田原藩で流しそうめんした話
「いきますよー、よいしょ!」
威勢のいいかけ声とともに傾けられたたらいから、ざんぶと水が流れ落ちてきた。竹筒の中を一緒に流れてくるそうめんを、左右から箸が素早く掬い取る。
「よしっ取れた!」
「いいな、俺は空振りだ」
わあわあと賑やかに言い交わす藩士たちの声が、上屋敷の庭のそこかしこでさざめいた。
流しそうめん大会の当日である。身分を考慮して数名ずつの班に振り分けられた藩士たちが、流し器の左右に並んで箸を構えている。その姿はさながら魚を狙う翡翠だった。
「次流していいっすかー?」
「おう武四郎、頼む!」
そうめんの流れ落ちたたらいを空のものに入れ替えて、金子武四郎は器具の裏側に回った。別の藩士がたらいを覗き込み、別の桶から手掴みでそうめんと氷を移し入れた。武四郎は六尺の高身長を活かして、足場要らずでたらいを構える。
「いきますよー、そーれ!」
水の流れる音とともに歓声があがる。庭のあちこちで繰り広げられるそんな光景を、屋敷の中から穏やかに見守っている者たちがいた。
「最初はどうなることかと思いましたが、思っていたより雰囲気はよろしゅうございますね」
「ええ、子ども騙しかと思いきや案外しっかりした企画で何より」
村松と川澄がひそひそ言い交わしている。ささやかな毒混じりの会話に、鈴木がじろりと冷ややかな目を向けた。
「お二人とも。御前でお言葉が過ぎますぞ」
聞こえなかったかそのふりをしているのか、康直はゆるやかに扇を使いながら、細い目を更に細めて庭を見下ろしていた。
「皆楽しそうで何よりだのう、鳳山」
「左様でございますわね」
うきうきした様子の友信に、涼やかに絽を着こなした伊藤鳳山が卒なく返事をした。鳳山は田原藩の藩校、成章館の文学師範を務める儒者である。友信の傍らには長英と三英、それに鳳山が控えていた。
周囲を藩家老で固めた康直と、学者に囲まれた友信。二人は隣同士に座っているのだが、まっすぐ前を見つめており、決して目線が合わない。
康直と友信の席の間を屏風で仕切ってはどうか、という川澄の案を跳ね除けたのは登である。
「殿と巣鴨様が連れ立って、藩士たちの様子をご覧になっていただくのも趣旨の一環でございます。お二人の断絶を煽るような真似をして如何なさいますか」
そういうわけで二者の間は何物にも遮られていないのだが、これでは仕切りがあってもなくても変わらない、とその場にいる全員が思っていた。
「ところで登はどこに行った?」
「そういえば渡辺の姿が見えぬが」
あろうことか、主君二人の声がかぶった。屋敷内の空気がぴりつく。
「すぐに呼びつけましょう」
「わたくしが探して参りますわ。こう見えて足腰には自信がありますの。師範とはいえ、上座でふんぞりかえっているばかりじゃなくってよ」
鈴木が手を打って近習を呼ぼうとした時、鳳山がすくりと立ち上がって庭へ降りた。女と見紛う端麗な容貌に、不敵な笑みを湛えている。家老たちのこめかみに一瞬血管が浮いた。
「それがしも参りましょう」
村松が意気込んで後を追いかけていった。三英が小さくため息をつく一方で、長英はにやにやと笑っていた。
屋敷といえどたかだか一万二千石、さして広い庭ではない。間もなく二人は競い合って戻ってきた。
「なんだ、渡辺がおらぬではないか」
肩透かしを食って康直が目を丸くした。鳳山と村松は顔を見合わせて、村松の方が口を開いた。
「それがその……殿と巣鴨様に、こちらまでおいでになってほしい、と申しておりました」
「はあっ?」
温厚な川澄が大声をあげた。ぴゅうと口笛をかましたのは長英である。
「渡辺さん、梃子でも動かぬ、という目をしておりましたわ。仕方ありません。どうぞお足元にお気をつけてお越しくださいませ」
言うが早いか、鳳山は友信の草履を揃えて手を差し出した。
「まあ登が言うなら何か理由あってのことだろう。どれ、家中の視察がてら参るとするか」
友信は鳳山の手を取ると、身軽に草履をつっかけた。俺たちも行きましょう、と長英と三英が席を立つ。
「お待ちください伊藤先生、斯様に無礼な真似は家老といえど看過できませぬ」
鈴木が厳めしい表情で身を乗り出した。鳳山が露骨に顔を顰めた時、友信が顔を上げて、殊更に明るい声で言った。
「上様はどうなさいます? こちらでお待ちになりますか?」
しん、と空気が静まり返る。村松が今にも泡を吹きそうな顔をしていた。川澄の顔が静かに白くなり、鈴木の目つきが一層険しくなる。まあ、と鳳山が目を丸くして口元に手を当てた。長英はそ知らぬ顔をして三英の歩行を助けていた。
家老たちの顔色を見、友信のにこやかな顔を見返し、康直は扇を畳んで帯に挟み込んだ。
「巣鴨様が行かれるのに、一人座って待っているわけには参りませぬな」
ばさりと上衣を翻して康直は立ち上がる。慌てて川澄と鈴木が道を空けた。平伏する家老たちの前で、村松に手を借りながら康直が草履を履く。
「ではせっかくですから、共に参りましょう」
「左様ですな。どちらかが先になるのも後になるのも、都合が悪うござるゆえ」
「はっはっは、これは然り」
友信と康直は互いに相手の出方をはかりつつ、それぞれに鳳山と村松を付き従えて足を進めた。後ろから長英と三英、川澄と鈴木、それに控えていた近習たちがぞろぞろとついていく。
大行列のお通りに何事かと振り返った藩士たちが、仰天しては地べたに伏せる。身分の軽重問わず藩士たちを薙ぎ倒しながら、友信と康直は庭を奥へ奥へと進んでいく。
やがて二人の目に、誰も使っていない一台のそうめん流し器と、その前で平伏している登の姿が映った。
「お待ちしておりました」
額を擦り付けるようにして登が言った。その隣に、同じように平伏している藩士がいる。
「おや、そこもとは確か、先年の行列に加わっておった……」
康直の声に、彼はぱっと顔を上げた。嬉しそうに輝かせた顔は、まだ少年と呼んでいいほどうら若い。
「覚えていただき光栄にございます! 渡辺登が弟、渡辺五郎と申します」
「あ、こら五郎! 良いと言われるまで顔を上げちゃ駄目だって言ったろう」
兄に注意されて五郎は舌を出している。実に二十三歳差の兄弟であった。
「渡辺どの、これは一体どういうわけですかな」
鈴木が人混みを掻き分けてきて、傲然と登に尋ねた。
「どうもこうも、鈴木どのはおかしいとは思わなかったのですか」
「口を慎まれよ」
砂を払って登は立ち上がった。上背は鈴木よりも登の方が勝る。
「そもそもこの催しは殿のご発案によって、涼を楽しむため開かれたものでございます。我々藩士一同は無論のこと、殿と巣鴨様ご自身に涼を感じていただくことこそ肝要。されば一刻も早く庭へお招きすべきところを、屋敷の内に閉じ込めておくとは、不届千万を働いているのはあなた方の方ではござらんか」
「馬鹿げたことを。殿が藩士どもの間へ混じるなど言語道断にござる」
吐き捨てた鈴木に、登はすっと目を細めた。
「それは私も重々承知、なればこそ、この場をご用意した次第にございます。こちらのそうめん流し器は、まだ誰も使用しておりませぬ」
登は背後の竹の器具を手で指した。五郎がたたっと駆け寄り、器具の後ろで両腕を広げた。
「殿と巣鴨様には、今からこちらの流し器を用いて、実際に流しそうめんを楽しんでいただきます」
さしもの鈴木も唖然として口が利けなかった。呆れたり感心したりしている供の者たちの中で、真っ先に友信が声をあげた。
「面白そうだ! 藩士たちが楽しそうにしている様子を見て、わしもやってみたいと思っておったのだ」
すたすたと進み出て、友信はそうめん流し器をしげしげと観察した。
「ほー、よくこんな珍奇な器具を作ったのう」
「田原の大工は優秀にございます。殿も近くでご覧になっては如何ですか?」
何でもないことのように登が言った。いきりたちかけた周囲を康直が制し、ゆっくりと進み出る。
「渡辺の考えてくれた催しだ、体験するのも悪くない」
「恐れ多いことにございます」
登は丁重に頭を下げた。
「ではそれぞれお席についてください。こちらがお箸と、めんつゆの器になります」
登と五郎から用具を手渡され、主君二人は流しを挟んで向かい合った。目を見合わせた二人の間に、静かな火花が散る。
「巣鴨様、頑張ってくださーい!」
長英が声を張り上げた。横で三英と鳳山が拳を握って応援している。友信は箸を持ったまま手を振って声援に応えた。
「むむ……殿! 殿なら大丈夫でございます!」
「いつも通りにやればいいんですからねー」
「お心を平らかに保ちなさいませ」
村松や川澄、鈴木も負けじと声を張る。康直は箸を持ち替えて、軽く肩を鳴らした。
二人の準備が整ったのを見すまして、登はたらいを持ち上げた。中でそうめんが揺れている。果たしてこの麺はどちらの口に入ることになるのか。
「では、参ります!」
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