体験したかのような感覚でした。幼い頃から厳しく、参謀としての教育を受けていましたから、子供の頃から同年代の持明の子らとは違い、遊んだこともあまりなく……。子供心に親代わりの龍女様をお慕いしておりましたが、彼女はあくまで後見人というか……。心を挫くような厳しい教育から、子供の心を支えるための……優しい、いわば飴と鞭の飴役という自覚があったのか、とても優しくしてはくれましたが、私をあの環境から救ってくださるお方ではありませんでした。今となってはあの時引き取っていただき、正しく教育を施してくれたことに深く感謝をしていますが、当時の私はまだ幼く、あの方の事を決していい親とは思っていなかったと思います」
「あの時のおまえときたら、無理難題を出し続ける私をどうしたら壊して沈黙させられるか常に画策していたものね」
「お恥ずかしい限りです」
「皮肉なことに、そんな風に私の出す無理難題を解くのが嫌で逃げようとした者たちの方が、いつも切れ者に育つわ」
 あはは、とそれに少年が声を出して笑う。なるほど、歴代の智者に時折暴走癖の記述があるのはそのためですか、と納得したような顔だった。
「まあ、気持ちはわからなくもありません。符玄様の問いは、ともかく眠くなるのですよ。僕も何度、あの悪夢のような難題から逃げようと思い、今の羅浮では永狩原野ですらも太極万物統理からは逃げられないと悟り、諦めて解いた方が早いと、渋々手を付けてきたことか」
「…………」
 黙って聞いていたが、符玄は僅かにじとりとした視線で彼等を見つめるだけで、怒っているようには見えない。取り繕うように愛想笑いを浮かべつつ、星簇が話を戻した。
「んー、ですので、なんというか……、目覚めた時は何故あんな夢を、としばらく呆然としてしまったんです。あの頃の龍女様がどんな顔をしているのか、夢で見たことですからもう忘れ始めておりますが、……私はあの夢で見るまで、それこそ、あの当時の事を思い出すことなど、全く出来なかったので。……参考になるような話ではなく、申し訳ありません」
 しばらくの沈黙の後、眉を下げ謝る彼女に幼い将軍が口を開いた。「まあ、そう悲観する必要はないよ」と。
「その話が参考になるかどうかは、これから決まるからね」
「これから……ですか?」
「何か思いついたのか」
 丹恒は尋ねる。少年はいえそんな策というほどのものは、と緩く首振った。
「ただ、思いついたと言うよりかは、今の話を聞いてもしやと思っただけですよ。――星簇。事の発端の前後に羅浮を出入りしていた商団が持ち込んだ品々も、今はすべてこちらで回収し、調査は勧めているよ。どれが初めに影響をもたらしたのか、特定まではもうしばらくかかるだろう。その間、おまえは丹鼎司の医館へ数名、聞き取り調査に向かわせてくれ。内容は主に、昏倒中に見ていた夢についてだ」
「夢について……ですか? 前後の行動ではなく?」
「うん。実は、私はこの件を、何かの陰謀が渦巻くようなどろどろしたものではない、一種の事故のようなものと思っているんだ。人為的ではなく、むしろ、どちらかと言えば、公害に近いものかもしれないとね」
 公害? と符玄が眉を顰める。
「けれど、データ上観測出来る環境数値は、事件が起こる前から今も普段とそう変わらないわ。瞰雲鏡で可視星域を何度スキャンしても脅威になるようなものは観測できなかった。どうしておまえはそう思うの」
「うん。太極万物統理の脆弱性はまさにそこです。ありとあらゆる電子機器にその手足指先を伸ばしてなお、見えないものがあるということを我々に教えてくれる」
「……厭味?」
「いいえ、符玄様。かつてのあなたの所持していた法眼ですら、見えないものがある、というだけの話ですよ」
「……? 言ってみなさい」
「ええ……? 説教は勘弁してくださいよ。……――趣味でよく、大昔の方々の日記を読むことがあるんです。その中で、とある卜者の日記を以前読んだことがありました。そこにとある卜者の事が書かれていたのです。……その者は、能力はありましたが、それを隠すことに全力で、勤務態度はあまりまじめに見えなかった、当時の最低の卜者だったそうです。とはいえ能力は高いので、与えられた仕事はちゃんと完璧にこなしていました。彼女は、当時の上司にサボりが見つかると職場に連れ戻され、仕事をさせられたと度々嘆いていたのだと言います。その者は常日頃からいかに仕事をサボれるかを考えて行動してしました。ですが、彼女の能力は高かったため、当時の上司は何故彼女は爪を隠すのかと、彼女のその態度にイラついていた。上司からすれば、持っている能力を最大限生かすべきなのに、なぜそれをしないか疑問だったでしょうし、部下からすれば最低限やることはやっているのに、なぜそれ以上のことをしなければいけないのだと、上司に目を付けられたことを自身の最大の不運と思っていた事でしょう。彼女はただ、当時の太卜司の終わりのない苦海で生きるのならば、ただ人より少し楽をしたかっただけです。これらの問題は、そのうち双方の話し合いの末幾らか緩和されますが、対話を試みた後も、やはり彼女の上司は事あるごとに能力のある彼女に目をかけ続け、最終的には彼女の望みとは裏腹に、そこそこのポストにまで抜擢していたそうです。その後の彼女の事はその日記の著者が太卜司を辞めたため追えなくなっていましたが……つまり、上司は彼女に期待していたのです」
「…………、……ええ、そうでしょうね」
「ですが僕は、わあ、なんて迷惑なクソ真面目な上司なんだ! とその卜者に対し、涙を禁じ得ませんでした。世の中には、過度な期待に応えることを、時折自分には過ぎたことだと思う者もいるのです。そんなことよりも、もっと気楽に、楽観的に生きたい、と。能力があってもそれをどう使うかは個人の采配によるところが大きい。現代にも語り継がれる智者が名を残しているのは、名を残すために動いたか、周囲が智者を持ち上げたからに他なりません。同時に多くの智者は、智者であるがゆえに、自身が智者であることを隠すのです。なぜなら、多くの知識は、より多くの事象を引き寄せるものですから。中には到底関わりたくない面倒事も寄ってくるでしょう。隠れる智者は、それに正直興味はないのです。そんな猥雑なものよりも、己が今求めるものを優先したい。本音はそんなところでしょう。……とはいえ、彼らにもそれなりに善性はあります。ですから、助けを乞われれば、それに渋々であれど応じるのです。まァ、応じない者もいますがね。能を隠さず開示する智者も、隠し隠居に徹する智者も、性質は違えど能力があることに変わりはありません」
 少年の視線がふと丹恒に向けられる。彼はにこ、と微笑んで、再び符玄に視線を戻した。
「符玄様は前者として、太極万物統理に統合される前も、周囲の期待に答え続けてきたと存じております。それゆえ、あまり爪を隠す者達に対し、あまりよく思わないことも多かったのではないでしょうか? 前任の神策将軍は、記録によればのらりくらりとした、のんびりとした性格のご様子。符玄様は将軍職を狙い、度々当時の将軍と小競り合いになったとか」
「…………、あんなつまらない手記を読む者がまだいるとは思わなかったわ」
「僕はそういう、つまらない手記を読むのが趣味なのですよ。人の日記を覗き見ると、いろんなことが書いてあります。――太極万物統理は仙舟内の出来事であれば、それこそ、個々人がちょっと呟いたような独り言ですらも広く網羅している。彼らはまさか、普段から使用している家電にさえ、君の意思が繋げられるなどとは、全く思いもしていない。太極万物統理の神髄にかかわった者以外にこの事実が知らされることはないからです。多くの民は符玄様を利用した分、同時に監視されているようなものだと気付かずに今を過ごしています。符玄様は今やこの量子の海の番人となり、星間ネットワークを通じ、接続出来るすべての量子コンピューターからの那由他の知識も、知ろうと思えばいくらでも参照できるでしょう。ですが、そんな符玄様にすら、データや観測値だけで測れないものがある――というのが、人の世の常ではないでしょうか。何より、見えているものがすべてであれば、この世はもっと簡単で単純で、生きやすかったはずですよ」
「……おおよその人間の行動パターンから演算は可能よ」
「それでも、その個々人の心の機敏までは、パターン化しようとしても出来ないものでしょう。人は誰しも、その胸中に一人だけのあずかり知らぬ深い宇宙を持つ生き物ですから。瞰雲鏡で可視星域を再スキャンしたとしても何も見つからないのであれば、それは何らかのきっかけで、人々が故意にそれを起こしたものとみるべきでしょう。市井の異変には、既に符玄様も気付いておられるのでは?」
 少年の指摘に符玄は黙り込む。まだ憶測の域を出ないわ、と彼女はそれを一度捨ておいた。そうでしょうとも、と少年は頷く。
「何故なら、異変がこの件に直結するという確固たる証拠は、太極万物統理の演算能力をもってしても、恐らく算出できないからです。漣がいずれ大波となるかもしれない――と予想は出来ても、それはあくまで推測の域を出ない。ならば、第三者が意図的に何かを行っている、と仮説を立てた方が、その《もしも》の立証はしやすいのではないですか」
「……すべてをそんな風に、論理的に証明できるのであればね」
「ええ。ですが、星海には未だ人の考えの及ばぬ奇跡や魔法、神秘と言った、規格外やエラーコード、乱数が存在するのもまた事実です。そしてそれにより、事態は思いもよらない方向に転がることもある。……羅浮の進路は気の遠くなるほど長い間、窮観の陣による演算を参考に、吉兆を予見してきました。それは元太卜であった符玄様ももちろん御高承かとは思いますが、何もその占いの結果だけが、この先すべての運命を決めるわけでもないことも……また、既に御存じでしょう? 時には凶と出た占いの結果をなかったことにして、やり直しを命じることもある。わけのわからない結果を信じ民に混乱を招くより、敢えてそれを不可とし、別の方向から事態の回収を試みようとしたこともあるのでは?」
「……おまえの言う通りよ。実際にそうしたことも数えきれないほどあるわ」
「で、あるならば――こういうものは都合のいい所だけを上手く受け取って、悪い所は極力見ないようにすればよいのです。占いはそもそも、当たるも八卦、当たらぬも八卦とも言いますでしょう。元より吉凶を占うと言うのは、どうしても進まなければならない明日に、迷いが生じた時の指標の一つとすべきもので、それに頼りすぎてもいけません。ならば、その占いも、蓋を開ければ大したことなどない、と言っているのですから、勝手に頭の中で作り上げた黒幕などというものを警戒して行動するより、端からこれは避けようのない事故だった、と考えた方がよいのではありませんか?」
 そうでしょう、と少年はにこりと先ほどまでの弱弱しい印象から打って変わって、現将軍らしい強かな面を見せ始めた。恐らくは――彼は下に人を従えることで真価を発揮するタイプなのだろう。優秀な参謀が参謀止まりで将軍とならないのは、彼のこの性質故だろうな、と丹恒は静かに思う。
「――まあ、まずはその仮説の立証のために、ある程度の調書が必要です。ですので……ここまで来ていただいて恐縮ではありますが、せっかく久方ぶりに受肉なさったのですから、どうぞごゆるりと羅浮の観光をなさってください。あと数日は、恐らくこの状況から何も進展がないかと思われますので。用意した長楽天の邸宅に不満がございましたら、どうぞ配置している従者に何なりとお申し付けいただければ、僕の金と権力でどうにか出来ることは何でもいたしますよ。僕の実家からも、符玄様宛の贈り物が今頃邸宅へ大量に届いている頃かと」
 この少年の生家は商家である。その商家から必要が全くなかったにも関わらず、一人軍に志願し、とんとん拍子でここまで上り詰めた。前将軍の弟子は彼ともう一人で、そのもう一人は武功を上げ、今は丁度、後任が決まらず空きが出た仙舟「曜青」の将軍職に臨時で就いている。彼が頼りないというのは確かだろうが、そもそも素質がなければこの職には付けないだろう。
「つまり、今日の所は帰れと言うの?」
「はい。簡単に申し上げますと、つまりはまあ、そういうことになります。符玄様と老君が来てくださったお陰で、僕も大変安心しました。ありがとうございます」
「頼りの参謀が戻った途端いつもの調子に戻ったわね、この餓鬼は……」
「……今日の卦象は『迂回』。直路を急げば機を失い、遠回りを経てこそ吉兆を拾わん……だったか」
 本当にその通りになったな、と丹恒はつくづく当たる占いだ、と感心する。丹恒が呟いた言葉で符玄も今日の占いの事を思い出したのか、忘却というのはつくづく不便ね、と受肉した体の限界に少し不満げに息を吐いた。
「わかったわ。おまえの申し出を聞きいれましょう。元より、既に政からは一度退いた身。これ以上はただの老害の小言ね」
「またまた。そうおっしゃらず。そもそも符玄様がいなければ、太極万物統理は今のようなシステムには昇華しておりません。そうなれば、詳細な患者数の把握もままなりませんし、彼らの共通点をあぶりだす、なんて統計を取るにも人の手で数日かかります。それに、僕が将軍にしては頼りないという符玄様のご心配は尤もですし。老君も普段は竹林の奥へお住まいではありますが、羅浮を案じてここまでいらっしゃったことに大変感銘を受けておりますよ。僕は」
「またいけしゃあしゃあと……」
「おや。僕が《また》と言われるほど何かお伝えしましたっけ? 残念ながらもう忘れてしまいました。心にもない事を言っているわけではありませんし、どうかご寛大な御心で若輩者の失言を御赦しください。まあ、その忘れる、なんて不便さが人間の良い所でもありますし」
 少年は不満を垂れた彼女ににこにこと笑いかけた。
「どれだけ叱咤や厭味を言われ、身を裂くような辛い記憶ですらも、いずれは記憶から薄れ、ふと己の空腹を思い出すものです。わが師もまた天人で、そして天人の中でも齢千年を超える長寿ではございますが、彼女に魔陰の身の兆候は今もまだあまり見られません。だからこそ、僕の妹弟子はしばらくであれば大丈夫であろう、と曜青へ向かったのです。以前、師からはその秘訣を教えていただきましたが、過去を悔やまず、未来を恐れないこと、と彼女はおっしゃいました。……僕のような若輩者が符玄様や老君に言えることではないかと思いますが、せっかくお二方とも一戦を退き今の時代を生きていらっしゃるのですから、時々若輩者に知恵を貸す以外は、ゆるくお過ごしなさってください。老君も、しばらくおやすみになっているという生物研究を再開してはどうです。神策府からの仕事は少し減らしますので」
「……考えておく」
 言いくるめられるように少年の話術に翻弄され、あれよとあれよと言う間に、来たばかりの神策府から二人は追い出されるように現将軍とその参謀に見送られ、再び星槎に乗り込んでいた。
 符玄はあの少年の話を聞きいれてから、眠くなるような長い会話もせずに静かに黙り込んでいる。機嫌を損ねているようには見えないのだが、黙っていては彼女の思惟は見えてこない。それはそうと、と星槎に揺られながら、丹恒は彼女に今朝方聞いた話を思い出したように尋ねた。
「今朝方将軍が言っていた、市井に可笑しな兆候が見られる、というのは?」
 幽霊騒動はまだ未解決。だが一方で、倒れて医館に運ばれた者達の状況は改善する見込みが見えた。その可笑しな兆候が人為的なものではないのなら、なぜ国家転覆の危機と将軍は評価したんだ、と丹恒は彼女に尋ねる。あくまでデータという盤上での見立てよ、と符玄は丹恒に返した。
「まあ、せっかくだから外に出たついでに見た方が早いわね。時間は当然あるでしょう」
「……? あ、ああ……。あるにはあるが……」
「おまえ。星槎を不夜候近くの舟渡場に付けてちょうだい。お茶をしてから帰るわ」
「……お茶?」
 丹恒の声に符玄は答えずに黙りこんでしまう。星槎の行先を操作していた兵士が、符玄の言葉を受け、言われた通りに元の行先から目的の場所へ行先を変更した。疑問に思いながら、丹恒は言われるがまま、しばらくして不夜候のある星槎海中枢へ降り立っていた。

        *

 星槎海は昔と変わらず、羅浮の中で最も賑やかで、交易が盛んな場所だ。
 その星槎海で長年茶荘を営んでいる不夜候は、創業後、数回の店主の代替わりに伴い、休業や移転を繰り返していた。一度は流行などに流され経営破綻のため閉店へを追い込まれたが、店舗を失ってもなお当時の店主は自ずから茶を売り続けた。
 不夜候の代わりに入った新進気鋭の茶荘はどこもそう長くは続かず、一時店舗は他の業種に買われそうになったのだ。だが市民の多くから不夜候による茶荘経営の存続を望む声があり、今はかつての主人の末裔が元の場所に戻って営業を続けている。
 老若男女問わず茶を楽しむのは昔から変わらない文化の一つで、昔講談を講じていた講談師は、今も不夜候の店舗外に設置された小規模なステージの上で時折講談を披露している。講談だけではなく音楽家や歌手と言った者達が日替わりで客を楽しませており、客足は途絶えない。
 外の席に運よく飽きがあり、丹恒は符玄と共にステージがよく見える席へ通された。準備されたお茶はさっぱりとした柑橘の匂いがする口当たりの軽いお茶で、いくつかの茶葉をブレンドしたものなのだという。茶葉に関する説明が終わり店員が退いてしばらく経ち、講演の時間となったため講談師が静かにステージに上がってきた。
 講談にこうして耳を傾けるのも久しぶりのことだ。それこそ昔は。雲上の五騎士の話やかつての脱鱗前の前世であるあの『飲月君』の話も話題に上がった。その多くは講談師が脚色し客に緩急をつけて大袈裟に話すおとぎ話のようなものだったが、彼らは客に飽きられぬよう、あれこれと趣向を凝らし、取材や演出に余念がなかった。題材は羅浮の出来事に留まらず、仙舟の他の船や天外に位置する惑星での話や、星海を航行する巡回レンジャーに至るまで、それこそ話の種になるようなものであればジャンルは問わなかった。
 今の講談は一体どんな話をするのだろう。興味深く、茶杯と耳を傾ける。すうっ、と一呼吸おいてから、講談師はよく通る声でしゃべり出した。
「――さァて、皆様! お立ち会い! 今現在の仙舟羅浮の平和を語るなら、この御方を抜きには始まりませぬ。――何千、何万という持明が脱皮転生を繰り返し、かつての面影が薄れゆくほどの時が経っても、その神話のごとき立ち振る舞いは今なお色褪せず! 獅子の鬣のごとき白髪をなびかせ、戦場を盤上で駒を動かすかのごとく掌握する一方、参謀に雑事を任せ執務机でうつらうつら……。人々は親しみと敬意を込めて彼をこう呼びました、『眠りの神策将軍』と!」
「…………、――は」
「ふ」
「彼の閉じた瞼の裏では、太極万物統理亡き時代の玉兆にすら及ばぬ数千万の因果が演算され、神策府の盤上は勝利の二文字以外を知らず、ありとあらゆる策を策にて封じる――眠っている間にすべてを解決する神のごとき彼の神策が、羅浮のどんな困難な局面をも乗り越えてきたのです。さて、本日お話しますのは、その神策将軍が如何にして、一歩も動かずに十万の忌み物を退けたのか――その知略の極みを、どうぞ皆様お聞きください!」
 講談師が話の語りに熱を入れ、それはいつの事だったか、と実際にあったような、なかったような話をとつとつと語り出す。ふ、っと先ほど浮かべた笑みをそのままに、懐かしいでしょう、と符玄は丹恒に尋ねてきた。
「この話だけじゃない。おまえたちの話のである『開拓豪侠伝』も、かなり着色されているけれど、最近になってよく講じられているわ」と、符玄が茶杯を傾けながら言った。「……本当にここ最近の事よ。それこそ古典中の古典を、今になって引っ張り出してきたのが《誰》なのかすらわからない。けれどこれをきっかけに、市井である者達の話が急激に広まっている」
「…………ある者達、」
「『ナナシビト』の中でも、特に銀河を駆ける列車……なんて不思議なものに乗る、とある無法集団のことよ」
「…………、……なぜ?」
 今になって、と丹恒は眉を顰める。さあ、と符玄は本当にわからないようで肩を軽くすくめて見せた。彼女がこれから起こり得る出来事についてこうも不可解な顔をするのを見るのは初めてだ。丹恒はもはや講談師の話を右から左へと流してしまっていた。
「……ナナシビト、というのは数こそ多くはないが、今でもまだ星海を漫遊する旅人の総称として定着している。短くとも宇宙を旅することを選んだ者たちが自身でそう名乗り出す。星穹列車が再び姿を消してしばらく経つが、何故今になって……」
「さあ。けれど、太極万物統理を使うに当たって、おまえが決してこの数十万年あまりしてこなかったことがあるわ」
「……何の話だ」
「個人端末、パソコン、玉兆、ありとあらゆるネットワーク接続機器を使ってきたけれど、私が太極万物統理の中に入ってからはユーザーの操作履歴も無数の学習データの中に含まれている。キャッシュの数が膨大だから、ある程度の時間が経てばそれらは勝手に消えるけれど、私はお前の操作履歴にだけその制限を与えなかった。何故か? それはおまえがこの羅浮に来た時から、一つだけ決まっていたことがあったからよ」
「決まっていたこと、……?」
「ええ。そのために必要なことだったから、タイミングを見誤らないためにも、おまえのことは定期的に見させてもらっていた。まさかそれが百万年近く続くとは思いもしなかったけれど。……おまえ、星穹列車を降りて羅浮に来てから――《ただの一度も》、列車がどうなったかを知ろうとしなかったでしょう」
「……――」
 指摘されて丹恒は言葉を失った。いや、それは、と口にする言葉のすべてが言い訳のように聞こえてしまう。押し黙った丹恒を静かに見つめるだけで、符玄は何も言わなかった。
「――ん!? 符玄ばあばと師匠ではないか!」
「あら。龍女」
 ふと声に視線を向けると、丹鼎司で別れた白露が霊砂と連れ立って不夜候へやってきていた。「丹鼎司はいいのか」と丹恒は二人に尋ねる。
「よくはありません。ですが今日はもう出来ることもないのです」
「出来ることが……ない?」
「うむ。あの後あの判官の指示で、例の儀式を行う判官や冥差が丹鼎司へやってきたが、そもそもの判官たちの数はそう多くなく、また日に行える儀式の回数も限られておるといっておったじゃろう。その通りで、回数を使い切った後は寒鴉が用意したあの陣も壊れ、再度陣を書き直す羽目になっておる。判官の消耗も激しく、いくら昏倒した市民を助けるためとは言え、却って判官を失うことになれば十王の怒りにも触れるじゃろうと寒鴉が申し出てきてのう。治療が出来る限界まで患者を頼んだ後、今日の所は明日に控えて解散となったのじゃ」
「丹鼎司には司鼎代理を置いてきましたから問題はないでしょう。龍女様が突然の対応に奔走した者達を労いたいとおっしゃいまして。薬湯を煎じてもよかったのですが、薬湯は好き嫌いもありますから」
「そういうわけで、茶を買いに来たのじゃ。菓子を食べられぬ者はいても、茶を飲めぬものはあまりおらんじゃろ」
「あら、いい心掛けね」
「そういう師匠と符玄ばあばはここで講談を聞いておったのか? 何やら調査をすると言っておったではないか」
「ええ、そうね。けれど、それで神策府に向かった後、老人たちは不要、とばかりに追い返されてしまったの」
「なぬ!? あの愚策将軍は何をやっておるんじゃ……。わが師を追い返すなど……」
「本当に追い出されたのですか? 老君」
「まあ……、将軍の言うことに相違はない。とはいえ、……神策府参謀を優先的に治療しただろう。彼女が戻ってきたから、俺達の出る幕はなかっただけの話だ」
 ああ、とその話に霊砂が頷く。
「星簇のことですね。あの子は昔、珠露殿で過ごしていたので覚えていました。あの子、まだ安静にと促すスタッフの静止を押し切って、勝手に点滴を引きちぎり、医館を出ようとしていたのです。私が外来に居たので揉めていた彼女たちから事情を聴きましたが、本人の強い希望もあり、強い丹薬を服用させてから神策府に護衛を付けて戻しました。本当にもう現場復帰をしたのですね」
「何やら騒がしいと思えば……そんなことが起きておったのか?」
「そう重要な騒ぎではありませんでしたから。負傷者もいませんし、ただ少し聞き分けが良くなかっただけです。そういう患者は何処にでもいるでしょう?」
「それはそうじゃが……。……それはそうと、神策府参謀が倒れたのはそう前の事でもないじゃろう。事情は分かるが、誰が優先的に治療をさせたのじゃ?」
「はい? ……ええと、……司鼎代理の采配なのではないのですか?」
「うん? いや、漣微はそういう指示は出しておらんだぞ。とにかく先に緊急性の高い患者、長期に渡って伏せておる患者を優先させておった。じゃから、今日の儀式では幼子と老人を優先していたはずじゃ。星簇はまだ二百歳程度じゃろう。神策府参謀を優先したのでなければ、恐らく後回しにされていたはずじゃ」
「では一体誰が……?」
 きょとん、と霊砂も白露も首を傾げる。丹恒が向けた視線に気付き符玄は何かを尋ねるより先に丹恒に答えた。
「近くの機器から音声ログは辿れない。私も把握は出来ないわ。……だけど妙ね。誰かが指示をしたわけでもないのに参謀だけが治療を優先されるなんて……」
「うむ……。患者の移動は現場に一任しておったからのう。もしかすると現場の医士が勝手にしたことが、どこかでねじ曲がり司鼎代理の采配ということになったのかもしれぬな。それを逐一確かめるには今はちと忙しすぎる。……戻って食事をする時間もなさそうじゃ。霊砂、ここでついでに済ませていこう」
「畏まりました。お席は――……」
「師匠と符玄ばあばの横に丁度二席空いておる。そこでよかろう」
「ええ、そうですね」
 では中で注文をしてきます、と霊砂は一度店内に入っていく。白露はよっと、と勝手に椅子を引いて、テーブルにかけてきた。
「ふたりも何か口にしたのか? まさか茶だけか。霊砂についでに注文してくるように伝えておこう」
 端末を取り出し、白露は霊砂当てにチャットを送る。すぐに気付いたのか、では四人前ですね、と霊砂から返事が届いた。うむ、と一度端末を仕舞い、白露はふと、講談師に目を向ける。
「しばらく講談も聞いておらんかったのう。今日の演目はなんじゃ?」
「『神策将軍』よ。……龍女は星穹列車のことは知らなかったわね」
「うむ。符玄ばあばの話で師匠のコイバナのついでに知ったくらいじゃの」
「丁度その星穹列車のナナシビトの話も最近は講談で聞けるわ。今日はたまたま別の話だったけれど、日を改めれば、まあ作り話も交えているけれど、羅浮と星穹列車が盟友となったきっかけの話も聞けるかもしれないわね」
「それは誠か? ふむ……それではしばらくの外出コースに星槎海を入れておくか。とはいえ……何故今になって星穹列車の話をするようになったのじゃ? ここの所の講談は、やれかつての悪人が目を覚ましたら滅亡前の母星の姫になっておったとか、虐げられて育った子供が、実は名のある将軍の息子で、戦争で武功を立てかつての父を暗殺した現将軍を打ち倒す……なんて話ばかりだったではないか。師匠がナナシビトだったころというと……ざっくり百万年ほど前の話じゃろう? 古典中の古典を今になってなぜ演じるんじゃ?」
「さあ、何故かしら。……それについては、太極万物統理をもってしても何故かきっかけを追いきれない。私が市井に可笑しな兆候がある、といったのはまさにこのことで――この講談だけじゃない、丁度丹鼎司に倒れた者達が運び込まれた頃から、星間ネットワークでとある書き込みが散見されるようになったの」
「とある書き込み?」
「ええ。……龍女。お前の端末から太極万物統理を経由して星間ネットワークに繋ぎなさい。それから、おまえの師匠の代わりに、検索窓に『星穹列車』と打ち込む」
「……うん? う、うむ……、えっと、……せい、きゅう、れっしゃ。……これでよいのか?」
「ええ。あとはおまえのお師匠が、覚悟を決めてボタンを押すだけ。端末を渡しなさい。何が書き込まれているのかすぐにわかるから」
「う、うむ……?」
 なんのこっちゃ、と白露は疑問符を浮かべながら、自身の端末の画面を開いたまま、それを丹恒へ手渡してきた。丹恒は迷ったが、符玄の視線にじっと射るように見つめられつつ、結局彼女から端末を受け取る。検索窓に入力したワードをそのままに、「……――」――たった一度だけ、親指を画面へあてた。
「…………、……っ」
 そう時間も空けず、いくつもの記事が候補に挙がる。画面を見たまま、丹恒は呆然とそれらを見つめた。丹恒の表情が普段と違うので、ど、どうしたんじゃ、と白露が焦って尋ねてくる。だが、その声は遠のき、かわりに、忘れていた声が耳に届いたような気がした。
 かつて星海を旅していた間、身を寄せた家があった。それはあの日、彼を連れて星海のどこかへ行ってしまって、もう何処にも見えなくなった。どこに行くのかもわからない、どこにいるのかもわからない。だがどこかにはいるだろう、と信じて疑わなかった。それでも、まるで洞窟の奥に閉じこもるように天外へ向けるべき視線を本当の天外へ向けられなかったのは、彼が本当に、自分の元へ戻ってくるか――信じていても、わからなかったから。
 わからないままなら、願いも希望もその終着点を持たない。本当の事は、自分の目の前に彼が現われた時にだけわかる。彼を疑ったことなどない。でも、彼との約束が――既にもう自分だけに残されたものになっていたら。
 画面の内容が気になったのか、微動だにしない丹恒の代わりに、白露が丹恒の腕を動かし、勝手に画面を覗き込んでくる。
「――『星穹列車が戻ってきた』?」
「ええ。そういう書き込みよ。……つい最近になって天外のあちこちでその列車を見たという話が出ている。ただ、信憑性まではわからないわ。羅浮はまだその星穹列車を観測していないし、卜算の結果は何度占っても不定。彼の未来について何度占っても先が見えなかったのと同じように、現在の演算能力をもってしてもその足跡が追えない。だからおまえにはすぐに言わなかった。そもそもおまえが知ろうとしていなかったから」
「…………、なぜ、今になって」
「さあ? 本当に彼が戻ってきたのか、窮観の陣は是と答えないのだから、実際に観測していない以上何故なのかはわからないわ。そもそも誰かの見間違いかもしれない。連なって進む宇宙船を、誰かが列車と見間違えた――なんて話は、あの星穹列車が星海から姿を消してから、しばらく散見された話題だもの」
 呆然とする丹恒と符玄に交互に視線を向け、白露がん? んん? と状況をすぐに判断出来ず疑問符を浮かべる。力なく端末を彼女に戻した丹恒に、白露が少し困惑した表情で尋ねてきた。
「丹恒、酷く顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「……ああ。平気だ」
「どう見てもその平気なようには思えぬが……。……なんじゃ? 師匠が降りたという星穹列車がまた目撃されたと言う話なんじゃろ。それは良い事ではないのか?」
「さあ、それはおまえの師匠の受け取り方によるわね」
「うーん? じゃが、かつての師匠の思い人はその列車に乗っておって……師匠のように百万年近く生きている、……わけではないのか?」
「…………、」
「うむ……、なるほど……、――師匠もまた、別にその体で百万年近く生きておるわけではないからのう……。長命種であるわしらや天人ですら、持って千年程度が限界じゃ。まあ、それより長く生きるという種族もおるが、そう滅多に見かけぬ者達じゃからのう。その者がそうであるという保証はどこにもない……のか? 師匠はその者の種族は知らんのか?」
「……さあな。これといった種族はないんじゃないか。あいつは自分の事を星核の器と認識していたから」
「器?」
「まあ、つまりホムンクルスのようなもの、ということよ。……個体によっては無限に近い時を生きる。また個体によってはこの生態端末と同じように数カ月から数十年しか生きられない。おまえの師匠は――」
「これだけ待っておいて、何故今まで星海へそやつを探しに行かなかったんじゃ?」
 ガタン、と空の茶杯が倒れた。おっと、っと慌てて白露が転がってテーブルから落ちていきそうになった茶杯を引き留める。
「師匠。急に立ち上がるでない。落ちて割れてしまう所じゃったぞ」
「あ、……――ああ、すまない……」
 それは、と言いかけて無意識に椅子から立ち上がっていた。思ったよりも大きな音が出てしまい、講談中にも関わらず幾らかの視線がこちらへ向く。だが丁度講談は演目の時間を終え、次回に展開を引っ張っていたところで、少し早いが、丹恒が音を立てたのを皮切りに、ぱらぱらと講談師へと拍手が続いた。講談師も一瞬、丹恒が急に音を立てて立ち上がった所為で、声が尻すぼみになっていたが、気を取り直して再度拝聴に深く礼をする。丹恒も周囲に釣られて軽く拍手をした後、そっと再び椅子に腰かけた。服を下へ引っ張っていた白露の手が漸く離れる。
 しばらくの沈黙が流れ、間を取り持ってくれる講談師の声がなくなり、人々の会話すら丁度講談が終わったからだろうか、いいタイミングだと休憩を切り上げる客の声が、近づいては遠ざかる。白露は自身が言った事が何も間違った事ではないだろう、と確信を持っていたが、丹恒の反応が思ったよりも深刻だったからか、言葉を考えあぐねているようだった。
「――あら、席を外している間に、何やら殺伐とした雰囲気ですね」
 柔らかな声が口を挟んでくる。食事を幾らか乗せた盆を手に霊砂が戻ってきたようだ。彼女はそれぞれの前に点心が入った蒸籠を置きながら、自分も一度席に着く。霊砂、それがな、と白露が口を開いた。
「丹恒が……」
「お師匠様が、ある可愛らしいお方を想い続けた百万年の間、お師匠様は何故彼を自ら探しに行かなかったのか、でしょうか」
「……なんじゃ。聞いておったのか」
「聞いていたのではなく、聞こえたのです。それから物悲しい、後悔や迷いと言った、つんとした苦い匂いも。……龍女様の言いたいことはわかります。『百万年もあれば星海を……制覇するとまではいかぬとも、竹林の奥よりは、また相まみえることもあったじゃろうに』……などと思っていることでしょう? それはお師匠様も重々承知のご様子。だのに、お師匠様が彼を探しに行かなかった理由は――彼を愛しているのと同時に、彼に会うのが怖かったからです」
「………………」
 何も言わない丹恒にそうでしょう、とばかりに霊砂は笑む。符玄は我関せずとばかりに口を閉じたままだ。白露は霊砂の言葉にきょとん、と首を傾げる。
「怖かった? 何故じゃ?」
「ええ。これは私の推測にすぎませんが、中らずと雖も遠からずではないでしょうか? お師匠様はかつての開拓の日々と、そして彼を心から愛している。愛していた、ではなく、今もなお、深く、心の底から愛していらっしゃるのです。だからこそ、お師匠様は恐ろしいのですよ」
「何がじゃ?」
「さあ。それはお師匠様しか知りえぬ恐怖でしょう。……忘却というのは、誰かが居なくなったあとで、もう一度現れる死神です。開拓の旅は危険と未知の連続ですから、二度目どころの話ではなかったのかもしれませんね。お師匠様は、彼を自身の忘却によって再び、三度葬ることが怖かった。そしてまた、待つことを選んでしまった今の自分の選択が正しいのか、ご自身でも分からなくなってしまっている。愛しているが、百万年という途方もない年月は、紛れもなくお師匠様の確信を摩耗させているのです。そして、お師匠さまはそれに自身で気付くのが、今も恐ろしい」
「…………、――」
 白露も食い入るように霊砂の話に聞き入っている。喉が渇いてからからだったが、空になった茶杯に再び茶を注ぐ気にはなれなかった。空の茶杯を手慰みの玩具にして、丹恒はただテーブルの上を見つめる。
 しばらくの沈黙が続いた。本当に重苦しい席ですね、と霊砂は仕方がない、と言った表情でぱか、っと先にテーブルに運んできた蒸籠の蓋を開けた。
「先ほどからずっと、何も言わずに黙っていらっしゃるのを見ると、本当に中らずと雖も遠からずなのでしょう。……持明はそれこそ、脱鱗さえできれば途方もない年月、輪廻転生を繰り返します。ですがその度に、前の自分の記憶は持たずに、卵の中に置いてくる。精々、時々前世の夢を見るくらいです。万物は流転し、生きとし生けるものはいずれ息絶え、そしてまたどこかで何かが生まれる。龍祖から分かれた不朽の定義は数あれど、我々持明は転生という理の中にいます。ですがお師匠様はそれを捻じ曲げ、記憶を卵に置かず今日までを過ごしていらっしゃる。彼を愛するあまりに」
「…………、」
「私の言葉に傷つくのは勝手ですが、私は何もお師匠様の彼や開拓への深い愛を揶揄しているのではございませんよ。お師匠様の愛は百万年という長い年月の間、ただの一度も変わりません。変わったのは長い年月による感情の摩耗の所為で、お師匠様本人が要因ではありませんから。お師匠様は彼を愛し、そしてその愛を信じている一方で、『信じ続ける自身』を信じきれなくなってしまっただけなのです。――ただ、かつてのお師匠様もお若かった。選んだかつての自分のその選択が漸く終点に辿り着いた時、そこで待ち合わせをする二人が、『別れた時の二人である』という保証はどこにもないのに、どれだけだって待てる、と思うくらいには、愛に盲目だったというだけの話です。……お師匠様が時を止めて待っている間、彼はお師匠様の事をすでに忘れ、今も星々を漫遊しているかもしれませんね。約束が果たされずとも、お師匠様はそれはそれで構わないのでしょう。ですが、それを確かめに星海へ向かうには、少しここで長く足を止め過ぎました」
「……つまり……師匠は――既にその者が師匠と約束をした『かの者』ではないと知ることが嫌で、結局今の今まで探しにいかなかった、ということか?」
「お師匠様の懸念したその結果にならない――彼が、別れた時の彼のまま、という可能性だって、もちろんありますよ。そうなればいいですが、ここでお茶を飲んでいる我々には、残念ながらそれを知る術がありません。ここで時を止め彼を待っていた年月は、再会を誓う美しい愛とロマンチックな約束から、今やお師匠様を追い詰める無数の荊棘となってしまった。その傷を治せるものがこの世にたった一人しかいないのに、どうしてその人がいるかどうかもわからない荊棘の中を踏み出していけるのでしょう」
「……じゃが、……それでも待ち続けるというのは、ただの意気地なしで愚かな行為ではないのか? かつてのナナシビトが聞いて呆れるぞ」
「…………」
「ふふ、龍女様は適格にぐさぐさと心に刺さる正論をおっしゃいますね。もっと言って――……いえいえ、少しくらいはオブラートに包んで差し上げねば」
「ぬしも相当抉っておるようじゃが……。ほれみよ、あのいつ見ても涼しい顔をしておった師が、これほどまでに打ちのめされた表情でいるのは初めて見るぞ」
「打ちのめされては、……――いや、……なんでもない」
 はあ、とテーブルに頬杖をついて顔を覆いそうになるのを堪え、取り乱すな、と理性で感情を押さえつけた。周囲の音が一瞬遠ざかった。一呼吸おいて視線を元に戻す。霊砂は丹恒を見てにこにこと微笑むばかりで、白露は彼女と丹恒の間でどういう態度を取ればいいのかまだ決めかねているようだ。
「……まぁ、お師匠様を真に愚かであると言えるのは、お師匠様と同じ時間生きている者達だけであり、その途方もない年月を過ごすということがどんな苦痛を伴うのか、想像すら出来ない我々には、その行為が愚かなものに見えたのだとしても、それを本当の意味で非難する資格はございませんよ。……ですが、私も、今のお師匠様は、自身の選択と向き合うことから逃げ続けているように見えますね」
「…………――、」
「……さあ、ひとまず点心が冷めてしまう前に口にしませんか。せっかくの不夜候自慢の点心が冷めて、味が落ちてしまいます。ほら、お師匠様も、弟子に正論で理詰めをされ、傷心のあまり何も食べたくなくとも、一つでも口にしてください。どうせまたここで放っておくと、何日も食べないままお過ごしになるでしょう?」
 それを聞いて、確かに、と白露が頷く。それはいかんな、と白露が勝手に丹恒の蒸籠の蓋を開け、中からまだふっくらと温かい点心を手に取った。ほれ、と無理に口元に近づけてくる。仕方がなく口にしたが、不思議と味気ない。
 結局、一つだけを口にした後は白露にすべてを譲り、姦しく話す彼女たちに時折相槌を打つくらいで、丹恒はぼうっと、頭の中で何度も同じ事を考えていた。
 今更――本当に今更だ。ここに至るまで何度も、何度もこのままでいいのか、と考えたことはあったのに。
 ぼう、っと歩き出す彼女たちの後ろをついていきながら、丹恒は星槎海の空を駆ける船をぼうっと遠く眺めていた。暮れていく空は既に群青に染まりつつあり、星槎の向こうでは星々が瞬き始めている。いつの間にか立ち止まって、星空を眺めていた。その星々の間に枕木を梯子のように掛け、列車で駆けた日々は、いつの間にか遠い昔のことになってしまった。あの列車で過ごした日々よりも、ずっと長い間ここで足を止めている。
「…………――穹、」
 彼が、もうどんな声をしていたか掠れた録音でしか聞くことが出来ない。昔はもっと鮮明に聞こえていた気がする。もう少し声のトーンは低かった気もする。彼の髪の感触がどのくらい柔らかかったか、もうその感触を思い出せない。触れたくちびるの温度がどのくらいだったか、重ねた肌も、繋いだ手の少し湿った感触も、彼がどんな風に笑っていたか、彼がどんな風に自分を見つめていたか、確かに覚えているのにすべてが遠い。
 もし届くなら、ここからどこまで行けばいい。――どこまで、行けば、お前に。

「――星を捕まえようとしてるの?」

 いつの間にか遠くへ伸ばしていた手が、その声でぴたりと宙に止まる。はっとして後ろを振り返った。
「……?」
 後ろから声をかけられたが、振り返ってもそこには誰もいない。視線を彷徨わせ、漸く下方に影を見つけた。少女が一人立っている。おまえは、と丹恒はそこに立っていた少女に怪訝な表情をした。そこにいたのは、昼間、小児病棟で見かけた子供だったからだ。
「……まさか、病室移動の混乱に乗じて、医館から抜け出してきたのか」
「抜け出す? ううん。元からあそこにだけいたわけじゃないし」
「……? 誰かの見舞いにでも来ていたのか」
「時々白露みたいに遊んであげてた子はいるけど。……丹恒は、星を捕まえるならどこまで行ける?」
「は?」
「どれだけ軽くなったら、行きたいところまで飛んでいけると思う?」
「…………、何の話をしてる」
 感情の読めない顔だった。どこかで見たことがあるような気もするし、何かの覚え違いかもしれない。不思議な雰囲気の少女だった。どこか懐かしいのに、同時に得体が知れない。
「そんなに怖い顔しなくたっていいじゃん。この世は未知で溢れているけれど、その未知は既知よりは怖くないんでしょ? 聞いてた話と違うけど、まさかいつの間にか別人になってる……ってわけじゃないよね?」
「だから、何の話を……」
「あんたは丹恒?」
「……? ああ」
「『ナナシビト』の丹恒?」
「…………――、」
 尋ねられて言葉に詰まった。少女の顔がんん? と少し曇る。彼女は数秒黙り込み、それからころっと、まあいいや、と曇らせた表情をどこかにやって、徐に丹恒の手を取ってきた。なんだ、と掴まれた手に疑問符を浮かべていると、ぐいっと、少女の力とは思えないものすごい引力で引っ張られる。思わずバランスを崩し少女の上に倒れ込みそうになったところを、ぐっと耐えて――耐えたつもりだった。
「……あ、」
 転ぶ、とその瞬間悟って、そして丹恒は衝撃に身構えた。少女を咄嗟に庇おうと体を捻り、なんとか少女の上に倒れ込まないようにする。ごろごろと地面を転がり、勢いを殺したが、慌てて少女の様子を窺おうとして体を起こした丹恒は、その場で固まってしまった。
 車窓から覗く星海、赤い色の絨毯、ピカピカに磨かれた床、少しラグジュアリーな雰囲気のソファ、中央に明るく明かりを燈し佇むバーカウンター。二階に続く階段の先に、見覚えのあるドアがある。
 ここがどこか見間違いようもなかった。今でこそあの場所で過ごした時間の方がながくなってしまったが、それでも――それでも。掠れていく記憶の中でも、片時も忘れたことなどなかった。
「…………は?」
 目の前に、あるはずのない光景が広がっていた。丹恒は呆然とその場で立ち尽くす。ここは――星穹列車。そのパーティ車両だった。

        §        

 ひゅ、っと喉が鳴って、穹は椅子に座ったまま腰を抜かした。そうだ、こいつらはそういうものだ。忘れた頃にやってくる。少し寂しくも幸せな気持ちで余韻に浸っているところを、容赦なく冷水を浴びせてくるのだ。しかも、頼りの丹恒が居なくなった――そんな、最悪の、丁度いいタイミングで。
「お前……毎日毎日ぼやぼやぼやぼやと……!」
 腰は抜けているが闘志はあった。穹は椅子に座ったまま相棒のバットを手にする。だがすぐに、実体のない幽霊相手にバットは不利かもしれないと気付く。これはだめだ。となると、と丹恒が元の位置に戻した掃除機を部屋に探す。――出入口のすぐ近く。
「くそっ! 遠い!」
 えーんたすけて丹恒~っ! と泣き叫んだ方が早いかもしれない。きっと叫んだ瞬間に文字通り彼は飛んできてくれるだろう。それくらい頼りにしているし、そうしてくれると信じているし、疑いようもなくそうすると確信している。
 椅子に乗ったまま勢いよく部屋を駆けるにしても、幽霊を迂回していかなければいけない。その間にリーチが近づいて、幽霊に乗り移られたらたまったものではない。
 穹はじりじりと距離を詰めることもこれ以上遠ざかることも出来ないまま、ぼうっと浮かんだ幻をただじっと見つめた。確かブラックスワンが言うには、近い性質は憶質――この幻が本当に憶質であれば、もしかするとあの子が残していったものが使えるかもしれない。
 穹はバットではなく、ペンを手に取るために走ろうとして――そこに何もないことにはた、と動きを止めた。そして思い出した。丁度昨日の事だ。日がな一日部屋に引きこもってアーカイブの整理や論文を整える作業をする丹恒に付き合っていたから――自らもまた、殆どの時間をこの部屋で過ごしていた。作業がある丹恒と違い、これといった仕事を持たなかった穹は、たまには掃除でもするか、と軽く整理を始め――ふと目に着いた武器棚ではなく、ペンは机の上にあった方がよさそうだ、と紡がれた物語の近くへ移動していたことを。
「ッ……! ~~ッ!」
 俺のばか! ぼけ! あほ! まぬけ! ミュリオーン! キュレネーッ! いくら叫んでも返事がないのももうわかっている。どうするか。どうしようか。幻と対峙しながら穹は考える。冷や汗が出てきた。心臓もバクバクとする。いや、あれは憶質。憶質に近いもの。おばけじゃない。決して得体の知れない者では――ない。
 そうだ、歩み寄ろう。穹はもはや混乱のあまり自分が何を考えだしているのか自分でもよくわかっていなかった。抜けた腰の所為で椅子から碌に立ち上がれずにがくっと椅子から落ちた。あだーっ! と膝から崩れ落ち、いかん敵に隙を見せるわけには、とすぐに体制を整えようとして――先ほどよりずっと近くに幻がいることに気付く。ひょぇ、と喉が鳴った。
「おわっ、あっ、あおあえ」
 ――何でここで近づく!? なんで!? 今までこんなに近づいては来なかったじゃん!? 騒がしい頭の中とは裏腹に驚きは声を碌に言葉にすらしない。椅子にしがみ付くようにして立とうとしたが、すっと何かが伸びてきて、ぞわ、っと肌が自然に粟立った。「た」と咄嗟に口にする。
「――丹恒ッ……!」
 もう駄目だ~、俺このまま呪われて悪霊ライドコースなんだぁ~! と、ぎゅう、っとその瞬間を待ち、すう、っと深く息を吸いこみすべての感情を無にする。だが、いつまで経っても、懸念していた感覚はやってこない。
「……っ、……あ、あれ……?」
 おかしいな、と目を閉じたままだった穹は、そっとその眸を開けてみる。それから、目の前に見知った顔がいることに気付き、あれ、と呆気に取られて目を丸くした。いつの間に、と穹は首を傾げる。
「丹恒……? いつ来て――おま、……お前なんか《透けて》ない!?」
 本能的に、穹は椅子を抱えたまま、足で床を蹴って逃げていた。俺の親友が半透明なわけがないのだ、と。そもそも丹恒の実体はこの星穹列車にある。そしてすぐに思考を止めた。いや、ちょっと待ってくれ、と。
 確か、オンパロスから一度列車に帰ると言って一人で丹恒が列車に帰った時、話によれば彼はほぼ魂――意識だけの状態で列車に戻ったのだったか。その間も、自分と丹恒の本体は宇宙空間で漂流していたのだという。もしかすると――あの時に身体から魂が離れやすくなったとか?
「嘘! そ、そんなめちゃくちゃな体にィ!? 俺の許可なしにそんな体になったのか? 何にも聞いてないぞ!? わかった、今すぐ戻してやる! お前の本体どこだ? 資料室に行って帰ってこないと思ったら幽体離脱してるとか想像もしないだろ!」
「……―――」
「え? なに?」
「……――き、……ゅ」
 ぱくぱくと目の前の丹恒の口元は動くのに、声がよく聞き取れない。なに、とくちびるの動きを読み取ろうとするが、何を言っているのかまではわからなかった。「――きゅ……う」と声だけが聞こえる。自分の名前を呼ぶ声だ。
「うん? 何だ?」
 そんなに呼ばなくたって大丈夫だぞ、と彼を安心させるように、穹は丹恒に向かって手を伸ばす。そうやって伸ばした手を、丹恒は少し迷うように躊躇した後、そっと重ねてきた。触れられないはずなのに、確かに何かに触れた気がする。
「……――えっ?」
 その瞬間、視界がブレた。
 ブレた――なんてものじゃない。穹は通り過ぎていく無数の光の中に居た。自分がどこにいるのかもわからず、重力制御の効いた部屋にいたはずなのに、なぜか体は風船のようにふわりと浮いて、どこかに――落ちていく。あるいは昇っていく。多くの異世界トリップ主人公よろしく、穹は自分がどこかへ向かっている――というのは分かったが、自分の体がどこへ向かっているのかを止めることも出来ず、ただ――「あああああああ!?」と、止まらないその移動に、ただ叫び続けることしか出来なかった。
 そして、穹が漸く放り出されたのは、夜だった。
「…………――、星槎だ」
 茫然として空を見上げる。
 仰向けになった視界が、星空と、その上を横切る星槎を目にした。
 星槎は――仙舟羅浮で見た。他の仙舟同盟の船にはまだ乗ったことがないから、星槎があるのが羅浮だけかどうかは知らない。自分が知っている星槎の形と少し異なっているような気もしたが、空を飛ぶ船など他に見たことがない。いつの間に羅浮に来たんだ、と自分の部屋から羅浮に来るまでの道のりを何一つ思い出せないまま、穹は頭に沢山の疑問符を浮かべる。ひとまず起き上がるか、と仰向けから体を起こそうとして――目の前に、ぬっ、っと足が迫ってきたため、「――うおうッ!?」慌てて転がった。
 間一髪。直撃は免れる。
「なっ……なっ……なんだよ! おい! こら! 転がってた俺も悪いけど! 普通踏みかけたら謝るだ、……ろ、……?」
 慌てて飛び起き、穹は自分を踏みかけた足の主へ向かって叫ぶ。だが、叫んだ方向に人影はない。あれ、と首を傾げ、影を探して周囲を見回した。少し離れたところに人影がある。周囲に他にそれらしき距離に居た人影はいない。彼だ。
 一言文句言ってやらないと気が済まない、と穹は飛び起きてそのまま彼を追いかけた。ちょっとお兄さん、とおじいさんかもしれない青年に声をかけようとして近付き、そしてその違和感に気付く。近づいた分だけ彼もまた移動しているため、遠ざかっていくのは――わかる。だが妙だ。
「……なんで後ろ向きに歩いてるんだ……?」
 そういう趣味の人だろうか。文句は言わない方がいいかもしれない。奇行だ。どう考えても奇行。後ろを見ずに堂々を後ろ向きで歩いている。変なの、と興を削がれた気分で、穹はその場に立ち尽くす。そして――星槎海を通り過ぎていく星槎の違和感に漸く気付いた。
「――……バック走行って、……出来たっけ?」
 星槎が本来の進行方向とは逆向きのまま走っている。
 あの星槎でそんな進み方出来たっけ、と穹は首を傾げた。しかも、通り過ぎるすべての星槎が、何故か同じ走行方法で空を駆けているのだ。猛スピードで駆けていくスピード違反の星槎も、当たり前のように逆向きのまま走っていく。
 今日は何か、逆向きに航路を進まないといけない規制期間か何かなのだろうか? 穹は呆然とその星槎を見上げ、ふと、橋を渡る人々もまた、後ろ向きで歩いていくのを見つめた。近くの不夜候から、扉を開けて、客が数組後ろ向きで出てくる。いや――不夜候か? 自分が知っている不夜候より、目の前の店舗は少し華やかになっていて、精錬された佇まいではあるものの、少し雰囲気が異なっている。
 講談を行っていた場所は高さのある段が出来、ステージ状となってすこしばかり場所も拡張されている。並んだ机も、知っているものとデザインがすこし異なる。
 いつのまに改装したんだ、と穹は呆然としながら不夜候の店舗を見上げた。そして先ほど不夜候から出て来た客が、後ろ向きで歩きながら、曲がって自分の前にやってきたので、慌てて横へ退けた。後ろ向きのままだから後ろに人がいることにも気付かないんだぞ、とまた文句を言おうとして、穹はあれ、とふと自分の足元が目に入る。
 地面の石畳が透けて見えた。
「…………オワァォ」
 なんで? どうして? 何故自分は透けて見えているんだ? ああそうか。幽体離脱をしたのは丹恒だけではなく、自分もなのか――それで列車から羅浮まで?
 穹の頭には秒単位で疑問符が増えていく。何もわからない。自分がどうしてここにいるのか、半透明なのか、彼らが何もかもを逆に進んでいる理由すらも。
「たまたま近くに居たのかな……」
 だからといって、意識体だけがここに飛んでくるなんてことがあり得るのだろうか? 困った、と穹はその場に立ち尽くす。もしかしてここは夢か、或いは記憶域の中なのだろうか?
「そう考えた方がいい気がしてきた……」
 こんな、不思議なことが起きるのが宇宙という未知である。自分はいつの間に眠ってしまったんだろう?
 幽霊――得体の知れない幻と対峙していて、腰が抜けたのは覚えている。だが気付くとあの幻は既にいなくなっており、かわりに意識体だけの丹恒が自分の目の前に居たのだ。
「…………うん?」
 あれ、とふと首を傾げる。
 あの近づいてきた幻の代わりに、あの時目の前にいたのは丹恒だった。そして今、自分はあの時半透明になっていた丹恒と同じく、何故か半透明になって移動してきた覚えのない羅浮に立っている。あの幻はあの時どこに行ったのだろう。ぎゅっと目を閉じている間に、丹恒が追い払ってくれたのだろうか? いや――目を閉じる前に同じ距離にいた幻の位置に、あの時何故、それまでいなかった丹恒がいたのだろう。
 もしあの幻が丹恒だったとしたら、一緒にあの幻を見た丹恒は一体何なのだ? いや、一緒にいた丹恒が、自分の知っている丹恒で間違いない。では、半透明の丹恒が――知らない丹恒なのか?
「幽霊って姿も変えられるんだっけ……」
 考えれば考えるほどわからなくなる。いや、ともかく――一旦この場所から星穹列車に戻らなければいけない。
 意識だけがこの羅浮に飛んできたというのなら、自分の本体は未だ星穹列車にいるはずだ。今の自分がどんな状態になっているのか想像もつかず、意識がここに出てきてるってことは魂が半分抜けてるようなもんだろうし、と思い当たる可能性のうち、あまりよく考えたくない可能性ばかりがびゅんびゅんと上位に浮上してくる。このまま戻らなければ、もしかすると――。
 最悪の可能性を頭に思い浮かべ、穹はいやいや、とすぐに首を振った。そんなことになってみろ、丹恒にまた、最大級のトラウマを植え付けてしまう。
 すう、っと胸の奥が冷えていくようだった。もしこのまま、星穹列車に戻ることが出来なけば、丹恒はあのまま別れてしまう――ことになるんだろうか? まださよならすらも言えていないのに、突然、彼の目の前から居なくなってしまうのか?
 それは――ダメだろう。駄目だ。穹はすぐに駆けだしそうになった。でも、星穹列車がどの方向にいるかすら、ここに立っているだけではわからない。広い星海に出て、ただでさえ動き回る星穹列車を探すのは至難の業だ。余程運がいいか、勘がいいかのどちらかでないと、きっとたどり着けないだろう。
 自分の体に戻るのだから自分の体の位置くらいわかってもいいものなのだが、生憎全く――本当に全く、自分の所在すら感じられない。これも、体が星核の器だからだろうか? 魂もまた、あの容れ物に入っているだけのものにすぎないから?
 どうしよう、と穹は立ち尽くし、ぼう、っと自然と空を見上げた。暗くなっていくはずの空は、群青から紫へ、紫から橙色へと時を遡るように逆行している。その空の向こうに見える星々は、羅浮の外の星海のものだ。その星の輝きの中に、見知った列車の車窓がないかと、空に手を伸ばしながら探そうとする。

「――捕まえる星はそこにはないよ」

 声はその時、真下から聞こえてきた。
 思い返してみれば、先ほど地面に転がった穹を踏みかけた青年は、そもそも穹に気付いているようには見えなかった。ぶつかりかけた不夜候の客も、今も後ろ向きのまま歩いていく歩行者も、皆ここに立つ穹には目もくれない。
 だが、声は――視線を向けた少女は、真っすぐに自分を見上げている。どこかで見たことのある、まるで鏡の中から出て来たかのような、綺麗な少女だ。彼女は自分と全く同じ眸をし、自分と全く同じ髪の色をしている。黙っていれば何を考えているかわからなくて少し怖いし、だが美人だ。美少女、と言えるかもしれない。
「……お前、なんで俺に話しかけてるんだ?」
「何でって。話しかけちゃいけないなんて誰が決めたの?」
「誰も決めてないけど……」
「ならいいでしょ。ところで――誰か探してる?」
 尋ねられて、穹は目の前の不思議な少女に少し怪訝な表情を向けた。何も言っていないのにわかるのか、と。
「誰か……っていうか。……場所っていうか……。あ、でも――そっか。俺がここに飛ばされたってことは、もしかしたら丹恒もここに飛ばされてるのかもしれないのか」
 もしそうなら、どんなに心強いか。右も左も上も下もわからなくたって、同じ場所に彼がいるなら、何だって出来るような気がしたし、何が起きても大丈夫だと思えた。それなら、まず丹恒を探さなければ、と穹はまず一つ目標を定める。
「探してる。友達なんだ」
「案内しようか」
「……? 丹恒がどこにいるかわかるのか」
「うん。わかるよ。――ついてきて」
 少女はそう言って、穹の前を歩き出す。何もかもが逆向きに進んでいく世界の中で、彼女と自分の足取りだけが正しい向きだ。いや、むしろ自分たちの方が異質なのだろうか? 
 ここが羅浮――にしては、記憶とすこし違う箇所がいくるもある。やはりここは記憶域なのだと思った方がいいのだろう。穹は得体の知れない少女の後についていくのが正しい事なのかわからなかったが、他に行く当ても今はなかったから、仕方がなく逆行する人々に逆らって歩いていく彼女の後を追いかけた。

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