鳥の子2

まだ朝日が昇る前の黎明、東雲の空。
山々の麓は薄らと赤色に染まり、それでいてなお天空は紺をたたえている。中間にあたる狭間は絵の具より美しく混色し、くすみがありつつもやや明るい水色へ変化する。
毎朝同じ時間帯に外へ出るが、今日は随分寒い。息が白く染まる。口まで覆い隠すネックウォーマーが鼻息で蒸れて、口ひげの生えるあたりを湿らせた。私はそれすらも寒さの原因として、より一層口元を埋めるよう下を向いた。
「みて!」
不意に彼女が声を上げた。私は仕方なしに俯いた顔をあげる。住宅街が途切れて空が大部分を占めるこの場所で、彼女は嬉しそうに空を指さしていた。
――写真で見るあの景色だ。
子供でも描ける簡単な雲の形じゃなくて、もっと勢いよく霞む隼の筆跡。朝の先鋒として槍先に立つ新進気鋭の若人。それが朝と夜のグラデーションの境目で羽を広げている。胸を打たれる力強さだ。
長く生きてきた中で一度も、朝を希望と捉えることが出来なかった。これから日が高くなる頃に眠りにつくのも逃避の一部と言えるかもしれない。希望は美しく、同様に朝も美しいが、白日の元に居場所を見出すことが出来ない。夜でないと視認できない星屑のひとつ、それが私だった。
怜が微笑んで私を見ている。綺麗だねと言いたいんだろう。そうだね、本当に綺麗だ。だってそうじゃないと、胸を打たれるほどの感銘は受けない。
傍らの彼は静かに息をするばかりで、自ら声を発することは滅多にない。だが私達と同様に視線は空へと走らせている。その目にはどんな風に映っているのだろう。何が綺麗で、何が好きで、何を信じて、何を定義するのか。聡明な頭脳と洗礼された精神を持つ彼の答えはいつだって間違わない。私達がそう信じているから。
彼の受動的な応答は次の能動を生む。だから私は、彼が言葉にする日を待っている。

うんと背を伸ばした彼女の、やや冷たい子供の手が私の頬を挟みこんだ。
「ね、めをさまして」
真っ直ぐな薄い色の瞳が私の黒い瞳とかち合って、口角だけを上げる彼女のぼやけた二重線が霞んだ。
“この目で正しく怜を映して”
“その耳で識の声を聞いて”
“もう一度灯りをともして”
まるで再起動をかけられたように頭の中が鮮明になって、世界の解像度が格段に上がる。歩くたび肌にあたる冷たい風が本当は柔らかさを孕んでいることに気がついた。
街灯が照らす範囲、道路に引かれた白線。景観用に植えられた若木と用水路のせせらぎ。明朝に出発する大型トラック、路地を結ぶ信号機。
街へ行けば徐々に生活の音が聞こえてくる。
何度も反芻した、遠い昔に定義した朝焼けが姿を現す少し前の時間帯。まだ街は眠気に微睡んでいる。でも私達がもっと遠くへ行くための荷造りをしているうちにきっと彼らは目を覚ますから、私達にはもっと長い時間が必要だった。
ならば、物語はこれより更に遡った夜から始まる。私がそう定義する。

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