アシュジュナツイログ




【わがままにゃんことミルクなチョコ】

「おなかがすいた」

 ぺら、と重厚な本の頁をめくる音に紛れて、合わせた背中の向こうから気の抜けた声がした。敢えて無視。すると声の主はぐいぐいと背を押し込んで体重を掛け、俺に伸し掛かってくる。座っているベッドから床に落とされる勢いだ。

「アシュ、おなかがすいたんだが」
「食堂行ってカレーでも貰ってこい、俺は忙しいんだよ」
「むぅ……」

 不満そうな声だ。口を尖らせている顔が目に浮かぶ。しかし、振り返る気は全くない。目が忙しいのだ。文字を追う目も、頁をめくる手も止めない。すると今度は、背に感じていた体重の感覚がふっと消えた。背後から退いたらしい。そうかと思えば、今度はにゅっと本の上に黒い塊が飛び出してくる。
 そのまま本と膝をまとめて枕にしてベッドに寝転がり、仰向けになった男はむすっとした顔を俺に向けた。……手前は猫か。

「私を無視して本に夢中とは……いい度胸だなアシュヴァッターマン」
「いい度胸なのはてめえの方だ。邪魔すんじゃねーよ、忙しいっつってんだろうが」

 如何にも不満そうだった声はさらにトーンが低くなり、地を這うかの如く心底恨めしそうな声に変化していた。他のサーヴァント達が見たら仰天するような光景だろう。なんせ今俺の読書の邪魔をしている男は、カルデアでは生真面目天然風紀委員系優等生として通っている。人様の作業の邪魔などするような性質ではない、なんてイメージがすっかり定着した男だ。そんな男が、こと俺に対してだけは不思議とこんな横柄な態度を取る。これは俺の邪魔がしたくてしょうがない、というのとはちょっと違う。俺の意識が手前に向いていないと、気が済まないのだ。マスターには忠犬のような態度を取るが、やっぱり俺には猫にしか見えない。

「本などいつでも読めるだろう。私が居るんだぞ、そんなものに構うな。私はおなかがすいたんだ」
「俺がこうして部屋で本読んでる時に限ってテメーが勝手に入ってきてんだろうがよぉ……邪魔すんなっての……」

 ムカつくのは絶対に外面の良さを崩さない、という点だ。人前で俺の気を引きたい時は決まって喧嘩の仲裁役や、パーティーの統率役を完璧に演じてくる。違和感が全く無い。こうして人目が無くなる場所では何の気兼ねもなく、堂々と勝手気ままに俺の邪魔をしてくる。やってることは概ね変わらないのだが、人前だと大抵は状況が相まって俺が悪い、ということになってしまう。俺の予定ややりたい事など全く考慮してくれないのだから、たまったものではない。……まぁ、今は理由はあるだけマシな方だろう。

 普通、サーヴァントは食事を必要としない。魔力で駆動する使い魔だからだ。食事を摂ることで得られる魔力もありはするが、極々微量でしかない。故に『ものを食べる』意味というものは皆無だが、それではあまりに退屈だろう。リソースの許す限りは趣味の一つとして、食事を摂るサーヴァントは多い。かく言う俺もそうだ。

 しかしてこいつの言う『おなかがすいた』とは何かの暗喩という訳でもなく、本当に腹が減っているらしい。現状その腹を満たせるようなモノが、食物ではないというだけの話だ。なんせ食事をしようにも、この男は味が分からない。厳密に言えば辛味といった余程強い刺激か、極端に甘い味しか感じない。……なので。

「ッチ、……そら、アルジュナ。口開けろ」

 傍にあった袋にガサガサと手を突っ込む。指先でつまむ程度の小さい包みを取り出して乱雑に破くと、中に入っていたものを間抜けに開いた男の口に放り込んだ。

「……もぐ、んむ?」

 折しも今は、バレンタインの時期。カルデア内の需要が増えることもあり、チョコは手に入りやすい。これでもかというくらいミルクと砂糖が練り込まれた気軽に買える安価なチョコに、微小な魔力リソースを込めた気休め程度の菓子。

「テメーが腹減ったって騒ぐだろうと思って、ダ・ヴィンチの売店で買っといたんだよ。それなら味、分かんだろ? 読み終わるまでそれ食って待ってろ」
「うん、甘い……ありがとうアシュ」

 かり、こり、と咀嚼する小気味のいい音をしっかり聞いてから、広げた本の上に乗せられた頭を退かし、ごろんと後ろにその身を転がしてやる。横暴だが礼が言えるだけ、育ちの良い男だ。
 味がするものであれば食べたがる男だが、外面が良いが為に味が殆ど分からないということを周囲には言いたがらない。なのでいつも食堂からカレーを部屋まで持ち帰り、一味唐辛子を山ほど突っ込んで食べている訳だ。周囲に配慮してのことだと本人は言うが、突飛な事をして変な顔をされるのが余程恐ろしいのだろう。

 ちなみに角と尾が生えている方は、既に大体の味が分からないと素直に暴露している。が、あちらはあちらで特殊な霊基をしている所為なのか『そこは同じ』だと気付かれない。お陰でこちらの男は単なる激辛カレー好き、としか認知されていない。やむを得ない体質が所以ならば、正直に話した所で妙な顔をする者などカルデアにはいない。むしろ厨房担当のサーヴァントは皆、この男の感じにくい味覚を気遣って味を調整してくれるだろう。その方が見た目的にも配慮にはなるだろうに、それでも本人は断固として言いたがらないのだから困りものだ。

 ……まぁ、そんな誰も知らない秘密を俺には話してくれたということには、優越感を覚えないわけでもないのだが。

「頼むからいい子にしててくれ。メインはメシ食った後でやるから、な?」
「……!」

 とはいえ如何に食物では空腹を完全に満たせなくても、とりあえず何か食わせておかねば後で困るのは俺だ。こいつの腹を一番満たせるものは俺の魔力だと言うのだが、最悪情交では飽き足らず腕やら肩まで齧られかねない。……否、俺だけ困るならまだいい。だがそこまでいくと、最早俺だけの問題ではなくなってしまう。どうしてもこいつには『良い子』のままでいてもらわなければならないのだ。魔力に変換できるものは、ある程度は直接入れておいてもらうに越したことはない。齧られるなんて事態だけは、避けなくてはならないのだから。
 しかし俺とて休みの時くらいは好きなことを好きなようにやりたい。そうする権利はあるに決まっている。そう思って精一杯の妥協点としてこのくらい言っておけばひとまずはおとなしくなってくれるだろう……と、頭を撫でてやったのだが。どうやら俺は、余計なことを言って火を点けてしまったらしい。

「アシュ……これじゃ足らないぞ」
「食ってていいから待ってろって言っただろー……」
「チョコじゃなくて、アシュがいい……」

 腰にぎゅう、と抱き着いてきた男を剥がし、それこそ猫にするかのように脇を支えて抱き上げる。アルジュナが抱き上げた途端しれっと俺の首裏に腕を回してきた所で、しまったと内心で悪態を吐いた。これではなし崩しにされかねない。哀れ本は、蹴飛ばされて床に落ちた。足癖の悪い猫め。

「今はちょっとだけでいいから、くれたらちゃんと待ってるから、……お願いだ」
「……わぁーったよ。やりゃいいんだろ、しょうがねえな」

 曲がりなりにも嘘は言わない、約束はきちんと守れる男だ。一応我慢する気はあるらしい。が、前払いが足らないなどとのたまう。盛大に舌打ちしながら、仕方なく俺はその頬に手を添えた。温かな褐色の肌は上気しているようで、分かりにくいがほんの少しだけ赤らんでいる。……こいつ、何で照れているのだろう。さっきのどれが琴線に触れたんだ。分からないままに合わせた柔い唇、差し込んだ舌には、甘ったるいミルクチョコの味が広がっていく。

「……ん」

 絡む濡れた舌に、魔力を取られて代わりに熱欲を押し付けられる。嗚呼、最悪だ。修行者の邪魔をする魔王とは、間違いなくこいつの事だろう。俺はまだまだ修行が足らない身だ。本を読んでいた時の集中力など、とうに霧散してしまっている。
 その癖今度は『お前が言い出したのだろう』と意地悪く笑って、俺の理性を試し始めるのも目に見えている。気を引きたくて邪魔をしてくる癖に、構い始めると途端に釣れなくなる。全く始末に負えない、わがまま猫だ。
 
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