鳥の子2
その実彼女の血はなんら特別なものではなく、人口の半分以上が持つ、いたって普遍的な血液だった。
濁った水溜まりに反射する赤いライトはまだ薄暗い風景の中によく混じり合っている。雨が降った後の地面から漂う湿り気のある温い温度とよく似ている気怠さが、私の周囲を埋めつくしていた。彼女が次ベッドで目覚めるまで、その過程を私は覚えていない。
明朝、遠くでサイレンが鳴る時、ふと不安と焦燥感が背筋に迸ることがある。病で、或いは苦しみで伏せった姿を誰かが発見するのだ。その誰かは常に最前線で当事者となり続け、それでいて世間が寝静まっている中では誰かを捉えることが出来ない。善行の暗躍者。彼らは怖くないのだろうか。自身が誰の目にも留まらず善行を当然と消費されることが、同族が苦しみ息の根を止めた亡骸と化すことが。
死というのは普遍的であり、今や娯楽の範疇でも語られるほど馴染み深い隣人となった。私達は誰かが死ぬこと、殺されることを日常茶判事として受け止め、取り留めのないニュースで心を痛めることも減った。自身と血縁関係にある人間が死んだ時すら涙を流さない、そんな人間もいるだろう。
ああ、本当に死んだのか。私から出てくる言葉もその程度だ。
それでいて明朝のサイレンに体を震わせるのは、いつか自分がその普遍のサイクルに取り込まれることが恐ろしく、また大量の未練があるからだ。未練とは大層なものだな。その実死ぬまでにやりたいことは自身の行動力にかかっているし、死ぬまでに増えていく。更には多くの諦めも伴うだろう。金銭、心身、治安、様々な理由で私達は縛られ眩しい夢から目を逸らしてしまう。
シキのやりたいことって、なあに?
わたしはね、もっと多くのことをやりたい。今よりたくさんの絵がかけるようになって、あなたは綺麗ってことを今より伝えたい。それからパーティをして、ケーキを食べて、みんなから拍手で迎えいれてもらうの。わたしたちはもっと認められて、たくさんの人に囲まれて、あなたと二人で生きていく。百日よりもっとたくさんの年月を。
でもわたしがおばあちゃんになったら、シキは私よりもっと歳をとったおじいちゃんになっちゃうね。それは嫌かも。シキはずっと今のままでいてほしい。――追加。わたしのやりたいこと、シキを今の姿に留めておく!
それは決して叶わない。私が君の描く絵として空想上の存在であれば話は別だが。私達は皆生まれたからには老い、その先に死が待ち受けている。故に私達はその人生をかけて何かを成そうとするのだ。それは偉業であるかもしれないし、家族の為に明日の夕食を用意することかもしれない。或いは死を怖がる理由を探すことかもしれない。
死ぬのが怖いの? あれだけいつも死臭をまとってわたしに触れていたくせに。
君はまだ、その羽は私のせいで失われたと考えているのか。初めから生えてもいない羽をどうやって腐らせる?
じゃあ今まで夢見心地だったのも、血を与えてもらえてたのも、全部説明してみせて。あの時わたしは飛んでいた。どれだけ地面が近くても、あなたからすればほんの一瞬だとしても。
わたしの翼を返して!
体外の管に繋がれた体は、当面の間は本人の意思では動かせないという。この管を抜くことが彼女にとって死を意味するが、生憎私にその気はなかった。もし彼女が死んだとて私は「ああ、本当に死んだのか」とだけ口にするだろう。
彼女を殺すことに恐怖は感じない。私は所詮私自身の死以外に煽られることはなく、人殺しのレッテルを貼られても今更だ。その焼印は初めから怜以外の人間には押せないのだし、彼女が何を言おうと誰も聞き入ったりしないだろう。今ベッドの上で彼女が生きている理由は、善行の暗躍、ただそれだけだった。
認めてほしい、その人間に搭載された承認欲求は彼女を狂わせるに充分な素質を持っていた。例え彼女が次の弁解で“私への荒治療”と答えたとしても、自らの体を使い何かを果たそうとすることは、結局のところただの承認欲求であることに間違いない。所詮彼女はまだ子供で、何にも取り繕うことの出来ない不器用な人間だった。
かくいう私はどうだろう。怜と過ごす日々が増えるにつれ、私は思慮に連れ去られることが多くなった。彼女は決して鏡などではなかったが、世俗的な人間像としてその身に社会の縮図を溜め込んでいる。彼女が笑うたび、私はそうはなるまいと目を伏せ続けていた。
出来ることなら、ありきたりな欲求から遠く離れて生きていきたい。これ以上無意識に彼女に汚染されるわけにはいかない。つまり私は本来、怜を殺すべきなのだろう。
わたしを殺して、それで、あなたは一人で生きていけるの?
少なくとも介抱が必要な君とは違う。
四六時中だれかに囚われること。それをあなたは苦しみと言って、つきまとう影をなんとか振り払おうとしていた。ケーキ屋さんで、そういえばあの子はチョコレートの方が好きだったなって思い出しちゃうことが嫌だったから。わたしね、それってまるで恋人みたいだなって思うの。わたしたちがもっと気軽で、実はいつでも切れちゃう関係だったとしても、その瞬間だけもっと身近で有意義な二人になる。ありきたりな言葉で言うなら、好きでいられるの。
お前は誰かを憎んだことがあるか?
憎しみってケーキよりカレーみたい。よく煮込んだ方が味わい深くて、煮込む時間も惜しくない。恨みより怒りに近いから、あなたはずっと怒ってるのね。それはわたしに対して? わたしがあなたに怒ってないとも言いきれないのに?
君が私に怒りを感じているのなら、過去の行為は君にとっても必要がなかった。あれらは全て私への試し行為であり、子が親にどれほど目をかけられているかを伺う悪戯だ。
じゃあシキは親としてわたしのイタズラに目をつむって、仕方がないなあって笑ってくれるよね。
私は君の親ではない!
親でないなら一体あなたは何者なの? 識《シキ》は怜《わたし》の何なのか、そんな簡単な答えからいつまで逃げているの? そろそろ審判をくだせ。臆病者。
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