100万年きみを愛す
病棟の地下へ進んでいくと、ある地点から照明が極端に落とされた。しん、と冷えた廊下は、恐らく動力源の熱を極力抑えるための冷却装置の副産物だろう。
「申し訳ありません。この辺りは治療ポッドの電力や熱暴走を抑制するためのクーラーを常時つけていて、外よりも少し寒いんです」
それを聞いて、話には聞いていたがやはりちと寒いな、と呟いた白露に、霊砂が身に着けていた上掛けを脱ぎ、ぐるぐると彼女に巻いていく。そのままかけても引きずるだけだからだろう。
「よいのか? 霊砂。着物が皺になるぞ」
「かまいません。龍女様が風邪をお召しになるよりはいいでしょう」
「うむ……、では遠慮なく借りる」
「老君や符玄様は大丈夫でしょうか」
司鼎代理が尋ねてきた。高機能の体だから問題ないわ、と符玄がそれに返す。丹恒もまた、白露が言うほど、寒気らしいものは感じていない。それを見て霊砂がはっとした。
「そうでした。お師匠様には加護があるのですから、剥ぎ取るならお師匠様からでしたね」
「……上着がいるのか」
ほら、と丹恒はすぐに上着を脱いで霊砂に差し出す。彼女は一瞬珍妙な顔をしたが、「ではありがたく」と結局はそれを受け取った。羽織った上着は彼女の体躯には大きすぎ、袖は指先までをすっぽりと覆い隠してしまう。まあ、この寒さでは却って好都合だったかもしれない。
反響する足音に紛れ、ノイズが少しずつ大きくなってくる。ドアを完全に壁につけたままの部屋は、照明を落としたまま、モニターの明かりだけが灯っている。治療ポッド内の患者の状態がモニタリングされていて、それらの状態が数人まとめて表示された大型のモニターが暗がりの中でひときわ目立っていた。部屋にいたスタッフの一人が、足音に気付きふとこちらを振り返る。
「司鼎代理と――司鼎様」
「私は元ですよ。ここの責任者は? 例の症状が出た患者に、十王司の判官が用事があるのです。今ここで治療中の患者の中で一番状態が悪い子はどの子になるでしょう」
「えっと……――少々お待ちください。責任者は私です。……十王司の判官の用事が何かはわかりませんが……、まさか子供たちを取って食いにきたわけではないですよね?」
尋ねた医者に霊砂がきょとんとする。十王司の判官に対する現在の市民の印象は、まあ彼女が言ったようなもので定着しているのだ。昔ほどの罪を犯す大罪人は、増減を繰り返しているものの、今現在は減少傾向にある。もともと業務内容すら秘匿されている存在である為か、多くの市民は十王司の判官について偏った知識しか持っていないのだ。死に瀕した者達の魂を連れていく、なんて、言うことを聞かない子供への脅しか何かのように使われる。
魔陰の身に近づく天人の管理は昔よりもかなりシステマティックに行われており、ある程度の兆候が見られると、半ば強制的に医館へ呼び出され、診察が下され次第、すぐに対応した機関が動く。その時点で生前葬の計画が立てられ、遺族との手続きを終えると、以降は、面会に申請や許可がいる特別区域へ該当患者を移動するため、医館に所属する医士と言えど、管轄が違えば彼等の事をよく知らない者も多い。霊砂は彼女の答えに一瞬頭を抱えそうになったが、今は気にしている場合でもない、とすぐに首を振った。
「むしろその逆です。失礼ですよ。態度を慎みなさい」
「も、申し訳ありません……。……――ええと、……個人によって症状は微妙に異なりますから状態の良し悪しを比べることは出来ませんが、ここの所心拍がかなり低い数値を保ったままの子がまして。先日から数日に一度心臓マッサージをしています」
「ではその子で」
ぬっと、霊砂の後ろからぼそぼそと寒鴉が返事を返す。びく、っと職員は暗がりから飛び出してきたような彼女に驚き、ひゃい、と声を裏返した。
「申し訳ありません、寒鴉様。管轄以外の若い医士は十王司の判官と逢うことすら稀ですので」
「気にしないで。それが正しい反応だから。それに、判官と頻繁に会うのは重罪人かこの羅浮ではある程度の地位を持つ人か、特異な立場にある人だけだよ」
「それもそうですね。……そういえば、お師匠様と寒鴉様は旧知の仲なのですか?」
「……知人ではある。かなり昔の十王司から、幽閉していた大罪人が逃げ出す事件があった時に、あなたのお師匠には色々と手を貸してもらったの。時々、幽囚獄内部にかけられた持明族の術のメンテナンスにも来てもらっているし。数百年に一度は顔を合わせているんじゃないかな」
「ああ、そろそろ以前向かった時から二百年程か。ここ数百年は注意すべき大罪人も少なくなってきたが、もう少し複雑にしてみた方がいいか」
「任せている以上、あなたが試したいなら自由にしていいと思うけど。……じゃあ、近いうちに掛け合ってみる。都合のいい日を出しておいて」
「この件が落ち着けばいつでも」
「……それもそうだね。話がそれたね、はやく何とかしよう」
こちらです、とスタッフの案内により、並んだ治療ポッドの前に立つ。治療ポッドの中の少女は、呼吸器や点滴、心拍や脈を取るための管やセンサーで繋がれており、眠っているようだが、まるで今にもそのまま息絶えてしまいそうな儚い様子だった。モニターの数値を見ずとも相当悪い状態なのはわかる。心拍はほぼ停止寸前の数値をずっと保っているようで、確かに聞いていた通り、ほぼ仮死状態のようなものだ。
「この状態でも試せそうか」
「問題はないよ。……陰の気がかなり強いね、……確かに少し急いだほうがいいかも。……他のポッドの子供たちや、あなた達にも影響があるといけないから、この子のポッドだけ別室に移せる? 出来れば少し離れた所か、壁が分厚い所がいいかな。そこで術式を展開するから」
「それでしたら……奥にしばらく予定のない手術室があるので、そこが適切でしょう。ポッドの移動は可能です。すぐに手配させます」
人を呼んできてくれる、と司鼎代理が案内をさせた医士に言う。すぐに数名の男性スタッフがやってきて、治療ポッドを移動するための準備に取り掛かった。スタッフが移動の準備を終えポッドを運んでくるまでの間に、寒鴉は部屋にぺたぺたと護符を張り、持参した筆で床や壁に儀式のための術式を書き出した。彼女の仕事を邪魔するわけにもいかず、丹恒達は入り口から彼女の仕事を見守る事しか出来なかった。
小一時間ほど経って、下準備が整ったようだ。寒鴉が漸く筆を置き、静かに様子を窺っていた丹恒達の所へ戻ってくる。ポッドを中に運んで、と寒鴉が待機していたスタッフを中に呼び寄せた。
「その円の中心にポッドを置いて、速やかに離れて。それから……見学はまだ続ける?」
「見物をしてよいのであれば続けるが」
白露が答える。見たことのない事象を前に少しの知識欲が見えた。それを見透かしてか、寒鴉は数秒白露をじっと見つめる。
「そうだね、……壇は既に成り、ここから先は、十王が定めた生死の理を一時だけ遡らせることになる。まあまだ、この子は本当には死んでいないけど。今回の反魂の儀は、特例中の特例で……本来は、判官以外の人の目がある場所で行える儀式じゃないの。このまま見物を続けるのであれば、緘黙(かんもく)の呪(しゅ)をみんなに受けてもらうことになるけど……それでもいい?」
「かん……かんきつ? しゅ? なんじゃそれは?」
「緘黙の呪。契約というか、呪いの一種よ。ある特定の出来事について喋ろうとすると、体に痛みが走ったり声が出せなくなるのよ」
「なんじゃと!?」
「当たり前でしょう。この禁術を真似してほいほい魂を呼び出されたら冥差や判官の仕事が増えるだけ。反魂の軽いおまじないの方は既に民間に渡ったとはいえ、これだけ本格的な術式まで書いたなら、効果はおまじないレベルとは比べ物にならないでしょうね。ここに口が軽い者は……いないとはいえ、下手なリスクは背負わない方がいいわ。私と飲月君を置いて、他は少し退きなさい」
符玄が言う。むう、とその言葉にこのまま残るつもりでいたのだろう、白露が少し霊砂の影に隠れるように退いた。指示を出した符玄に寒鴉が問う。
「……現在の符玄様も、十王の膝元で起きた出来事まではすべてを把握されていないのですよね。そうなると、……この場合はどうなるんだろう。フゲン・システムにこの儀式が記録されるのは困るけど……」
符玄は普段フゲン・システムの中にいるとはいえ、今のこの状態はそこから分かれた自律式の情報収集端末が街を歩いているようなものだ。彼女が見たもの、聞いたものはすべてフゲン・システム内にログが残り、今この時も情報の更新が成されているはずだ。部屋全体に施された術式も、彼女の目視によるスキャンが終わればシステム内にアーカイブされてしまう。
立場的には寒鴉は十王と契りを交わした判官で、管轄は十王にあるが、符玄もまた羅浮の重鎮であるため、申し出を無下には出来ない立場だ。寒鴉がじっと視線を向けてくる。ここは何とかお前が納めろ、とでも言うように。丹恒は仕方がなく、彼女に助け舟を出した。
「……将軍。寒鴉の邪魔になる。俺もあなたの今の体も、呪術にはある程度耐性があるが、万が一ということもある。ここは彼女に任せよう」
「何よ。特別権限が必要な記憶領域に入れておくなら構わないでしょう」
「……いずれ堅牢な檻も外から壊すものが現われる。表立って痕跡を残していないだけで、天才クラブの数人にはもう何度もシステムの中を見られてるんだろう。彼らは決してそれらの情報を勝手に悪用する者達ではないが、好奇心の前では、善悪は関係なくなる。憶質から人そのものを創造できるような者達なのだから、リスクの少ない方法は誰かが手に取れる場所に置いておくべきじゃない。切れるカードは向こうも多い。目を付けられて実際に交渉のテーブルに着かれたら面倒だ。今代の将軍連中でまた揉め事が起きるんじゃないか」
丹恒の言葉に符玄は一瞬呆気にとられたような表情をする。それから、はあ、と少し苦々しい顔になって、重く溜息を吐いた。
「……おまえに窘められる日が来るとは思わなかったわ。――駄目ね。やはり長い間管理AIを続けていると、思考回路までデータ収集の権化になるのかしら」
「それは仕方がない事だろう。今のあなたは人であって、同時に人ではないのだから。あなたをあなたたらしめるものが何であるかは、今の貴方にしか定義できない。……寒鴉、他に必要なものはあるか」
「ん……本来なら贄に動物の血肉が欲しいけれど、今回は本人がまだ生きていて、外に出たかもしれない魂の一部を反魂の儀で引き戻すだけだから、そこまではいらない。……けど、あなたの生命力は当てになりそう。念のため、髪の毛を数本もらえる?」
「わかった。長い方がいいか」
「うん」
丹恒は縛っていた髪を一度解くと、ぶちっ、とためらいなく後ろ髪を指に軽く巻きつけ、引き抜いた。ヒイ! と後ろから司鼎代理が声を引き攣らせたが、気にせず数本の髪の束を寒鴉に差し出す。
「これくらいでいいか」
「こんなにはいらな……、――ううん。後々使うかもしれないからもらっておく。すごい音がしたけど、円形脱毛症は平気……?」
「襟足から取った。さほど気にならない位置だ。そう量も多くない」
「そう……ならいいけど。――一度試してみたら結果を言いに行くから、なるべくここの人払いをして、今は地上に戻ってて。準備が出来次第始めるから」
「ああ、頼んだ」
なんじゃ結局見れぬのか、と白露が少しばかり不服そうに声を漏らす。「呪いを背負いたいなら止めないが」と丹恒はその背をぐっと押して白露を促しつつ、一旦近くで勤務をしていたスタッフも、ポッド内の子供たちを寒鴉のいる部屋から離し移させたあと、全て地上階へと上がらせた。
一時間ほどして、勤務が出来なくともモニタリング用の小型端末は持ち運んでいたスタッフが、鳴り響いたアラームで慌てて端末を開く。助けるどころか状態が悪化したのか、と一瞬その場の誰もが身構えたが、その表情が驚愕のち、ぱっと輝いたので、どうやら寒鴉が上手くやった事だけはすぐにわかった。
*
「結果から言えば――倒れた人が目覚めないのは、飲月君の推測通りだった」
寒鴉の連絡をうけ、判官たちが数名、続けて入院病棟に入ってくる。物々しい雰囲気の彼らの中にはどこか生気のない者達もいたから、子供たちの中にはまるで百鬼夜行を目にしたかのように怯え切っている者もいた。多くはその様子を物珍しそうに見つめつつ、付き添いに駆り出された丹士に促され近くの病棟へと歩き出していく。
半分死んだように眠っていた治療ポッドの中の少女は、寒鴉が行った反魂の儀の後、未だ目は覚まさないものの、数時間前にくらべかなり容体が安定しているようだ。脳波を見る限りはそのうち目覚める兆候もある。明日には治療ポッドから通常の病床へ移ることになりそうだ、と話を聞きつけてやってきた担当医が安堵していた。
「つまり、目覚めない者達は皆魂の一部が体から逃げ出している状態にあると?」
「皆という確信はないけれど、ここ最近同じような状況でここに運ばれて来た人のほとんどは、これで目を覚ますと思う。どうして彼等の魂が外へ出ることになったのかは今調べているけれど特定にまでは至ってない」
「出来そうなのか?」
「……少し時間を貰えれば。ひとまず今動ける判官を順に病棟に呼んでる。一日に運用出来る反魂術式には限りがあるから、長く見積もっても全員を目覚めさせるには二週間はかかりそう」
「これでひとまず峠は越しましたか。……儀式が完了するまではここを拠点とした方がいいでしょう。漣微、急ぎ患者の移動と全医館スタッフに通達なさい。子供とポッドの移動に人がいりますが、うちの者は病理の特定や処置に長けていても、統率力や団結力は個人差がある。運び出しだけなら雲騎に頼んだ方が余程早く段取りが付く」
「あ、は、はい! 神策府には先ほど一報入れました」
「じゃあ、雲騎の指揮は十王司が取るよ。そろそろお姉ちゃんも来る頃だろうし、私はこれから現場に降りて術式展開の指揮を執る。病棟から患者の移動が済んだら、緊急性の高い子供から取り掛かるから、患者に詳しいスタッフを数人置いて行ってくれる? 何かあった時のために、地上で待機させていてほしい」
「ええ、構いません。ただし、万が一のことを考え持明族以外のものを優先して構いませんか。贔屓をしているようで申し訳ないのですが」
「貴方たちが今の仙舟におけるレッドリストであることは重々承知してる。構わないよ。患者のことがわかるなら、誰でも。ああ……でも、十王司を耳にしたこともない若い者よりは、それなりに知識のある医士の方が都合がいいかな」
「分かりました。それなら――」
しばらく話を聞いていたが、丹恒は霊砂の言葉を遮って口を開いた。
「霊砂、お前は漣微についていろ。口出しはあまりするなよ。さっきから聞いていたが、流れとはいえ、今のような指示をまだ続けるつもりか。お前がいなくなった後、一体誰が現場の指揮を執るんだ。この先数十年はお前が不在かつ、再教育が終わるまで使いものにならないと分かっているだろう」
「は」
「ひえ……」
ひゅ、っと司鼎代理が丹恒の言葉に息を飲む。む、っと霊砂が僅かに眉を下げた。
「言われずとも分かっております、お師匠様。そもそも、この子を育てたのは私ですよ?」
「弟子が心配なのはわかるが、彼女も決して能力のない者ではないだろう」
「それもわかっております」
「こ、これ! やめんか! 二人ともここで親子喧嘩をするでない。何故わしがおまえたちの仲裁をせねばならぬのじゃ。場を弁えぬか」
「あら、止めるの?」
「符玄ばあばも! 傍観しておらず仲裁に入ってもよいではないか」
「生の親子喧嘩を見る機会も今となってはあまりないもの。……まあ、私はそろそろ別の場所へ向かうわ。ここは一旦十王司に任せてもよさそうだし、まだ未解決事項は山のようにあるから。丹恒、おまえもここは任せて神策府までついてきなさい。髪の毛をすべて毟られたいなら止めはしないけれど」
別に切ったところで問題はないんだが、と結った髪を軽く持ち上げたところで、こらー! と素早く白露の声が飛んできた。師匠はまた適当なことを考えておるじゃろう、と。
「そ、それはだめじゃ! ぬしは自分の事に頓着がなさ過ぎる! ほれ丹恒、符玄ばあばと一緒にいってくれ! ここはわしらが受け持つ。漣微、臨時対策本部を立て、ぬしはそこで判官たちや医館の職員と連絡を取り合え。霊砂を相談役に置き、どうしてもわからぬことは指示を仰ぐのじゃ。ただし、基本はぬしが取捨選択すること。わしは各司や方々への連絡を請け負う。雲騎の伝令兵を数人もらうぞ。よいな? わしと面識があるものがよいじゃろう。そこの丹士、普段、珠露殿(しゅろでん)に配置されておる靖安と長風、明凛という兵士を呼んでくれるか。三人とも若い者じゃ。わしは積翠棟へ向かう。どうせそのうち、一般病棟にも凝氷棟の患者を移さねばならぬのなら、病床をいくらか整理せねばならんじゃろう。三人には、雲騎から正式に勅令が出次第、そこへ来るようにと伝えろ」
雲騎軍の兵士に聞けばわかるはずじゃ、と白露は近くにいた丹士に言う。あ、はい、と言われてすぐに丹士が一人走り出した。その様子を見送りながら少し上機嫌に符玄が言う。
「あら、この場の誰よりも龍女の指示が的確ね。日々対局に付き合わせた甲斐があったわ」
「美玉牌につき合わせていたのか?」
「違うわ、将棋よ。あれは運が大きく局面を左右するけれど、将棋は違う。大局を見るのに適した遊戯でしょ。授業ついでに、盤面の見方を少し教えただけよ」
「勝手にまた人の弟子に入れ知恵を……?」
「勝手というけれど……。――おまえは自頭は人より随分良いけれど、良くも悪くも愚直なところがある。それに、思慮深いように見えて、実のところは適当で単純。特に自分に関することは良く勘定に入れ損ねる。他人を思いやることは出来ても、あれこれと周囲の環境を含めた策を考えるのは不得手でしょう。だけど咄嗟の機転はある。つまり、勢いで突破するようなその場しのぎは得意ね。ただ、そこからもう数歩進んだ先までしか、お前の頭にはない。盤外の事象まで含め、すべての戦況を読み解く才は、残念ながらあの子には劣る。おまえの教えでは足りない所を代々補っているだけよ」
白露の指示に霊砂と司鼎代理は顔を見合わせ、各々の立場を思い出したかのように、すぐに動き出した。霊砂は一旦符玄と丹恒の傍にやってきて、羽織っていた上着を丹恒にまず返してくる。
「符玄様はこの後、引き続き例の件の調査をなされるおつもりですか?」
「そのつもりよ。神策府の参謀も、この件でここに運ばれている。数日の内には復帰するでしょうけど、参謀だけじゃない、各組織の穴が思ったより大きいの。現将軍は今の所歴代で一番頼りないもの。参謀が病床に臥せって、今頃内心あたふたしているでしょうね」
「符玄様の比較対象は、あの神策将軍だからでしょう。平和ボケした我々からすれば、神話の時代のようなお方です。そうおっしゃっておられますが、先代将軍の時も今まで一番頼りないとおっしゃってきたのではありませんか?」
「世相的に仕方がないことではあるわ。今はあの時ほど熾烈な戦争や、打開しなければならない局面は少ないもの。経験がものをいうのだから、代々の将軍が先代より力を失っていくのは道理でしょう?」
「まあ、確かに符玄様からすればそうなるでしょうが……。――龍女様を積翠棟まで護衛がてら、途中までお見送りいたします。私はその後、一旦外来で調香の補助に入ります。ここにいると、またあの子に口を出してしまいそうなので」
「それがいいわね」
頷いた符玄に続き、霊砂も白露も彼女の後をついていく。丹恒はそれでは頼む、と寒鴉にこの場を任せた後、歩き出した三人の後を少し遅れて追いかけた。
医館に続々と集まってくる判官たちが普段は見慣れない格好をしているからか、医館のあちこちで、既に噂話が流れ始めている。あれが十王司の判官か、とその存在を知る者は物見客のように医館に見物に訪れ、彼らの事をただの一つも知らない者達は十王司? 判官? と首を傾げつつ明らかに異様な雰囲気の医館の様子を窺おうとしている。
往く道の途中、想定よりも関係のない者達が多く集まっているからか、少しうんざりした顔で白露が言った。
「送ってもらったところ悪いが、一度このまま医者市場へ向かってもよいか。医館の近くに各洞天にも配置された診療所が一つあるのじゃ。そこの者は医者市場で顔が広いから、報せを出すより早く周知してくれるじゃろう。さすがに、関係のないものの出入りが多すぎる。いざという時にこれでは邪魔でかなわん。恐らくまだ運ばれてくる患者は増えるじゃろう。場所を開けねば、患者を乗せた星槎が降りられぬではないか」
「入院病棟近くに待機していた者達は現状を知っていますが、恐らくまだ対策本部も設置されたばかりですから、外来病棟付近までは情報が回っていないのでしょう。広すぎるのも考え物ですね」
「でもここで大方の処置は完結する。私は反対したのよ。羅浮内の医館を拡大にするにしても、ほぼ丹鼎司の一か所に集約するなんて。ここが落ちたら、いざという時の救護拠点がなくなって大勢の怪我人が昔のように路頭に迷うわ」
「ですが、またそうならないために今は老君が丹鼎司に引きこもっておられるのでは?」
「そうならないことを祈るばかりだが」
今の状況はその危機に近い所にある。武力で制することの出来るものであればなんとでもなるのだが、今の所原因がはっきりとしていない事象相手に出来ることは少ない。ともかく、ひとまず昏倒した患者を目覚めさせることは出来そうだが、そもそもの原因を絶たなければ被害は収束しないのだ。
確かに、白露の言う通り、医者に罹るつもりもないただの見物人が多すぎるような気がした。いつもは賑わっている医者市場の方が今は人がここに流れて普段より静かに聞こえるくらいだ。このところの患者の傾向はすでに知れ渡っているせいか、急患を乗せた星槎が頭上を走っても、すっかり見慣れてしまった風景に物見客は関心を寄せることもない。何人かは端末で周囲の状況を実況しているようだ。
霊砂はそれらの人混みが近づいてくると、医者市場から医館の中へ逃げて来た時と同じように、煙管を取り出し、薫香を周囲に纏わせた。煙の周囲はたとえ人混みの中でも注意が逸れる。丹恒達は薫香の効果がなくなってしまうまえに、と医者市場に急いだ。人混みを掻き分けながら、符玄を先頭に進む。ふとその時、視界に光が差した。
「…………――」
目を見開く。口をぽかん、と開ける。遠くを見つめたまま、いつの間にか自分が足を止めていたことに気付く。だが、そうやって立ち止まってみると、先ほど見たはずのものは既にもう視界のどこにもなく、あるのはひっきりなしに流れていく人混みだけだった。どんっ、と正面からぶつかられ、丹恒ははっとして周囲を見回す。いつの間にか先を進んでいた白露たちと少し距離が出来ていた。
丹恒の不在に気付いた白露が、「丹恒ー!」と気付いて振り返り軽く手を振ってくる。丹恒はもう一度、後ろの人混みを振り返った。やはり――ただの見間違いか。まさか、彼がここにいるはずが。
「……――、……」
ふと、自分がそう考えていたことに気付き丹恒はさっと、自分の胸に影が差すのを感じた。今自分は、何を考えた? まさか、彼がここにいるはずがない、と?
何故そんな風に考えてしまったのだろう、と丹恒は途端、どっどっとうるさく鳴り響き始めた心臓の音が、頭の中まで音を広げるのを他人事のように聞いていた。これまでこの場所で彼を待ち続けていたが、いつの間に彼がもうここに来ることはないのかもしれない、と思うようになっていたんだろう。
彼の事を信じていないわけじゃない。けれど、既に、あの日、百万年先にだってきっと届くはずだと当たり前のように思っていた光は、いつの間にか、あの時の眩いばかりの日々をすっかり遠くに置いて、薄く、微かで仄かな蝋燭の火のようになってしまった。彼の事を信じていない、わけじゃない。これは本当だ。――だが、時々、抱え込んだこの想いが、時々足元を漣のように擽り、悪魔のように耳元に囁くのだ。
「彼はもう、自分の元へ戻ってくることはないのではないか?」
そして、彼を待ち続け、今どこにもいない彼に対して抱くこの気持ちは、本当にまだ彼へのものなのか、と。すべてが過ぎ去ってしまった、美しく輝かしい、もう届かなくなってしまったあの日々への、ただの諦めきれない執着なのではないかと。そもそも、すべてが変わりゆくこの世界の中で、ここで足を止めて待っていることが、本当に正解だったのか。戻ってくるかもしれない彼が、自分の知っている彼と全く同じだとは限らないのに。その時、変わり果てた彼を前にして、自分は――たった唯一変わらないものが、お前への愛なのだと、本当に、そう言えるのだろうかと。
§
「えーそれでは。星穹列車ゴーストバ、……なんとか……スター……ズ…結成にあたり、各々の装備品の確認をします。右端から。隊員番号三番、三月なのか」
「消臭スプレーで除霊出来るって本当かな? とりあえず持ってきたけど」
「隊員番号二番、デーさん」
「ヴェルトさんに何がいいかお聞きして、厨房から塩を少々お借りしました。極東の惑星ではよくこの塩が不浄のものを清める効果を持ち、対霊体生物に絶大な効果をもたらすそうです」
「ヨウおじちゃん、デーさんに何吹き込んでんだ? ……まあ持ってきただけいいか……。で、一番。丹恒」
「………………」
丹恒は呼ばれた後、何も手にしていない、とばかりに腕を組み、小さく息を吐いた。数秒空けて、穹がきょとん、と首を傾げる。
「……武器は!? え? まさか丸腰か? 灌がんすればいいってもんじゃないかもしれないだろ!?」
「お前はその掃除機を抱えて、今から一体何をするつもりなんだ。まさかあの幻を見つけ次第、今日はその掃除機で吸うのか?」
「ったり前だ。ゴーストバスター……アッ言っちゃった、……ンン……スター……ズの武器は掃除機って伝統があるだろ!?」
「あれは掃除機ではなく、正確には対ゴースト用の兵器の一種という設定で……」
「はいはい! 丹恒にはいざとなれば雲吟の術と撃雲があるからよし! じゃあ、まず連続して幽霊の出現が目撃されてるパーティ車両からパトロールするぞ! 打倒! 正体不明の幽霊!」
「ねえ、丹恒。これってまだ続ける感じ?」
「……まだ例の現象が続いているからな」
落ち着くまではこの調子だろう、と丹恒が息を吐く。だよね~、となのかが少し呆れたような表情でずんずんと掃除機を抱え自室への階段を上っていく穹を見上げた。
「お前たちは帰っていいぞ。サンデーももう無理にあいつに付き合わなくていい。塩は食堂車まで戻しに行ってくれ。あとで困るだろうからな……」
「ですが……よろしいのですか?」
塩を手にした彼に丹恒がそう言うと、なのかもじゃああとヨロシク、とその話を聞いて、少しほっとしたような表情で踵を返そうとする。戸惑うサンデーを引っ張り、デーさんお茶でものもー、となのかが彼の腕を引いていった。彼女に言われるがまま、サンデーがなのかについていったのを見て、丹恒はもう一度ため息を落とす。先に部屋に戻った穹を漸く追いかけた。
最初の幽霊騒動から数日、毎日件の幻は穹の前に現れた。
幻はいつもそう長い時間現れるわけではなく、現れる時間もまちまちだ。そのおかげで穹はずっと周囲を警戒しており、特にここ三日ほど、丹恒は穹とほぼ片時も離れずに過ごしている。
どこかへ行こうとすると穹も立ち上がり後をついてきて、逆に彼がどこかへ行こうとする時は付いてきてくれと引っ張られる。風呂も結局一緒に入る羽目になってしまった。
この数日、丹恒は殆ど資料室ではなく穹の部屋で作業や仕事をしていたから、列車の皆もまだ一緒にいるのか、と不思議そうな表情をする。幻は一日につき一度しか現れず、そして、何故か穹の前にしか出ないため、皆は既に数日前の幽霊騒動のことなど頭から抜けてしまっているのだ。
調査もまた、たった数秒しか現れない上時間もばらばらだからか、痕跡を追うことも出来ずあれから全く進展はない。列車内にエネルギー生命体が住み着いたという可能性は、隅々までスキャンを掛け分析した結果、「ない」と分かったし――なお穹はその結果を認めたくなかったようだ――ブラックスワンが言ったような、憶質に似た性質のものであれば放っておいても危険性はないと判断された。
星海の航行中、何かしらの憶質とすれ違うことなど茶飯事だ。いずれこの現象も収まるだろうと、皆慣れた様子で対応を後手に回していた。連日十数秒ぎゃあぎゃあと騒いで驚いているのは穹だけ。その穹がこのままやられてばかりでたまるか! といそいそと準備をし始めたと思ったら、徐に掃除機を抱えだしグループチャットでなのかとサンデーを呼び出したのがつい十数分ほど前の事になる。
穹の部屋に向かうと、思ったよりもドアの近くに彼がいてびく、っと丹恒は思わず驚いてその場で立ち尽くした。彼は掃除機を抱えた穹のじとりとした視線に、「ふたりは帰ったぞ」と先に言う。むう、っと穹の表情が曇った。
「お前だってもうそろそろ慣れただろう。たかだか数十秒程度蜃気楼を見るようなものだ。あれがお前に何かをしたわけじゃないし、お前だって何ともない。危険性がないならそこまで恐れることもないだろう」
「それは……、……そうかも」
「それでもまだ気になるなら、もう少しお前と一緒にいる。ないものを探すのはどうしたって骨が折れる。三月もサンデーもお前が言えば付き合ってくれるだろうが、どれだけかかるか、そもそもそれで列車内を探し回って解決するかどうかもわからないんだ。あのままだと列車が消臭スプレーと塩まみれになる。掃除をしろとパムが怒り出すのも時間の問題だ」
それに、と丹恒は先に、穹の手から彼が持っていた掃除機を奪う。あ、と一瞬声が上がったが、気にせず掃除機を元の定位置に戻した。
「丹恒が冷たい……」
「冷たくはない」
「あんなに一緒に過ごしたのに! オンパロスでほぼ丸一日一緒に過ごすなんていつもの事だっただろ」
「あの時は、ヒアンシーがオクヘイマに来るまでは俺もこれと言って仕事らしいことをしていなかったからな。それに、自分たちが於かれた状況を把握しなければいけなかったし、お前は、……」
一度死んでしまったかもしれない、と頭の片隅にあの光景が張り付いていたから、しばらくは、気付けば目で彼を追いかけて、出来る限り傍にいて、何もなかったのだと、己を納得させたかった。
結果的にあれは実際に起こったことで、穹はキャストリスの助力を経て、なんとか魂をもう一度元の場所に戻したけれど、あの時彼を失ってしまったかもしれないという事実が、まだ今も時々胸の奥に重く纏わりつく。長夜月の所為で再び彼がどこにも見えなくなってしまった時も、あの迷路から彼を出してやりたかった一方で、どれだけ探しても姿の見えない彼が、本当に無事なのか何度も考えた。
自分にとって彼は、一体何なのか。どれだけ大事なのか。自分の知る限りの言葉を尽くしても言い尽くせないこの気持ちが、感情が、彼がいない間にも大きく膨れ上がった。告げる者がどこにいるかもわからない、長い夢の孤独の中で、彼を呼んだ名前と一緒に、自分の心はただ溢れて、零れていくだけだった。
今までだって、抱えきれないほどの暖かな気持ちであれば、彼を見る度に胸の奥の預かり知らぬところから、泉のように際限なく湧いて出て来た。だが、オンパスに向かってから自分が彼に対して確かに感じていたのは、確かに怖れだったと思う。
思い描いた旅の終わりとは違う、突然の別れ。護るべき者を護れなかった無力感。どこかにいるはずなのにどこにも見えない彼を追う焦燥感。この広い星海にただひとり行く当てもなく放り出され、転がるように逃げ続ける迷子になった時よりも、あの時の自分はずっと孤独だった。一人で居ても平気だったはずなのに、彼と出会ってしまったから、以前は知らなかった、春のない孤独がどんなに冷たいかを覚えてしまった。知らなかった頃にはもう戻れない。彼の所為で。彼のおかげで。
「……え。ご、ごめん? 俺なんか変な事言った……?」
口を噤んだ丹恒を見て、穹がすぐに僅かに眉を下げ近寄ってくる。何でもない、と誤魔化したけれど、穹は「何でもないって顔じゃない気がするんだけど」とこんな時ばかり勘がよく切り込んでくる。
「いや、確かに俺も騒ぎすぎたし意固地になってたけどさ」
そして、丹恒が何かを返す前に、何故か自分が悪かった、とばかりに狼狽え始めた。
「もう幽霊がどうとか騒ぐのやめるからさ」
「怒ってるわけじゃない。呆れてもいない。得体の知れないものがお前の周りにだけ連日現れているんだ。お前が不安になる気持ちはわかる。……だから、……別に、お前の一連の行動が気に障ったわけじゃない。今のは関係がない、……ただ少し、色々と思い出すことがあっただけだ」
いざ落ち着いて、過ぎたあの日々を振り返ることもあの渦中にいた頃は出来なかった。ここ数日、論文の手直しの傍ら進めていた手記のアーカイブ化に際して、少し遠くへ行っていた記憶が、波のように再び返ってきたから、余計に考えてしまうだけ。お前だって、と数日前に彼に尋ねられたことを思い出し、丹恒は穹に尋ねた。
「時には少し、物事を考えすぎることもあるだろう」
「……そりゃあ、……そうだけど」
「ここ数日はアーカイブの整理をしていたから、色々と思い出すことがあっただけだ。お前が気にするほどの事じゃない」
ヘルタに着く前に、いくつかの作業はひと段落させておきたい。いつまでここに立っているつもりだ、と先に部屋の奥に進むと、穹も少し間を空けて後をついてきた。すす、っと衣擦れの音が聞こえ、後ろに違和感を覚えたかと思えば、がく、っと不意に視界が斜めに滑る。どっ、っと後ろから押されて、丹恒は穹のベッドの上に倒れ込んでいた。
「……っ?」
何が起きたのかわからず、驚きつつも起き上がろうとする。だが丁度穹が覆いかぶさるように丹恒の上に跨ってきて、それも出来なくなった。何だ、と突然のことに困惑していると、ぐ、っと体の上に体重がかかる。
「おい、穹」
「丹恒さあ、……この前から、なんかちょっと変だよな……?」
「変、」
どのあたりがだ、と丹恒は穹に尋ね返す。だってさ、と穹は丹恒をじっと見降ろしながら言う。
「なんか誘っても全然その気になんないし……」
「…………、お前が幽霊騒動で怯えているのに事に及ぶのは違うだろうと」
「いーや、そもそも幽霊騒動の前から上手い事避けてただろ。準備がない~とか言ってさ」
なに、と穹の視線は丹恒を探るようにじとりと頭の先からゆっくりと降りてくる。眸を通り過ぎ、顎から首筋へと。ふにゃ、っと途端その表情が曇った。
「ま、……まさか、俺に飽きた……?」
「は」
「…………わ――わかった、わかった! そういうことか。皆までいうな。わかってる。丹恒がいくら俺が好きでも時にはそう言うこともあるもんな。安心してくれ、そういうことなら俺もちょっと考えがある。待ってろ、密かに用意していたマンネリ防止恋愛指南書が確かどこかにあったはずだからさ」
「…………」
なんだそれは、と一瞬呆気にとられ、丹恒は体の上に跨っていた穹が、ベッドを降りてどこかへ行こうとするのを咄嗟に引き留めてしまった。うっ、と引き留めた勢いのまま体の上に倒れ込んでくる。この後一体どんな奇行を始めるかわからなかったから、起き上がろうとする彼をそのまま動かないよう腕を回して引き留めて、「うー! 放せーっ!」とばたばたと軽く暴れるのすら構わずただ抱きしめる。そのうち急に、穹はすん、っと大人しくなった。丹恒も腕の力を緩める。
「何を勘違いしたのかはわからないが、お前が考えているようなことは何もない」
「じゃあ……なんで何もしないんだよ。したくない……、……わけじゃないよな?」
「………っ、」
する、っと軽く腰骨から内股に向かい手が軽く滑り出す。こら、と一度その手を軽く退けたが、ほんのわずかに熱を孕み始めたそれに、抱き寄せていた穹が気付かないはずもなかった。溜まってんじゃん、とむすっとした表情で尋ね返してくる。
「なのに何でだよ~!?」
「…………、……」
「ぜえったい何かある顔じゃん! こら、言わないとこのまま襲うぞ」
「…………、……それは」
「襲っていいってこと?」
少しだけ緩んだ腕から体を僅かに起こし、穹が再び身を屈めてくる。落とされた口付けの後に、穹はじっと丹恒を見つめ、もう一度深く口付けてきた。止めようと伸びた手すら掴まれてされるがままくちびるを重ねる。くちゅ、っと舌先がくちびるの奥に入りたい、と緩い合わせ目を叩いて滑り込んできた。くちびるの熱も重なった呼気も唾液も、頭の奥をじんと静かに痺れさせるばかりだ。
長い口付けの後に漸く一度くちびるが離れた。薄く糸を引くくちびるが、熱を持って少し赤く色付いている。はふ、っと穹も少し上がった息を整え、ぐり、っと自分の体を丹恒に擦りつけるように軽く揺すった。
「しばらくしてないからちゅーだけで勃っちゃったじゃん、……」
「…………、」
「丹恒も嫌じゃなさそうだけど」
本当に抵抗しないならオッケーってことでいいんだよな、と少し迷いながらも穹が服に手をかけてくる。このままだと勢いに流されるな、と丹恒は溶かされかけた理性を何とか手探りで拾い、掴まれた手の代わりに尻尾で叩いた。おわ、っと突然思いもよらぬ方向から何かが飛んできたので穹も驚いて目を丸くする。ついでに上に乗った彼ごと横へ転がった。そのまま今度は穹に覆いかぶさるように体勢を変える。
「やっとその気になった?」
「…………、無理矢理乗せられた」
「何かの修行でもしてるのかと思った。……そういやさっきの尻尾、水龍ちゃんじゃないほうだったけど、やっぱりこっちでもあの見た目に変えられるのか?」
見せたことはまだあれからなかったか、と丹恒はふと思い出す。
「ああ。星外まであの地の生命を連れていく。そういう約束をしたからな」
ぱら、っと伸びた髪が自然に滑り落ちてくる。穹の手が落ちた髪に静かに伸びてきて、そこで指を遊ばせ始めた。無意識だろうか? 知らない間にデカくなっちゃってさ、と尋ねながら、穹はじっと丹恒を見上げ、頬にそっと手を伸ばしてくる。指先が輪郭を撫で、耳の縁をなぞる。そのくすぐったさに少しだけ目を伏せた。彼の視線が何かを考えるようにぼう、っと一点を見つめてくる。「ああ、わかった」と彼は少し納得したような表情で、「今になってまた怖くなったのか?」と、当たり前のように、胸の奥の言葉まで言い当ててきた。
黙り込んでしまってはそうだ、と頷いているようなものだ。言葉もなくただ自分を見つめる丹恒に、穹は何かを言おうとして、結局何も言わずに静かに口付けてくる。
「……俺も怖いから埋めてよ」
「……なにがだ、」
「んー……。なんだろな。丹恒をこのままずっと好きでいること?」
「…………、そんなことを言われたら」
お前が何を望んでも、多分自分は叶えようとしてしまう。それがわかっているからか、穹は「さー据え膳だ。さっさと腹くくれよ蒼龍ちゃん」と少し挑発するように丹恒に言った。
「お前のそれは、生憎もう俺でしか治せないし満たせない。……だろ? 責任はとるぜ?」
そう言う風に、俺がしたんだから。
§
宇宙空間のいい所は、朝も昼も夜もない所だ。
うとうとと心地よい倦怠感に包まれ微睡んだ後、少し眠って起きても、部屋の中はまだ薄暗い。一人にしては少し広いベッドは、汚れたはずがすべすべと皺も少なく綺麗になっている。自分が眠っている間にさっさと変えてしまったんだろうと、足を延ばして泳がせながら、穹は僅かに痛む腰を庇いつつ大きく伸びをした。
つい数時間前までは足先に尾の絡みつく感覚があったのに、今はそれもなく体が軽い。汗も白濁のべたべたとした感覚もすっかり洗い流されている。風呂に入った記憶なら薄っすらと残っている。三ラウンド目はそこでしたので。
体は既に綺麗さっぱりしているが、胸の奥は充足感で一杯だった。俺たちに足りてなかったのはスキンシップ。胸を張ってそう言えるくらいには。
穹はベッドの上にいない人影を体を起こして部屋の中に探す。衣擦れの音で気付いたのか、アーカイブの整理を進めていた丹恒がこちらを振り返った。ベッドから降りて裸足のままぺたぺたとそちらの方へ近づいていく。くあ、っと欠伸が零れた。
「おはよー、丹恒」
「おはよう。……もう夜だが」
「起きる前から夜だったから大丈夫」
「何が大丈夫なのかさっぱりわからないが……」
椅子を一つ引き寄せて丹恒の隣に並べる。腹の中に注がれた時は空腹からは遠かったが、全部すっかり掻きだされてしまい今は何も残っていない。少しの空腹を訴えてきた胃に何かいれるか、と椅子に腰かける前に適当な食糧を手に戻った。編集中のアーカイブの画面を見つつ、空腹に沁みるなあ、とぼうっとしながらカップケーキに齧りつく。
時々丹恒が編集しているデータを覗き見ていたから、彼がオンパロスでの出来事を書き留めた手記を順にアーカイブに記録し、そこに補完を加えてきたのを知っている。開拓日誌であれば穹も時たま書いていた。お前の記述はあまり当てにならない、と言われたこともあるが、自分一人で行動していた時は比較的真面目に記録を取っていたはずだ。打ち込んだ記述をぼうっと見つめて、穹はふと視線を止めた。
「……丹恒。そこ記述漏れてるぞ」
「ん? どこだ」
「お前が俺を助けに来た時。まるっと抜けてるじゃん」
お前が過ごした途方もない時間のことがすっかり記述から抜けている。あの時の事はぼんやりと覚えているが、自分はそれほど彼の事を待った覚えもなければ、気付いたら暗い水底のような場所から明るい所に引っ張り上げられていて、丹恒に少し抱きしめられ、自分が戻ってきたのを知ったくらいの記憶しかない。丹恒はその間長い時間、記憶域の中で自分を探して彷徨っていて、出口の見えない迷路の中から自分を連れだそうとしてくれていた。
「別に必要ないだろう。これは開拓日誌で、お前を探していた俺の日記帳じゃない」
「日記あるのか?」
「記録には残していないな。頭の中だ」
「で、俺の事千年くらい探してたって結局入れないのか?」
「事実だけを残せば問題はないだろう。後からこれを読み返すことになるかもしれないナナシビトに、お前がどこにいるかわからないまま捜し歩いた現実ではほんの一瞬の出来事は不要だ」
「………………」
考えてみれば、オンパロスに降り立った後から丹恒には心配をかけてばかりだ。彼の中にぼんやりとあったものが、そうやって実際、手に触れられるくらい鮮明に形をもって、彼を当たり前のように傷つけた。自分に非はないのだろうが、こんな形で傷つけたくはなかったな、と穹はぼんやりと思う。
彼が怖がるものが自分には分かる。
気付けば、穹は自然と丹恒に手を伸ばしていた。理由もなく触れたくなるこの当たり前の感情を愛と名付けてやるのは簡単だけれど、これは彼に寄り添うものであると同時に時折彼を傷つけるものだ。
目の前から消えてなくなるのが怖い。消えてしまった後のことが分からなくて怖い。見えるところに居なくなってしまっても、持ち続けられるのかわからなくて怖い。どれもこれも、好きから生まれるどうしようもない感情には違いない。
「ん~……むずかし」
ただ、彼が自分を好きでいてくれて、自分が彼を好きでいる、たったそれだけ。それだけあれば十分なのに、それがもし不意に消えてしまった時の事を消える前から考えるなんて、贅沢な悩みなのかもしれない。
まあ、あんなことがあってから、自分もまた、何も考えなかったわけではなかった。信じている一方で、その言葉の裏に影のように《だけど》は纏わりつく。約束の美しさに見とれている間は良いけれど、それらは不意に足元に忍び寄って、気付いた瞬間に心を飲み込むものだ。
確かな約束が出来ればいいが、遠い先の事なんて自分にも彼にもわからない。
ずっと一緒にいたい、と願うのは悪い事なのか。別れてしまってもまた逢いたい、と祈ることは傲慢なのか。今のまま時を止めて、なんて自分も彼も望んではいないのに、いつか消えてしまうのが怖くて心細い。身体のどこかから、あけた覚えもないのに穴が開いて、砂のように何かが零れていくのではないか。それを塞いで蓋をして、この場に繋ぎとめるのがきっと信頼や愛なら、自分のそれは、自分の代わりに彼の空白をちゃんと埋めてくれるんだろうか?
「何がだ」
「哲学?」
「……お前の口からそんな話が出てくるとは思わなかった」
「俺は今丹恒の事を考えてる」
「哲学じゃなかったのか」
「丹恒の事を考えてたら哲学の話になった? ……愛とは難しいものだね丹恒くん」
「……俺もお前も、多分、こんな風に与えるのは初めてだろうからな」
「お前がわりとうじうじした後急に吹っ切れるの知ってるからな。……――もし俺の事を待ってる間に、どうしてももう待てなくなったら、待たなくたっていいからな」
「…………、なぜ」
丹恒が一人でずっと苦しむよりはマシ。穹は丹恒の問いに、そうはっきりとは答えなかった。そう口にしたら、彼がどんな顔をするのかなんだかすぐに想像出来てしまったので。
それはそれとして、今の自分たちが届かない、ずっと先の話をしてしんみりするより、後から思い出して、美しく光る記憶をひとつでも多く残すべきじゃないか。穹は触れていた頬から彼の頭へ手を動かし、ぐしゃぐしゃと軽く髪を撫ぜた。よくわからない、といった表情で丹恒はされるがままこちらを何かもの言いたげに見つめてくる。でも俺はきっと百万年だってお前を愛したままでいるよ、と何故か穹は彼に言い出せなかった。いつもみたいな軽口で、その口だけの約束を、冗談だとは思われたくなかった。
ふ、っと丹恒は小さく溜息を吐く。先ほどから進んでいない仕事をじっと見て、徐に椅子から立ち上がった。
「…………。じゃあ、少しだけ手記の記述を増やす。一度資料室に戻るが」
「ん、行ってらっしゃい」
今はなんだか心細くはないから、彼が数分居ないくらいは大丈夫だ。穹はここ数日ほぼずっと一緒にいたからか、大丈夫なのか、と視線だけで尋ねてくる丹恒に笑って手を振る。丹恒が部屋を出て行って、久しぶりに部屋が酷く広く感じた。くるくると椅子を回しながら遊んでいたところで、ふと視界の端に何かがぼんやりと浮かび上がる。ひゅ、っと喉が鳴った。
*
丹鼎司の医館の中の騒々しさとは違い、市街の様子はあまり普段と変わらない。
神策府行きの船に乗り込もうとすると、符玄の事も丹恒の事も知らない若い雲騎の兵士が、「えーっとですね、ここは関係者以外乗り込みが出来ない星槎乗り場で……」と行く手を遮ってきた。どこか、誰かの面影が残る茶色の髪の少女だ。その背にどこかで見た覚えのある大剣を背負っている。符玄も彼女を見て何か思う所があったのか、しばらくじっと少女を見つめていたが、見つめているだけでは事は進まない、とばかりに、丹恒にん、と視線だけで指示を出した。
「……突然すまないな。事情を知らない殊俗の民でもないし、怪しい者でもない。神策府の取り次ぎ役には、飲月君と、……符玄様が来たと繋いでくれるか」
丹恒はそう言いながら、殊俗の民の姿から持明族の姿に戻る。突如青年の姿から少し風貌が変わり、現れた額の角を見、兵士はぽかん、と口を開けた。少し考えてはっとし、たしか、と何かを思い出すように呟く。
「えっと、たしか……持明の中で角をもってるのは、龍女様ともう一人で……えっと、え、ろ、老君……? そ、そんでもってこの子なんだか教科書で見たことある……?」
そして気付いたのか、さっと顔を青ざめさせ、すぐに平謝りしてきた。
「ごっ、ごめんなさい! い、いますぐ連絡します!」
「いや、急がなくても……」
「急ぎなさい。事は一刻を争うの」
「ひゃ、ひゃいい!」
端末を握りしめ、若い兵士はすぐに神策府へ取り次ぐ。すぐに確認が取れたのか、彼女はそのままご案内します! と、自ら率先して星槎に乗り込んでいった。
時が流れ時代が変われど、羅浮内部の構造上、洞天の位置はさほど変えられないため、神策府への往き方もそう変わらない。転送装置の導入も検討されたが、内包している洞天同士に影響が出る可能性を懸念され、以降は度々、似たような導入案が出てもシステム――つまり符玄が判定の末に棄却している。
星槎は少しその形を変えたが、空を駆けるのは未だその多くが船だ。星槎に乗り込んでそう時間を空けず、三人は神策府に降り立った。何やら奥から勢いよく足音が駆けてくる。星槎から降りず、このまままた持ち場に戻ろうとした若い兵士を、ついでとばかりに引き留める声があった。
「そこの雲騎の子! まだ帰らないで! ちょっと手伝って!」
「へっ? えっ、アタシですか?」
「あなた以外にいないでしょう! 小間使いが急に倒れたの! 丹鼎司行きの星槎が来ないから、彼女を丹鼎司へ連れて行ってくれる?」
「えっ、どえええ!?」
若い兵士は驚きつつ、人が倒れたと聞いてすぐに星槎を降りた。丹恒と符玄も彼女を呼んだ職員についていく。職員とは数回、現将軍との面会時に顔を合わせたことがある。だからか、「老君は将軍の所に向かった方がよろしいのでは……?」と少し怪訝な顔をされた。
「構わない。急病人が先だ」
「まあ、きっと件の患者ね。……おまえは引きこもっていたから、さっき医館で見た子供とは別に実際に誰かが倒れるのを見たことがないでしょう。まだ倒れてすぐなら僅かに意識があるかもしれないわ」
こっちです、と職員が廊下を折れる。昏倒した少女の姿をした職員が、廊下に力なく倒れ込んでいた。丹恒が脈を取る前に、「まだ息はあるわ。会話は出来る?」と符玄がしゃがみ込み、軽く少女の頬を叩く。薄く開いた眸が、ぼう、っとこちらを見上げた。
「……――さ……」
「ええ。何?」
「……ねえ、さ……」
僅かに伸ばされた手が何かを掴む前にぱたりと落ちる。どうやら気を失ってしまったようだ。軽く符玄が彼女を揺り起こしたが、もう反応はなかった。息はまだ微かにある。やはり今医館に運ばれている彼等と同じような状態になってしまった。運ぼう、と丹恒は少女を持ち上げ、すぐに少女を星槎に乗せる。運んでいる途中に頭が揺れて怪我をしないようにと、同僚である職員が、自らの上着を彼女の枕にしていった。
「丹鼎司に向かったらそのまま医館の中に星槎を向かわせるといい。こちらから臨時の星槎が一艘向かうと連絡しておく」
「わ、わかりました!」
「ところで、お前のその剣は……」
「あっ、これですか? これ、代々母から受け継がれて来たっていう伝統の宝剣なんですけど、今時、少し古風ですよね? デコった方がイイんじゃないかって友達には言われてるんですけど」
「デコ、…………いや、物は大切にした方がいい」
「そうですか? 老君が言うのならそうなのかも……?」
「ほら、話は終わりでいいわね? 早く行きなさい」
「は、はーい!」
急かされるように星槎は走り出す。同僚をひとまず丹鼎司に送り出せてほっとしたのか、職員の女は静かに息をついて、すぐに態度を改めた。
「申し訳ありません、急患の対応でお取次ぎが遅れました。お二人を将軍もお待ちです。どうぞこちらへ」
深々と礼をしてから彼女は歩き出す。符玄も既に神策府の参謀が倒れ、数人配置換えを行いつつ穴を埋めていることを知っていたから、何も言わずに彼女の後をついていった。
神策府の中はいつもに増して静かだ。配置されている兵士はいるものの、彼等は何故か本来の業務とは違うであろう書類運び等をさせられている。人が足りないのです、とそれを横目に見つつ、女は将軍の前まで丹恒達を案内した。
「――ああ、符玄様に老君」
来てくれてありがとう、と出迎えたのは物腰の柔らかな少年だ。どこかふわふわとした雰囲気は、符玄にも雰囲気だけならこれまでの将軍の中で、おまえが一番あの神策将軍に似ている、と称するくらいだ。仙舟人の見た目の年齢と実年齢は別だが、この少年もまた例に漏れずそうで、殊俗の民であれば十五、六歳ほどの見た目ではあるが、既に数百年を生きている。風貌は、昔、丹恒をこの羅浮に迎えてくれたあの将軍の後について回っていた弟子によく似ていた。彼の容姿に、彼の師である景元の性格をインストールしたかのような。
そんな彼も今は少し疲れた様子だ。職員にふと、部屋の外で起きていた騒動について尋ねた。
「先ほどまた誰かが倒れたと騒いでいたようだが」
「はい。事務方の者がまた一人急に倒れました。お二人を案内した雲騎の新兵に丹鼎司へ運ぶように依頼をしてきましたので問題はありませんが、いつ目覚めるかは……」
「そうか。ご苦労。後任は誰か頼めそうかい」
「はい。事務方ですので問題はないかと」
「ならいいが。補充が必要なら地衡司のものを数人引っ張ってこよう」
「地衡司も地衡司で人手不足に喘いでおりますよ」
それもそうだった、と少年は苦笑する。符玄が横から口を挟んだ。
「さっき、丁度丹鼎司の方で検証してきたわ。時間はかかるけれど順に対応をするから、早ければ二週間程度で戻れるでしょう。問題は現状への対策と解決策の方よ」
「先ほど十王司からも丹鼎司に判官を派遣すると連絡がありました。詳細はまだ聞いていませんが、意識が戻るようであれば、人手不足の問題はここを耐え凌げばいずれ解決するでしょう。……彼等と少し話すから、君は一旦持ち場に戻りなさい」
見張りの兵も居なくなった部屋に、ぽつんと三人だけが残る。警備上は問題ないのか、と疑問に思っていると、「老君がいらっしゃるので問題はないでしょう」と少年はにこりと微笑んだ。「十王司からの連絡には目を通しましたが、肝心の状況までは細かく書かれておらず。市民がそうなった原因の特定は出来そうですか」と、符玄に尋ねる。
「……それを此処にしに来たのよ」
ぱっと、符玄がそう言ったのと同時に、周囲に無数の光学ウィンドウが並び出す。今回の騒動で倒れ、医館に運び込まれた患者のリストや顔写真だ。符玄はそれらをいくつかのグループに分けながらウィンドウごと操作をする。
「こうして見ると随分増えましたね」
「そうね。ここ二週間ほどで爆発的に。見て来たけれど、医館の方がもう一杯になりそうよ。一部の者達が回復しても、このペースで増え続けるならいずれ追いつかなくなる。これ以上の被害は食い止めないといけないわ」
「そうですね。それで……符玄将軍の見立ては?」
「……患者たちにこれといった共通点が見いだせない。場所もばらばらで、直近の行動履歴を見ても全員が一致するものはないわ」
「ふむ。それは確かに、すぐには特定は出来そうにないですね。ちなみに、現太卜はなんと?」
「『局部の綻びに目を奪われ、状況を見誤れば、事態は底無しの深淵へと転がり落ちる。盤面の全容を大観せよ。それは万物の流転における一過性の揺らぎにすぎず、案ずるに及ばぬ些事である』。占いの結果はこうね」
「これだけ人が倒れているのに、案ずるには及ばぬ、とは。窮観の陣は壊れたのですか? ……うーん、そうか。困りました。つまりは、僕の采配次第では国家転覆の危機ということではないですか」
「そういうことね」
「はあ……。これだから将軍職は嫌なのです。……朱明や曜青、玉殿などにも伺ってみましたが、どうやらこの現象が起きているのは羅浮だけの様子。念のため、各要人には特に今は羅浮が航行する近辺には近寄らないよう通達していますから、僕たちで何とかするしかありません。……物事の本質は案外簡単なところにあるのかもしれないですが、……老君はどう思われます?」
不意に話が飛んでくる。どう思うも何も、と丹恒は並んだデータにじっと目を凝らしつつ正直に答えた。
「俺も話を聞いたのは先ほどの事で、原因らしいものは何も」
「竹林の奥では、このような状況になるまで外の様子にも気付かないものなのですか? そちらへ回していた仕事の量が多くなっていたはずですが……」
「これが原因だとは知らなかった」
増えているとは言え、さばけない量ではなかったのだ。丹恒の答えに引きこもりというのも困りものですね、と静かに少年は息を吐く。
「この混乱に乗じて何かしらを企てている者達がいるかもしれないと一応調査もさせていたのですが、これと言って進展はなく。……原因らしいものもまだ特定が出来ない。頼りの参謀も倒れ数週間、基本的に日常我関せずを貫いている重鎮たちをまたまた引っ張り出させてしまい、僕はまた歴代将軍の中でも最弱と羅浮雑俎で匿名の者達に散々叩かれるのでしょう……はぁ~、メソメソ」
「その子供じみた擬音で茶化さず真面目に考えなさい、大人げないわね。あと、それが分かってるならエゴサはやめなさい」
「自分への悪口というのは見ない方がいいと分かっていても、どうしても気になってしまうものなのです。人の性ですよ」
「そんなものさっさと忘れた方が精神衛生的にはいいわよ」
符玄がぴしゃりと言う。そこへ、少し遠くから人の声が飛び込んできた。参謀殿、と誰かがほっとしたような声を上げ、もう大丈夫なのですか、とそれを気遣うような声を上げる。丹恒も符玄も後ろを振り返った。それと同時に幼い将軍も飛び出した。
「星簇! もう体はいいのか?」
この頼りない将軍を支える頼りの参謀――かつてあの神策将軍を支えていた参謀である、青鏃の転生体が帰還したのである。
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