田原藩で流しそうめんした話
「いやあ、流しそうめん僕も参加したかったなあ」
「僕もですよ」
画家の谷文晁と水戸藩士の立原杏所が、文晁の画塾、|写山楼《しゃざんろう》にて膳を囲んでいた。二人は師弟関係にあたり、登の師匠と知友でもあった。
「結局どうなったんだっけ? 乾坤一擲の流しそうめん勝負」
酒を水のように干しながら文晁が尋ねた。
「一回目はお二人とも外したそうです。うちの娘曰く、結構掬うのは難しいらしくて。二回目は巣鴨様が、三回目は殿様が成功させたと聞きました」
ここで家老たちが止めに入った。続けさせようとする友信派と引き上げようとする康直派でしばらく揉めた挙げ句、気が付くと供の者同士で流し器の横に並んでいたという。
「で、そのままそうめんの第二弾、第三弾が流れてきて、とりあえず皆で掬ったり啜ったりしているうちに、何が何だかわからなくなっていったとか」
「平和だなあ」
文晁は腹を抱えて笑った。杏所もお茶を啜りながらほのぼのと笑う。
「流し器はまだ取り壊してないらしいですし、引き取るなら今のうちですよ、文晁先生」
「いいねえ、写山楼でも流しそうめん大会開催しよっかな。そしたら崋山くんも椿山くんも来れるしね。ん? 何、誰か来たの? 通して通して〜」
文晁の弟子が恐縮しながら連れてきたのは春沙だった。登こと崋山の弟子にして、杏所の娘である。
「父上、大変よ、水戸藩に一大事発生よ」
「わざわざこっち来てまで言うほどのことなのか?」
杏所は湯呑みを置き、不安げに眉をひそめた。頷いた春沙が、笑いを堪えきれないといったように口元を覆った。
「うちの殿様が――水戸斉昭公が、田原藩に倣って流しそうめん大会を開催する心づもりなんですって!」
たっぷり三拍置いて、杏所は後ろ向きにひっくり返った。父親を揺すり起こす春沙を眺めながら、文晁は盃片手に独りごちる。
「あ〜あ、こりゃ流し器は水戸藩に接収されちゃうな。渡辺くんが設計図持ってるはずだし、それ借りて自前で作っちゃおうかな?」
さて、肝心の催しを通した藩士たちの結束力の強化だが、多少は進展したものの、残念ながら劇的と呼べるほどの効果はなかった。
藩士たちを班に振り分ける時、身分の関係でどうしても同輩の者たちと組み分けることになってしまったのも一因だ。
しかし友信と康直の当人同士の間には少し変化が生まれたようである。時たま互いに交わされる儀礼的な贈り物に、少しだけ相手のことを思いやった色がつくようになった。どれほど時間を要するかは未知数だが、ここから雪解けに繋がってほしい。
そういった近況を知らせてよこした登の便りを、重郎兵衛は自慢げに定平に見せびらかした。
「見ろ、俺の言った通りだったろ。やっぱり登のやることは正しいんだ」
「わかりました、降参です」
俺のところにも同じ文届いてるのにな、と定平は思ったが黙っておいた。
「やほー! 鴨を仕留めたからお裾分けに来たよー。お、重郎兵衛さんも一緒だったか」
つづらを担いだ春山がのしのしと村上家に入ってきた。まだ温かい鴨を台所に預けて、春山も一緒にあぐらをかく。
「ところで来年は国元でも流しそうめんするんだってね」
「らしいですね。登と一緒に食べられないのが残念ですよ」
「俺がいるじゃないですか」
「何言ってんだお前」
「君たちほんと仲良いよねー。叔父と甥っ子っていうか、親子か兄弟みたい」
からからと笑いながら春山が言った言葉に、定平は胸を張った。
「俺は叔父上と、渡辺様と椿さんのご関係みたいになりたいんです。互いに信頼しきって、何もかも預けてしまえるような」
「椿さん?」
医者の春山が詳しくないのも無理はない。
「椿忠太さんのことですよ。登の一番弟子なんです」
「重郎兵衛さんは絵を描かないのによく知ってるねぇ」
「伊達に登の右腕やってませんから」
今度は重郎兵衛が得意げな表情をした。上気した頬で定平が割り込んだ。
「叔父上、あなたと心底通ずる相手は、渡辺様ばかりじゃないですよ。田原にはこの俺もいるってこと、忘れないでくださいね」
「わかってるよ。定平、お前は自慢の甥だ」
「えへへ」
自分から振っておいて、定平は顔をくしゃくしゃにして照れ笑いした。
「やっぱりほんと仲が良いなあ。あーあ、なんだか鳳山くんの顔が懐かしいや」
「春山先生と鳳山先生はお親しいのですか?」
「うん、そーだよー。こないだ二人で飲んでた時なんかねぇ、途中から長英くんと三英さんが入ってきてさぁ」
くだらない会話の背後から、鴨鍋のかぐわしい匂いが漂ってきた。
「お疲れ様でございました」
久しぶりに休暇を取った登を、たかがねぎらってくれた。登はのびのびと足を伸ばして座り、流しそうめん大会の手応えを語った。
「皆の反応を見る限り、なかなかの好感触だったよ。来年は国元でも開催することになったんだ。何より殿も巣鴨様もご参加できたことが本当によかった」
「それはようございましたね」
「お前の閃きのお陰だ。ありがとう」
たかはぱちぱちと目を瞬いた後、控えめに微笑んだ。
「ちちうえ、あそぼうよー」
「父上はお疲れなのよ、わがまま言わないでお勉強なさい」
立を可津が引きずっていった。諧は兄と姉についていくか少し迷った様子を見せて、結局たかの膝にまつわりついた。
「ただいま戻りましたー。兄上、いいお知らせがありますよ!」
勤めから帰宅した五郎が、刀を提げたまま駆け込んできた。
「なんだ五郎、刀くらい外したらどうだ」
「えっへっへー、じゃじゃーん!」
五郎が庭に面する障子を開け放つ。下男の利助が運び込んでいるのは、件のそうめん流し器だった。
「殿に掛け合って、一つ賜ってきたんです。これでうちでも流しそうめんできますよ!」
「えええっ、うちの狭い庭に」
登は思わず庭へ降りた。たかがおっとりと首を傾げる。
「これから寒くなるのに、使う機会あるかしら」
「じゃあにゅうめん流しましょう!」
「そういう問題かなあ。本当にお前というやつは、予想もつかないことをやってのけるよ」
困った声を出しつつも、登の顔は笑っていた。親バカならぬ兄バカなのである。
「五郎、戻ったのですね。まあ、刀も外さないままで忙しない……」
しずしずと現れた栄は、庭の流し器を見て真顔で立ち尽くした。
「ああ母上、これは五郎が殿に賜ったもので、お邪魔かもしれませんが今度納屋を掃除しますし、それまで少しだけご辛抱いただけましたら」
登が慌てて言い訳する。にこにこする五郎と流し器を交互に見ていくうち、栄の目尻が緩んだ。
「殿様に賜ったのなら、蔑ろにはできませんね」
栄は振り返ると、後ろに連れていた梅に言った。
「お梅、今日の夕ご飯の仕度は?」
「まだでございます」
「ちょうどよかった。お金を渡しますから、そうめんを買ってきてちょうだい」
「かしこまりました」
「私も参ります」
たかは腰を上げた。寂しそうな諧を五郎が抱き上げる。
「ちちうえ、楽しそうなことしてる! なにそれー!」
「こらっ立、お勉強の途中でしょ! って何それ?」
隣室から立と可津が飛び出してきた。立の身体を抱き止めながら、登は声をあげて笑った。
玄関を出たたかが仰いだ江戸の空を、雁が飛んでいた。猛暑は終わり、季節は着実に秋に向かっている。平穏無事な渡辺家の庭に、笑い声がこだましている。
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