100万年きみを愛す


 幾多と別れた運命の果てに、少年は往日の姿のままひとり漂っている。
 長い長い眠りの後のような、重い目覚めだった。身体のどこにも力が入らないが、動かし方はどうやら覚えているようだ。自分はなぜ今ここにいるのだろう。そもそもこれまでに何をしていたのだろう。すぐには思い出せないまま、少年はまた目を閉じる。
 どこかでひとつの世界が閉じ、またどこかで急に世界がひとつ現れる。星海に瞬く那由他の星々と同じように、それらの世界の産声、或いは断末魔、あるいは柔らかく閉じていく最後の余韻が、遠い記憶の漣となり少年の耳元を優しく擽る。うとうとと微睡むように、少年はまた、長い長い夢を見ようと船を漕ぎだす。
《――ねえ。【あんた(穹)】、私の事アンカー代わりに置いといて、もしかしてそのまま忘れて寝てたわけ?》
 だが、届いた声がそれを強引に引き留めた。は、っとその声に急に引き戻され、少年は再び閉じかけていた瞼をはっきりと開いた。
「……――! やべ、寝すぎた!?」
 少年は泥のような微睡から這い上がる。ここはどこだ、と聞こえて来た声がどこから聞こえた者なのかもわからないまま、少年はきょろきょろと周囲を見回す。見えるのは遠く、何処までも続き、今も広がり続ける星海だ。右、どちら? 左、どちら? 上、どこ? 下はあっち? 自分が立っている方向が正しいものなのかすらわからずに少年は揺蕩う。いや――まあ、この場でどこが正解なのかを判断するなんて無意味な話だ。
 ともかく、歩き出さなければ。
 少年はまだはっきりとしない頭で考える。彼はまだ、自分を待っているのだろうか。自分をまだ愛してくれているだろうか。先ほど聞こえて来た声に尋ねようにも、あの声がどこから聞こえてきたものなのかを今は特定するのが難しい。彼に会いに行くのに、もう随分長い時間が経ってしまったような気がする。確かめようにもどのくらい経ったのかすらわからない。
 彼は――同じ命を繰り返す特殊な種族だ。卵に戻った後は、再びその殻を破る日まで長い夢を食みつつ眠りにつく。起き出した頃には記憶は身体の逆行と共に白紙に返り、別の人間として再び生き直すことになる。きっと彼は――とっくに、次の彼に脱鱗してしまったあとだろう。となれば、もう既に自分の事など忘れているに違いない。
「…………――」
 当たり前の事なのだが、その当たり前のことにつきんと胸のどこかが痛んだような気がした。自分は往日の姿のまま時を止めているのに、彼はきっと一人で随分遠くまで行ってしまったことだろう。急に歩き出そうとした足を止めて見たくなる。彼に会いたくてたまらないのに、同時に彼に会いたくない。自分の知らない彼がいるかもしれない。当たり前だが、その事に少なからず傷ついている自分がいる、とわかって、少年は「俺が言えた立場じゃないよな……」と誰にも聞かれないため息をひとつ零した。
「……未知は既知より怖くない」
 それはかつて、少年に送られた言葉だった。驚くことに、強請って引き出した多くの愛の言葉よりも、それを知らない、まだ若葉の頃の自分達の間を繋げた言葉の方がずっと頭の中に残っている。その言葉はあの時、少年が世界で目覚めて初めて受けた魔法のようなものだった。何もかもが怖くなくなる魔法。彼と逢うのが怖いのは、自分が今もまだ彼を愛しているが故だ。かつて自分が彼に先に与えることになってしまった悲しみも苦しみが、時を超えて胸の奥に爪を立てる。もしかしたら、と。彼の事を信じていないわけじゃない。でも、変わらないものが何もないことだって、穹は既にもう理解している。
 まあそれもあの時の報いか、と少年は止めていた足を再び動かした。それに、かつての彼の姿が、この足が行きついた先で、もうどこにもなくなっていたとしても――今なお手に持って歩く、この美しく、暖かな、光のような気持ちそのものが、粉々に消えてなくなってしまうことはないと分かっているから。
 彼がそれを、きっと自分と同じように最期の時まで持っていた、と少年は確信を持っている。
「……ちょっと顔だけ見て帰ろ」
 今の彼は、何という名なのだろう。数代生まれ変わった後なら、もう元の名の面影など綺麗さっぱりなくなっているかもしれない。顔に似つかない可憐な名前になっているかも。それで――そこにもし、自分の知る面影がまだあるなら、少しだけ、ほんの少しだけちょっかいを出していこう。記憶があってもなくてもまた逢えたらいい、とそもそも言い出したのは自分なのだ。――そうだ、思い出した。
「丹恒に逢いに行かなきゃ」
 少年は、ゆっくりと怖れを抱きながらも歩き出す。彼を探し、そして今も待っているかもしれない、彼の元へ戻らなければ。
 そうして、少年は久方ぶりに、途方もなく広がるこの星海で、その日また名を持たぬ旅人となり、同時に、宇宙の迷子となった。

        *

 はじめ丹鼎司の傍に構えていた邸宅は、いつしか時と共に劣化などの修繕による増改築、移転を繰り返し、いつの間にか市井の人の声すら届かない場所へと追いやられてしまった。とはいえ、神策府から与えられている仕事の事もあり、邸宅の敷地の近くに臨時の星槎乗り場が設けられている。方々から時折邸宅を尋ねてくる者は大抵その星槎に乗ってやってくるため、不意に遠くから鳥が一斉に飛び立つ音がすると一瞬身構えてしまう。知識だけなら自分よりずっと詳しい者がいるのだからと、智者として協力することはあまりなかったが、大抵わざわざここにやってくる者の大半は面倒な話を持ち掛けてくる者達ばかりだったから。
 竹林で囲まれた広い蓮庭は、花の頃は見事なものだ。甘い蓮の香りが池の近くを歩くとふわりと香る。毎度、庭師が手入れや増改築の度に張り切る所為で次第に大きくなっていった庭だが、大きくなりすぎても管理が大変だと、数千年前からあまり規模は変わっていない。誰かが忍び込んできてこっそりと投げ入れ、いつの間にか増えた鯉には毎日自動で餌が撒かれ、水底に沈んだセンサー等が水切れを起こさないように水位を一定に保ち、環境を一定に保つ装置を完備しているし、庭に離した保護してきた鳥たちは、永狩原野とは異なる環境に適応しのびのびと暮らしている。ここ数千年ほどで羽の色にも変化が見えて来た。進化というのは過酷な環境ではなくとも起こり得るものである。
 丹恒はこの庭で時折生物研究を続けながら、フゲン・システムを利用しつつ、この宇宙の膨大なデータベースから日々知識を得、研究成果を発信してもいる。時折出さなければ書き方を忘れてしまうから、庭の生物を題材に論文を書くこともあった。また、それらと同時に、時々過去の自分が残した彼の、そしてかつての仲間たちの記録についても紐解く。記憶は奥にしまっておけば置くほど引き出すのが難しくなるから。
 心の奥深くについた古傷は既にあの頃ほどは痛まないが、時々思い出してはそれなりに寂しくなる。孤独や寂寥感にも、もう随分慣れた。それに、何日もその感傷に浸り続けるには、今は存外に、世間から遠ざかったはずの日々が忙しい。
 神策府から請け負った仕事を昨日終え、書斎で古い本にまみれながら微睡んでいたところに、『――君。……――老君、お休みの所申し訳ありません。お客様なのですが……』と不意に声が飛んできた。はっとして、丹恒はぎゅっと一度強く目を瞑る。屋敷のどこかにいる従者からの通信だった。このまま眠ってしまうつもりでいたから、うとうととしながら、丹恒はその声に「……神策府の使者か」と尋ねる。昨日出した仕事に何か不備でもあっただろうか。だが従者はいえ、と緩くそれを否定した。仕事ではないのなら急を要するものではないな、と丹恒は一つ息を吐く。
「……帰ってもらえ」
 丹恒のその答えに、従者は困ったように数秒言葉を飲み込んだ。
『ですが……、その。お客様というのが……』
「……白露か。それとも、符玄と名乗る謎の少女か、それとも丹鼎司の司鼎代行の……たしか漣微(れんび)だったか。もしくは前司鼎の霊砂か」
『その……。全員です』
「…………、日を改めさせろ」
 嫌な予感しかしなかった。丹恒は一方的に通信を切り、再び微睡の中に戻ろうとする。うとうととし始めたのはつい先ほどのことだ。あたたかな微睡は、再び快く痛む瞼を迎え入れてくれる。ここ数日はあまりよく寝つけていなかったから、余計に、甘やかな眠りが意識を心地よく包み込む。あっ、と声が微かに聞こえ、ぶつっ、と勝手に開いたチャンネルが閉じた。
 とととととと、と聞こえていた足音が、どどどどど、と近づくにつれて大きくなってくる。
「丹恒ーーーーッ!」
 仕事に集中するため、こういった強行突破をしてくる訪問者に備え、屋敷の中の一部を雲吟の術で迷路化していることもある。近くから聞こえているが、どうやら足音はこの部屋をすぐには見つけられず、あのクソ冷徹師匠はどこいったんじゃ、と悪態が聞こえた。度々この屋敷に勝手に入ってくるのは代々の龍女と司鼎と時折かつての太卜くらいのものだったが、今日はその全員が自分を探し回っているらしい。あのう、よろしいのでしょうか、と控えめに尋ねているのは恐らく今の司鼎代行だろう。
「老君は仕事中やお一人で過ごしたい時に屋敷を迷路化して引きこもってしまうんです。どうせこの会話は聞こえていますよ」
「そこは数百年前からも変わらないのね。で、どうするの。日を改める?」
「丹恒~っ! 出てくるのじゃー!」
「いけません、龍女様。出てこいだなどと。お師匠様にそのような口をきいては失礼ですよ」
「安心せい、霊砂。丹恒はこんなことでは怒らぬからの。丹恒ーッ!」
 びりびりと大声に微かに空気が震える。微睡も思わず丹恒を手放した。音を遮断は出来るものの、揃ってここを訪れる理由が解決しない限り、彼女らはまた連れ立ってやってくる。結局丹恒の方が今回も折れた。
「おっ! こんなところに引き戸が増えたぞ」
「雲吟の術を解かれましたね」
「では入ってこいということでしょ。行くわよ」
 ガタガタと建付けの悪い引き戸を揺らしながら、四人部屋の中に押し入ってくる。書物の山の中で横になっている丹恒を見つけ、彼女らは周囲を取り囲んだ。
「なんじゃ、お昼寝中じゃったのか」
「それは悪い事をしてしまいましたね」
「だけど起きていたじゃない。一度居留守を使おうとしたのは確かでしょう」
 一人はすっかり委縮して部屋の入り口で立ち止まっている。無理もない。恐らく師弟関係でもないのにこの屋敷の奥の生活空間にまで入り込むなど一生ないと思っていただろうから。特段、人の訪問を断っているわけではないが、邸宅からあまり外へ出ないということもあり、すっかり周囲は現在の丹恒を丹鼎司の端に住む仙人くらいの位置付けとしている。数年に一度は何かしらの集まりに顔を出しているから見たことがないわけではないのだろうが、顔を合わせる者たちはいつも代り映えもしないから、こうやって私的な場で会うのは初めてだろう。丹恒がゆっくりと起き上がると、あら起きたわね、とその額に法眼を埋め込んだ少女がふっと軽く微笑んだ。
「久方ぶりね、飲月君」
 この宇宙に数ある量子・生物コンピューターの管理AIが、生態端末としてシステム外――つまり現実世界に自身の子機を作り出すのは何も不自然な事ではない。符玄のように元は人間だった者だけでなく、初めから人に作られたAIですらも、何故か量子世界から出て重力を欲する。何故か、と尋ねてみたことがあるが、彼女の場合は元は人間だったからあまり当てにはならないでしょう、と確かな回答を突っぱねられた。
 他の星や組織が有する量子・生物コンピューターはそれぞれに独自のネットワークを構築しているため、主制御AIとそういった会話が出来ないことがほとんどだ。今は羅浮の外に出ない丹恒は、それらに接触する機会もあまりなかった。どこぞの量子・生物コンピューターをピックアップし、ハッキングして聞き出してあげましょうかと符玄から提案をされたこともあるが、新たな組織間の戦争の火種になるようなことは避けてくれと彼女を止めて今に至る。
 今の技術力で用意した彼女の体は、かつてのクローン技術を駆使したものだ。アーカイブに保存された彼女の遺伝子構造を用い、彼女が生前一番活気あふれていた時期の状態を反映して作られた。一体あたりの制作予算は膨大な金額になる上、その状態管理の難しさ故、代々丹鼎司の司鼎でも限られた人物にしかその制作方法は開示されていない。同じ元の体、つまり天人であった頃程長くは生きられないし、精々殊俗の民の半分の平均寿命が最長の稼働期間だ。さらに、元よりただの肉の塊である以上、制御プログラムを中にインストールし、人間のように動けるように《矯正》しなければ、身体の筋繊維を用いた歩行すら碌に出来ない。演算能力はもちろん本体に比べれば劣るため、本当にただ不便を敢えて金で買っているようなものなのだ。
 数十万年前からあまり変わらない、記憶の通りの少女の姿である。
 服はさすがに当時のものとは違い、今は少し上等な生地の市民の普段着だ。太卜時代に結っていた髪は降ろされ、これは霊砂が整えたのか、邪魔にならないように後ろで軽く結って前に流れる髪の量を減らしている。丹恒は体を起こし、久しぶりに姿らしい姿を見せた符玄に軽く礼をした。
「……将軍もお変わりなく。もう新しい身体の《矯正》が終わったとは……」
「あんなの一日あれば誰だって終わるわ」
 〇歳から赤子が学ぶような体の基本的な動かし方を体に学習させるにはある程度のトライアンドエラーが必要だ。とはいえ、何もこれが初めての受肉ではないから彼女からすれば慣れた作業の一つなのだろう。彼女はざっと部屋の中を見回した。
「そこの山の二段目と下に落ちている本は最近取り寄せたものね? 太極万物統理のアーカイブにないからあとでスキャンさせてもらうわ。……というか、ここ、少し埃っぽいわね。それに五人座れるテーブルもないし」
「……では庭の亭に茶を運ばせよう。丁度今、蓮が見ごろで――」
「あら。いいわね。じゃあそうしましょ」
 行くわよ、と丹恒の言葉を聞き、一行の中で一番堂々とした少女はそうやってさっさと踵を返していった。あっ、とそれを追い白露が駆け出し、後を追いかけてお待ちください、と司鼎代理の女が付いていく。三人の足音が遠のき、一人霊砂だけが残った。
「お前は行かないのか」
「もちろん行きますよ。ですが、今の私の心情も少しは理解をしてくださいません? この間格好をつけてお別れをしたばかりですのに、思いがけなく戻って来ることになってしまい、敬愛なる師範の前でどんな顔をすればよいのかわからないのです」
「……なら余計に逃げだしそうなものだが」
 む、っと少しくちびるを結び、霊砂が丹恒の言葉を聞いて腕を組む。私がそんな少女に見えますか、と、少女のような顔で。
「私はお師匠様ほど年は食っておりませんが、年甲斐もなく羞恥でこの場を逃げるには少々若すぎるのです。お師匠様からすれば、符玄様以外は皆、赤子のようなものでしょうけど」
「持明族も仙舟人も見た目と中身の年齢は必ずしも一致しないからな。特に霊砂はここ三百年程まったく変わらない」
「お師匠様も二百年と間を空けて三十年程お変わりありませんよ。あ、お菓子は持参しましたので用意は不要です。お茶は朝露小芽にしましょうか」
「俺も肉体的にはさほど歳は食っていない上、お前よりかなり年下なんだが……」
「それでいうと、今の符玄様は〇歳ですよ。この中では一番お若いです。ああ、お師匠様用に甘くないお菓子も持参しましたが、どうせ食事がまだでしょう? 軽食を用意させますから、お師匠様はまず着替えてきてください。《老君》にしては威厳が今三分の一くらいなので」
「…………」
 まだ寝間着じゃないですか、と霊砂はそう言って先に踵を返した。そう毎日人と逢っているわけではないから、自分の格好に頓着するのも最近は億劫になっていたが、確かに言われてみれば寝る前の楽な格好のままだった。仕事が終わって寝付こうとしても眠れず、ここで本を読んで過ごしていたのだ。仕方がない、と丹恒は一旦書斎を出て自室に向かい、着替えるついでに軽く身を清めてから、既に勝手に蓮庭近くの亭で茶会を楽しんでいる女たちの元へ向かった。
「丹恒、やっときたのか」
 ほれここに座れ、と白露がばしばしと軽く尻尾で席を示す。木製の飾り棚がテーブルの上にほど置かれ、それぞれの棚板に小鉢に入った軽食や甘味が並べられていた。この短時間でよく、と感心しながら席に着く。桃や杏の匂いが綺麗な菓子から仄かに香ってくる。丹恒の目の前にはスープが入った椀や点心が並べられていた。ほれ食え、とばかりに白露が匙を差し出しながら、自身は玉実鳥串を頬張る。
「師匠は時たま何日も寝ておらぬし、時たま何日も飲まず食わずだというに、よくこんなにもぴんぴんしておるのう……。いつ見ても健康そのものじゃ。全く不思議でかなわん」
 一体何を食えばこうなるんじゃ、と白露はむにむにと勝手に丹恒の腕を掴んではまるでストレス発散玩具のように揉み始めた。符玄は知らぬ存ぜぬと言った顔で茶杯を傾け、司鼎代行は老君になんてことをとばかりに顔を青ざめさせ、霊砂はにこにこと微笑んでいる。丹恒がぱっと白露の手を払うと、むう、と彼女は悪戯を叱られた猫のように軽くそっぽを向いた。
「元々、老君は持明族の中でも特別な個体だったのでしょう。まあ、老君に限らず一部は持病がなければ身体能力は高い方ですから。ただ、老君の場合は加護がございますので、それらの常人と同じ括りにしてはいけないのです」
「加護?」
 なんじゃそれは、と白露が首を傾げる。あら、と符玄が含み顔で少し笑った。
「師匠ともあろうお方が、弟子に己の体質のことも教えていないの?」
「…………教える必要がなかった」
「ん!? なんじゃ、一体何の話なんじゃ!? おい霊砂、はよう教えぬか! 加護とは一体何のことじゃ? 龍尊の加護か!?」
「いえ。それにはまず、お師匠様の昔の話を少ししなければいけません。私も気になって符玄様に閲覧許可を頂き、部分的に記録を拝読した程度の知識ではありますが。今でこそこの竹林の奥深くで、仙人というより岩に生えた苔の如く引きこもっている老君ですが、昔は星穹列車という、宇宙を旅する列車に乗るナナシビトでした。それはご存知ですよね?」
「うむ。それはこの間の師匠のコイバナでちいと耳に挟んだな。わしはそれが一体何かは知らぬが……」
「星穹列車は『開拓』の星神の加護を持つ特殊な車両から成るの。到底理解不可能な構造で宇宙を走る、それこそ百万年近く経っても解けない宇宙の謎。銀河を駆ける列車の話は、今でこそてんで聞かなくなったけれども、昔、彼等は羅浮に立ち寄った際、それこそ羅浮が転覆するような危機を何度も救ってくれた。それゆえに、星穹列車は羅浮の盟友とされ、列車に乗るナナシビト達は皆羅浮の貴賓だったのよ」
 昔話とわかると符玄が饒舌になる。丹恒は自分が話すことがもうないと分かって静かに食事の手を進めることにした。下手に口を出してはいけない、と経験がそう物語っている。白露はすっかり符玄の今の姿にも慣れたようで、見慣れない彼女の話に聞き入っていた。
「ほお……。では師匠は、その時に列車に乗り込んだのか?」
「いいえ。おまえのお師匠は昔大罪を起こした者の転生体として、自身には犯した罪などないのに代わりに罪を背負わされ幽囚獄に幽閉されていたの。そして、当時の将軍――神策将軍に、羅浮から追放されたところを、しばらくして星穹列車に拾われたのよ。今でこそ此処に留まっているけど。……当時の事を知る者は私と当人を覗いて既にいない。彼を咎める者も、その時の罪を問う者ももうどこにも存在しないわ。罪は繰り返さぬように歴史として記録され、今やはるか昔の事故に、知ろうとしなければ知りえないただの昔話になってしまった。まあ、そうやって風化してしまったら、残った咎は当人が身に覚えのない罪を許すか許さないかだけになる。まあ、元々おまえの罪ではないのだから、今は……その時の贖罪は既に果たされたと言うべきでしょうね」
「う、……うむ? 難しい話はわからぬが、つまり師匠は羅浮に戻ってきた時にここに残ったのか?」
「それも違うわね。おまえのお師匠は羅浮で生まれたけれど、追放されてからはナナシビトとして生きることを選んで、羅浮には時たま列車が立ち寄る時にしか訪れなかった。この間話した例の――不思議な少年よ。彼が列車からいなくなるまでは、おまえの師匠はずっとその列車で暮らしていたの」
「ほお。何故その者は列車からいなくなったのじゃ?」
 ちら、っと符玄の視線が丹恒に一度向けられる。丹恒が何も言わずに視線を落としたのを見、彼女も深く追求はしてこなかった。
「――それは、私から語る話ではないわね。当時の事は私も卜者として何度も占っていたけれど、彼の事に関しては何もかもが見えなかった。彼がどこに行ったのかも、何をしているのかすら演算出来なかったの。そういうわけで、当事者であるおまえのお師匠が語らない以上、データベースにも記録は出来なかったわ」
「何があったんじゃ? 丹恒」
 素朴な疑問を追求する子供の、純粋な問いかけだ。だがそれをそっと諫めるように霊砂が口を出した。
「龍女様。人には誰しも、踏み入れられたくない領域というものがございます。龍女様もお勤めやご友人の話になると、すぐに機嫌を損ねるでしょう。老君の場合は、この話がそうなのです。――さあ、納得が出来ないという顔をしてはいらっしゃいますが、話を元に戻しましょうか。……老君はナナシビトとして星穹列車に乗車している間、星外にある数々の星々を漫遊していました。中には未開拓の星や、既に滅びた星などの、星核による災いにより文明を閉じてしまった星もあったと言います。それはそれは、とても過酷な旅だったそうです。普通の人間がそういった環境に足を踏み入れ、無事に五体満足で星を出られる保証はどこにもありません。そこで加護のお話に戻るのです」
「《開拓》の加護は、何も列車そのものにだけ施されたものではなかったの。そこに乗り込み、ナナシビトと名乗る者達にも特別な性質が現われていたわ。特に、生命維持に関してはそれこそ加護だけを咽喉から手が出るほど欲しいと感じる人もいるほどの加護が」
「……な、なんじゃそれは」
「《過酷で劣悪な環境で不眠不休でいても簡単には死なない加護》、とでも言えばいいかしら。例えば龍女様がマイナス三十度近い氷原に放り出されたらどうなるか想像できる?」
「そ、その場で脱鱗するに決まっておるであろう!? それどころか卵に戻っても永久に氷漬けじゃ!」
「そう。常人であればそうなってしまうでしょうね。――けれど、開拓の加護があれば特別な防寒具すら必要なく、今の軽装のままでも雪原で凍えることはない。そして、環境自体では碌に眠れないこともあるでしょう。宿があればいいけれど、この世のすべての人間が善人ではなく、星外から訪れた者達に対し恐怖や敵意を持つものも多くはないの。そういった時も、数日眠らずに過ごすことが出来る。他にも上げたらきりがないけれど、それが開拓の加護よ」
「ち、チートではないか……!?」
「そして、お師匠様は列車を降りたはずの今も、何故か百万年近くその加護を持っていらっしゃるのですよ。そのため度々何日も眠らず、何日か寝て過ごす不規則極まりない生活をすることがあるのです」
「ほお……長年気になっていた謎が解けた。――ふむ。わしもその加護がほしいな。星穹列車に乗りナナシビトになるにはどうしたらよいのじゃ?」
「あら……」
 その話を聞いて、ぶふ、っととこらえきれなかった、とばかりに符玄が噴き出す。かつては冗談一つ許さないような厳格で生真面目な性格であった太卜であった彼女も、時を経て多少は丸くなったようだ。驚く霊砂とは異なり、くつくつと肩を揺らして笑っている。
「龍女がそれを言ったのはもう既に五百回目よ」
「んなっ……!」
 白露が驚いて顔を真っ赤にする。符玄ばあば、と符玄に当たるように声を上げた。
「白露」
 丹恒の声にびく、っと白露が肩を揺らす。敬うべき人間にはちゃんとそれ相応の態度を取るべきだと教えてきていた。この場で一番目上の者は符玄だ。それを分かっているのか、白露も少し大人しくなる。
「っ……や、やっぱり今のは取り消しじゃ! ナナシビトにはならん。じゃが星外には行く!」
「あら。今度の龍女様は旅人をご希望なのね。そうね――正直、その選択はあまりいいとは言えないわね」
「なんでじゃ!?」
「人には向き不向きがあるというものよ。……ああ、それで、そろそろ本題に入りましょうか。今日ここに来た用事なのだけれど」
「……? ああ。そういえば何故皆連れ立ってここに……?」
 何も知らず、始まった談笑に耳を傾け食事をしているうちに、彼女らが何故集まってきたのか、その目的を尋ねることを忘れてしまっていた。外から隔離された生活を送っているため、羅浮内部の事情はいつも少し遅れて把握することになっている。何か自分が出て行かなければいけないような事件でも起きたのか、と首を傾げていると、白露がわなわなと肩を震わせた。
「……い」
「……? 何だ」
「怪異――羅浮に怪異が出たのじゃ!」

        §

「この列車におばけがいます」
 枕とぬいぐるみを抱えドアの前に立っていた穹を見、丹恒は今度は一体何を、と穹を訝し気な表情で見つめた。廊下越しに隣の部屋のドアをじっと見つめる。
「三月とホラー映画でも見たのか」
「違う! マジでいるんだって! デーさんも見たんだからな!?」
「サンデーも?」
 ピノコニーの騒動の後、列車に同乗することになった元オーク家の当主、サンデー。天環族である彼は当主であった頃の性格から随分大人しい、物静かな青年となり、最近は時々こんな風に穹が起こす騒動に巻き込まれている。丹恒はドア横にそっと控えていた彼に続けて視線を向けた。
「サンデー。こいつの言うことをいちいち真に受けて付き合う必要はない」
「だからぁ! 嘘じゃないんだって!? そんなに信じられないなら見に行こう!?」
「いや、俺は寝る」
「ね、寝るなら一緒に寝てくれ……? 怖すぎてデーさんに送ってもらったんだぞ」
「布団がない」
「いっつも同じ布団で寝――ンン! ンー!」
 何を今更、と騒ぐ穹の口を途中で無理矢理塞ぎ、ぽかんとするサンデーに「すまない」と丹恒は謝った。「こいつに付き合わせて手間をかけたな。お前ももう戻って休んでくれ」
「いえ……ワタシはただ穹さんをここまでお連れしただけですから。ところで、彼の名誉のために申し上げますが、先ほどの話は何も穹さんの作り話というわけではないのです」
「……? お前も何か妙な物でも口にさせられたのか」
「いえ。車掌さんの作る食事はどれもとても美味しいです。妙なもの、というものは口にしていません。先ほどパーティ車両に居た時の事なのですが、丁度穹さんが部屋から出て来た際に、急に照明が落ちまして。そこで、ぼう、っと暗がりの中に光のように人影が浮かび上がったのです」
「おばけだおばけだおばけだおばけだ絶対におばけ絶対に絶対におばけ!」
「すぐに調和の力で周囲の状態を探りましたが、穹さんもワタシも何らかの幻術に掛かり、幻を見たわけではありませんでした。尚且つ、その場にブラックスワンさんもいらっしゃったのですが、彼女もまた同じ人影を目撃していたのです。穹さんはその後、すっかり怯え切って一人で部屋に戻る事すら嫌だとおっしゃいまして。困っていたところ、思いついたようにふと、丹恒さんと寝る、と……」
「……事情は分かった。ブラックスワンはこの件について何と?」
「彼女も、浮かび上がった人影についてはよくわからない、とおっしゃっています。ただ、彼女の見立てでは、何かしらのミーム体や、歳陽などに代表されるエネルギー生命体である可能性も否定できないとのことです。彼女の方で先に調査をしていただいたのですが、周囲にはそれらしきものはないそうで。ワタシも痕跡も追ってみましたが、結局何も見つかりませんでした」
「でも、あいつ俺のこと呼んだんだぞ!? きゅーって! きゅーって呼んだ! 俺を!」
 俺は今からおばけのターゲットにされてそのうち呪い殺されるんだ、と穹が勢いのままぎゅうぎゅうと抱き付いてくる。すっかり怯え切って震えていた。サンデーも困ったような表情で眉を下げる。
「穹さんを呼んだ、とのことでしたが、その、穹さんが聞いたという声に関しては、ワタシやブラックスワンさんは聞き取れず……」
「なら、こいつが恐怖のあまり聞いた幻聴の可能性が高いな」
「幻聴じゃないって!」
「……というわけで、興奮も恐怖もなかなか落ち着かず、といったご様子でしたので、こちらまでお連れしました。パーティ車両の照明が急に落ちた理由はわかりませんが、明日車掌さんにはご報告しておこうかと思います。列車が走っている間、何かしらのエネルギー生命体が列車の車体を通過し、中に入り込んでしまった……という可能性もありますから、皆さんが起き出した後に、念のため調査が出来ればと」
「わかった。そういうことなら俺もアーカイブで心当たりになりそうな事象を調べておこう」
「よろしくお願いいたします。それではお二人とも、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 抱き付いたまま離れない穹をそのままに、丹恒は一旦部屋に戻った。この状態では碌に歩くことも出来やしない。軽くその背を叩き彼を落ち着かせようとする。丹恒のその手の動きにすら一瞬びくりと穹は体を跳ねさせた。
「……一応聞くんだが、お前は幽霊やおばけの一体何がそんなに怖いんだ」
 生きている人間の方が余程怖いんだが、と丹恒は尋ねながら、少し腕の力が緩んだ隙に軽く穹を足払いし、体勢が崩れた所をさっと抱え、さっさとまだ温く熱の残る布団の上に移動させた。ドアを勢いよく何度も叩く音がしたため目を覚ましたが、この展開は予想していなかった。
「いや、なんか得体の知れないものがあの空間にいるかもしれないのが怖い」
「……もしお前がみたのがミーム体やエネルギー生命体だと分かっていれば怖くはないのか」
「暗い所と重苦しい雰囲気と寒気がするかんじは誰でも怖いだろ」
「お前のそれはただ場の空気に酔っているようなものだと思うんだが……」
 ホラー映画を見た後に後ろから何かが付いてきている気がする、見られている気がする、と度々風呂やトイレや同衾に付き合わされてきた。今日のこれも状況はそれらと似たようなものだろう。ただいつもと異なるのは妙な現象を目の当たりにしたのが穹の他にもいることくらいか。
 丹恒が横になって布団に入った途端、穹がぎゅうぎゅうと体に抱き付いてくる。密着していれば怖くなくなるのなら、これもまあ致し方ない。余程気が動転しているのか、いつもなら何も考えたくないから抱いてくれだなどと言い出すのに、全くそんな話題すら出さない。余程怖かったのだろう。
「……背中に手回して」
「……ああ」
「ぎゅってして」
「……わかった」
「もっと強く」
 一体何にそれほど怯えているのか、と丹恒は不思議に思いながら、彼を落ち着けるために軽く腕を回した背をあやすように叩く。珍しく無言だった彼の鼓動が抱きしめた腕の中で少し落ち着き、そのうちすうすうと小さく寝息が聞こえてくる。人騒がせな、と思いつつも、丹恒は少し腕のちからを緩め、だが彼の体からその腕を離すことはせず、彼が眠ってからもしばらくは、そっと背を叩き続けた。

        §

 列車の基準時間は今システム時間に合わせてあるが、朝の時間帯も宇宙にいる以上外の様子に変化がないため、変わったのは列車内で起きている人数くらいのものだ。
 今丁度、列車に乗っている全員がパーティ車両で顔を突き合わせ、昨日未明に突如起きた一連の事象を分析しようとしている。夜中に何があったのかを知らない三人と車掌は、事情を聴いてそんなことが、と説明をするサンデーとブラックスワンの話に耳を傾けた。
 姫子が話を聞いてすぐ、列車の動力系統システムをひらく。幾らかの操作の後、考え込むような表情になった。
「――……ええ、確かに。列車の電力ログを参照したけれど、二人が言った通り深夜に一度ここの電力だけが一時的にダウンしているわね。その時間、私や三月ちゃんは既に眠っていたけれど、ヴェルトも丹恒も同様に停電に陥った記憶はないのよね?」
「ああ。その時間は――映画を見ていたはずだが、俺の方は特に何も」
「俺は部屋で既に眠っていたから記憶にないが、アーカイブ室の動力が急に落ちれば音で気付く。普段通りだった」
「ログを見てもあっちの車両は正常ね。ラウンジもそう……。本当にここだけみたい」
「例えば、宇宙空間を漂うエネルギー生命体が走行中の列車の中を通り過ぎる、なんてこともあるのでしょうか」
「エネルギー生命体? そうね……確かにない可能性ではないわ。彼らは物質を透過する性質を持つ者が多いから。けれど今の所姿は見えないわね。列車内のセンサーにも引っかからない」
「じゃあその線は低いか」
「あれは……恐らくミーム体の類ではなかったわ。それよりももっと……。憶測にすぎないけれど、何と言うか」
「何?」
「……憶質の――ようなものだったの。決して悪意のあるものではなかったわ」
「憶質?」
 ブラックスワンの視線が何故か丹恒を向く。丹恒の腕に、途端ぎゅう、っと強く痛みが走った。痛いくらいに腕を掴んでくるのは穹だ。彼は結局何かわからないんじゃん、とぼそっと呟いた。
「――の、ようなものだろ? つまり思念体じゃん。おばけじゃん!?」
「お前はまだその話をするのか……」
「得体が知れないのが一番怖いんだって!」
「アンタ、雰囲気に酔うタイプだもんね。ホラー映画見た後、一人でトイレとかお風呂いけないし」
 サンデーもこの子に付き合わされたんでしょ、とどこから話を聞いたのか、なのかがサンデーに問う。彼は大したことはしていません、と緩く首を振った。
「ですが、確かに酷い怯えようでした。いっそ穹さんだけにはあれはエネルギー生命体だったと言っておいた方がよかったかもしれませんね」
「そうね。今もこんなに怯えて。可哀想に。――まあ……《彼》が何だったのかはひとまず置いておくとして――車掌さん? 昨日の停電はたまたまタイミングが被ってしまった偶発的なもので、件の幻とは関係がないんじゃないかしら」
 ゆったりと声でブラックスワンはパムに尋ねる。うむ……、と彼は姫子から渡された列車の電力系統のログを見、昨日の停電時に何が起きたのか、じいっとそのログを食い入るように見つめる。それから、「あ、」と何かを思い出したかのように呟いた。
「すまん。確かに昨日の停電はたまたまじゃ。昨日皆が寝静まっている間に電力系統のしておこうと、いくつかの予備電源に異常がないかを確かめておったんじゃ。その時、どこかの車両を、先に予備電源を立ち上げる前に電力を遮断してしまって……多分パーティ車両の停電はそのタイミングじゃ」
「ああ……そういえば昨日深夜帯に予備電源の定期メンテナンスをするといっていたな」
「なーんだ。超常現象じゃなかったんだ?」
 解決解決、となのかはもう話の興味を失ったようで、解散でいいよね、とパーティ車両から先に帰ろうとする。おいおいまったまった、とそれを穹が横から止めた。
「まだ肝心の得体の知れない《何か》の正体がわかってないだろ! 未解決事件だぞ!?」
「えー? でも、悪いものじゃないんでしょ?」
「今夜、なのの所に出るかもしれないぞ。トイレいけなくなっても付き合ってやらないからな」
「トイレいくのアンタを呼ぶわけないでしょ! というか、今も外は真っ暗で夜みたいなものなのに、三人が見たって時間以降、幽霊なんてどこにもいないじゃん。おばけの活動時間って厳密にシステム時間での深夜帯なの? 」
「幽霊界隈に労働基準法があるかどうかは俺も知らない」
「なら大丈夫でしょ? ウチも忙しいんだから」
「なのの薄情者ーッ!」
「まあまあ。穹も落ち着きなさい。それに、まだ一度見かけただけだ。危険性もわからない上に今は観測も出来ないのなら、できることは少ない。停電の件だけでも解決したんだからひとまずはよしとしよう」
 ヴェルトが穹を嗜める。
「すまん皆……。オレが操作を間違えたせいで……」
「いいのよ、パム。それくらい大したことじゃないわ。穹はまだ不服だろうけど……――皆、もしまた何か奇妙な人影なんかを見たらまた教えてちょうだい。引き続き列車の中に密かに侵入した何かがいるかどうかは私の方でも調べておくわ」
「はーい」
 姫子の言葉になのかが返事をする。わかりました、わかった、ええ、と続けて皆が彼女の言葉に返事をする中、穹だけは最後まで黙りこくっていた。じゃー解散! となのかが音頭を取って、皆自然にばらける。腕に抱き付いた穹ごと、丹恒もその場に残された。
「……俺もアーカイブ整理に戻っていいか」
「ダメに決まってんだろ!? いつ何時幽霊が襲ってくるかわからないのに!?」
「そう簡単に出ない。出たら言いに来い」
「その時には俺の腰が抜けてるだろ。というか――言ったな!? じゃあまた出たら俺の勝ちな!? 何賭ける?」
「賭けはしない」
「幽霊ってえっちなことしたら帰ってくんだっけ? どう? 今から星穹列車ゴーストバスターズ第一回目の活動のご提案なんだけど日がな一日引きこもってヤらない? お風呂スタートでいかが?」
「…………はあ」
 がし、っと近づいてくる顔を途中で手のひらで掴んで止める。丹恒は穹が手のひらの下でもごもごむぎゅむぎゅと何か文句を言っているのを、右から左へ聞き流した。手のひらの下、くちびるが触れる箇所がくすぐったい。文句を言い終わったのか、くぐもった声とこそばゆさがひとまず収まったところで、丹恒は穹が未だ自分にしがみ付いているのも構わず歩き出した。
「なあ~! おい~~~丹恒~~~?」
 後ろにぐっと体重をかけられたが、よろめくだけで持ちこたえる。ぐい、っとむしろ手前に屈み穹を背負うようにすると、ぐえっ、と蛙が潰れたような声がした。
「部屋から資料を取ってくるだけだ。その星穹列車ゴーストなんとかの活動には参加しないが、お前の部屋にいればいいんだろう」
「えっ」
「……機器はしばらく一式借りるぞ。いいな」
「あ――愛してるぜ丹恒!」
 しがみ付く腕の力がぎゅうっ、と少し強くなる。安売りされるこの軽い言葉の愛ですら、撫でるように胸の奥を擽っていく。この感覚がまんざらでもないのだから、自分はもう一生涯彼の前でこういった選択肢か取れないのだろうな、と丹恒は思った。
 丁度、今日は彼にも自分にも依頼の類はなく、途中で止まっていた論文の続きを書いて過ごすつもりだったから、論文の打ち込みさえ出来れば、何処に居ようが問題はなかった。丹恒はしがみ付いた穹を背負ったまま部屋に戻り、背から下ろした彼に手伝ってもらいつつ、いくつかの資料やチェックしていた文献を穹の部屋まで運び込んだ。
 列車は今星海を航行中だ。オンパロスを離れ、次の行先をまだ定められず、この周囲をゆっくりと走っている。恐らくは近日中に一旦物資の補給のため宇宙ステーション「ヘルタ」へと向かうだろうが、急ぎの呼び出しがないため、皆休暇がてら思い思いの時間を過ごしていた。あれほどの事があったのだ、無理もないだろう。なのかはオンパロスにいた間出来なかった娯楽を思う存分満喫するのに忙しいし、姫子もヴェルトや協力してくれた各組織への連絡を終え、漸く自身の時間を過ごしているようだ。ブラックスワンは時々姿を見せずどこで何をしているのかもわからないがまだ少し列車を発つ前で、サンデーは時折音楽に耳を傾けながら、車掌の仕事を少し手伝っている。
 食事時も皆同じような時間に食べることもあれば、各々好きな時間に食堂車へ向かい作られていた食事を口にしたり、自分で用意したりと活動時間もばらばらなため、先ほどは珍事が原因とは言え数日ぶりに全員が顔を合わせた気がする。丹恒は数回使用したことのある穹の部屋のパソコンを操作しながら、執筆途中の論文データを開いた。オンパロスでの出来事を書き記した手記のアーカイブ化もまだ終わっていないが、論文の方は提出期限が差し迫っている。
 しばらく後方で物音が続く。足音がすっと近づいて、後ろから「じゃじゃーん」と効果音を口にしつつ、穹がコーヒーを差し出してきた。「丹恒先生にコーヒーの差し入れ。俺ってばバーテンだけじゃなくてバリスタの才能もあるかも。姫子のコーヒーの方が目は醒めるかもだけど」
「別に今は眠くないんだが、……姫子さんのコーヒーは今は不要だな。お前のもので十分だ」
 加護に頼り切って、無理をして数日起きているわけでもない。俺はご飯食べた後だから眠い、と答えながら、穹は丹恒の隣に腰掛けてくる。彼の手にもマグカップがあった。
「今は何の論文書いてるんだ?」
「……以前羅浮に向かった時に、たまたま現地に遊学に来ていたヘルタスタッフの助力をして、古海に住む海洋生物の記録を代わりにしたんだ。その時に見慣れない個体がいたから、しばらく観察していた。羅浮からの生物の持ち出しは個体によっては禁止されているが、研究目的ということで運よくその個体をヘルタに持ち帰ることが出来たらしい。ただ、古海に居た頃と今では体表に大きく変化が現れたんだ。恐らくは水質の違いによるものだとは思うが……」
「古海の水をそのまま持ってこれなかったのか?」
「水槽で飼育する以上限界はある。分類は深海魚のためある程度の水圧はもちろん必要だ。海水の成分濃度を近づけることは出来るが、水中の空気の含有率や環境、海水中のプランクトン、様々な要因で水質は変容する。水槽の中だから、水をそのままにしておけば餌や糞の汚れで水も濁る。フィルターを取り付けて出来る限り水中の成分濃度を均一にするよう、追加で薬品を投入してはみたが、それでも同じ環境にするのは難しい。ただ、羅浮の研究員の反応はまた違って……そういった水質による体表の変化がみられること自体が初めての事だったらしく、かなり今回の研究に前のめりなんだ。今俺がやっているのは、論文を書くと言うより、ヘルタスタッフから上がってきた草稿を論文の形に整えている作業だな」
「んー、何言ってるか半分もわかんないな。ちなみにどんな魚?」
「簡単に言えば、鱗が光る魚だ」
「鱗が光る魚」
「極宇光(きょくうこう)と、昔発見した学者が名を付けていた。別名天軌(てんき)とも言う。同個体かはわからないが、特徴が一致するから恐らく同じだろう。普段は深海にいるが、求愛行動中は普段いる水深から少し浮上して、星のように明滅する鱗を、敢えて体表から外す。その光が海面近くまで届くことから、極宇光と名付けられた」
「え、つまり婚活するのに自分で鱗剥ぐってこと……? い、一張羅を脱ぎ捨てて敢えて全裸に……!?」
「思春期の男児のような思考はやめろ。元から魚は人のように服を着ていない」
「ユーモアのある譬えだと言ってくれ。あと俺は美少女だ」
「そうか。話を戻すぞ。――極宇光はそういう体の作りをしているんだ。求愛行動が落ち着けば、鱗は再び生えてくる。深海では自身が光る個体が多いからな。光ることで自身の居場所を天敵に悟られてしまうのを防ぐためなんだろう。鱗がはがれた個体はしばらく傷つきやすい。交尾を終え産卵が済むまで、常に決まった二匹で行動する。極宇光の雌雄は産卵時まで不確定で、ペアが決まると体の大きな方がメス、小さな方がオスになるんだ」
「う~わ、出た。世にも奇妙な性別不定……」
「魚などの個体にはよくある特徴だ。地上の動物たちと違って海の中では碌に雌雄の区別が出来ないような知能しか持たないからな。個体差をそのまま雌雄の基準にした方が繁殖率は上がる」
「ちなみに美味しいのか?」
「分類としては深海魚だからな。個体そのものが小さく、肉は少なく骨と皮が多い」
「不味そう」
 開いていたテキストの他に、丹恒はフォルダからまとめていた写真データを呼び出した。水中にいる頃の写真と、現在ヘルタで飼育されているサンプル個体の記録だ。小さな魚で、全長は精々五センチ程度。
「鱗がはがれるっていうからもっとデカイ魚を想像してたんだけど!? こんなんじゃはがれても塵みたいな鱗が光るだけじゃん」
「実際、鱗一枚当たりの光量は大したものじゃない。ただ、極宇光は大群で同時期に求愛行動をする。するとその大群が一斉に鱗を剥がすわけだから……別名にもある通り、天軌と呼ばれる光の道が海に出来る。例えるなら、海の中に天の川が出来るようなものだ。鱗が極小のため、波にすぐ攫われ拡散されてしまうから、軌跡として残るのはせいぜい数十分程度になる。遭遇率を考えると宝くじに当たるようなものだな」
「その時のきれーな写真はないのか?」
「ない。記録としては残されているが、それだけだ。なにせ――この魚は、この大きさに対して寿命が著しく長い。繁殖期は五十年に一度。魚自体は二百年ほど生きる」
「に、二百!?」
「自然界では珍しいことでもない。動物も上げればきりはないが、花もそうだ。お前も知っている竹――竹の花は、その周期が短く、大体百二十年前後に一度咲くと言われている。言われている、というだけで必ず咲くわけでもないし、周期についても百二十年というのは統計的なデータによるもので、きっちり百二十年というわけでもない。天人の感覚で十年に一度程度咲く花も、殊俗の民にとっては一生で一度見られるかどうかもわからない花だからな。まあ、それでも歴史があるから、極宇光よりは研究が進んでいるか」
「場所によってはそこら中に生えてるからな……」
「だから、そもそも極宇光の鱗がはがれるその瞬間に立ち会ったという研究者が少ないんだ。信憑性に欠けると言えばそうなるが……同じような内容の報告書も、たった一人だけでは不確かなものでも、二人いれば、二人ともがホラ吹きという可能性も少しは減るだろう。今の所観測したのは五名。データの母数としては極めて少ないが、まあこの界隈ではそれを嘘の報告書と言い張る者の方が少ないな」
「……へえ~。なんかロマンチックな小魚だな」
「同じような光景ならそこから見える」
 丹恒は部屋の窓を指さした。穹はその視線を追い、どこか不服そうな表情で「そう言う事じゃなくてさぁ」と丹恒に視線を戻した。
「海の上で見るからいいんだろ? そういうのって」
「いいかどうかはわからないな。実際目の当たりにした場合、記録を取るのに夢中で、お前のようには見られないかもしれない」
「職業病だ……」
「あとは、お前が船から落ちないように見張るのに忙しいかもしれないしな」
「あはは。それはちゃんと見張っててもらわなきゃな」
 他愛もない話をしているうちに、少しは恐怖が紛れたのか、穹は次第に口数が減り、安心したように丹恒の隣の席を離れないまま、手持無沙汰に丹恒が持ち込んできた文献に目を通し始めた。しばらく本のページをめくる音とタイピングの微かな音が部屋に響く。
 普段はよくゲームをしているが、時たま丹恒の部屋で勝手にアーカイブや積み上がった本を読んでいることもある。書いてある内容すべてを理解出来るわけではないが、分からないことは丹恒が答えてくれるからなぁ、と、余程難解な本でなければ何でも目を通す。なのかに小説を渡されれば文句をいいつもいつの間にか読破しているし、恐らく、何かを読む行為自体は嫌いではないんだろう。集中しているようだし、と丹恒は彼を横から盗み見るように時々様子を窺っては、しばらく黙々と作業を続けた。
 受け取っていた分の修正が終わり、ふつ、っと集中力が切れた。ふと時計を見ると既に昼時を過ぎだ。空腹というほど腹は減っていなかったが、何か口にするか、と思い浮かべた途端思い出したように腹が空腹を訴えてくる。自分がこれなら穹もまた同じだろう、と丹恒はじっと本の内容を読み解く彼に尋ねた。
「穹。そろそろ何か口にするか」
「んー」
「……勝手に使っていいなら何か簡単に作るぞ」
「ん」
 生返事に今は集中しているようだから仕方がないか、と小さく息を吐き、丹恒はぐっと伸びをしつつ部屋を振り返った。穹の部屋には大型の冷蔵庫があり、軽食程度であれば用意出来る。パンに何かを挟むくらいならすぐに出来るか、と冷蔵庫を物色しようとして、ふと丹恒は部屋を何かが横切った気がした。本に集中していて穹はまだ気付いていない。
「……――!」
 ぼう、っと部屋の中に何かが浮かび上がる。部屋の明かりを落としているわけではなかったが、その何かは幻のように朧げに空間に浮かんでいる。これが例の幽霊か、と咄嗟に身構え、反射的に槍を握っていた。幻は形がはっきりせず、まるで穹を見つめるようにふと途中で立ち止まる。
 僅かに揺らいだ空気は、よく知っているものの気がした。その違和感に丹恒はぎゅっと無意識に槍を強く握る。穹の視線が、何かに気付いたかのように本から離れ後ろを振り返った。その瞬間、蜃気楼のように幻が消えて居なくなる。
「……丹恒? 何か呼ん――なんで槍握ってるんだ」
 まさか包丁の代わりにするつもりか、と今驚愕した表情で、穹が尋ねてくる。丹恒は違う、と手にしていた槍を霧散させると、もう一度部屋の中を見回した。先ほどの幻はもうどこにも見えない。
「え。何? 何だよ」
「……いや、……疑っていたわけではないが、悪かった」
「なに!? 急に何を謝ってるんだ?」
「今丁度、お前の後ろに――いや、なんでもない」
「言いかけてやめるのヤメテ!」
 こんな時ばかり察しがいいから、穹はばたん! と本を閉じてすぐに丹恒の所まで走り寄ってきた。「出たのか? 出たんだな? 出たんだよな?」と何がとは言わずに矢継ぎ早にそう尋ねてくる。
「…………まあ、出たと言えば出たな」
「ギャーーーーーー! やっぱり!」
「耳元で騒ぐな、煩い」
 ぴょんっ、とそのまま穹が抱き付いてくる。ばくばくと馳せた鼓動がここからも聞こえてくるようだった。ぎゅう、と痛いくらいに抱きしめられる。
「お、お、おれの部屋も安全じゃないってコト!?」
「ブラックスワンの言うように邪念のようなものはなかった」
「それはそれ、これはこれだろ! なあぁぁおいいいどうすんだこれどうすんだこれ二度あることは三度あるっていうじゃん!?」
「……何かしらの目的があってお前に接触しようとしている可能性はあるな」
「もしかしてさっき聞こえたのも幽霊の声!? なあ~なんで俺だけ呼ばれるんだ~!?」
 先ほどの幻から声のようなものは聞こえてこなかった。丹恒は訝しながら「何か言われたのか」と穹に尋ねる。
「いや……なんか名前呼ばれただけだけど……」
「……昨日もそう言っていたな。俺からは何も聞こえなかった。……となると、お前にしか聞こえていないのか。お前の幻聴という可能性もあるが……」
「幻聴ってどうしたら聞こえなくなるんだ?」
「……要因が何かにもよるが、ストレスであれば栄養バランスの取れた食事、適度な運動、十分な睡眠などの休養だな」
「つまり飯食ってヤることやって泥のように寝ればOK? わかった!」
 途端、はむ、っと急に耳を甘噛みされた。思わず体を硬くして身構えるが、ちゅ、っと猫が噛んだ後に舐めてくるように口付けられてぞく、っと皮膚がその官能に一瞬で粟立つ。こら、と丹恒はまた顔ごと手で押し退けて穹を離した。
「昼間からしない」
「緊急時だろ!? 幽霊撃退しよう!?」
「それで事態が好転するという確信はないだろう。そもそもあれが幽霊かどうかもまだ未確定だ」
 とはいえ彼の不安や恐怖も全く理解出来ないわけではない。丹恒自身はああいったものに恐怖心は抱かないものの、得体の知れないものに対して恐怖心を抱くのは自然なことだ。誰かに触れて安心したいと思うのも、その熱で一時でも何かを忘れたいという気持も。
 丹恒は穹にそっと手を伸ばし、頬の輪郭を軽く撫で、そのまま静かに軽く口付けた。数秒そのままゆっくりとくちびるを合わせ、静かに離す。呆気にとられた穹の表情に、こうしたいんじゃなかったのか、と少し気まずくなった。
「……一旦何か口に入れてから考えよう」
「えっ、おいこの流れで!?」
「腹が減った」
 あれこれと言ってくる穹の言葉を右から左へ聞き流し、丹恒はてきぱきと軽食の準備を始める。あの幻に感じた違和感のことを彼には告げられないまま。

        *

「……掻い摘んで話を聞くに」
 食事を終え、丹恒は茶杯を傾けつつ、何があったのかを身振り手振りを交えて熱演する白露から、それを微笑ましい視線で見つめる霊砂に視線を戻した。
「綏園近くでもないのに、羅浮の至る所で幽霊が出る、と?」
 白露の話はあっちへいったりこっちへ行ったりと忙しなかったが、要約すると、夜だろうと昼間だろうと構わず、蜃気楼のように人型の幻が街に現れ、人々を賑わせているらしい。中には自分と全く同じ顔の幽霊を見たと主張する者、かつての師が現われた者、亡くなった両親や配偶者、恋人が現われた、と主張する者もいる。幽霊の出現にこれといった条件はなく、その幻を見たという者達にも、怪我や他の精神疾患といった悪影響は現れていない。
 それらの目撃情報をリアルタイムで投稿、ライブストリームを行う者達で情報が拡散され、羅浮内は今ちょっとした騒ぎになっているらしい。世間から隔離されたような竹林の奥にいるから、外がそんなことになっているなどと丹恒は今の今まで知らなかった。時々フィールドワークに向かう永狩原野にはここから直で星槎を飛ばすため、多くの人と逢うことは少ないのだ。本当に知らなかったのですね、と丹恒の反応を見て霊砂が驚いたように問う。
「ざっくりとまとめると、まあそういうことになります。今の龍女様の熱演は見事でした。そして……この件に関連するのかはまだ分かっていませんが、私の相談事はまた別のお話でして。実は、丹鼎司の医館に患者が急激に増えているのです」
「何故だ」
「げ、原因は現在調査中です……。丹鼎司だけの問題ではなくなってきましたので、神策府や地衡司、それから十王司にも協力を要請いたしました」
 霊砂の代わりに司鼎代行が答える。十王司にも、と丹恒が僅かに表情を曇らせたのを見、彼女はひゅっとくちびるを硬く結び押し黙ってしまった。
「老君。その表情筋をせめて無表情に戻されてください。慣れていない者達は、お師匠様の顔(かんばせ)が少しきゅっと険しくなるのを見ると、心臓が縮むのですよ」
「……すまない。別に他意はないんだが」
「……。いえ、そうでした。お師匠様は肝心なところで鈍感なのでしたね。今の話はお気になさらず。司鼎代理には後で言っておきますから。――では話を戻しまして。先ほどの龍女様のお話との関係は不明ですが、これだけ世間を騒がせているのですから、恐らく全く無関係というわけではないでしょう。十王司の方も、今の羅浮で起きている異変については既に把握しており、先に調査に動いていたそうです。その中の異変に、医館に運び込まれる意識不明の患者も含まれているようで。判官が度々医館に患者の様子を尋ねてきましたので、調査協力はしておりました。はじめは数週間に一人というペースだったのですが、そのうち一週間に一人、数日に一人、一日に数人、と……増え続け、既に事態は深刻なものになってきています。医館も昔に比べれば収容人数もかなり増えたとはいえ、丹士や医師にも被害が及んでいる以上、これ以上は看過できず」
「彼らの容体は」
「深く眠っている以外の症状は見られません。ただ、数名は酷く心拍数が落ちたまま、ギリギリ生命維持をしているような状態の方もいらっしゃいます。今はまだ治療ポットに僅かばかり空きがありますが、埋まるのも時間の問題でしょう。中には純種を含む持明族も含まれます。状態が状態ですので、もしかすると脱鱗を迎えず死してしまう可能性があるのです。早く何らかの手を打たなければ、事態は最悪の状況に陥るでしょう」
「…………、それはまずいな」
 普通の人間の死も取返しのつかない物ではあるが、繁殖の機能を失った持明族にとって脱鱗を伴わない死は、そのまま個体数の減少に直結する。失われた者達が再び別の命を伴い現世に戻ってくることはない。この百万年近くで個体数が全く減らなかったわけではないが、既に種族としては特Sランクの危惧種族だ。
 これは何も羅浮だけの問題ではなく、仙舟全体でも持明族、特に純種の持明族には、特別条例を数万年前に定めている。脱鱗した持明族が眠る古海は既に一般の殊俗の民の入場は硬く禁じられており、持明族ですらも古海に入る際には面倒な申請を何度も行い数回のやり取りをして許可を得なければならない。
 今、最終的な決定は最高責任者、つまり丹恒や白露といった龍尊に委ねられているため、丹恒の元には時たまその申請書類が舞い込んでくる。その者の犯罪経歴や勤務態度、目的に留まらず、パーソナリティテストや卜算等、ありとあらゆる情報から危険を排除し、漸く許可が出せる、仕事量だけなら通常の三十倍ほどの書類だ。そこまでして護らなければいけない持明族がこんな奇妙な事象に巻き込まれ危機に瀕しているとなれば、丹恒とてこの竹林の奥の世間から隔離された場所で過ごしているわけにもいかないだろう。丹恒は先日符玄から告げられた占いの結果の事を思い出した。
「それで相談に参ったってわけね。ふうん」
「将軍は別件なのか」
「いいえ。根本は恐らく同じよ。……その怪奇現象騒動に乗じて、市井に可笑しな兆候が見られるの。おまえも神策府の仕事を手伝っているから、恐らく関わることになると思ってね。霊砂たちがここに来ると言うから、ついでにおまえにも話を通しに来たのよ」
「可笑しな兆候?」
「ええ。国家転覆の兆候よ」
 にこ、っと微笑む彼女からは、言葉ほど事の重大さはあまり感じられない。少なくとも自分が生きているこの気の遠くなるほど長い期間、何度も羅浮が崩壊に瀕する危機はあった。数度に渡る大規模な戦争を経て、ここ数万年は比較的平穏な世情で落ち着いているとはいえ、今や仙舟を掌握しているといっても過言ではない量子コンピューターの主制御AIたる符玄が言い出すのならば、余程の事なのだろう。
「まさか受肉はそのために……?」
「それは偶発的なものよ。まあ、そういった偶然は重なりやすい兆候にあるから。――ともかく、一度ここを出て現状を把握した方が早いわね。一局打ってから現場検証と行きましょう」
「一局」
 そんなことをしている場合ではないのでは、と丹恒は訝し気な表情で符玄に尋ねた。彼女は意に介さず丹恒に返す。
「今日の卦象は『迂回』。直路を急げば機を失い、遠回りを経てこそ吉兆を拾わん。つまり急がば回れ――事の成否は、道すがらの『余白』に宿る。それに、せっかく四人頭が揃っているのだから牌を打たねばもったいないでしょう? AIの動きは単調で、おまえが混ざっても味気ないもの」
「………………」
 彼女が少し指を揮えば、すぐに目の前に牌が並び出す。司鼎代行が突然のことにえっえっ、と驚き出した。参加者としてカウントされたのは、符玄に丹恒、霊砂と彼女だったから。
「龍女は霊砂かそこの司鼎代理についていいわよ」
「ふむ。符玄ばあばと打つのはよくやっておるが丹恒とはなかったな。漣微(れんび)、ほれ、牌を取れ。師匠に一発かましてやるぞ」
「一発かま……!? りゅ、龍女様……!?」
 それは、とおどおどとした様子で女は席を移動した白露を止めることも出来ず、結局膝に彼女を乗せ一局参加することになってしまった。かつての符玄の部下であるこの牌を教えた彼女も、今符玄がこうなっていることを知れば喜ぶどころかどこか頭を打ったのかと心配し始めるかもしれない。
「かなり前に綏園に封印されていた歳陽の封印は千年に一度のペースでより強固な封印になっているし、周囲には何重にも結界が張り巡らされている。綏園事体、一部の特別霊園を覗き、今は特別指定管理区域で、十王司や神策府、それから丹鼎司の一部の人間以外は立ち入りが出来ないはずだ。幽霊騒動の後、結界や封印の確認は?」
「もちろん確認済よ。中から歳陽が秘密裏に外に出て、人々に取り憑いたという事実もない。今回の騒動とは別ね。人に歳陽が取りつくことの危険性は既に十分証明されているし、平和ボケした現在も取り扱いについては変わらず厳重に行っているわ」
「古い記録までさかのぼってみましたが、患者の衰弱状況は歳陽に取りつかれた後の天人たちとはまた異なっています。本当にただ、深く眠っているだけ、というか……仮死状態に近いと言えばいいでしょうか」
「仮死状態?」
 符玄がそれに横から口を挟んだ。彼女は牌を捲り、確認して慣れた手付きで自身の牌の列を操作する。
「今医館に収容している該当患者のバイタルサインのデータを集計してみると、霊砂の言う通り仮死状態、というのが近いわね。生命維持に必要な最低限の身体機能はまだ保っているものの、容体が急変すればそのまま死に陥ってもおかしくはない状態。昔、丹鼎司の医師に不祥事があったでしょう? 権力のある遺族から患者の治療費以外に、莫大な金銭の見返りを貰うため、わざと患者を薬を用いて仮死状態にし、そこから回復したと思わせ、神医という異名までもらっていた、あの忌々しい事件のこと。あの時に、散々問題になった例の秘薬を用いた状態とも別。脳の動きを見るとどうやら全員が夢を見ているようなの。本当に浅い呼吸で深く眠っているだけ」
「……――なるほど。……ちなみに、先ほど十王司の判官の調査を受けていたといったが、患者に反魂の儀は試してもらったのか」
「反魂の儀……ですか?」
 霊砂がそれはなんだ、とばかりに首を傾げ、尋ねてくる。医療と直結しているわけではない、むしろ現代の医術とは異なる、これはどちらかと言えばスピリチュアルな民間療法だ。霊媒師などがよく過去の霊を自分を依り代に降霊させ、依頼者のかつての愛する者と会話をさせたりする――今の羅浮でも、それらのある種特異な者たちの存在が絶えたわけではない。
 犯罪の種類が増え、昔ほどの重罪人が出なくなり、十王司や幽囚獄の扱いも今は昔と多少変わっているが、元はとへばそこに所属していたかつての判官が規則を破り一部の儀式を一般人に伝えたのが彼等の儀式の発祥だ。大元の十王司に所属する判官であれば、正しい儀式の手順も沁みついているはず。符玄の口角が、丹恒に視線を向けたまま僅かに上がった。
「今から呼べば、丁度医館に着く頃に判官も手配出来るでしょう」
「……知り合いがまだ十王司に居てくれるならいいんだが」
「それは十王との契約にもよるわね」
 丹恒は近くを飛んでいた鳥を近くに呼び寄せ、十王司と連絡を取るために近くにいる機功鳥を一羽連れてくるように頼んだ。現在の機功鳥には鳥がくちばしで突くと、勝手に実行プログラムが変わる機能を搭載させており、一時的に丹恒の意思で権限を掌握出来る。そうして頼んだ後、符玄が何かもの言いたげにこちらを見つめてくるので、そもそもの権限が彼女によって容易に書き換えられることを、丹恒は漸く思い出した。
「まあ、おまえのそう言う所は好ましいと思うわ。おまえは私がまだ太卜だった時の事を覚えているからかしら。私の事を市民と同じく、ただの便利な道具のようには扱わないのよね」
「…………忘れるだけだ」
 捲った牌を符玄にとられる。どうやら余程よい気運に恵まれたのか、彼女は上機嫌に牌を並べ替えた。「……それで、その反魂の儀というのは一体何でしょう……?」と二人の会話を待って、霊砂が尋ねてきた。丹恒は答える。
「簡単に言えば、死んだ者の魂を連れ戻す、一種の降霊術のようなものだ。お前にはこういった類の民間医術の話はしてこなかったな。気になるなら禁書庫の六十六番を俺の権限で開けてもいい。関連書籍は、そこにかつてのお前が封印したからな」
「それはそれは。かつての私はその分野にも精通していたのでしょうか? 手記には記載がなかったので、もしかすると今代問わず数代くらいは知らずに生きていたのかもしれませんね。参考にいたします。そうそう、次代の《丹朱》には、どうぞその深淵なる医道の一端を進めますよう、気が向いたらで構いませんので、どうか指南針をお授けくださいませ?」
「そういう畏まった言い方はいい。……俺は医者ではないし、ただ知識があるだけの智者に過ぎない。教えなかったのは、たまたまこの時代のお前には、これまで必要がなかっただけだ」
「まあいいです。お師匠様は弟子の自主性をなるべく尊重なさるお方ですから。……それで、お師匠様は今のお話を聞いて、患者の状態が魂が半分かけた状態である可能性も否めない、と思ったのですね?」
 可能性としては十分にあり得る。頷いた丹恒に、その方面の考えには至りませんでした、と霊砂がため息を吐いた。小鳥が仕事をし終ったのか、亭に近づいてくる機功鳥の影が空にちらつく。この時代、十王司は変わらず存在しているものの、判官の在り方も変わってきて、市民の間では半ば都市伝説のような扱いになっている。寄ってきた機功鳥に十王司の判官に取り次ぐように告げると、符玄が圧勝した対局の終わりごろに、丁度屋敷に報せが入った。
「龍樹の前にて待つ、とのことです」
 判官は寒鴉と名乗ったそうだ。

            *

 龍女とその世話役をしていた元司鼎に、現司鼎代行である漣微が連れ立って歩ているのならばまだいい。だが、そこに見知らぬ凛とした佇まいの青年と、誰もが一度は教科書で見たことがある外見の少女が連れ立って歩いているともなれば、これまでこの場にいたのかすらわからなかった、影の薄い――というよりは、影その者の女もまた、只者ではないと嫌でも分かる。連れ立ってやってきたのが思ったより大人数だったためか、本当に久方ぶりに顔を合わせた寒鴉は、龍樹の前の人混みを少しうっとうしそうに眺めた後、「……医館へ急ぎましょう」と丹恒達を急かした。
 人々の視線を散らすために、霊砂が徐に携帯用の煙管を取り出し、小さな丸薬に火を点けた。微かに甘い香りが充満し、煙が風にのってふわっと広がる。途端、それまでこちらに注目していた視線が、霞の中に溶けるように逸れていった。せめて角は隠すべきでしたね、と霊砂が言う。
「角?」
「持明族の中でも角持ちは限られた者のみということくらいは常識です。そして、今も昔も、額に二つの角をもつのは言い伝え通り龍尊のお二方のみ。となれば、一方の可愛らしい姫様は龍女、もう一方は隠居して久しく、丹鼎司の上層部しか面会の機会を持たないという、あの飲月君であると自ずと理解もするでしょう。お師匠様? 街に時たまひっそりと買い物に出る際は殊俗の民に扮して向かうのに、どうして今は何もしなかったんですか?」
「それは……、……単に忘れていた」
「何も知らぬ生娘たちがその顔にきゃあきゃあと騒ぎだしたら、今のご時世、あっという間に担ぎ上げられ、住居を特定され庭に侵入しようとするご令嬢まで出てくるでしょう。今のような暮らしは出来なくなってしまいますよ。お気を付けください」
「……? あ、ああ……」
「霊砂、だめじゃ。師匠は己の顔にてんで頓着がない。純粋で気の弱い司鼎代行を今この時も誑かしている自覚もなかろう」
「心にこれと決めた者がいる男は、総じてそういうものなのよ。――寒鴉も久しいわね。呼び立ててしまって悪いけれど、事態は既に思ったよりも深刻なの。助力を頼めるかしら」
「もちろんです。お呼び立ての件はお気になさらず。それに、十王司も近々同じ申し出を丹鼎司に行う予定でしたから、手続きが一つなくなり手間が省けました。まさか太卜――申し訳ありません。符玄様までいらっしゃるとは思いませんでしたが」
「たまたま受肉のタイミングが被ったのよ。まあ、数年程度でまた引きこもるわ」
「ぜひ顕現中に幽囚獄にもいらしてください。あまり変わり映えはしませんが、符玄様が投獄した囚人たちが驚くでしょうから」
「あら。まだ生きている者がいるの?」
「数名いらっしゃいますよ」
 二人は何の会話をしておるのじゃ、と白露がそれを訝し気な表情で見つめる。龍女様はご存知なくて大丈夫ですよ、と霊砂が適当に誤魔化した。
 医者広場は以前よりも随分拡大し、今や屋台の他に娯楽や食事なども楽しめる店が立ち並ぶ。医館はその面積を増やし、各棟ごとに筆頭医師を数名抱えた巨大な総合病院となっていた。医療研究機関や教育機関もそこに付随しており、医術を学ぶものは大抵この丹鼎司で過ごす。他の洞天にも出張所という形で診療所をいくつか設けてはいるが、軽度以上の症状や複雑な病理を解くには及ばず、特定や治療のために、この本館に紹介状を書いてもらう必要がある。
 かつての医者の中には時たま、権力に溺れてしまったものもいるにはいたが、大抵は司鼎が先に企みに気付き、事が起こる前に事態を収拾している。不祥事が起きたのは医館の規模が広がり司鼎の目が行き届かなくなったのも理由の一つだろう。その件があってからというものの、今代を含めたかつての霊砂たちは、腐り切っていたあの時代に戻ることがないよう、度々組織改革を繰り返してきた。どろどろとした身内騒動は時代を経ても決してなくなることはなかったが。
 医館はいくつかの棟に分かれ、入院患者を収容する棟と外来診察を行う棟は少し離れている。転送システムを用いそう時間を空けず移動は可能だ。人混みを抜け医館の敷地内に入ると、慣れた様子で率先して司鼎代理が行先を先導した。
「現在十五棟ある入院病棟のうち、該当患者は一棟になるべく集約させています。処置に使用するポッドが一番多く設置してある凝氷棟がそうなのですが、……実は既に満床が近く、隣の深淵棟にも十数台治療用ポッドがありますので、一部の患者を一般病棟から移しています」
「一番入院期間が長いのは」
 寒鴉が彼女に尋ねた。司鼎代理が答える。
「そうですね……もうかれこれ1カ月半ほどになるでしょうか」
「うん、……調査の通り、最初の目撃情報が出た頃と時期が一致するね。その患者の容体はどう」
「ええと……。あまりいいとは言えませんね。ですが、症状の安定はしています。急変する可能性もありますが、今の所その兆候はないかと。……これから何かしらの儀式? でしょうか。それを行うのであれば、優先した頂きたい患者がいるのですが、よろしいでしょうか。一度このまま二棟を通り過ぎ、まずは急ぎ甘露棟まで来ていただきたいのですが」
「そこにまだ他の重症患者が移されてるの?」
 尋ねた寒鴉の代わりに白露が口を開く。
「いや、重症というほどではないが、そこにおるのは体力に些か懸念がある者達なんじゃ。甘露棟は小児病棟じゃからな。眠るというのも存外に体力を使う。まだ体そのものが不完全な子供の方が容体も急変しやすく、緊急性は高い。中には脱鱗したばかりの持明族もおるのではないか」
「……はい。龍女様は見識が広くいらっしゃいますね。よくお分かりに……」
「医者にならないと言い張るわりに、勉強は真面目にやっているんだな」
 いい傾向だ。丹恒はこれまでの白露の事を思い出す。彼女も最初は嫌々医術を学んでおり、結果的に医者になっていることが多かったが、一度何らかのきっかけを通し、自身の立場や能力を顧みる機会のあと、精力的に学んでいた。似たような状況になっていたのは先代もだ。霊砂はその時も白露の面倒を見ていたから、丹恒の言葉の裏に気付き、ふふ、っと白露に笑いかける。
「あら、龍女様。老師が褒めていらっしゃいますよ」
「はあ? 今のは厭味の間違いじゃろ。……漣微、甘露棟でよい。案内してくれ」
 畏まりました、と白露に言われ、司鼎代理が転送ゲートに行先を入力する。甘露棟の前に一瞬で転送が終わった。どこからか子供たちの声が棟の外にも響いてくる。
「こちらです」
 促されるまま、丹恒達も棟の中へ入った。子供というのはある程度の躾がなければ、制御不能な暴走機関のようなものだ。棟内はまるで託児所のように、どこかから常にひっきりなしに鳴き声やばたばたという足音、きゃはははは、と甲高い子供たちの声が聞こえてくる。
 廊下を折れてすぐ、丹恒の足元にどっ! と小さな衝撃があった。反動で後ろに尻餅を付きかけた子供を、咄嗟に尻尾の先で支えて立たせる。子供はすっかり自分が倒れ込むものだと思い込んでいたのか、まだ自分が立ったままであることに数拍おいて、きょとんと目を丸くしていた。そっと尻尾を離し、子供の顔を見て丹恒は思わず目を見ひらく。
「…………――」
 だがそれも、すぐに引っ込めた。こら! と白露が叱咤の声を上げたのだ。
「星~? あれほど棟内は走るなと言ったであろう!」
「あ。白露。久しぶりだね。何でここにいるの?」
「何でも何も……。仕事じゃ仕事! 公務! わしは龍女じゃぞ?」
「嘘でしょ。いつも龍女の仕事は嫌だって逃げてきてたくせに。……――ありがと、私には劣るけど、顔のいいお兄さん。助けてくれて。おかげで転ばずに済んだよ」
 子供にしては少し落ち着いた様子の少女だった。光を当てると星のように輝く銀色の髪。琥珀の眸。自分の一番愛おしい者と同じ。丹恒は数秒、少女を見つめ、いや、と緩く首を振った。
「礼には及ばない」
「まったく……。ぬしのその底なしの自己肯定感は一体どこから来るんじゃ? ほれ、いくらおぬしがぼんやりしておっても、目上の者の前での礼節くらいはしっかりせよと教えたじゃろう。その者は我が師じゃ。こんな時でもなければ会話すら難しい者じゃぞ。挨拶くらいせい」
「和菓子?」
「違う。師。師匠じゃ」
「菓子が欲しいのか」
 今は飴くらいしかないが、と丹恒は白露のためにいつも持ち歩いていた飴をいくつか取り出す。もらえるならもらう、と少女は遠慮なく丹恒に手を伸ばしてきた。白露があ、と何か言いたげな顔をしたので、手にしたもう一粒はそっと彼女に渡してやる。少女は丹恒から飴を受け取ると、ああ、と何かに納得したように頷いた。
「白露の飴はあんたからもらったものだったんだ。納得した。好みが渋いなと思ってたんだよね」
「渋い」
「今のフレーバーは『ただの人工甘味には興味ありません、味に加え、アッハと不思議と病みつき具合が噛みあってるものこそ正義』なんて言い張る子供にオオウケな珍妙なのがトレンドだから。私はこっちの方が好きだけどね」
「ぬし、わしからいつも飴を強請っておいて……そのように思っておったのか?」
「いいじゃん。いつも龍女様の言う事聞いて、情報収集したりこっそり病棟を抜け出して尚滋味でお弁当まで買ってきてあげてるでしょ」
「おい、飴の消費量が多いと思ったら飴を使って子どもを働かせていたのか」
 知らない話だ。尋ねた丹恒に、少しの後ろめたさはあったのか白露がさっと視線を逸らす。だが、結局は開き直りはじめた。
「考えてみれば当たり前の事じゃろう。働きに応じて褒美はやらねばいかぬ。それに、情報収集は上に立つ者の基本じゃ。師匠も人脈は出来る限りは広げておくべきだと以前わしに教えたではないか。まあ、そやつは少々変わった童での。小間使いにスカウト中なんじゃが一向に首を縦に振らぬ変わり者なんじゃ」
 この龍女の傍仕えなんぞなろうとしてなれるものではないのに、と白露は不服そうに少女を見つめる。少女は彼女に同じようなことを言われ慣れているのか、その言葉を軽くあしらうように口元だけを軽くほころばせて笑った。
「申し出は嬉しいけど、もう少しフリーで居たいから専属はダメ。それに、白露は別に、丹鼎司の最高権力者になるつもりはないんでしょ。ただの一般人の姫に私が御しきれるとでも?」
「ぬしを御しきる気などさらさらないわ。権力に関しては……後々気が変わる可能性もある。今はまだ早計じゃろう。三十年ぽっちしか生きておらぬ」
「ふうん? ま、その時にまだ私がここに居たら、また声をかけてよ。友達価格にしておいてあげる。……――というか、――丹恒は今も変わらず丹鼎司の奥に引きこもってるんだ。どうして外にあの子を探しに行かなかったの」
「は?」
 無駄話はもうそのくらいにしなさい、と後ろから符玄が言う。少女が言った言葉は囁くような声で、どうやら丹恒以外には聞こえていなかったらしい。じゃあまた、と白露が軽く少女に手を振る。少女は感情の読めない顔のまま、それに手を振り返し、「丹恒もまたね」と、そう言って先に踵を返した。呆然として、丹恒は少女の背を彼女が廊下を折れ、見えなくなるまで見つめる。
「…………、」
 あの少女に、丹恒は自身の名を告げてはいなかった。そもそも今まで逢ったこともない。丹恒が医館の病棟の中にまで足を踏み入れたのは、十数年前が最後だ。外見から年齢までは推し量れないとはいえ、小児病棟にいる以上、子供の年齢ではあるのだろう。白露が今の会話で出したわけでもない。
 丹鼎司の奥の竹林に囲まれた、閑静な邸宅に半ば隠居した龍尊が一人いる、という話は何も秘匿されている情報ではない。だが、気が遠くなるような長い年月を経て、そこに棲むその男の名前は次第に忘れられていったはずだ。老君などという呼称が回り出してからは、外に出るともっぱら名前よりそう呼ばれることの方が多くなった。現羅浮将軍でも丹恒の事をそう呼ぶ。もしかすると、白露がこれまでに彼女の前で名前を出していたのだろうか?
 まあ、きっとそうに違いない。丹恒は何か胸に引っかかるものを持ちながら、結局再度弟子たちに急かされて踵を返した。

powered by 小説執筆ツール「arei」

538 回読まれています