田原藩で流しそうめんした話
「叔父上、うちの藩大丈夫なんですかね」
「いきなり何を言い出すんだ定平」
田原藩領の竹林に分け入りながら、真木重郎兵衛は後ろを歩く甥に聞き返した。
「だって急に城に呼び出されたかと思えば、そうめんを流すから竹を切ってこいって、ふざけてるとしか思えませんよ」
むすっと頬を膨らませている村上定平の顔が重郎兵衛の目に浮かぶ。
「俺はもっと藩のため、国のためになることがしたいんです。例えば高島流砲術を藩で公式に教えるとか」
「まあお前の逸る気持ちもわかるがな」
この竹良さそうだな、と重郎兵衛は足を止めた。背負子を背負った定平が隣に並ぶ。
「鉈を振るうから離れてろよ。……定平、お前のところにも文が届いてるだろう。流しそうめんとかいったか、あれは登が言い出したことなんだよ」
鉈の刃が竹の節に打ち込まれる。ぱこん、と小気味良い音がした。
「あいつなりに考えて、家中の結束を深めようとしているってことだ。少しでも殿派と巣鴨様派の溝を埋めたいんだろうな。俺たちができるのは、登の計画に手を貸すことだけだよ」
「渡辺様のことは尊敬しておりますけど……今回に限っては、もっといい方法があった気がしてなりません」
背負子を下ろして、定平はぐるぐると肩を回している。
「というか叔父上、渡辺様のこととなると本当に融通きかなくなりますよね。俺たちはあいつに黙ってついていくだけだー、って、いつもいつもそうおっしゃる」
「長年片腕やってるからな。俺の頭じゃ、登の考えること、見てる景色にはとても及ばないってわかってるんだよ」
「それも何度も聞きました。なんだか殿じゃなくて、渡辺様に仕えているみたい」
「んなっ」
重郎兵衛が顔を赤くして振り向いた時、めきりと嫌な音がして竹がかしいだ。鉈を深く打ち込みすぎたのだ。
「しまった、定平避けろ!」
重郎兵衛が叫んだ瞬間、薮の向こうから人影が飛び出してきて、定平を思い切り突き飛ばした。二人が倒れ込んだ真後ろに、大きくしなって折れた竹がどうっと落ちた。
「あっぶないなあ、刃物使ってる時によそ見しちゃダメだよ〜」
むくりと起き上がった人影に、重郎兵衛は深々と頭を下げた。
「面目ない。助かりました、春山先生」
「いいよいいよ、定平くんも怪我ない? もしあったら治してあげる」
田原藩医の鈴木春山はひらひらと気楽に手を振った。春山は田舎育ちで山に慣れているのだった。
「大丈夫です、肘擦りむいたくらいで」
「お、任せろ」
春山は傷口を見るや持っていた酒でざっと洗い、白布と軟膏を取り出した。瞬きするような速さで処置が進む。
「はいおしまい。ほんとにかすり傷だけど、山には何がいるかわからないからね」
「ありがとうございます、春山先生」
「その先生ってのやめてよ〜、お尻むずむずする」
目が離れ気味で口が幅広く、お世辞にも美青年とは言えない容貌の彼だが、天衣無縫で謙虚な性格によって多くの人に好かれている。
「さあて、この竹綺麗にして貰ってこうか。僕もいくばくか刈っている分があっちにあるから、併せて持って帰ろう」
手慣れた春山の指示に、重郎兵衛たちは頷いて作業に取り掛かった。
「六ちゃん、聞いた? 崋山先生が妙なお祭りやるって話」
「聞いた聞いた」
治六こと平井|顕斎《けんさい》は、幼馴染の言葉に大きく頷いた。面長の顔に流れる汗を拭い、伝え聞いた噂話の記憶を辿る。
「なんだっけ、竹の中にそうめんを流すんだっけ。それを掬って食べるとかいう」
「そうそう。へんてこだけど、ちょっと面白そうだよね」
福田|半香《はんこう》は団扇を使いながら、あばたの目立つ丸顔に人のよい笑みを浮かべている。
「それでね六ちゃん、僕たちも崋山先生のお手伝いができたらなって思うんだけど」
「恭ちゃん、そりゃ無理だよ」
半香は通称を恭三郎という。師を熱心に慕っている高弟ならではの考えだが、顕斎は首を横に振った。
「田原藩の公式行事なんだから、俺たちが出る幕はないだろ」
「そうでもないよ。なんで今日、突然忠太さんに呼ばれたと思う?」
「なんでって……大事な用があるとしか聞いてないけど」
顕斎はがらんとした|琢華堂《たくげどう》の講義室の中を見回した。渡辺崋山の一番弟子、椿忠太|椿山《ちんざん》の画塾は門弟が多いため、講義室はそれなりの広さに設えられている。
「だから、それが先生のお手伝いってことだよ」
「つまり何をするんだよ」
ぱたぱたと廊下に大小の足音が響いて、新たに二人の崋山の弟子が現れた。
「あれ、|莆川《ほせん》くんに|琹谷《きんこく》くん」
「ちっす」
「こんにちは」
小田莆川は軽く片手を挙げ、山本琹谷はぺこりと一礼した。
「先輩方も椿山先輩に呼ばれたんですか?」
きちんと正座した琹谷が、手巾で首筋を押さえてから尋ねる。
「そうだよー」
「一体全体何のご用なんですか? この人なんにも説明してくれないんです」
琹谷はぷらぷら歩き回っている莆川を親指で指した。莆川は椿山と親しいので、何か知っていると思うのも無理はない。
「そう怒るなよ、今回は本当に知らないんだって」
莆川は面倒くさそうに頭を掻いた。
「俺も崋山先生の手伝いとしか聞いてないんだ」
「顕斎先輩もですか。作画の仕上げでもやるんですかね?」
琹谷の疑問には、半香はにこにこするばかりで答えなかった。その後も崋山門や椿山門の弟子は集まり続け、講義室はずいぶん賑やかになった。
「これじゃ絵を描く場所が取れませんよ。本当に何をなさる気なんだろう」
顕斎の隣で琹谷が呟いた時、がらりと襖が滑り、主の椿山が講義室に入ってきた。ざわめきが瞬く間に静まる。
「皆のもの、ご足労いただき感謝する。今日は我らが崋山先生のために君たちの力を借りたい」
座布団も引かずに腰を下ろし、椿山は講義室の面々に語りかける。さすが忠太さんは師匠が板についているなあ、と顕斎は思った。
「先生が藩の行事として計画されている流しそうめんのことは、皆もう知っているな」
一同がばらばらと頷いた。なんだそれ、という顔をした数名のために、椿山は簡単な説明を加えると、本題に取り掛かった。
「流しそうめん大会の開催に向けて、手始めに崋山先生は国元田原で竹を採取させた。そうめん流し器の設計は先生御自ら考案し、藩の御用大工に図面を引かせて、国元から運ばれてきた竹を組んで流し器を作らせた。それらは今――」
つと半香が立ち上がり、庭に面する障子を開け放った。椿山以外の誰もが驚いて、その動きを追いかける。
「全てここに持ってきてもらっている」
竹を組み上げて作った珍妙な器具が、庭にどしんと構えていた。一つや二つではない。庭を埋め尽くすほどある。
「これらに水とそうめんを流し、流れる速さが箸で掬うのに適切かどうか確認する。傾きは調整できるようになっているから、何度もそうめんを流して一番良い角度を見つけてもらいたい。また当日は屋外で開催する予定であるから水温にも気を配ってほしい。氷はふんだんに用意してある」
改めて部屋の中を見回し、椿山は真顔できっぱりと言った。
「君たちの仕事は、本番に向けたそうめん流し器の検証、兼、茹でたそうめんの処理係だ」
うだるような暑気の満ちた部屋に、とてつもない脱力感が加わった。半香が一人満足げに頷いている。
「そうめん五十把、茹で上がりましたー! 残り五十把も準備中よっ!」
すぱーんと襖が開き、襷掛けをした立原春沙が部屋中に響く声で言った。
「めんつゆも人数分の二倍用意できています」
隣から斎藤香玉がおずおずと添える。
顕斎は椿山という男がどういう人物であったか思い出していた。師にして無二の親友である渡辺崋山のためにはたとえ火の中水の中、全身全霊を賭してやまない男。
恐らくはそうめん流し器を実地検証するにあたって、椿山の方から申し出たのだろう。お弟子たちを使えばいいじゃないですか、先生のためなら皆喜んで集まりますよ、と。それは君と半香くんだけだよ、などと師の方が止めてくれたかどうかは定かでない。
「覚えてろよ莆川先輩……」
「なんで俺!?」
顕斎の耳元に、琹谷の重い舌打ちと莆川の悲鳴が届いた。
「ほう、そうかそうか、国元の竹を使うのか。準備が着々と進んでいる様子がわかると、なんだかわくわくしてくるの」
下屋敷に重郎兵衛から届いた文を読んで、巣鴨様こと友信はにこにこと目を細めた。
「その流しそうめんとやら、俺たちも参加していいんですかね?」
期待を隠せない顔で高野長英が言った。
「良いのではありませんか。登からも、わしが参加することに意味がある、絶対に来てほしい、と聞いています。わしのお世話になっている先生もお招きして悪いということはないでしょう」
長英は友信にとって蘭学の師にあたる人だ。ゆえに友信は敬語を使って話している。
「いいじゃないですか、楽しんできてください」
「ちょっと三英さん、なんで他人事なんです」
「私は行く気ありませんから」
「なんでよー」
肩を掴んで揺すぶってくる長英の手を振り払い、小関三英は不快そうに眉根を寄せた。
「知っているでしょう、私は人の多い場所がすこぶる苦手なんです。まして私たちを良く思わない人だらけの場所なんてまっぴら御免ですよ。長英くんが出席すれば巣鴨様の体面も保てるでしょうし、私は家で読書してます」
「やだ〜、三英さんいないと寂しい〜」
「寂しがるような神経の持ち主じゃないでしょ君は」
「招待してくれた渡辺さんに申し訳が立たないですよ」
「渡辺さんも私の気質はよくご存知のはず。姿が見えなくとも驚かれはしないでしょう」
ぷくーと膨れていた長英が、急に真剣な表情になった。
「足のことなら気にしないでください。俺が側について、すぐ支えられるようにしてます」
三英はふいと顔を逸らした。彼は片足が悪く、いつも軽く引きずって歩いている。目を伏せた横顔を長英は必死にかき口説く。
「俺も医者だ、人混みでつきっきりの介助なんて全く気になりません。むしろ友人の助けになれるのが嬉しいくらいだ。あなたが周りに遠慮して閉じこもってしまう方が、俺はずっと悲しい。お願いです、巣鴨様と渡辺さんのためと思って、来てくれませんか」
詰めていた息を吐くようにして、三英が深々とため息をついた。
「なんでそこで、俺のため、って言わないんですか」
「えー、そんなの烏滸がましくて言えなーい」
頬に両手を当てて裏声を出す長英は、もう普段の調子に戻っていた。その額をぺしりと打ってから、三英は友信に向き直る。
「巣鴨様、流しそうめんの日程はいつなんでしょうか」
ずっと二人のやりとりを見守っていた友信はにこやかに答えた。
「盆明けだそうです。もう二十日足らずですよ。楽しみですね、長英先生、三英先生」
三英はむっつりと黙りこくり、長英ははいっと元気に返事した。
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