鳥の子2
声が出なくなった。出そうとすると莫大な苦痛が襲って、少し発声すれば膨大な疲労が伴う。
そうしているうちに、特別誰かに伝えたいこともないから成り立つ生活が日々を形成し年月になっていくのを黙って眺めたまま、声の出し方を忘れていった。ともあれ初めから肉声である必要は無かったのだろう。私達にはそれ以外、例えば文章で、前時代的な言葉を発することが出来る。或いはもっと深いところでプラトニックな関係を築き、既に意思疎通という外壁を取り払っているかもしれない。
世界が今より単純で、平べったくて、一つの大きなテーブルだった頃。わたしたちは全員で食卓を囲んで、次々に生まれる未知をどう調理するか言い合っていた。それくらい前の、まだみんなが言葉の意味を分かっていた時代に戻れたら、きっとあなたは声を出してまで物の形を伝える必要はない。だってわたしたちは分かってるから。liljaはユリで、Kieloはスズラン。|Tämä tuoksuu todella hyvältä.《これはとてもいい匂いね。》
だがバベルの塔はとうの昔に崩壊し、横断歩道のモノトーンみたく私達の原語は分かたれた。それから独立した個は各々が好きな形に進化し、価値観や思想が大きく異なっていった。今では言葉こそが、声こそが、何かを伝える手段の最善策となっている。詩を紡ぐように、歌を口ずさむように。自我を超えた外界との繋がり、その先導者たるメロディーラインはいつだって一房の波形だった。
故に文章というのは酷く稚拙で臆病なものなのだろう。それでも声が出なくなった今、その神秘的な前文明の遺物を使って、私は今コミュニケーションを図ろうとしている。特別伝えたいこともない、ただありふれた日常の中で、君がそこにいるから。
何故、まだそこにいる?
あなたのことが本当に好きなの。綺麗で、かっこよくて、すっとしていて。横から見る鼻筋のようにしなやかで。いうならば村雨。ザッと降って止む雨のことじゃなくて、村雨って紫色のイメージがあるの。あなたはどう? ちゃんと渋い紫色が浮かんでる?
今見えてるものがあなたと同じならいいな。そうだったらわたしたち、本当に言葉なんて必要ないのかも。深いところで繋がって、あなたのことが少しずつはっきりと分かっていく。何が好きで何が嫌いか。わたしのことをどう思ってるか。まって、それを確かめるためにわたしたちにはまだ言葉が必要なの? そんなの間違ってる!
その実互いのことを深く理解しても、正しく理解することは出来ない。私達には常に認識の相違があるし、個を尊重する時代が余計に私達を乖離してみせた。遺伝子の奥深くに刻まれた当時の議論が、机を囲んだ記憶が、今も潜在的な集合意識として深い眠りについているとしても、私達がそれを呼び起こすことは難しい。だからもうどれだけ頑張っても、きっと分かり合うために言葉が必要なのだ。声|でなく《出なく》とも。
君は五感を通じて芽生えた情緒を山ほど伝えようとするが、私は君に伝えたいことが露ほどもない。君はお喋りだから姦しく捲し立て、私はそれを黙って聞いているだけだ。不甲斐ないと思うか。つまらないと思うか。それを確かめることが怖くてたまらないことを、君はどれほど馬鹿げていると思っているだろうか。
そんなことひとつも思っていないの。だってそうでしょ? わたしたちはみんな、本当は夜が怖くてたまらないから。
嫌われることって突然ナイフで刺されることよりずっと怖い。肉体より精神の方が痛みに弱いって、わたしはこの長い生活の中で気がついちゃった。じゃあどんなことがあってもあなたのことは肯定してあげなくちゃいけない。わたしだけの神様は、きっとわたしのことも肯定してくれる。もう二度と「消えろ」なんて言わない。だから私も「消えないで」って言うの。それから、大丈夫だよ、わたしも同じだよ、そうあなたに告げる。
わたしだけの神様。
それは彼女が幼い頃からずっと描いていた希望であり、生涯叶わない願望だった。怜という人間の全てを理解し肯定する、自分に都合のいい人物像はそう易々と現れるはずもない。理解者――理解を示している、という態度を示す者――は皆等しく利己的だ。必ず好き嫌いを持つ私達がどんな事象にも好意的でいられるわけがない。そんな利己的な人間が、利己的な願いを抱く人間を気に入るか? はじめから自分の分け前が多いことを期待するような存在に靡くほど、周囲は君を大切にしていない。私達は誰かを簡単に捨てられるし、同時に誰かから簡単に捨てられるんだ。
プレゼントのお返しをしてくれる人、かわりばんこの順番をちゃんと守れる人。
返礼は当たり前だと思うこと、やらなければやってくれるだろうと丸投げすること。
じゃあ、あなたがわたしに優しいのは。
君が私に多くを望むから。
それが全部当たり前だって思うせいだ!
……ねえ。そんなこと言わないでね。おねがいだから。わたしが利己的だったとしても、シキがそうだとは思わないの。好き嫌いがあるのにどうしてまだ隣にいてくれるの? 面倒を見なきゃいけない義務や使命感がまだあなたを閉じ込めている? わたしがあなたの邪魔をしているの?
分かり合うためのおしゃべりでも、本当は分かり合えないことがあるって知ってる。だからどうしようもなくなったら行動で示すの。あなたが利己的じゃないこと、わたしのせいだった場合のこと。ここに残された結果だけが、正しい、本当のこたえ。
利己的だから、傷つけるために拳を振り上げた。爪先で皮膚を引っ掻いた。紙を破り捨てて、石を蹴飛ばして、壁に頭を打ちつけた。
利己的だから、他人に分かってもらうためだけに仮初の命を差し出した。軽々しく吹き飛ぶ命では価値がなかった。その結果、何が証明された?
まだ足りないなら、わたし、もっとできるよ。
「止まれ!!!」
ああなんだ、声、出るんだ。よかったね。
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