100万年きみを愛す

 ある夜、少年は考えていた。
 自分を愛する、自分が愛する、あるひとりの青年の事を。
 彼は少し硬派で、だが情に深く、一度懐に入れてしまった者に対してはかなり寛容になり、何を賭しても様々な脅威から護ろうと自ら率先して前に立つ。少年は最初、彼の事を、融通の利かない頑固な青年だ、と思っていた。だがそれが自分に対し心の奥深くまで入る事を許した後、ゲロゲロあまあま溺愛ドラゴンになるだなどと、少年は本当に、知り合ったばかりの頃は何一つ、想像していなかった。
 彼と過ごす日々はいつだって色鮮やかだった。彼は何も知らない自分に様々な知識を与えてくれた。彼なら絶対に自分を護って、背中を預けつつも、一緒に何にだって立ち向かえる。少年はたった一人では何も出来ないわけではなかったけれど、彼が傍にいるだけで何だって出来るような気がした。それこそ、本当に出来ないことはないと信じていた。
 まるでそうすることが当然のように、彼はいつも少年のことを考えてくれていた。献身も好意も、彼の眸の奥にずっとあり続ける愛も信頼も、くすぐったくはあったけれど、同じだけ青年にも返してやりたいと、少年はいつも思っていた。
 少年は何も、その彼の献身や好意、心の底からの愛や信頼が負担だったわけではない。だが、それらすべてが注がれる先が、ある一瞬の後にどこにも無くなってしまったら、彼は一体どうなるのだろう。友人として、そして自らもまた彼を愛する者として、少年は彼を心配していたのだ。
 彼が自分より先にどこかへ行ってしまえば、この心配は無用のものとなる。けれど自分が彼をどこかに置いてきてしまったら、どうすればいいんだろう。
 変わらない、ものをあげたいと思っていた。彼が、自分がどこにもいなくなっても、安心できるようなものを。
 いつからか少年は、彼と過ごすたびにそんなことを考えるようになった。これまで過ごした、他愛もない日常や未知への冒険、そこで経験したすべてが、いつかの彼を傷つけ、そして同時に助けることがあるだろう。あまり感傷的になりすぎてもいけない。彼が自分を思い出した時に浮かぶ顔が、泣き顔や悲しむ顔では嫌だ。少年は彼の記憶の中の自分が、彼と自分のこの恋が、これからすべての彼にとって、一番優しいものであればいいと思った。
 だから少年は、彼の前ではよく笑い、ふざけ、揶揄い、慈しみを持って、その眸の奥を見つめた。いつから意識するようになったのかはわからない。時々は怒って、泣いて、彼に見せられるものは全部、何一つ隠さずに過ごした。彼が全部を覚えていられるわけではないと分かっていたけれど、彼の中に住む自分が、もう一人の自分となって彼の中で生き続けてほしかったから。
 そして同じように、少年もまた青年を自分の中に生かし続けた。いずれ遠く離れても、彼がいない旅路を一人で往けるように。彼に負けず劣らず、彼の愛もまた強く深く大きなものであることを、少年は実の所、あまり自覚していなかった。
「丹恒は俺がいなくなったらどーする?」
 と、少年はある時青年に尋ねた。かれは数秒、時間が止まったかのようにそれまで軽快に捲っていた本のページを手繰る手をぴたりと止め、ぜんまいが切れた人形のように少しぎこちない動きになった。もしもの言葉一つで簡単に動揺するこの可愛い男の傍に、少年は出来るかぎり居続けよう、と自然と誓った。
 一度はぐらかされて聞かなかったことにされ、でも結局はどういう意味なのか青年は尋ねてくる。少年はただ、気になっただけだった。
 この宇宙は広いから、何があるか何が起こるかそのすべてを予測できる者はそう多くはない。今まるで二人でひとつのような自分達が別れる時がいつ来るのかも今の時点ではわからない。そして、その時に彼がどうするのか、少年はただ気になっただけなのだ。このまま旅を続けるのか、それは列車に乗ったままなのか、それとも一人でどこかに行くのか、別の所に留まるのか。
「だってさ。もし俺がまた戻って来た時に、丹恒がどこにいるかわかんないと困るじゃん?」
 戻る、と当たり前のように少年が告げた言葉を、青年はどういう意味か尋ね返してきた。
「うん? うん。ほら、宇宙は広いんだし、何があるかわかんないし、一度別れてもうこれっきり、なんて俺はヤダな~。記憶があってもなくてもまた逢えたらいいよなーって」
 そのために必要な代価がいるのなら、多分自分は払ってしまうだろうな、と少年は思う。それらを賭してももう一度きっと会いに行くと思う。いつか、彼が自分を探しに来てくれた時のように。そうだな、と頷いた青年は、きっとこの自分の少し楽観的な話を心の底からは信じていないかもしれない、と少年は知っていた。別に試すつもりではなかったのだが、話のついでに聞いてみる。
「ちなみに、俺が戻ってくるまで丹恒、どれくらい待てる?」
「――いくらでも」
 たとえどんなに時間がかかろうと、と声の後ろの言葉までが透けて見えるようだった。少年はその時だけ、自分が超能力者になったような気分になった。彼の言葉に嘘はないと分かっている。だから彼が、たとえその「いくらでも」の間に何度絶望し挫折しかけても、決してあきらめず自分を待ってくれると、少年は確信したのだ。その答えが嬉しくてたまらなかったから、少年はただその言葉に笑って、あんまり待たせないようにしなきゃなあ、と頭の片隅で考えた。
 近くにいれば手を伸ばさずにはいられなかったから、少年は自分の中にあるその暖かな気持ちを、自分たちの恋を、たぶん眩い光のようなものだと思っていた。
 光は何万光年先へも進む。何かに遮られない限り、真っすぐに光り続ける。だから、この宇宙でたとえ一度別れてしまったとしても、少年はまた彼を見つけて、今までと同じように愛せる。何の根拠もないのに、少年は当たり前のようにそう思っていた。

                *

 うたた寝の微睡から、ふと何かが額に触れたような感触があって、丹恒は静かに瞼を開いた。
 何度か瞬きを繰り返し、周囲に誰の気配もないのを確かめる。強いて言えば、いつのまにか股座に猫のようにキメラが一匹潜り込んで、丹恒の腿を枕に眠っているくらいか。どれだけの間眠っていたのかはわからないが、なんとなく、何かに答えなければ、と考えていたような気がする。もう何年も夢に見ていないのに、それをどこかで聞いたことがあるような気がして。続けて、ここに近づいてくる気配を二つ感じ取る。どうやら客人のようだ。
 それからしばらくして、静寂の中蓮池の水が不意に揺らぎ、波のように水面が騒いだ。風もないのに水面が騒ぐ理由に、この蓮池の中に住む魚はあまり影響がない。見ると不自然に空中に留まっている水滴が数粒。それらがひゅんっと不意にこちらに牙をむけ飛んでくると、落ち着いた表情のまま青年はその雫を自分の元へ届くまえに宙で霧散させた。弾けた水泡は蓮の花の上に落ち、花びらの上を甘露のように静かに滑る。
「コントロールは良くなった」
 音もなく忍び寄っていた小さな影は、そう言うとむうぅ、っとそのもちもちの頬をぷくぷくに膨らませ、じとりと青年を睨んできた。
「白露様。老君の御前ですよ」
「ふんっ!」
「白露様」
 青年は少女が機嫌を損ねてしまったと分かると、仕方がない、と広げていた玉兆から「《姫》に茶菓子を」と連絡を入れる。
『畏まりました。今お持ちいたします。お菓子は白露様にお持ちいただいたものでよろしいでしょうか』
「ああ」
 通信が一方的に途切れた。奥で控えているこの屋敷の従者が準備に取り掛かったのだろう。腰掛けていた套廊から立ち上がり、広げていた書物をそのままに、青年は歩き出した。その後を、言葉を掛けずともむすりとした顔を貼り付けたまま少女がててて、とついてくる。その後ろにはしずしずと足音も立てずについてくる女が一人。青年の視線に申し訳なさそうに眉を下げた。いつもの事だ、とゆっくりと瞬きをすると、彼女の視線は青年に近づく少女に戻っていった。
 小さな足音が近づいてきたかと思えば、「丹恒」と少女は青年――丹恒の手を取った。ころころと表情の変わる子供だった。先ほどまでは確かに怒っていたのに、もう忘れたかのような表情だ。
「のう、さっきのあれはどうやったんじゃ? わしの制御権を書き換えたのか?」
 それはどうやる、と続けて尋ねてくる。自分が興味を持ったものはすぐに手に入れたくなる子供特有の価値観はまだ大人しくならないようだった。
 既に彼女も再び卵から外に出て、殊俗の民からすれば既に成人と言えるだけの年数は過ごしているはずだ。だが、今代の彼女は数代ごとに起こる成長障害らしい。ここ数年は大した身長の伸びもなく子供の体形のままだ。繰り返す脱鱗の中で、時折持明族は通常通りに体が成長せず、長い間子供の姿のまま過ごすことがある。発育の遅れは持明族によくあることなのだ。
 この羅浮に収容されたいくつかの洞天に住む者達は、その大半が長命種と呼ばれる長い時を過ごす者達だった。持明族である彼女もまた、何事もなければ数百年は今世を生きる。外見年齢に時折思考が引っ張られることがあるようだが、今代の彼女はその典型だった。数代前の彼女と違い医療や薬剤研究を行っているわけでもないから、余計に子供に近く見える。
 ただ丹恒は、それを咎める気もなければ強制する気も一切なかった。彼女の人生は彼女のものであるべきだ。長い間彼女とはとぎれとぎれに師弟関係――持明族で言う所の親代わりとしてや、後見人として接してきているが、彼女に彼女の生き方をあれこれということはこれまで一度もなかった。彼女の決定にあまりにも丹恒が否定の一つしないから、ある時は自分の事をどうでもいいと思っている、と拗ねて数カ月会うのを拒否したこともあった。結局は彼女の方から折れてここへやってきたが、その時は何故かたまには外に出んか、と丹恒の方が怒られてしまった。
「いや、そんな難しい事はしていない。ただ、お前が飛ばしてきた水泡より練度の高い水を、針のように練って届くまでに飛ばして割っただけだ。水風船を割るように」
「ハァ? 一つも見えんかったぞ」
「あと百年もすれば見えなくとも分かるようにはなる」
 げぇ、と隠しもせずに顔に出し、少女――白露は舌を出して見せる。修行が嫌いなわけではないようだが、上達についての根気は当代の彼女にはまだない。そのうち何らかのきっかけでコツにも気付くだろうが、それまであと何年ほどかはわからなかった。龍脈を用いた治療法の方が皮肉なことに使い方を碌に学んでいないはずなのに上手いときている。当人の希望と才能が異なる方向へ向かうこともまた、よくあることだ。
「丹恒、今日のおやつはなんじゃ?」
「遠征から帰ってきた若い千岩軍の兵士が今朝方やってきた。これを龍女様にと。いつも言っているがこっそり手に入れた外の菓子をうちに届けさせるのはやめろ」
「しょうがないじゃろ! 大抵のものは健康に悪い~だとか言って取り上げられるんじゃ。……ふむ。つまり頼んでおったあれが来たのじゃな! お茶は鱗淵春がよいぞ」
「わかった。用意させよう。ところで白露」
「なんじゃ」
「今はまだ師匠と呼べと教えたはずだが」
 一拍おいて、白露はむう、っと融通の利かない人間を見るような少し呆れた表情になる。細かいのう、と白露が零した。
「丹恒も師匠も、ぬしを呼んでおることに変わりはないではないか」
「……それはそうだが、口は慣らしておけ。公私混同で龍師たちのいる場で俺の事を丹恒とお前が呼ぶたびに、老君の龍女教育はどうなっているんだという視線を向けられるんだ」
「それは師匠の立場の方が問題なのではないか? このなりで老君なんぞ若い衆はなんのこっちゃであろう。第一、引退して久しいというに仙舟人以上の時を過ごしておるなんぞ、傍から見れば扱いに困る存在じゃろうしなぁ。お、そうじゃ。今のうちに言っておくが、わしは今代は医者になる気はないぞ」
「……そうか。それはそれで構わない。好きにしろ。お前の生はお前のものだ」
 これまでも、最初の彼女のように医者になったこともあれば、同じ道を歩まず他のものになったこともある。持明族の中で彼女は少し特殊な経歴を持つが、もはやそのことを知る者は片手で足りるくらいになってしまった。彼女が持明族の輪廻に飛び込んでからというものの、彼女は他の持明族と同じく、ある一定のサイクルで脱鱗を繰り返している。彼女が目覚めてしばらくは親のように時折会いに行くが、自分が何者であるか、彼女が何者であるか等を教えていくのはいつも本格的な教育が始まってからだ。彼女は何回も丹恒が今どういった状態かを教えられ、そしてそれを聞くたびに「ハァ?」という顔をする。
「……そうは言うが、龍師の一部はまーたわしに啣薬の龍女を冠するべきじゃと会う度に医学書を持ち込んでくるのじゃが?」
「……言っておこう。誰だ」
「不要じゃ。先日件のじいさまは脱鱗なさった。一足遅かったのう。丹恒は覚えておるのではないか? ちぃーとばかし目がきゅっとした……あの……意地の悪いジジイじゃ。よく丹恒の育て方が悪いとわしの聞こえるところで愚痴っておったぞ」
「育て方に際しては良いも悪いも、未だ分からないことだらけだ。悪く見えたのであれば改めたいが、俺も脱鱗から卵が孵るまでに何年も空くと、その間に忘れてしまうこともある」
 丹恒がそう答えると、白露は何とも言い難い表情を浮かべていた。何かを言いかけて口ごもり、仕方がないとばかりに小さく息を吐く。
「《不完全な脱鱗を故意に起こす秘術》でも、結局欠陥はあるのじゃな。――師匠。ぬしは一体、何回わしを育てておるんじゃ? その度に、かつてのわしに似たようなことを言われておるのでは?」
 丹恒はその言葉に笑みだけで返した。頷きもしなかったが、彼女にはその通りだと分かっただろう。そう言われたのが何回目かを数えるのも忘れてしまうほど、気付けば彼女とは長い付き合いになっている。
 ところで、と丹恒は白露の手を引きながら彼女に尋ねた。
「今日は修行はないだろう。ここまで来るような用事はなんだ」
「うん? ああ。なに、話の流れで一つど~しても気になってのう。居ても立っても居られず、どうせお師匠は暇だろうしと馳せ参じたのじゃが」
「どうせくだらないことだろう」
「聞く前から決めつけるのはよくないとぬしが以前言っておったのじゃがの~」
「…………」
 だがこれまでにそうやって急にやってきたと思えば、どこどこの限定の菓子を買いだめするために買い物に付き合えだとか、勉強に嫌気がさしたためここで数日教師から逃げるだとか、話相手がいないからつまらないだとか、そんな理由ばかりだった。彼女がここに不意に訪れる理由は、殆どが他愛もない用事なのだ。どうせ今日もその延長かいずれかなのはわかりきっている。丹恒はただ黙って、ため息を一つだけ零した。
 応接室の扉を横に引いた瞬間、暗かった部屋に明かりが燈り、全自動で向かいの窓のカーテンが開きだす。庭の緑が部屋に色を差した。白露は慣れた様子で、どかっと近くのソファに倒れ込み、丁度今用意され持ち込まれた菓子に早速手を伸ばした。とんでもない色をした不思議な形状の菓子だった。香ってくる甘い匂いは化学物質をいくつも混ぜた人工的なものだ。丹恒も慣れた手つきで、彼女に言われた通りの茶の準備を始めた。
 応接室とはいうが、この静かな邸宅に本来の用途で準備された応接室は他にもある。子供用の玩具や小型のゲーム機、漫画や小説等がいくつも置かれたこの部屋は、代々対龍女専用の応接室となっていた。つまりは白露がこの邸宅を訪れる際に使っている子供部屋なのだ。定期的に家具や玩具を入れ替えているが、部屋の場所は長らく変えていない。白露もこの部屋は自分の物、という認識でいるため、時折、彼女の邸宅は別にあるというのに、勝手にここに訪れては部屋を自由に使っていることもある。
 代々の龍女教育はすでにある程度マニュアル化されており、時代に合わせて変化しているため細部は異なるものの、身に着ける教養についてはある程度定まっている。当代の龍女が政を嫌う際の対処ももちろんあるが、彼女が公務を行わない場合はどうしても丹恒が動かなければいけない場面もあった。
 丹恒はほぼ隔離されたこの庭と邸宅に引きこもっているのだが、立場が立場であるために、そうやって龍女の代わりにしゃしゃり出てくることを快く思わない者達と、丹恒の存在を重んじる者たちで度々騒動が起こるのもまた頭痛の種だ。年に数回しか公の場に顔を出さないと小言を言われ、かといってよく外に出るとこれまた立場を考えろと叱られる。どうしろというんだ、と文句を言ったところで、あなた様の好きになさいませ、で結局放り投げられるのだ。今代の龍女との付き合いはどう動くべきかについては、彼女が再び戻ってきた時からずっと考えている。
 今代の龍女「白露」は、かつて啣薬の龍女と呼ばれた初めの彼女と瓜二つで、だがその啣薬の龍女とは違い、あまり薬事にも医療にも興味があるわけではない。啣薬の龍女は過去にも何人も存在したため幾らかの伝説も古いアーカイブには残っているが、それらにも当代の彼女は一切興味を示さなかった。
 丹鼎司にいる以上、政の一知識として医学の勉強は軽く続けているものの、そこから自身の専門として専攻していくかどうかはまだ決めかねているようだ。むしろするつもりがないと宣言するくらいには心は離れている。
 じゃあ何をするつもりなんだ、と一度尋ねたことがある。彼女は「もうこのご時世であれば配信者もそう面白い職業ではないからの~。金に物を言わせバーチャル受肉は容易く出来るじゃろうが、羅浮の龍女が食事系配信者というのもこれはこれで話題になると思うしのう」と適当に返事をして、それきり自身の将来の話題はあまり口にしなかった。まあゆっくり考えろ、と丹恒も答えを急いでいるわけではないから、今のところは彼女の好きにさせている。そして、その彼女が不意に思い立って、気になることがあると何か妙な事を言い出すのは、何も今日に始まった事ではなかった。言ってみろ、と丹恒は白露の話を促す。
「実はのう、最近授業の一環で、羅浮内に多く済む者達の種族によって異なる嗜好や生態について調べておったんじゃ。持明族は子を成すことが出来ぬが、何故か恋愛はする。わしの従者も一人、丹士の元で修行を積んでおる仙舟人と度々逢引きしておるしの。じゃがなぁ」
「なんだ」
 人の恋路に余計な首を突っ込んだとこで馬にでも蹴られるのが落ちだろう。余計な詮索はやめておけ、と言いかけた丹恒に、白露は続けた。
「お師匠様は……ここ数百年どころか――もう何千年も、浮いた話の一つもたぬじゃろ? ざあっとアーカイブを見たが、師匠の婚姻遍歴はゼロのままじゃ。わしの使用人も、懇意にしていた者がいたなんて話や、夜遊びに回っているという話も聞かぬらしい。この顔で。この地位で。歳は食っておるが、がつがつした女子など引く手あまたじゃろう? 金はある。武力も申し分なく、硬派で慎重、おまけに博識じゃ。ある程度の政も出来、そして身内に対しては気遣える甘さもある。……不思議に思い、お師匠様の古い知り合いに尋ねたところ、なんと『龍女様のお師匠は一世一代の恋をしたの、だからその子以外とそういった関係になることは今後もないでしょうね』と答えてのう。それが誠か、俄かには信じられず、結局アドバイス通りに本人に聞きに来たのじゃ」
 数秒、無言のまま時が流れた。
 何を尋ねてくるかと思えば――と、丹恒は彼女に何を言うべきか迷い、結局先に息を零す。
「はあ……」
 存外に大きな声が出た。
「な~んじゃ。クソデカため息なんぞついて。ふむ。つまりは誠なのか? ……誠か!?」
 何をそんなに驚くことがあるんだ、と丹恒は視線だけで白露に尋ねた。彼女がこれまでの脱鱗の遍歴中、急に若い男を連れてきて婿にする、などと言い出したことなど、両手でも足りないくらいだ。婚姻を結んだだけで、普通の夫婦のように子が出来るわけではないのだが、卵に戻るまで夫婦仲睦まじく過ごす姿を見たことだってある。
「お前にも可能性があることだろう。何も不思議なことでもない。だが、……俺の話は誰から聞いた」
「ん? 符玄ばあばに決まっておるじゃろう? 昔のお師匠のことなど、もう今の羅浮では符玄ばあばか幽囚獄の獄卒くらいしか知らんではないか」
「……だろうな」
 今の凛とした機械的な声の物真似からしても、あの事を知っている者の当てとしても、他に当てはまる人物など彼女以外にはいない。白露はということは本当なのじゃなあ、と少し感心したような声で頷いた。
「そういえば、その話の流れで、お師匠はわしの名前をめんどくさいからとまーた数代前と同じにしたとついでに聞いたぞ。お師匠は博識じゃが時々雑じゃの~」
「……そうだな」
「自覚があるのが猶更悪いのう。成人したら改名するかもしれぬが、よいな?」
「好きにしろ」
「ところで、その一世一代の恋とやらの相手との話は何かないのか? 写真は? どのような者じゃ? お師匠はその者のどこを好きになったんじゃ? ヤることはやったのか? それとも片恋か? もしや片恋のまま何百琥珀世紀も想っておるのか? それはもはや一途を通り越して狂っておるぞ? いい加減前に進むべきではないのか? 子はおらぬとは思うが、養子という線もあるからのう。そういった者も取らぬままか? まさかわしがその最初の養子……!?」
「白露。少し静かにしろ」
「いーやーじゃ! こーいーばーなーしーてー!」
「…………」
 いつの間にか少し離れたところで、知っている者であればだれもが敬う幼い龍女様が、床でばたばたと手足を動かし抗議し、何か話を聞くまで絶対に動かないという意思を強く眸に宿している。丹恒はお茶を淹れ終ると、それを彼女に勧めることなく、まず自分の茶杯でさっさとくちびるを湿らせ、何も聞かなかったふりをして窓の外を眺めた。
「こーいーばーなー! しーてー!」
 なおも床でばたばたと暴れる白露の姿を見、申し訳なさそうに従者が手を前に組んでいる。それが十数秒続き、さすがに外の竹林から鳥たちが逃げ出し始めたのを見て、蓮池を眺めながら、丹恒は「……少し話したら帰れ」と床に転がって暴れる少女の小さな額を、米粒ほどの水泡でぴしゃりと軽く弾いた。
「…………確かに一世一代の恋だ」
 だって、この恋は未だ続いているのだから。

        §

 これは、一世一代の恋の話である。

 青年の名は丹恒といい、その青年が一世一代の恋をした相手は、自身の事を穹と名乗った。始めて彼らが星海の片隅で出逢った時、彼はこれまでのすべてを忘れ宇宙ステーションの一角の床に気を失って座り込んでおり、自分の名前くらいのことしか覚えていなかったのだ。
 丹恒は始め、得体の知れない彼の事を怪しんでいたものの、出逢ってすぐ邂逅した危機のこともあったのか、自分たちの他に天真爛漫な少女が共にいたからか、助けたその少年が体の内に星核を持っているという事実を知ってなお、宇宙ではこんな未知の存在との遭遇も、往々にしてよくあることだ、とすぐに彼の事を受け入れられた。
 そのうち彼とは親友と呼べるような関係となり、家族となり、そして形の曖昧な、すべてとなった。時々、彼らは朝も夜も知らず寝る間も惜しんではしゃいで過ごし、ある時は蜜月を迎えた恋人のように過ごし、ある時は兄弟として苦楽を共に分かち合い、そして仲間として信頼を深めた。
 丹恒にとっての彼は、まるで自分の半身のようなものだったし、同時に自分自身でもあった。自分の夢であった。彼の中に自分を住まわせることを良しとし、そしてまた自身の心の中に彼を住まわせることを良しとした。
 彼にとっての丹恒もまた、似たような存在だった。互いの一番大事なところをすべて委ねてもいいと思えるくらい互いのことを好いていたのだ。大切だった。だからこそ、もう同じ場所に、この先何があっても「二人目はない」と、その時から丹恒は分かっていた。
 丹恒と彼――穹は、星穹列車と呼ばれる、星海を往く開拓の加護を持つ列車で同じ時を過ごし、数々の星々を旅した。星海は時々彼等を歓迎し、そして時々は後ろから彼等を傷つけようとした。
 その列車に乗り込む者は「ナナシビト」と呼ばれ、数々の星々を星核の災いなどから救い道を切り拓いてきた者達だった。彼等もまたこれまで、そしてこれからのナナシビト達と同様に多くの星々を旅し、星海を渡り、時に困難に思える問題に直面してもなお、それに屈することなく運命を拓き、荒野に咲く一本目の花を、常闇に差し込む最初の光を、止まない雨に晴れ間を、それらを待ち渇望しながらも停滞するしかなかった者達の元へ届け続けた。
 大抵のトラブルや事件にあってきたから、投獄されることもしばしばあったし、理由もなく誰かに追いかけられ逃げ回ることになったり、悪人とレッテルを張られ冤罪被害を受けたり、時々は生死の境を彷徨うこともあった。だが、それでもなお、誰かを助けることを選び続けた。
 何故、名も知らぬ者達にそうやって手を差し伸べたのか? 答えはただ、彼らが「ナナシビト」だったからである。彼らは名もなき者達として、時々は花となり、光となり、風となった。名を持たぬ故に彼らは何にでもなれた。誰かにとっての災厄。誰かにとっての盟友。誰かにとっての邪魔者。誰かにとっての救世主。そんな風に。
 だが、その誰かの中で、彼等個人の名を覚えている者達はそう多くはない。歴史に名を残した彼らは、既にナナシビトではなくなっているからだ。そうやって、名を見つけた者達はどこかの停車駅で列車から降り、その地に足を付ける。
 一度生まれた羅浮を追い出されるように追放され星海へ飛び込んでから、丹恒はそれなりに長い間旅をした。その旅の途中で列車に誘われ身を寄せていたが、彼と出会う前まではいずれこの列車を出ていくことになるかもしれないと、漠然と考えていた。だが、そう思う事よりもこの場に居続けることの方をいつしか選ぶようになっていた。自身が帰る場所は、この星穹列車であるのだと。
 その旅の中で、彼との出会いは恐らく一番数奇な出会いであったと丹恒は思う。
 出逢った時、自分たちは互いに宇宙のみなしごで、星海を彷徨う迷子だった。列車以外に寄る辺も持たず、走り続けるあの列車を家とし、家族となった。そんな、似ているところで気を許し、異なる所で惹かれあった。

                §

「丹恒は俺がいなくなったらどーする?」と尋ねられた瞬間に手が止まった。
 時間にして大体五秒ほど。丹恒が本を捲る手を止めてしまったことに穹はもちろん気付いていて、ちゃんと話聞いてるな、と確かめるように続けて尋ねてくる。彼と会話をしたのは数十分前が最後で、それまでの会話にも今の話に繋がるような言葉は何一つなかった。一体何故そんなことを聞くんだ、と丹恒は怪訝な表情で穹を見つめる。いつものよくある奇妙な言動。
「……どこで何を聞きかじってきた」
「またそんなぁ~、俺が何かしらの悪影響を受けてるみたいな」
「違うのか?」
「全然。たださあ、気になっただけだって」
 穹は立ち上がると、丹恒の傍に寄ってきて、止まってしまっていたページをめくる手を本から引っ張り上げてしまう。そしてそのままさっと近くにあったペンをページの間に挟んで、丹恒の代わりに本を閉じてしまった。
「……なんだ」
「なんだって。良い子はもう寝る時間なので?」
「……ああ、……そう、……だな……?」
 夜にずっと起きていることもあるが、それがバレると車掌にはあれこれと小言を言われる。とはいえ部屋の中にまで踏み込んでくることはめったにしない。廊下を歩く時に鉢合わせないようにすればいい。既に列車は消灯時間を迎え、ラウンジの明かりは落とされてしまっている。この部屋から穹の部屋があるパーティ車両へ向かう途中、彼はその暗がりの中を歩いていくことになる。
「足元には気を付けろよ」
「何の話?」
「部屋に戻って寝るんじゃないのか」
「部屋って……俺の?」
「他にどこがある」
 時々部屋に辿り着く前にソファで力尽き眠っていることはあれど、今日は少なくともまだそこまで眠気を堪えているようには思えない。穹は数秒この噛みあわない会話に首を捻ったあと、察し悪ッ、と小さく呟いた。それから、「じゃあさくっとアプローチを変えるか」と閉じた本を丹恒から離し、机と丹恒の間に身体を割り込ませるようにして丹恒の膝に無理に腰掛けてきた。
「美少女の添い寝はいかが?」
「……まだキリのいい所まで読んでいない」
「それ一時間前も聞いたぞ。そしてキリのいい、ってのは次の本に行くことなのか?」
「それは夢中になっていたらつい」
「あと何回一緒に寝れるかなんてわかんないんだからさあ。そこのせんべい布団と俺んとこのふかふかベッドのどっちでもいいんだけど、俺は」
「…………わかった」
 数秒だけ考えた。穹の方はもうここから降りるつもりはなさそうだったし、頓挫してしまった読書も再開する気が失せてしまった。今日の所はこちらが折れよう。丹恒は穹の背と膝裏に腕を伸ばし、そのまま立ち上がるついでに彼を抱え上げた。「添い寝だけだな」と確かめるように問いかけ、穹がそこから何かを言い出す前に敷きっぱなしの布団の上に転がす。おわ、っとそれに驚く穹の声と同時に、部屋の明かりを落とした。暗がりの中でも布団の位置くらいは分かる。
 かけ布団を引っ張り浮かせると、う、という短い音と共に、ゴン、と小さな音がした。どうやら布団を引っ張り上げた時に転がった勢いでぶつけたらしい。その彼の上から布団をかぶせ、自分もまた横になる。布団の中に潜り込んですぐ、もぞもぞと位置取りをし、穹は当たり前のように丹恒に腕を回してきた。
「扱いが雑じゃないか?」
「気のせいだ。おやすみ」
「おや、――…………いや、ダメだ。目ェ冴えてきちゃった」
「…………」
 寝よう、と言い出したのは彼の方だというのに。ハア、と堪えようとしたため息の方が先に口を出てしまう。頭を少しだけぶつけた所為だろうか。丹恒の方はといえば、少しずつ布団の中で重なって、柔らかく肌に落ちてくる熱が心地よくて、彼とは逆に、すぐに眠れるくらいには体から力が抜けてきたというのに。
 胸の上に置かれた手のひらが、不意にすす、っと明らかな意図をもって動いた。服の上から腹筋の窪みをなぞるように指が動く。そのままあたりを付けて、指先が服の下の乳嘴を探り当ててくる。円を描くようにすりすりと擦られ、ぴく、っと無意識に体が身構える。
「穹、目が冴えてきたからといって人の体を弄るな」
「気のせい気のせい」
「…………おい」
 今度は服の端から手が中に滑り込んでくる。つつ、っと肌の腕を柔らかく撫でられ、くすぐったさに思わずぞわ、っと肌が粟立った。触れ方に明らかな他意がある。
「穹」
「丹恒に雑に投げられたので目が覚めました、責任を取るべきではないでしょうか」
「……ああしなくともこうしたんじゃないのか」
「ふふん、分かった? 準備済みで数時間転がってた俺の忍耐力を褒めてくれ」
「眠い……」
「何で!? さっきまで本読んでたじゃん!?」
 触れられた手は温かく、撫でられると心地よい。普段何の気なしに触れてくる時と違いそのつもりで触れてくるから性質が悪い。ぞくぞく、っと体の中で疼く熱をぐっと抑え込み、丹恒は自分を撫でる穹の手をそっと止めた。
「明日は用事がある」
「丹恒に?」
「お前にだ。昨日言っていただろう、明日ヘルタに戻り次第、数時間はミス・ヘルタに拘束されて模擬宇宙のアップデートに付き合うことになると。明日辛いのはお前の方だと思うが。……――それに、準備もない」
「準備? してあるって言ったじゃん」
「必要なものがない」
 答えた丹恒に、穹は無言のままドッ、と丹恒の背に頭突きをしてきた。ざりざりと背で彼の髪が額との間で擦れ音を立てる。
「ああいえばこういう、こういえばああいう! 本当に? それであとから後悔しないのか?」
「何をだ」
「もっと触っておけばよかったとかさ?」
「…………、――」
 まるでいずれは目の前からいなくなるのだから、とでもいうような。丹恒は思わず言葉を失くして、先ほどの彼の言葉を思い出した。「丹恒は俺がいなくなったらどうする?」。――どう。どう、と言われると。
「――いくらそんなことを今考えたところで、その時には既に触れられないんだろう。なら、後悔はきっとこの時だけで済むはずがない」
「お、おう……?」
「というわけでその時になって、この時触れていればよかったと何度もどうせ思い出す。お前に言われなくとも」
 体を反転させて穹の方を振り向く。自分から触れていたくせに、こうやって思いがけなく丹恒が自分に近づいてくると穹はいつも少しだけ驚いて数秒固まるのだ。曰く、「自分から行くのはいいけど丹恒からぐいぐい来られるとちょっと調子が狂う」らしい。丹恒は僅かに体を硬くした穹にそっと顔を近づけ、そのまま一度ゆっくりと口付けた。くちびるを離すと、呆気にとられたような顔が、すぐににやにやと口角を上げる。
「なんだ。ちゃんとヤるんだな?」
「…………しない」
「え?」
「今ので満足しておけ」
「……えー」
 足りるわけないだろ、とむす、っとしたその表情に苦笑して、丹恒はもう一度短く口付けた。今度はくちびるにではなく額に。瞼に、頬に、鼻筋に。擽ったい、と少し笑い出し、緊張が解けたところで腕を回した。少し強く。んえ、っと突然のことに穹はどういうことなのだと訳が分からないまま抱きしめられている。
「丹恒?」
「おやすみ」
「は? ……えっ、ちょっ、生殺し」
 何もできないように腕ごと抱き込んだから、身動きも取れずにちょっと、おい、とばたばたと軽く足が布団の中で暴れる。それも丹恒が返事をしないでいるとそのうち収まって、ぶつぶつと言っていた文句も何も聞こえなくなる。寝たのか、と思ったが、腕をとんとん、と緩めるように軽く腰を叩かれた。
「……今日はこのまま寝るよ」
「そうか」
「でも俺は知ってるんだからな。お前がわりとスケベだってこ――あだだだ」
 ぎゅう、と再び強く抱きしめると、しぬ、折れる、ギブ、っと何度も体を叩かれる。息を吐いて力を緩めると、穹も漸く今日の所は諦めることにしたのか、「……じゃあ寝るまで話して」とひそひそとまるで秘密を囁くように、声を顰めながら尋ねてきた。
「それくらいなら」
「寝かしつけるための小難しい話じゃないやつな」
「…………、じゃあ聞くが、何故さっきあんなことを聞いてきた」
「あんなこと?」
「もう忘れたのか。……お前が、俺がいなくなったらどうするだなどと聞いてきたんだが」
「ああそれ?」
「何をどうしたらそんな話をしようと思うんだ」
「んー……いや、……その。《何となく》? ふと思ったわけ。――ほら、俺たちさ、けっこう色々旅してきたけど、わりと危ない目にも合ってるし、俺ってば、実は一回死んでたりなんかしてさ」
「…………、」
 まあ、その時は大丈夫だったけど、と穹は軽く笑いながら言う。囁くように微かに笑う声が耳を優しく揺らす。そんなにひどい顔をしたつもりはなかったが、伸びてきた手のひらが、丹恒の頬を軽く撫でていった。ちゅ、っと短く口付けられる。
「――ホントのホントに、俺がいなくなっちゃったら、丹恒はどうするのかなって気になっただけ。……このまま旅を続けるのか、それは列車に乗ったままなのか、それとも一人でどこかに行くのか、別の所に留まるのか」
「何故俺の居場所が気になるんだ。その場合、お前は先に居なくなってるんだろう」
「んー……だってさ。もし俺がまた戻って来た時に、丹恒がどこにいるかわかんないと困るじゃん?」
「戻る、」
「うん? うん。ほら、宇宙は広いんだし、何があるかわかんないし。一度別れてもうこれっきり、なんて俺はヤダな~。記憶があってもなくても、また逢えたらいいよなーって」
「…………、そうだな」
「ちなみに、俺が戻ってくるまで丹恒、どれくらい待てる?」
「――いくらでも」
 どんなに時間がかかろうと。それ以外の答えを持ち合わせていない丹恒の答えに、穹はふ、っと笑って、千年探してくれてたもんな、と体に腕を回してくる。それからしばらく言葉はなかった。呼吸しか聞こえてこない、温かな体温の中、自分もうとうとと微睡みながら、丹恒はそのうち聞こえてくる静かな寝息にほっとして、先に夢まで走り出した彼の後を追いかけた。
 丹恒は彼が列車に乗り込んでくるまで、こんな風に誰かを傍に置いたまま眠りにつくことも、その誰かを抱きしめたまま眠りに落ちることも、ただの一度もしたことがなかった。持明族には親がいない。あの境遇ではなかったとしても、生んだ子に寄り添い眠るような、親の庇護など受けることはなかっただろう。
 だからこの行為が――ただ傍で眠る、たったそれだけのことがこんなにも心地よいことを今まで知る機会もなかったし、そして知ってしまった後からは、失うなんて事を考えられるわけもなかった。
 穹は何もなくとも時々勝手に布団に入り込んでくることがあった。丹恒がよく悪夢を見続けていた頃はただ上手く眠れているかが気になっていたのか、理由も言わずにいつの間にか潜り込んでくることもあった。理由をつけられるようになってからも、彼の態度はあまり変わらなかった。時々一人でいたいと言うと、彼はそれを汲んで部屋に訪れることなく朝を迎えていたし、数日、忘れた頃に、様子を窺うように眠る前まで理由もなく同じ部屋で過ごしたりもした。
 彼のその一連のやり取りはどこで学んできたものなのかは分からないのだが、言ってしまえば彼は距離の取り方が上手かった。そういった行為だって、無理矢理事をすすめればいいものを、自分との場合はいつも話を聞いてきたな、と丹恒は後になってからその時に漸く気付いた。
 いつの間にか自分たちは、そうすることが当然のように、互いの傍にいることを選んでいた、と丹恒は思う。遠く離れること、別れること、つまりはこの美しく、こころ踊る開拓の旅を終えること。いつか必ず訪れるその時のことを心の片隅から片時も忘れないまま、けれど、いつからか、確かに夢のような永遠を、その心の隅で静かに願っていた。丹恒にとっての「開拓」は彼だった。疑いようもなく。
 どれだけの夜を彼と過ごしたか、数えてみようとしたが、出来なかった。数えた数字が、そのただの数が、自分を救うのか、むしろ挫くのかが分からなかったから。
 あの時、時の流れはこの世界の何よりも早く、この世界の何よりも長く感じた。何かにつけて彼を目で追っていた。折った先で視線が合ったから、彼もまたそれは同じだったんだろう、と丹恒は思う。
 愛していた。愛している。どれだけ経っても変わらず、心の底から。いつか先に、彼の体温を忘れても、声を忘れても、顔を忘れても、自分の中から消えるはずのない彼と過ごしたすべての瞬間を、丹恒は愛した。
 叶わないかもしれない約束をしてもいいか、と最期に彼に聞かれた。いいぞ、と答えると、彼は「百万年、俺の事愛して待ってて」と、言った。冗談を言っているようには見えなかった。おどけた言葉で別れを誤魔化しているわけでもなかった。ただ本当に、どんなに時間がかかってももう一度逢えると言い聞かせるように彼は言った。「そんなにはかかんないかも。でも、保険でそれくらいって言わせておいてくれ。その時までにはきっと、また丹恒に会いにくるからさ」と。
 それに対して自分はなんと返事をしたのだったか、丹恒は自分の事なのにそれをよく思い出せない。
 別れの時だと言うのに、彼は最後まで涙一つ見せなかった。こんな時くらい泣けばいいものを、いつも通りの顔で彼はただ微笑んでいた。叶わないかも、と前置きをしたわりに、何故か自信に満ち溢れた表情で、「絶対にまた逢いに来るよ」と彼は言ったのだ。「だから、どこでもいいから迷子にならないようなとこにいてくれ」と。
 今になって思えば、それは彼が最期に吐いた優しい嘘だったのかもしれないが、彼の言葉を、その時の丹恒は何の根拠もなく、ただ信じられた。だから、待ってみることにした。どうせ、彼がいなくなった後、丹恒の旅(開拓)は一度足を止めることしか出来なかったから。

                *

 話しているうちに眠ってしまったのか、部屋には僅かな寝息が響くのみだった。くかー、っとどこか豪胆に何の警戒心もなく眠る少女は、自分からコイバナして、と強請った癖に、最後まで聞かず夢の中へ遊びに向かった。揺れる笹の葉のさらさらとした心地よい音が窓から柔らかな風と共に耳を擽る。
「――それで」と静かに口火を切った丹恒に、彼女についてきた女は静かに視線を伏せた。
「なんでしょうか」
「用事があったのはお前もだろう、『霊砂』。何か報告すべきようなことが? お前ひとりで来ても追い返しはしないんだが」
「ふふ。そうは申しましても、今の私は司鼎の立場を退いた立場ですので。老君に遊びに参りました、と言ってお取次ぎはしていただけないんです。ここの従者は融通が利きませんから」
「……すまない。面倒な話は避けろと言い聞かせてあるだけなんだ」
「心中はお察しいたします。お話というのは、次回の私の脱鱗のことでして」
「近いのか」
「個人的な診察と『フゲン』の診断結果に拠れば、概ね数か月以内かと」
「……そうか。白露の従者は?」
「後任は既に育っていますよ。司鼎の方も数十年間は問題なく働ける者を選出しておりますから、私が眠っている間いつぞやのように丹鼎司がめちゃくちゃになることはないでしょう。ただ、交渉が苦手な子です。龍師との兼ね合いがありますから、もしもの際はお口添えを頂きたく」
「分かった。それくらいならもう何度もやってきたからな」
「次の私も『霊砂』にするのですか? それとも『丹朱』でしょうか。概ね交互に付けていらっしゃるようなので次は丹朱でしょうね」
「…………」
「まあ、よいのです。私は既に老君の過ごした数十万年の、最初に出逢った『霊砂』ではないのは明らかなのですから。それでも、昔の面影がやはりあるのでしょうね? アーカイブに残っているデータを参照しましたが、まあ似ていること似ていること。何の面識もない仙舟人が親し気に声をかけてくる理由もよくわかります」
「他に頼みたいことは」
「しばらくの間邸宅を空けることになりますので、手入れをする人間を派遣していただきたく。機密文書も多くありますから、出来れば老君の息がかかった者がよろしいのです」
「俺が行ってもいいが……」
「ですが、お師匠様はお掃除は苦手でしょう? 加減を間違えて機器や古い貴重な書類を水浸しにされては困ります」
「………………」
「というわけで、頼みました。白露様が立派に龍女教育を終えられた頃には戻ってまいりますから、今度は司鼎教育をお願いいたしますね」
「お前も毎回、……司鼎になる必要はないと思うんだが」
「そうは言いましても――案外、私はこの立場を気に入っていますから。生まれた時から権威のある立場になることが決まっていると、自ずと学習意欲も上がると言うものです。世間を知らぬ子供には、あえて権力を誇示し、それを持たぬ者に振りかざしてみたいと思う青い所もありますから……。お師匠様はあまり興味がないかもしれないのですが」
「……そうか。なら、……以前のお前がした引継ぎの手順はもう調べてあるのか」
「ええ、もちろん。万全の準備をして脱鱗予定です。恐らく引継ぎが忙しく、この後から脱鱗前までゆっくりとお話をする機会はないと思いましたので。今世も大変お世話になりました、お師匠様」
「世話になったのはこちらもだ。過去のお前にも、何度も。俺はただ、長く記憶を持ちすぎているだけで長く生きているわけじゃない。畏まらないでくれ」
「それでも、卵から生まれてくるたびに白露様だけではなく、私にもあれこれと世話を焼いてくれるのは知っていますから。……ああそれと、私が不在の間、符玄様がしばらくぶりに受肉なさるそうです」
「は?」
「先日、脱鱗前に、そのための体を作るように言われまして。無事に初期設定も済みましたので近々お渡しする予定です」
「…………」
「前回の受肉から数百年は経っているそうですが、これは波乱の予感ですねえ」
 黙り込む丹恒に、霊砂はふふ、っと心底楽しそうに笑った。困ったことに、彼女は普段は表に出すことがないが、昔から多少の加虐性を持ち合わせている。特に可愛らしい少女に対しては軽い悪戯を繰り返すことがあった。恐らくは沁みついた本質なのだろう。
「そう言えば、お師匠様の恋のお話を久しぶりに聞きました。アーカイブに残っているあの可愛らしい方の事ですよね?」
「知っていたのか」
「符玄様から昔見せていただきましたよ。古い写真でしたが、とても可愛らしい方でした。お若いお師匠も大変可愛らしく……お師匠様の愛が遥か宇宙より深い事もその時に知りました。ですので、私は幼い頃反抗期らしい反抗期もなく育ったのですよ?」
「…………? それと何の関係があるんだ……」
「若気の至りですので……知る機会が一生ない事をお祈りしております」
 表情の読めない顔だった。車が付きました、と丹恒がさらに何かを尋ねる前に、部屋に従者の一人が報せに来る。霊砂はそっと白露を抱き上げると、「それでは然様なら、丹恒さん」と軽く会釈をして踵を返していった。別れを経験しすぎて感覚が鈍くなってしまっているんだろうか。恐らくは彼女と交わす最後の言葉の可能性もあるのに、丹恒はそれに「ああ、」と短く答えることしか出来なかった。
 一生分の喪失は、既に味わった。後にも先にも、あれほどまで辛く苦しい時はなかったな、と今になっては遠い日の事を思う。あの時の感覚や感情は長い年月を経てなお時々古傷のように疼く。痛まなくなっただけで傷のように痕は残っているのだ。深く。心に。
 丹恒は久しぶりにアーカイブでも閲覧するか、と人のいなくなった部屋を出、自分の書斎へと歩いた。既に外は陽が傾き始め、何万通りもの演算の末、向こう百年の景観を保つためのプログラミング通りの天候を洞天の空に反映させている。持明族は時折無意識に雨雲を呼ぶから、この辺りは比較的雨が少ない。窓を打つ雨の音に、丹恒は部屋の明かりを燈しながら、自室の椅子に腰かけ、今日の夜は久しぶりに長くなる、と深く、深く息を吐いた。

                §

 開拓の加護がこの体にあった時、丹恒の夜は長かった。その夜が短く感じるようになったのは、彼がいた時だけだった。今丹恒の夜はまた随分長くなっている。
 開拓の加護――「開拓」においてリスクとなりうる身体の不調が、ある程度は軽減されるというものだ。極寒の地で、碌な防寒具がなくとも凍死することなく吹雪の中を歩けたり、逆も然り、何日もゆっくりと体を休め眠る時がない場合は、何時間起きていても体が眠気によって行動不能になったり、頭がぼうっとすることもなかった。開拓の旅の最中、無重力は親しい隣人で、自分たちはその付き合い方を知らぬままその祝福のような加護を享受していた。
 そのため、その加護を過信し、数日間寝ずに過ごすことも多々あり、研究のため、もしくは開拓の旅を続けている間中起きていると、それらが終わった数日後に起きていた間足りなかった睡眠を補うように何日も眠り続けてしまうことがあった。
 特に丹恒と穹は、その時列車に乗り込んでいたナナシビトの中でも、そうやって数日起き出してこない日を過ごすことが多かったように思う。丹恒はアーカイブの整理や研究、論文の執筆で、穹は方々からくる依頼をこなしていて、数日列車に帰らないことも多くあったのだ。朝食にどちらかがいない時、「アンタたち、いっつもウチに聞くんだから! ウチだって全員の予定を把握してるわけじゃないんですけど?」と、あの時列車に同乗していた少女に度々尋ねて怒られたことだってある。
 人というのは何日も眠らない日がくるとそのうち幻覚を見始める。情緒が不安定になり、希死念慮が頭から離れず、無気力に苛まれ、だが眠ることだけは出来ない――そんな日が続くと、心身ともに異常を来し始めるのだ。
 だが、開拓の途中数日眠り込んでしまった時ですら、目覚めがこんなに重苦しい時はなかった。丹恒はぼう、っと天井を眺めながら自分の身に何が起きたのかを思い出そうとした。だが思い出せなかった。目を覚ましたはずなのに、まだ頭の奥にべったりと泥濘がへばり付いているような感覚がある。指先一つすら動かすのが億劫だった。
 丹恒はずんとした頭の重さに顔をしかめ、頭の中身だけに重力の負荷がかかりすぎているのではないか、と泥のような眠りから目覚めてふと思った。「目が覚めましたか?」と尋ねてくる声に答えることも出来ず。
 落ち着く土の少し甘い匂いが部屋の中に薄く焚かれた香から香ってくる。知らない部屋、知らない天井。手の甲にある妙な違和感。天蓋が半分開いた寝台の上は広く、だが自分以外の誰もいない。腕に引っ付いて眠る少年の姿はなく、皺のよったシーツの海を手探りで探しても見つけられる温度は何もなかった。その手に何かが巻かれている。何だろうこれは、と漸く重い手を目前まで動かした。前髪を避ける時に、額にも同じ感覚があると気付く。
「…………、包帯」
「本来なら傷も残さずにさっさと直してしまうのですが、今回ばかりは事情がありそうも行かなかったんです。説教を聞いた後に傷を直すそうなので、ご安心を」
「…………」
 咽喉で張り付いて、砂のように掠れた声に答える凛とした声があった。カタン、コトン、と僅かな物音の後、寝転んだままの丹恒の口元に何かがそっと差し出される。吸い飲みだ。喉のひりつくような渇きが奥に張り付いていたので、丹恒は傾けられるままに水を口に含む。ひび割れた砂漠に水が沁み込むように、じゅわ、っと水が体の感覚を走った。
「庭に倒れていたそうです。恐らくはその際、転倒して額を切ったのでしょう。思いの外頭というのは血が出ますから、丹恒さんを見つけた時には、既に結構な量の血が流れておりまして。飲月君殺人事件の勃発かと一時その場が騒然と……」
「……霊砂か」
「あら。ぼんやりとしていても私の名くらいはお分かりになるようですね。衰弱してはいますが、栄養剤も打っていますし、元々丈夫なのですから起きるくらいでは出来るでしょう。支えが必要であれば言ってください。まずその煩い腹の虫を一度どうにかなさるべきかと」
 言われて、丹恒は漸く別の音に気付いた。先ほどからずっと、ぐうぐうぎゅるぎゅると腹鳴が鳴り響いているのだ。この空っぽの身体の空洞を使って音を響かせるようにして。霊砂は次に、丹恒の手にあった違和感の正体――点滴の管を固定していた包帯やテープをてきぱきと外し、針を抜いていった。点滴の中身がなくなり、血が管を逆流し始めていたのだ。
「驚きました。原因を調べていく中で軽度の栄養失調になっているなどと思いもしませんでしたから。倒れてから丸一日ほどですが、一応応急処置として栄養剤の点滴を打っていました。危篤な状態――というわけではなかったのですが、体が勝手に脱鱗の準備を始めてしまう可能性もありましたから」
「……そうか」
「まあ……思えば、誰も気付かなかった、というのもおかしな話なのですが。――あなたが羅浮に来て数日。行き場がないと言うので将軍の別邸に案内されて数日。大体、七日程度でしょうか? その間、誰もあなたが何かを口にするところを見たことがなかったのですよ。ここの食事はどうしているのかと問い尋ねると、あまりに静かなので日中は外に出ているものだと思われていたそうです」
「…………、」
「まあ、私の話は話半分に。先ほどお伝えしたので、叱咤の嵐はあの方にお任せします。――話を一旦戻しますと、貴方は数日、何も食べず、夜も恐らく碌に眠ることもせず、その結果驚くべき速度で衰弱し、ついぞ庭で倒れてしまった、ということらしいのです。現場検証や周囲の聞き込みから概ねそんなところだろうと龍女様も同じ見解のご様子。何故、そんなことをしたのか――お尋ねするのは、今はやめておきましょう」
「…………、ああ」
「そして、これは残念なお話なのですが――何故これほどまでに発見が遅くなったのかというと、あなたについている開拓の加護が、列車を降りてなおまだ続いているからのようなのです。とはいえ、加護に頼りきりというのはよくありませんね。持明族は殊俗の民よりずっと丈夫な体の作りとはいえ、食べない、飲まない、寝ないでは体を壊すどころか、このままではうっかり卵に戻ってしまう所でしたよ。反省は『今は』なさらなくとも結構ですが、しばらくの間あなたに護衛という名の監視が付くことは御承知おきいただければ」
「…………、すまない。わかった」
 ほんの少しの塩と卵のふんわりとした甘い匂いが漂ってくる。霊砂は少し温くなった粥を丹恒に差し出すと、「食べられそうなら追加でいくつかあっさりとしたものを用意させます」と、一度席を立った。外にいた誰かを呼び止め、霊砂はいくつかの薬草や丹薬を持ってくるように指示を出す。その足音に混ざってとととと、と小さな足音が次第に近づいてきた。
「――丹恒! 目覚めたと聞いたが…………――この阿呆!」
「……白露。……すまない、手間をかけた」
「即刻医館に入院じゃ、痴れ者め。数カ月は出してやらぬからな」
「ああ……今霊砂から聞いた。つまり監視というのは医士や丹士の事か」
「人手がないから雲騎軍兵士も借りるぞ。……全く――心の病などではないとぬしが言い張ったのじゃぞ」
 それを仕方がなく真に受けてみれば、と――白露は、ぶつくさいいながら丹恒の傍に寄ってきた。手にした粥が入った椀を見、それに口を付けているのを確かめつつ、容体に変化がないか顔や首筋、手首を取り、がば、っと着物の合わせを開いて体を確認し始めた。すべて異常がないと分かった後、漸く胸を撫でおろす。
「ぬしほどの者が倒れるなどと滅多にないことじゃ。一体誰に襲撃されたものかと……」
「血も出てましたからね」
「飲まず食わず眠らずでああなったなど聞いてあきれる。穹もぬしのそんな姿を見たくは――……いや、あやつであればゲラゲラと笑っておったかもしれぬな」
「…………、」
 その言葉で丹恒は思わず想像してしまった。彼が――穹が、あの丹恒でもそんな理由で倒れるんだな、と笑う姿を。パムに何か作ってもらわないと、と続けて自分の手を取り彼がこの腕を引っ張っていく。おっと、っとそこに小さな手が伸びてきた。
「これ、急に食器を落とすでな……――ああ、……いや、今のはわしが悪かった。すまん、丹恒。――霊砂、鎮静剤と眠剤を持ってきてくれ。これは――しばらくは無理じゃな。ぬしは強い。精神的に負荷はあれど、何とか持ちこたえると思っておったが……。……今回は事が事じゃしのう」
「医館ではなく、私の邸宅へ運びましょうか。これまで通り将軍のお屋敷の離れを使い続けるとしても、生活を疎かにするようではまた同じことを繰り返す可能性もありますから。私の邸宅は医館の奥まったところにあるので、乗り合いの星槎までは距離があります。もし丹恒さんが茫然自失でふらっと外に出てしまって、この羅浮で今丹恒さんの足取りを追えなくなるのは困るでしょう。丹鼎司の者にも周知しておくべきかと」
 彼女らの会話はもちろん丹恒にも聞こえていたが、それらの話の内容を何故か頭の中で上手く飲み込めなかった。自分についての話をしているというのは分かっているのに、頭ではそれが理解出来ないのだ。他にもあれこれと話し合い、二人はさっと今後の事を決めたようでお互いに頷き合った。
「うむ。そうじゃな。ぬしさえよければ、そうするのがよいじゃろう。……ぬしの邸宅には広い庭もある。それに、医館で周囲を囲まれておるからな。脱走しても誰かしらが見つけるじゃろう。すまぬが、丹恒にしばらく部屋を貸してやってくれ」
「わかりました。ではそのようにいたしましょう。それから……夢獏を連れてきます」
「うむ。それがよいじゃろうな。もともと丹恒は夢見が悪いと穹から以前聞いておる。悪夢も恐らく見ることになるじゃろうな。……そういえば針は――もう取ったのか。まあよい。運ぶときに点滴を持ったままでは邪魔じゃからのう。管で栄養を補給するより自主的に取らせた方がよいに決まっておるしの」
「鎮静剤はともかく、眠剤は強めのものがいいでしょうか」
「そうじゃな。この様子では数日は食事も碌にとれぬじゃろうから、ついでに丹薬を。まずはよく眠らせること。……さて、そこに控えておる雲騎の兵士。理由をつけて、将軍を呼んでくれぬか。こやつを医館まで運んでもらう。あの者も丹恒の容態を気にしておったからのう。この様子を見るのが状況把握には最適じゃろう」
「ええ。恐らく近くにいらっしゃいますから、そうお伝えしてきます」
「頼んだ。――丹恒。よく聞け」
 白露の声と視線がこちらへ向く。視線を向けた丹恒に、白露は一つも怯まず、ただ真っすぐに視線を返した。
「…………、」
「ぬしは今、恐らく深い喪失の中におるのじゃろう。ぬしにとっては、この世のありとあらゆる艱難辛苦をかき集めてもなお勝る苦しみであろう。それにただじっと耐えろ、とは言わぬ。じゃが、主に今渡せる特攻薬はこの啣薬の龍女でも持ち合わせぬのじゃ。強いて言うなら《時》だけじゃな。気が紛れるようなことがあれば何でも言うがよい。悲しみは反芻して、苦しみとようく溶かし合い、身体にしっかりと馴染ませねばいかん扱いの難しい毒じゃ。長期戦じゃの。……まともに話せるようになれば、あやつの思い出話にいくらでも付き合ってやる。ともかく、今日の所は赤子よりよく眠れ。よいな? ぬしの主治医はこの時よりわしじゃ。じゃから、主治医であるわしの言うことだけはよく聞くこと」
 落としかけた食器はそのまま下げられ、口の中のほのかな甘さは、すぐに胃の奥から不意にせり上がってきた辛酸にとってかわった。おえ、っと嘔吐をしてすぐに周囲がわたわたとざわつき、ちり、っと腕に少し痛みが走ったかと思えば、視界が大きくぐらりと揺れた。夢の中に戻りたくはなかったのに、そうやってしばらく、丹恒はほぼ薬で無理に眠らされることとなった。
 丹恒が酷く体調を崩した理由を、その時周囲にいた誰もが知っていたが、しばらく話題に出すこともしなかった。彼が考えに考え抜いてこの羅浮へ身を寄せるという選択をしたその原因は、とある少年との別れ――すなわち、彼の「開拓」が、彼の目の前から消えてしまったからだと、その「ある少年」の事を知っていた、誰もが分かっていたから。
 列車を降り、ナナシビトの丹恒からただの丹恒になった彼は、その当然くると分かっていた別れを、初めはちゃんと受け入れていた。はた目から見ても、普段と変わったところは何もなかったのだ。だが、日に日に彼の受けた喪失は彼の中で大きくなり、心に空いた穴は肥大するばかりで、ついぞ悪夢を見ずとも彼を孤独の中に突き落とし、ただでさえ半分にかけたような心を、さらに蝕んでしまった。
 長命種にとって短命種との別れは特段珍しい事でもない。短命種と一時でも交わった彼らはその時の一番の辛さを理解していて、だからなのか、丹恒に過度な干渉はしてこなかった。
 寝ても覚めても頭が碌に働かない。今がいつなのか、何時ごろなのか、ここへきてどれだけの時間が経ったのか、その何もかもすべてを頭の片隅では覚えられても、何も考えられなかった。そのうち、不思議なものでそんな生活を一カ月ほど続けているうちに、ふと何もせずとも流れてくる涙が何故か止まった。
 次に、少し重い身体を動かしてみる気になった。外へ出たい、というと、数人の兵士と、それから霊砂が少し離れて後をついてきた。初めは霊砂の邸宅の庭先、そして医館の中、医者市場と歩く範囲を広げ、食欲も元に戻って、日がな一日本を読んだり、落ちた体力や筋力を元に戻すために鍛錬を再びはじめ、薬も減った頃、漸くもう入院の必要はないだろう、と白露に告げられた。
 景元将軍から再び屋敷の離れを一棟借り、様子を見に来る彼の従者が持ってくる食事で大方の時間を知り、しばらくは穏やかに時を過ごした。それでも、一人で過ごす夜は長く、数日眠れない日を過ごしては、何日も続けて眠る不規則な生活を続けた。
 開拓の加護が残っている理由はわからなかった。だが、それが唯一今残っている彼との目に見える繋がりのようで、いつその加護が消えてしまうのかを知るのが怖かった。この広い宇宙でひとり迷子になってしまったような心地だった。この羅浮から追い出されるように宇宙に飛び出した時とは違う。今感じているのが、「本当の孤独」なのだと丹恒は知った。
 数カ月、丹恒はほぼ一人で離れでの時間を過ごした。持ち込まれた本は日に日に増え、取り寄せた研究書類や禁書類を読み漁るうち、ふと、時折思い出す穹との出来事が、少しずつ記憶を離れ始めていることに丹恒は気付いてしまった。
 どれだけ引き留めようとしても、砂のように零れていく。手元に残ったものはそう多くはなかったが、ないわけではなかった。勝手に撮影された写真や動画を見ては、忘れていた声を思い出す。でももう彼がどんな体温だったのかは思い出すことが出来なくなっていた。自分よりも少し高い、温かい手のひら。触れた肌のふわふわとした感覚も。
「――…………」
 彼との約束を、自分はこのまま守れるのだろうか? 丹恒はふと疑問に思った。最後に交わした約束は、百万年彼を愛し続け、待っていること。そんなこと起こり得るはずもないと心のどこかで嘲笑する自分と、彼の言葉を心から信じる自分がいて、今はまだ彼の言葉を信じる自分の方が勝っている。だが、持明族である丹恒も仙舟人ほど長い時を生きることは出来ない。ましてや、脱鱗すれば一切の記憶を失い、あたらしい生を生きていくことになる。
 ――それは、果たして彼との約束を守ることになるのだろうか?
 忘れてしまう。彼との出会いを。彼の声を。彼の笑顔も、彼の言葉も仕草も、おどけた表情も、どこか遠くを見る少し儚げな一瞬も。何かに立ち向かう表情も、決意も、依頼に呆れた冷たい面も、無条件に甘えてくる仕草も、どこか抜けた様子も、可笑しな奇行の数々も。
 忘れてしまう。触れた時の体温がどれだけ温かいものだったか。髪の柔らかさや、肌の滑らかさ、握った手の指が少しだけ硬いこと、得体の知れないものを前に怯えていたこと、依頼に奔走して何日も顔を見せなかったと思えば、いつの間にか戻ってきて、力尽きてソファで眠っていた時の事。
 忘れてしまう。二人でなのかのいう無茶に付き合い一日中遊び倒したこと。掃除の手間を省こうとして列車を水浸しにしてしまい余計な掃除をする羽目になったこと。くだらない事、他愛のない事、それらすべて当たり前のように過ごした日常も、これまでそのすべてを覚えていることなんて出来なかったのに。
 忘れて、しまう。ここでこうして過ごしている間にも、記憶は砂のように手のひらの隙間から零れ、流れ落ちていく。どうしよう。どうしようか。どうしたらいいのだろう。彼を自分の記憶の中に繋ぎとめておかなければ。忘れないようにしなければ。自分が、自分のまま彼を待ち続けなければ。百万年生きる方法なんて、今から探して見つかるものだろうか?
 波のように記憶が押し寄せる。その波が引いてしまうと、記憶が遠ざかっていくような気がしてどうしようもなくなった。届かない所までそれらが流れて行ってしまう前に、何とかしなければならないと思った。
 丹恒の頭の中は俄かに騒がしくなった。言葉という言葉で溢れ、昼夜を問わず書物や研究材料、論文に没頭し、夜な夜なそっと丹鼎司の金書庫へ盗みに入り、いくらかの禁書を持ち帰り、龍師が保管している術の数々を書き留めた記録も同じようにそっと奪った。善悪の区別はついていたから、写しを取った後は元に戻したが、自分がなりふり構わず成し遂げようとしていることが、傍から見ればどれだけ愚かだったのか、その時の丹恒は分からなかった。
 願いはたった一つだけだった。
 彼に――穹に、もう一度逢いたい。たったそれだけ。

                §

 どこかから毎朝やってくる鳥が、葉の上を渡り歩き部屋の近くまで声を響かせる。
「…………――」
 ふと音のない夜の中からふっと集中を解き、長かった夜が明けたことに気付く。丹恒はもうすっかり、自分が覚悟を決めていることに気付いた。目の前には多くの書物や記録から導き出した推測と、今後の自分に必要な行動指標。用意するもの、それから成功率。
 元々この身に、不完全とはいえ施されたことのある処置だから、それを故意に起こすことは何も不可能なことではないと分かっていた。ありとあらゆる可能性、仮定とそれを裏付ける論証を、調べに調べた。自分以外の人間に影響はないか。これによって誰かが命を落としたり、不幸になることはないか。ない、と完全に言い切れる根拠はなかったが、少なくとも自分一人で完結できる話であると分かった以上、こうすることを選ばない選択肢はないように思えた。
 このまま誰にも何も言わず、ひっそりとこの計画を進めてもよかった。だが、己がやろうとしていることを後から知ることになった者達は多かれ少なかれ、真意を知るまでに少し時間がかかることになる。その間、恐らく自分は記憶の引継ぎが出来ないままだろう。無垢な時間を彼女らに見せることになったあと、大番狂わせで裏切ることになってしまう。
 このまま孤独の深淵に沈みかけた自分に、必死に手を伸ばそうとしてくれていた少女達の誠意に、丹恒はどうしても少しは同じ誠意で報いたかった。恐らく話を通すことで警戒をした彼女らに見守りという名の監視を増やされることは分かっていたが、何も今すぐに脱鱗を行えるわけではない。今少しの間増えたところで、いずれ時が経てばただ思いつめたが故の戯言だったと思うようになるだろう。これは長期戦なのだ。それも百万年に及ぶ。
 心の中は既に銀河へ思いを馳せ、今どこにいるのかもわからない彼に向かう。丹恒は、自分がこれほどまでに我儘な人間だということを今の今まで知らなかった。
 朝食を届けに来た従者に丹鼎司に向かうことを告げると、誰に会うつもりだったのか把握されていたようで、丹鼎司に着くや否や、雲騎軍の兵士や丹士たちがかわるがわる丹恒を医館の中まで案内し、待っていた霊砂に取り次いでくれた。丁度今から休憩だったのか、お茶を飲むつもりでいたらしい。白露は医館の中庭のテーブルに既についていた。
「丹恒、こっちじゃ」
 白露が先に気付いて手を振ってくる。顔を合わせたのは数日ぶりくらいのつもりだったが、前に会った時から三ケ月経っていたと言われ、丹恒はそんなに経っていたことにも驚いたし、それだけの間、ただ何も干渉せず、干渉させず、黙って神策府の奥の離れを貸してくれていた将軍に、まだ礼の一つ伝えないままだということだけをその会話で思い出した。帰ったら従者経由でも感謝くらいは伝えておかなければ。
「少し痩せたか」
 心配そうな表情を浮かべ、白露は丹恒に茶と茶菓子を差し出しながら尋ねてくる。丹恒をこの場所に案内してくれたのは霊砂だったから、彼女もまた心が落ち着く香でも焚きますね、と香炉に火を入れ戻ってくる。丹恒が倒れていた時に処置に駆けつけ、入院中もあれこれと気を遣い、世話を焼いてくれたことへの感謝を彼女にもまだ伝えていないということも、続けて丹恒は思い出した。何もかも後手に回ってしまっている。
 用意された茶器は三人分。菓子はそれよりもいくらか多い。丹恒はその菓子を白露と霊砂に渡し、自分は茶杯だけを手に取った。
「あら、よろしいのですか? 名店のお菓子ですよ?」
「ふたりで食べてくれ」
「まあよい。本人がいらぬと申すんじゃ、わしらで分けよう、霊砂。……――で、今日は診察に来たのか。必要ならばここで診るが」
「いや、それはいい。特に今の所不調はない。……それと、二人とも心配をかけた。世話を焼いてくれて感謝する」
「それは構いませんが……」
「では睡眠薬でも貰いに来たのか?」
 将軍に渡してあったものはもらっていなかったのか、と白露は尋ねてくる。食事と共に時々渡されていた匂い袋と薬は、恐らくこの二人からのものだと丹恒は気付いていた。霊砂が用意した香炉から、あの匂い袋と同じ香りがする。薬があって漸く普段からも少しは眠れるようになったが、開拓の加護に頼る生活を続けているせいで、幸いと言っていいのか睡眠薬はあまり減っていない。
 白露も霊砂も、淡々とした丹恒の様子を注視している。自分の様子が彼女たちと最後に顔を合わせた三カ月前、どういった状態だったかを丹恒はもちろん覚えている。彼女らが今も自分を気遣っていることも。
 受け入れることは簡単だった。そういうものだ、と。元よりずっと前から覚悟はしていたし、そのための準備もしていた。でも、失ってしまった後の事は、失ってからでないと分からなかった。気付けなかった。
 ふと気づくと、自分の隣に彼が――穹がいない事に、どうしても耐えられなくなった。自分の体に大きな穴がぽっかりと開いてしまって、その空虚がどうやっても埋まらないまま、ずっと寒いのだ。彼を探し歩いたあの千年の孤独よりも、ずっと寒い。今もだ。
「あれから少しは落ち着いたようじゃが……」
「ああ。あの時よりはかなり」
「ふむ……では薬の処方も少し変えるべきじゃな。用意をさせるから、帰りにもっていくのじゃぞ」
 彼女らはそっと二人だけで視線を交わし、まだこちらにもう少し踏み込んでいいのかを判断し損ねているようだった。いいえ、とばかりに霊砂が僅かに首を振る。それを見て、白露が一度だけ頷く。
 記憶がふとした瞬間押し寄せてくるから、目の前で流れていくその記憶より自分が少し進んでしまったことをこの数カ月嫌でも理解した。白露の言うように自分に効く薬は時間だけで、不思議なもので、あれだけ思い出せば思い出すだけ血が噴き出すような苦しみも、そのうち痛みに心が慣れてしまったかのように鈍くなってしまった。二人が穹の話題を出しても、きっと自分は静かにその話に耳を傾けられる。
 自分が何故あれほどまでに打ちのめされていたのかを、丹恒はもう俯瞰して見れるようになっていた。彼が『ここにはいるが、どこにいるかはわからない』――オンパロスで経験したあの時とは違い、彼に対しての確信が今は何もなかった。ただ一つ分かっているのは、今彼が、自分が探してもどうしても見つけられるようなところにはいない、ということだけ。
 彼の何を愛していたのだろう、と何度も自分に問いかけた。逢えなくとも彼のことを強く信じられたならこの別れもまた違った形で受け止められたのかもしれない。愛していたのは彼の肉体なのだろうか。いや、彼がきっとどんな姿に形を変えてもこの気持ちが変わることはない。愛していたのは彼の魂なのだろうか。きっと、それらを含めた彼が彼として過ごしていたあのすべてを、自分は愛していた。だから、それが今は欠けてしまった気がして、きっと悲しかったのだろう。
 願いは、たった一つだけ。
 部屋に籠っていたその数か月の間、丹恒は何度も考えた。最後の叶わないかもしれない彼との約束を、叶えるにはどうしたらいいのだろうと。自分に出来ることは限られている。でも、彼のために、自分のために、この約束を反故にはしないともう決めた。丹恒って頑固だよな、と彼の言葉がふと頭を過る。丹恒の言葉を待っていた白露も霊砂も、次の丹恒の言葉を聞いて呆気にとられたようにぽかんと目を見開いた。
「不完全な脱鱗を故意に起こしたいんだが」
 一瞬の間のあと、彼女らは互いに一度顔を見合わせ、聞いたこともないような重苦しいため息を吐き、そこから数時間にわたって、要約すると馬鹿な真似はやめろ、というようなことを丹恒に説いた。その様子を丹鼎司の丹士や医士たちが遠巻きに見物をし、そろそろ退勤時間だ今のうちに帰ろう、と終わりの見えない説教が続いている間に、ほとんどがそそくさと帰って行ってしまうまで。
「ぬしは思い切りが良すぎる」と白露は言い、「これ以上同じことを言うようであれば将軍にまた監視をつけていただきますよ」と霊砂は彼女に続けて言った。彼女らは丹恒が穹と最期に交わした約束の事を知らない。叶わないかもしれないその願いのために、己のすべてを賭しても丹恒が何を選ぶかなど、きっと想像もしなかっただろう。
 持明族の脱鱗は前の自分の記憶を伴わない。通常はそうだ。だが、元より丹恒は、自身の脱鱗前の、所謂前世である丹楓の記憶を、不完全な脱鱗によりほんのわずかに有していた。覚えのない前世の罪。それらを灌ぐことも出来ずに、ただ銀河を彷徨うことになった原因。ただ、それらをもってしても自身は自身であり、丹楓ではなく「丹恒」である、と己を位置づけた。あの日からずっと、自分は「丹恒」以外の何者でもない。
 記憶の事だけじゃない。次の自分がまた彼の事を好きになるかなんて、その時の丹恒には何一つわからなかった。確かなものは何もなかった。それに、そうやって次の自分を繰り返していくうちに、彼が知っている自分はもうどこにもいなくなってしまう。面影だけを残して、彼との間にあった出来事すべてを忘れて、消えてしまう。長い約束を、このままでは守れない。約束をしたのに、護れない。
 ただもう一度彼に会いたいだけ。本当に、願いはそれ以外になかった。反対されるだろう、というのは重々承知していたので、丹恒は一度そうやって彼女らに話を通したことで筋は通した――と、思うことにした。
 丹恒は自分がナナシビトを辞めたはずなのに、未だナナシビトのような心地で、自分の我を静かに通した。
 そして、丹恒がそれを実際に行動に移すまで、そこから約五十年ほどの月日が掛かった。
 仙舟人からすれば少し長い瞬き程度、持明族からすれば少しだけ長い時間だ。その五十年、将軍の屋敷の離れを出、縁あって借りた家に、丹恒は鍛錬で外に出る以外はほとんど引きこもっていた。その五十年のうちに、誰かの前に姿を見せることが極端に減っていたから、しばらく顔を見せなくともすぐには気付かれなかった。何を研究しているのかもずっと秘密にしていた。学んでいた生物学をもう一度研究していると言えば、専門家の少ないこの場では誰も深く尋ねてくることはなかったのだ。
 そして、気付かれた頃には既に卵である。
 次の名前も丹恒としてくれ、と遺書を残し、卵の殻を破って出てきた丹恒が、数年経ってから、自身の記憶にあまり齟齬がないことを確信し、何食わぬ顔で「……成功したな」と話した時、やられた、と白露と霊砂は頭を抱えた。
 生まれ直して最初の数年は、学習能力の問題か、記憶はあっても頭の中でそれが整理できない。だから丹恒は、最初の実験の際、自分のために記録を残した。彼との間にあった、ありとあらゆる記憶の記録を。砂の一粒すら零れ落ちてしまわないように、何一つ思い出せなくなるその時まで、書き記し、データとして書き起こし、それらを決して消えないように処置をするのに五十年費やした。たとえ失敗しても、約束を護ろうとしていたことだけ、ずっと後からでもいい、彼に知っていてほしくて。
 記録の中の過去の自分が書いた、「すまない」という文字を見る度に、丹恒は安堵した。その言葉が意味するところを、自分がまだ覚えていることに。そうして、「ただもう一度彼に会いたい」たったそれだけのために、丹恒は何百年もかけて灌いだ罪とは別の罪を背負い続けたのだ。
 丹恒が不完全な脱鱗を繰り返すたび、周囲の持明族たちもまた脱鱗をし卵に戻る。仙舟人の何人かは魔陰に落ち、次第に顔見知りは減ってゆき、そのうちかつての知り合いの面影すらも覚束なくなった。「丹恒」の記憶を有し続けてはいても、数回の脱鱗を繰り返していくうちに、忘れていくことも増えていくためだ。
 だが、その所為だろうか、長い年月を経て精神が摩耗し、魔陰の身に落ちる――などということもなく、そして幸い、この世界に無数に溢れている有象無象について、学ぶ機会を放棄しなかったため、丹恒はただ静かに、様々なことを学びながら彼を待ち続けることになった。何年経ってもあの日彼を見失ってから、自分が迷子のような感覚が片時も抜けないまま。

                *

 そうして、丹恒の周囲の環境はゆっくりと変わっていった。
 持明族は何らかの事故等により転生が叶わなかった者たちもおり、個体数が日に日に減少しているものの、飲月君だけはある時からずっと変わらずにその座に鎮座し続けている。長く生きすぎると日々が単調になっていくものだが、幸い丹恒はそれなりに知識欲があり、それらを学び続けているうちは、そういった精神の摩耗を感じる暇もなかった。
 羅浮における龍尊は、ある時二人になって以降そのまま、三百年ほどの間隔をあけつつも二人体制だ。途中から執政をするくらいなら研究をしていたいと象徴的な立ち位置になってから、可能な限り表舞台からは姿を消し、博識であるがために時折助言をしたり、時々行われる公的な催しに顔を出すこともなかった。龍女である白露の転生者がその政を厭えば代行をすることもあった。
 高貴な身分というわけではなかったが、周りが勝手にその場所に丹恒を置いてしまったから、周囲の顔ぶれもあまり変わらず、いつしか友人と呼べる者も、代々のもう一人の龍尊と、同じく持明族である司鼎の女くらいのものになっていた。彼女たちはどの代も自分を親、或いは兄のように慕ってくれたが、丹恒にずっと帰りを待っている人がいると知ると、時折持っていた恋慕を仕舞い、以降は家族として傍にいることを選んでくれた。
 龍女である白露の転生者は、何代かは医士としての道を選び、また何代かはそれとは関係のない生を送った。丹恒が何度も同じ記憶を有し、丹恒として再び生まれ続ける度に、彼女らの名前は前の代の名前を一文字のこしてかわり続け、ある時から自分が知っている彼女らの名前の中で一番馴染みのあるものをつけ続けることになった。
 彼女らの名前をアーカイブに記録するたびに、静かに笑う女が一人いる。
『次の彼女の名前は、あの子の言う通り丹朱にするつもり?』
「…………、符玄将軍。数百年ぶりに受肉すると聞いたが、何故また急に……」
 持っている端末をハッキングして勝手にスピーカーを用い、話しかけてくるとは思わず、丹恒は暗がりの中でまたか、と静かに息を吐いた。聞こえてくる声は少し機械音を帯びているが鮮明で、スピーカーの向こうには人がいるとしか思えない。だが、この会話の向こうには「人」がいるわけではない。
 かつてこの羅浮には、玉兆と呼ばれるクリスタルコンピューターが広く普及していた。それらは見た目はただの宝石だが、驚くべきことに刻まれた篆刻により様々な除法処理を可能としていた。
 そして、かつての太卜司で長を務めていた少女が一人いた。彼女は類まれなる才能の持ち主で、常に冷静沈着、そして見識が広く、額に埋め込んだ第三の目と言える法眼と、演算装置である窮観を用いて、この仙舟の航路を占い、物事の吉兆を予見していた才女だ。その才女は仙舟人であり、長い時を生きる長命種であった。だがそれらの長命種について回る魔陰の身の所為で、自らの精神が摩耗し魔陰の身の兆候が酷くなる前に自分の運命を定めた者でもあった。
 彼女が選んだのは、膨大な知識や演算を行う量子・生物コンピューターだった。人一人の脳には到底おさまりきらない数多の情報を亜空間に神経システムとして繋げ、精緻な情報チャンネルを作成、そこに、無数の知恵と知識を怒涛の水脈のようにまとめて注ぎ込む。そういう過程を経て作られた量子コンピューター。
 彼女は彼女自身の頭脳がこれからの仙舟の指標となると確信していた。周囲の反対を押し切り、自信の自我を量子の世界に投げ込み、行こう膨張し続ける宇宙と同様、膨張し続ける情報の海の防人として、仙舟人の生活になくてはならない存在になっている。『太極万物統理(たいきょくばんぶつとうり)』、通称フゲン・システム――ただし符玄本人は、頑なにこの名称を使用しようとしない。情緒に欠けるらしい――は、今や羅浮だけではなく仙舟全体の基本的なインフラ設備だ。
 魔陰の身に落ちる前に自身の人格を全て量子コンピューター内に移し、そのまま当時の玉兆の統括制御AIとなった符玄は、丹恒のこの数十万年の出来事を知る唯一の存在となってしまった。今やありとあらゆる家電やコンピュータ、電化製品にもフゲン・システムを基盤とするプログラムが搭載されているせいで、システム側からの逆ハッキングが可能で、要するに、彼女にはすべてが筒抜けなのである。それこそただの電気ポットが彼女の一存で盗聴器になったり、ある時は故意に漏電させ簡易爆弾になったりすることもあるのだ。
 彼女は神策将軍と呼ばれた景元将軍の後を継ぎ、羅浮の次代の将軍となった。それらの歴史の全容を知る者も、もはや彼女にとっては通常腹を割って話せるような者が丹恒くらいしかいなくなってしまった。そのため、時折呼び出され、昔話に花を咲かせつつ、彼女の美玉牌の相手をさせられるのだ。すべての記憶や記録は、今や量子の宇宙に身を投じた彼女の管理下にあり、丹恒がかつて所持していたアーカイブもまた、劣化や紛失を防ぐため彼女のその宇宙と同じく広がり続ける広大な海に一旦預けてある。
「……一世一代の恋をしたと弟子に吹き込んだと聞いたが」
『あら? 一字一句その通りでしょう。間違ったことは言っていないはずよ。仙舟人でも途方に暮れて生きることに絶望するような長い期間、たった一人のことを想い続け、執念のように記憶を持ち、ここを離れず、彼を待ち続け、今もなお想い焦がれる。ほら、心拍数が普段より上がっているわ。これまでのバイタルサインの平均数値を見るに、恐らくおまえの場合は、彼の事を考える時だけそうなるのでしょ。人はそれを、恋煩いだなどというじゃないの。……一世一代の恋をした、その言葉に何も間違いはないじゃない』
 少しずれている気もするが、丹恒は彼女に何も言い返せずに黙り込んだ。量子コンピューターとなってしまっても、この少女は今の羅浮では最長老、もはや民草の生活の一部にはなってしまいその存在の偉大さを忘れ去られてはいるが、この宇宙でも天才クラブを抜き、現存する智者の筆頭だ。知識量だけなら、その天才クラブすらも今は凌駕しているかもしれない。それはそうと、と丹恒は話題をすぐに変えることにする。
「久方ぶりに受肉をする理由は?」
『ああ。それはたまたまよ。近々、毎年恒例の祭りがあるでしょう? 久しぶりに歩いて回りたかっただけよ。人というのは不思議なもので、ただの量子コンピューターより、人の形をしたものに親近感を抱くものなの。最近各司で不穏な動きがあるの。たまには現場に顔を出して気を引き締めないと』
「それだけが理由ではないんじゃないのか。真意は」
 尋ねた丹恒に数秒、符玄は黙った。
『――今はまだ、おまえにそれを言う時ではないわ。ああ、住居は既に用意してある。おまえの生活の妨げにはならないはずよ。それから――』
「他にも何か」
『――……いえ、これは不確定情報だから、今伝える必要はないわね。時が来ればいうわ』
「…………?」
 ああ、おまえのここしばらくの占いは総括すると凶よ、と最後に不穏なことを言い、勝手に使われていた機器の制御権が戻される。丹恒は静寂の中ゆっくりと体を起こし、もう一度は眠れないまま、広げた書物に再び視線を落とした。

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