田原藩で流しそうめんした話

「お勤めで何かございましたか?」
 帰宅した夫の浮かない顔色を、たかは目ざとく見てとった。
「うん、具体的に何があったというわけではないんだけどね」
 妻に刀を預けながら、渡辺|登《のぼり》はため息をつく。着替えを手伝われている間に、悩みの種を語って聞かせた。
「殿と巣鴨様のご関係が、どうも思わしくないんだよ」
 その一言で、たかはあらましを察した。前藩主の実弟であるにもかかわらず藩主になれず、隠居格に甘んじている巣鴨様こと三宅友信。友信の代わりに姫路藩からやってきて、田原の新藩主に収まった三宅康直。これでお互いに腹蔵ない方がどうかしている。
 登は友信と康直のどちらにも側近く侍る立場だった。だからこそ二人の主君の心境が手に取るようにわかる。きっと複雑な胸の内を垣間見て、気を揉んでいるのだろう。
「ご本人同士がお顔を合わせることは滅多にないから、表立って何か起きる心配は今のところいらないんだが、問題は家臣たちでね」
 康直の周囲を固めている藩家老たちと、友信に与していた若い藩士たちは、当然ながら破壊的に対立していた。
「私も心情としては巣鴨様に同情したいところなんだが、殿の側用人を経由して家老になってしまった以上そうもいかない。なんとか二者の間を取り持つ方法があればいいんだが」
 楽な格好に着替えてあぐらをかきながら、再び登はため息をついた。
 たかも一緒になって首を捻った。夫がこれほど仔細に仕事の話を打ち明けるのは珍しい。相当頭を痛めているのだろう。力になってやりたかった。
「父上、お帰りなさいませ」
 父親の帰宅を聞きつけた子どもたちが、三人並んで顔を見せた。
「ちちうえ〜、あそぼう!」
「よしよし、今日は何をするんだ」
 登は長男の立に手を引かれて庭に降りた。大人しい質の次男、諧も珍しく後をついていく。
「おや、何やら立派なものができているじゃないか」
 家庭菜園の傍らに土を固めて作った小山が鎮座している。そういえば昼過ぎに息子たちが泥だらけになって帰ってきたな、とたかは思い出した。一丁前に小言を言いながら二人の手足を濯いでやっていた長女の可津は、たかの横で肩をすくめている。
 小山は立の肩ほど、諧の目線ほどの高さもある。そして滑らかに整えられた表面には、峰を作るように細い溝が掘ってあった。父をすぐ隣に立たせて、立は得意げに小山のてっぺんを指さす。
「こっちから水を流すんだよ。そしたら川ができるんだ! 流す量や勢いで、お山の削れ具合が変わるんだよ」
 水が流れ落ちて小さな池を作っている部分に、諧がしゃがんでいた。泥だまりを指先でつつく諧に、また手を洗ってあげなきゃ、と可津が呟く。
「なるほどなぁ、面白い。よく考えたな」
 登は裾が汚れるのも構わずしゃがみ込み、しげしげと小山を観察している。立と諧は顔を見合わせてはにかんだ。
 楽しげな夫と子どもたちの姿を眺めていて、たかの頭にぴんと閃くものがあった。
「ご家中で、何か催しなどなさってはいかがですか」
 振り向いた登ははたはたと瞬きして、何の話か飲み込んだようだった。
「催し……催しかぁ」
「お互いに思うところあるのは仕方ありません。それでも皆さま揃って楽しい時間を過ごせば、きっと少しは気持ちもほぐれますわ」
 顎をさする夫に、たかは畳みかけた。
「なるほど、悪くない案だね。しかし何をしたものかな」
 出し抜けに隣室の襖がするすると開いた。
「おたかさん、良いことを思い付かれましたね」
「聞いていたのですか、母上」
 隣室には登の母である栄が端然と正座していた。膝の上に繕い物が置かれている。慌てて姿勢を正す登に、栄は淡々と言った。
「それより催しの案ですけれど。この時節ですから、涼を楽しめるようなものがよろしいのではありませんか」
 一糸の乱れなく衣服を着こなし、汗一つ額に浮かべていない義母だが、どうやら彼女でも暑いと感じてはいるらしい、とたかは密かに思った。
「母上のおっしゃる通りですね。涼むといえばやはり水。打ち水、氷室の氷、はて……」
「坊ちゃん、お水をお持ちしましたよ」
 下女の梅が小さなたらいを運んできた。わあい、とはしゃぐ立たちの姿に、可津はやれやれと大人ぶったため息をついた。
「ああ、大事なお水が……。お梅、あんまり立と諧を甘やかさないでちょうだいね」
「そうおっしゃいましても、お嬢様……」
 姉の小言に構わず、立は小山の頂点でたらいを傾けた。ざぶざぶと勢いよく流れて、下流で渦を巻いている水に諧が楽しげに手を浸す。
「水を流す……」
 ふむ、と呟いて登は二、三度頷く。たかと栄は目を見合わせて、そっと微笑んだ。


 ぱちん、と会議中に突然扇が鳴ったので、田原藩の重臣たちは思わず主君の方を見上げた。
「本日の評定はこれまでとしよう」
 扇で口元を覆って、藩主たる康直が言った。は、と筆頭家老である鈴木弥太夫の喉から間の抜けた音が漏れる。
「まだ議題が残っておりますが」
 狐にも似た康直の眼が、つい、と動いて居並ぶ臣下を見据えた。その怜悧な面を汗が伝い落ちる。
「暑すぎる」
 田原藩邸上屋敷の、閉て切ってじめじめと蒸し暑い広間に、蝉の鳴く声が急にやかましく響き始めた。
 ああ……というような嘆声が、どこからともなく部屋に湧いて満ちた。皆、感じていることは同じだった。
「だからといって会議を取りやめるわけには」
「まあ休憩を挟むくらいはよろしいのではありませんか。ご覧なさい鈴木どの、皆すっかりへばっているようですぞ」
 顔を顰めた弥太夫の言葉を、藩家老の川澄又次郎がおっとりと遮った。
 誰かがあくびをこらえたり思わず伸びをしたりして、場に弛んだ空気が流れた。のたりのたりと気怠げに顔を扇ぎながら、康直はうんざりした声をあげる。
「こう暑うては士気も落ちる。なんぞ涼を求める方策はないものか、のう渡辺」
 一人の顔に視線が集中した。何故名指しされたのかわからず当惑する登に、康直はにやりと薄く笑ってみせた。
「そなた、最近巣鴨様の元で何やら小難しい本を集めておるだろう。その中に夏を快適に過ごす方法なぞ載っておらんのか」
 無茶言うなよ、と思うと同時に、是が非でもこの場を乗り切らねばまずい、という切迫感が登の背中を焼いた。自由な行動を許してやっているだけ、藩に還元できる証拠を示してみろと言っているのだ。だが下屋敷で集めているのは兵学や医学の本ばかりで、夏の暑さを凌ぐ役には立ちそうにない。
 冷や汗が噴き出すのを感じながら唇を舐めたその時、脳裏に家族との会話が蘇った。これだ、と心の中で膝を打つ。あの時から温めていた案を開示するのは、いっそ今であるべきだ。
 登は一つ咳払いして背筋を伸ばした。
「恐れながら申し上げます」
 冷めた目を向けていた重臣たちだけでなく、康直までもが意外そうに眉を上げた。
「ご家中で、涼を楽しむ催し物を開いては如何でしょうか」
 重要なことを付け加える。
「もちろん、巣鴨様もお呼びします」
 広間にじわりと動揺が広がる。康直が扇を鳴らしてその場を静めた。
「で、具体的には何をするのだ」
「はい」
 ここからが正念場だ。
「まず竹を用意します。縦半分に割って節をくりぬき、半円状の筒に致します。それを斜めに立てかけて、上から水を流すのです。氷なども用意すればより涼を感じられるかと思います」
「どんな名案かと思いきや、子どもの遊びではござらんか」
 鼻で笑った藩家老の村松五郎右衛門を、康直が扇で制した。
「確かに子どもじみているが、まあ雅といえば雅だの。それを題材に歌でも詠むのか」
「流すのは水だけではありません」
 登は語気を強めた。
「流れの上流から、少量ずつそうめんを流します。目の前に流れてきたそうめんは、各々の手にした箸で掬い取ります。そうめんを食べられるのは早い者勝ちです。いかに良い場所に陣取り、流れてきたそうめんに素早く反応するかが試されるのです。――名付けて、流しそうめんでございます」
 長い沈黙の後、場が一斉にざわついた。康直がぽかんと口を開く。普段は取り澄ましている康直だが、こういう表情をすると年相応に見える。
「また突拍子もないことを申すものだな」
 周囲の物見高い圧に負けず、登はあえて胸を張った。
「そうめんを流す竹を複数用意すれば、大勢の者が同時に楽しむこともできるでしょう。同じ飯をつつき合って過ごすことで、我ら田原藩士の団結を深める一助になれば、との思いにございます」
「ふむ、ふむ」
 康直は扇を口元に当てて考え込んだ。暑苦しく顔を顰めた村松が早速口を挟む。
「そんなお遊戯じみた催しで、本当に涼が求められるのでござるか」
「では村松どのには代案がおありでございますか」
 登がすかさず切り返すと、村松はぐっと言葉に詰まった。
「それがしは悪くないと思いますぞ。しかし場所や費用についてはどのようにお考えですかな」
 川澄が油断ならない笑顔で問う。
「場所は上屋敷の庭を考えておりまする、無論殿のご了承を得てのことにございますが。在所に詰めている者たちのために国元で開催するのも良いでしょう。費用は、まあ必要経費です。隠居料を捻り出せる程度には我が藩も窮してはおりませぬし」
「おや、これは一本取られましたか。確かにこの度の計画は殿がおっしゃったことでもありました」
 川澄が笑って矛を収めた。
「競い合いというのが気に入りませぬな。渡辺どののお話では、藩士の中には食事にありつけぬ者が出てくるでしょう。武術の勝負や兎狩りならまだしも、くだらぬ児戯のために藩士同士がいがみ合って何の益になるのか」
 冷たい目をした鈴木に、登は平然と答えた。
「ただ全員にそうめんを振る舞うだけなら、それこそ何のありがたみもないでしょう。競い合うからこそ一風変わった楽しみが生まれ、仲を深める契機となるのです。それでもご不満でいらっしゃるなら、ところてん売りでも呼びましょうか?」
 視線は冷たいままだったが、鈴木は何も言わなかった。康直が愉快そうに笑い声をあげた。
「決まりだな。渡辺、一切はそなたに任せる。改めて期日を報告し、流しそうめんとやらの準備を致せ」
 鶴の一声に一同はひれ伏す。開いた扇の陰に、くすくすと康直は笑みを隠した。
「巣鴨様の驚く顔が楽しみだの」
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