妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)
二、あやかしゆめうつつ -怪士-
何処となく、負い目はあったのだ。
妖の顔を逆に利用したことは、窮地に置かれた状況においての咄嗟の判断だ。お世辞にも正しかったとは言い難い。良かったことと言えば敵の思惑通りにならなかったことと、己が『大包平』として本丸に帰還出来たことくらいだろう。無事に帰れたことだけでも、十分に過ぎる成果ではある。しかし視点を広げれば、仲間や本丸にとっては不利益となる事柄の方が遥かに多い。守るべき仲間に対して呪いを向け、意識を切り裂き動きを縛るなどという大きな危険に晒してしまった。山姥切国広が大包平の妖性を抑え込むことに成功していなければ、その場で全滅していたかもしれない。後々山姥切長義は「俺なら大包平を斬った」と国広に語ったそうだが、本当にその場で処分されていた方が良かったかもしれないとさえ思うこともあった。あの後長義に呼び出され、こっぴどく叱られていたのだ。
『俺達刀剣男士に求められたものはなんだ? 魔ではなく、神であることだろう。貴方であれば……否! 貴様であれば! 本歌にとって写しを得ることが刀剣としてどれほどの名誉であり、尊きものであるか、知っていよう! ―――制御できなかった貴様の|魔性《ほんしょう》に引き摺られ、俺の大切な写しが妖魔ごときに堕ちるなんて事態になれば! 本作長義と堀川国広の沽券に関わるんだよ!』
普段は決して声を荒げることのない冷静沈着な男から浴びせられたその怒号には、呆気にとられたものだ。【山姥切】の由来とその曲げられない矜持から、国広とはどうしても折り合いの悪いあの男が。まさか国広の為にあそこまで慷慨するとは思いもしなかった。礼節を重んじながらも、言うべきことがあれば相手が誰であろうと物怖じせず、一歩も引かない。あの男の好ましい所でもある。だからこそ、その容赦のない言葉は酷く胸に刺さった。写しが本歌にとってどれほど大切な存在かということ。己の呪が元で、国広の裡に眠ったままだった危険な衝動を発露させてしまったこと。どれを取っても真っ当な言葉であり、どう取り繕うとも誤魔化しようのない事実だ。あの時どうすることも出来ず、今も尚国広に対して何もしてやれずにいる歯痒さに、苛まれ続けている。
もしかしたら己は、必ず仲間の内の誰かが引き上げてくれると「信じていた」のではなく、誰かが引き上げてくれることを「願っていた」のかもしれない。軟弱な考えだとは、自分でも思う。けれど同時に、真にひとりで成せる事など殆ど無いということだって、刀剣男士として生きてきた経験から痛いほど身に染みている。死ぬ気はなかった。死ぬ覚悟がない訳でもない筈だった。元より戦う為に与えられた、仮初の肉体である。死ぬ覚悟がなければ|本体《かたな》など握らない。しかし|大包平《おのれ》を喪わなかったことに対し、酷く安堵を覚えたのも事実だった。感情とは難しい。戦場で折れる覚悟なんて刀剣男士になるより前の、ただの錬鉄でしかなかった頃からあった筈なのだ。ただ戦道具としての活躍の機会に恵まれなかっただけで、戦場で振るわれたなら華々しく敵を斬り美しく|折れる《散る》のみだと信じていた。けれどいざどうにもならない状況に陥ってみれば、この様だ。仲間の到来を信じ、待つことしかできなかった。
ただ、恐ろしかった。
今まで積み上げてきた『大包平』という|刀剣男士《じぶん》のカタチが、瞬く間に崩壊していく様が。
一刻一秒毎に、己が己でなくなっていくことが。
あのまま独りきりで、死にたくなどなかった。
……本当に、軟弱なこころではあるが。
だから駆け付けた国広を見たあの時、辿る結末が何であれ嬉しかった。大包平の妖の呪を受けて尚動けたのは、あの男だけだったのだ。己の意識が真っ黒に塗りつぶされる寸前に、間に合ってくれた。もうそれだけで十分だと思った。例えその救いが黄泉路へのいざないで、あの男が己の為に誂えられた死神だったとしても。あの傷ついていても尚濁ることのない強さと美しさに、ずっと密かに恋焦がれていたから。そんな結末でもいいと、愚かにも本気で思っていたのだ。裏の顔を表にしたあの時の己はきっと、禍々しくも美しい瞬間だったに違いない。その刹那を、淡い恋情を抱いた特別な男にだけ、くれてやれるなら。今思えばあの男が向けた殺意そのものに、意識が妖へと傾いていた己は喜びを感じたのだろう。殺さずにはおれないと想う程の激情を抱いてもらえたことが、幸せだと思ったに違いない。
思えば最初に恋情を自覚したのは、いつかの遠征任務で閉ざされつつあったあの世界で、咄嗟に庇われ元の世界に繋がる此方側へと突き飛ばされた時だったか。出口が完全に閉じる瞬間に聞いた「良い隊長になれよ」の一言で、容赦のない厳しさの中でも寄せられていた確かな信頼と、男が抱えた手入れでさえ治らない程の深い傷痕を思い知らされた。あの男の心に癒えぬ傷を付けた知らぬ誰かへの、激しい憤怒と嫉妬が沸き上がったのだ。あの男がかつて失った仲間。隊長だったあの男を、死地から送り出した顔も知れぬ刀。もしかしたらそいつは、あの男の前で似たようなことをやらかしたのかもしれない。それをあのたった一言から感じ取った時、絶対にこの男を死なせてなるものか、と奮起した。全員連れ帰るのが隊長の役割、などと言ったのはあの男だ。超えられるなどと抜かすなら、その時までこの大包平の隣に居てもらわねば困る。まだ幽世に連れて逝かれるわけにはいかない。顔も知れぬ刀の元になど、逝かせられはしないと。
一方で仲間としての信頼関係と、個刃の好悪は別物でもある。掛けられる言葉の節々には棘。突き放した態度。時折感じるのは薄暗く淀む、湿った視線。それはあの任務を経た後でも、一切変わらなかった。刀剣男士として、仲間としては信頼されていようとも、個刃としての大包平は決してあの男から良く思われてはいない。……ずっとそう感じてきたし、自分でもそう思っていた。だから恋情を伝える気などこれっぽちもなくて、伝えた所で実を結ぶ筈もないと信じて疑わなかった。何もなくたって、構わなかったのだ。昔馴染みらしい鶴丸国永やあれが甘えられる数少ない相手である兄弟刀の堀川国広を、羨ましいと思ったことは何度もある。それでも、例え個刃として向けられる感情がなくても。あの男が時折見せる仲間としての信頼を感じられれば、それで満足だった。だからまさか、己の呪が元であの男と恋仲に至るなどとは、思いもしなかったのだ。手入れ部屋で意識を取り戻した際強く掻き抱かれ、いつまでも離してくれなかったことに、ひどく動揺した。これは己の抱く情とは違うものから来た、突発的な行動に過ぎない。一度仲間を喪う経験をした為に、心の底から身を案じてくれていたにすぎない。勘違い、してはならない。甘く締め付けられる胸の痛みを無視して、そうやって必死で己に言い聞かせていたというのに。真正面から「お前が欲しい」だなんて告げられてしまえば、こちとら我慢など出来なくなるに決まっている。如何なるかたちであれ大包平という刀にとって、我が身を求められることは至上の喜びだ。ましてそれが不本意にも惚れてしまったおとこなら、渡せるものはいくらだってくれてやりたい。けれどあの男は、主人である審神者にさえ妬く苛烈な男だ。今もあれは、夢に見るほど心の底から大包平を殺したがっている。けれど刀剣男士として望まれて顕現した以上、この命だけはくれてやれない。それは顕現した時点で審神者に預けているものだ。あれに最期を託せるならさぞや倖なことだろうと思いつつも、それだけは施してやれないのが心苦しくてたまらなかった。
呪がなければ終生縁を結ぶことなどなかったのは確かだ。けれど同時に、あんなことがなかったら国広は|大包平《こいびと》を殺す夢など見なかっただろう。具体的に何を見たのかまでは知らない。知らないが、|裏側《あやかし》の自分が関わっていることくらいは分かる。他ならぬ「自分」の事だ。しかしあの男、こともあろうに妖の己がまき散らした呪を大事に抱え込み、石切丸にも祓ってもらわなかったときた。そんなに苦しいなら吐いてしまえばいいだろうに、全く欲張りで困った恋刀である。それを心のどこかでは嬉しいと思ってしまう己も、大概ではあるのだが。
そんな恋刀への厄介な負い目が、……まさかこんなモノまで招いてしまうとは。
「な……ん、だ、貴様」
いつも通りの時刻に就寝した。それは確と記憶にある。ふと目を開いた時、枕元にある目覚まし時計の針は丑三つ時を指していた。当然灯りはひとつも付けていない、そも目が覚めたばかりで灯りなど付けられる筈がない。だから時計の針がどこを指し示しているのかなんて、本当なら分かる筈がないのだ。なのに時計どころか、部屋の中まではっきり見渡せる。流石に可笑しいだろう。太刀の己では、夜目など利かない。自室であり大体の物の位置を把握してはいても、夜中では手探りでなければどこに何があるのかさえ分からない。枕元に立ってじっと此方を見下ろしている『ソレ』がぼんやりと光っているからなのだろうか。確かに何かと|出《・》|や《・》|す《・》|い《・》時刻ではあろう。大包平は布団からのそりと慎重に起き上がって、如何にも怪しげな男を見上げながら問う。
「……俺に、何か用か?」
ソレに抱いた第一印象は、「こいつどんだけ顔隠したいんだ」というものだった。頭から被った黒い衣に、男や武士の怨霊を表す|怪士《あやかし》の面。黒い衣にも面にも不釣り合いな、美しく眩い黄金の髪がちらちらと覗いている。その身に纏っているのは、濃紺に染められた縦縞模様の素襖だった。胸元や袖には切り込みの入った山にエ霞が掛かる、独特の紋が染め抜かれている。腰に差してある刀は鞘も柄巻も濃紺で纏められているが、一際目を引く鮮やかな橙色の下緒が結ばれていた。もうこの時点で特徴に見覚えがあり過ぎる。衣が薄汚れて所々破れている辺り、江戸の武士の正装としての素襖ではなく、直垂を簡素化して日常着としていた……恐らく安土に近い時代の武士が纏う素襖だろう。
|当刃《アレ》もそうだが頭から被る|衣《きぬ》とは、顔や素性を隠すという意味がある。平安頃から位の高い女性が人前でみだりに顔を晒さぬよう、外出する際に単の衣を頭から被ったという【衣被】が始まりだろう。男性であれば五条大橋にて太刀狩りをしていた武蔵坊弁慶を懲らしめた、牛若丸の装束が最も有名か。この伝説を題材にした絵画は世に数多あるが、牛若丸はその大半が水干を纏い、薄く白い衣を頭から被った姿で描かれている。衣を被る事そのものに顔を隠す意図があるのだから、態々面まで被る必要はないのだ。この姿から得られる情報は「己の正体を隠したい、知られたくない」という意図ではなく、単純に「自分を見られたくない」という頑なな意志表示だろうか。けれどそれも変な話だ。他者に見られたくない、認識されたくないなら最初から出てこなければいいだけの話である。なのに男はこうして大包平の前に、態々姿を現している。自分を見られたくはないが、「自分がここにいる」ことは知って欲しい。そういった何とも我儘な印象を受けた。
「|蛻・縺ォ《別に》」
「……なに?」
「|逕ィ縺ッ縺ェ縺縺ィ險△縺」縺ヲ縺■k《用はないと言っている》」
大包平の問いかけに、確かな反応はあった。しかし男が発した言葉はさっぱり意味が分からない。出で立ちが武士ならせめて人語を喋ってほしいのだが、一体どこの言葉だそれは。……否、もしかすると此方が男の声と言葉を正しく認識出来ていないだけなのかもしれない……大包平はそう感じた。なんせ目の前の男は顔が見えないこと以外はどこからどう見ても山姥切国広ではあるが、その知っている『山姥切国広』とは全く様子が異なる。もしもこれが真正の妖魔なら、言葉を認識出来ないのはむしろ自然と言ってもいい。妖や怪物を定義するもの、それは【意思疎通が不可能である】ことだ。どこの国の言語を習得していようと話が通じないか、言葉は分かっても会話の一切が悉く噛み合わないか。むしろ此方がそれをそのまま理解出来てしまうと、そちらに引っ張られてしまう危険性もある。
「すまん。お前が何を話しているのか、俺には全く分からん。俺に分かる言葉では話せないか」
「|髱«蛟偵□縺ェ窶ヲ窶ヲ繧上°縺≫縺《面倒だな……わかった》」
大包平の言葉に、男は呆れたように溜息を吐く。ぶつぶつと唱えるようになにかを呟くと、男はその場で跪いてきた。面に覆われた顔ではこの男がどこを見ているか大包平からは視認できないが、顔の高さが合ったということは視線を合わせてくれているのだろう。
「これで分かるか。……あんたにこれといった用はない、そう言ったんだが」
驚いた。てっきり意思疎通は図れないのかと思っていた。あまり口を聞きたがらないあいつと違い、これは存外話の分かる男のようだ。となれば少なくともこれは怪物のカテゴリーからは外れる。此方ではどうあっても理解できない|言語《コード》を彼方から合わせてくるということは、ひょっとするとコレは刀剣男士の上位種に当たるのかもしれない。刀剣男士とは付喪神の|情報《魂》を人型に励起したものであるが、……これは謂わば大元、その魂の|原型《オリジナル》にも程近いのだろうか。にしても、言うに事を欠いてそれとはなんだ。こういう輩が姿を現す時は大抵困っているから力を貸してほしいだとか、恨み言を聞いていけだとか、そういう展開が相場だろう。用が無いなら何故、来る。
「ならなんで俺の部屋にいるんだよお前は……」
「追い出された。いるところがない。だからあんたのところにきた」
「はぁ? 追い出されたって誰に」
「|俺《・》に。おれは邪魔なんだそうだ」
「【俺】って、……山姥切国広に、か?」
「そうだ。……あんた、つまらないな。折角会いに来たのに、おれが斬りたいあんたじゃない」
斬りたい、とは。会って早々随分と物騒なことを言ってくれる。男の口ぶりからして、図らずも窮地を免れていたらしい。顔が見えなくても、纏った衣服や|霊気《けはい》が普段と違っていても、大包平を殺したがっているならそいつは間違いなく|恋刀《くにひろ》だ。それは確かなのだが……やはり刀剣男士ではないのだろう。己がかつて表出してしまった妖の貌のように、国広にもれっきとした妖の貌がある、ということなのか。
(となればアイツが見た【俺を殺す夢】とは、コイツの仕業か?)
国広が呑み込んでしまったという妖の大包平の呪に、引き寄せられて表に出てきてしまったのか。そも普通は絶対に出てこないものがこうして自ら顔を出すということ自体、控えめに言っても善い兆候ではない。ましてや今朝……もう今の時刻からすれば昨日の朝になるが、「お前を殺す夢をみた」と国広が泣きついてきてからのこれだ。凡その事情は、否が応にも察せてしまった。是を【追い出した】ということはあの男、夢での己が所業に耐えかね、あろうことか自我の一部まで切り離してしまったらしい。自罰感情と自己犠牲も大概にしろ面倒くさいと、大包平は内心で盛大な舌打ちをした。
というか。
こいつはこいつで『会いに来た』というれっきとした用事があったんじゃないか。
表も天邪鬼なら裏も天邪鬼か。
「つまらんと言われてもだな……。というか【お前が斬りたい俺】とは一体何だ?」
「なぁあんた、|あ《・》|の《・》|綺《・》|麗《・》|な《・》|あ《・》|ん《・》|た《・》には、もうならないのか」
「俺の質問に答えろ! あっちもそうだがお前もか!」
「今のあんたはどうでもいい。おれが斬りたいのはあの綺麗なあんただ」
「……っええぃ失礼なことを言う奴だな! 俺はいつでも美しいだろうが!」
「今のあんたがどうかなんて、おれの知ったことか。おれが一等好きなのは、あの綺麗なあんたなんだ。あれ、もう一度やれ」
この男、ひとの話をまるで聞いていない。腹立たしいが、いつもの国広と違いこの男はどうも此方に全く興味がないらしい。噛み合わない会話に悪戦苦闘しながら、どうにか男の口から引き出したその『もう一度』という言葉を、大包平は聞き逃さなかった。やはり国広が見た夢で|大包平《おのれ》を殺したのは、この男の仕業である可能性が高い。そうなれば斬ったのは予想通り、国広が取り込んでしまった妖の己だったということになるが。
「ッ、お前が言っているのは妖の俺の事か」
「それだ。それが見たい。あんた、もういちどあれを見せてくれ。俺はどうしてもあれを斬りたいんだ」
「……斬りたい、だと?」
次いで男の口から零れた「斬りたい」という言葉に、大包平は微かな違和感を覚えた。一夜の|惨殺《ゆめ》ではとても斬り足りないから、此処に来たのだろうか。だとしても、先に付けられた「どうしても」という言葉が引っ掛かる。……それはまるで、斬っていないとでも言っているかのような。
「それならお前、もう|昨《・》|夜《・》斬ったんじゃないのか?」
大包平は鎌を掛ける。
怪士の面の男は大包平から視線をずらすように、微かに俯いた。
「―――斬ったのはおれじゃない、|俺《・》だ」
その仕草はまるで、幼子が拗ねているかのようだった。
「いくら小突いても斬ろうとしないから、そんなに嫌ならおれが代わりに斬ってやろうと思ったんだ。全部おれの所為にしておけばいいのに、|俺《・》はいつも肝心な所で出しゃばる。|俺《・》のものだと言わんばかりにあの綺麗なあんたを斬り刻んで、ほんのちょっとも残しておいてくれなかったんだぞ。前は散々斬りたくないと駄々をこねて、おれを止めた癖に。|俺《・》はいつも勝手で、ずるい」
「……成程な」
国広が見たという昨夜の悪夢は、この男の仕業ではない。むしろ逆だ。これはあいつの、|防衛本能《ストッパー》だったのか。この妖は紛れもなく山姥切国広そのものではあるが、同時に山姥切国広が負う筈だった罪過を代わりに被ってくれる「なにか」でもあるのだろう。欲望に駆られた行動を|こ《・》|れ《・》の所為にしてしまえば、少なくとも『あの時は正気を失っていた』から、ということに出来る。けれど国広は恐らく、それをよしとしなかった。欲に耐えられなかったのは己自身であり、あくまでも己の意思で行ったことであり、己が背負うべき|過失《つみ》であるとしたのだ。
ならば―――国広の理性を揺さぶって唆し、手に掛けさせたのは。
(何が『こいつの仕業』だ。……俺の所為ではないか)
これは大包平が己の失態払拭に手を拱いていた、そのツケだ。あの日から腹の底で蟠り続けている負い目が、ここに来て災禍という明確な形で恋刀を襲っている。その事実を改めて突きつけられ、ひどく苦い想いが胸に広がった。目の前のこいつはただ単に、妖の大包平から国広を守ろうとしただけだろう。たとえそれがこの男の『化け物斬り』としての本能であり、妖を斬りたいという欲求でしかなく、|心《おのれ》を守るという自覚すら無い行動なのだとしても。
「だが、やれと言われても無理だぞ。今の俺にはどうあっても引き出せん【貌】だ。出す訳にもいかん」
「つまらないな……。なんでだめなんだ……」
「なんでもだ、あれは危ないからダメだ」
何とかしなくてはならない。それはそうなのだが、肝心の国広が呪を手放そうとしないのだから困ったものである。吐き出すよりも自我を切り離す方を取ったのだから、よっぽどだろう。欲しがりにも程度がある、それでは堪えるはずだ。その上この手の御祓位の専門家であろう石切丸は、国広の呪を問題視してはいなかった。専門家の手を借りられないなら、自分たちだけで対処しなくてはならない。ぼんやりと頭に響き始めた頭痛にどうしたものかと蟀谷を指で叩きながら思案していれば、目の前で跪いていた怪士の面の男は、徐に立ち上がった。何事かと大包平が顔を上げた……次の、瞬間。
「その危ないやつがいいのに。おれはあの、一等綺麗なあんたが好きなんだ」
「―――ぐ、あッ!?」
完全に、油断していた。何が起こったのかも、全く分からなかった。遅れてきた胸部と背中全体に広がる鈍痛で、男によって蹴り飛ばされ、布団に身体を叩き付けたことを知った。予期していない衝撃に襲われた為に、受け身の体勢も取れなかった。布団の上とはいえ勢いよく背中を打ち付け、大包平は思わず咳き込んで呻く。腹の上に乗り上げてきた男は湯帷子の襟を強引に掴み上げると、ゆっさゆっさと大包平の身体を揺さぶってきた。
「なぁ、みせろ」
「ッ、な……!」
「あれをもう一度、おれにみせてくれ」
「ぐ、この、っ、……ゃ、めんか、ッ!」
「みせてくれたら、斬ってやるから」
身体はひどく乱暴に揺すられているのに、耳に届く声には何の情動も伺えない。抑揚もなく淡々と紡がれるその音に、頭が混乱しそうだった。男の貌は、面に阻まれて見えない。その面の下で、今どんな表情をしているのだろう。何を思って、こんなことをしている。男の望みは懇切丁寧な程言葉にされているのに、この男が何を考えているのかが、全く分からない。それが何より怖ろしかった。
「俺には、っ、無理だと、言ってるだろうが……! 斬りたいと言うなら、猶更駄目だッ!」
「……? 変なことを言う奴だな、あんた。妖は斬るものだろう?」
大包平の上体を揺さぶっていたその両腕が、ぴたりと止まる。その隙に掴まれていた襟を何とか振り解いた。裏の貌であろうとも恋しい相手には違いない、だからこんな感情、本当は抱きたくない。けれど是は、今の己を定義するものとはまるで違う存在だ。腕も指先も震えていて、乱された湯帷子を上手く直せない。いつまでたっても呼吸も鼓動も落ち着かず、ひやりとしたものが背中を伝っていた。言葉さえ通じるなら、話さえ出来るなら、歩み寄れる等と驕ってはいけない存在なのかもしれない。
「……ッ、お前も、妖じゃないのか」
「そうだ、おれは妖を斬る妖だ。あんたは妖じゃない、神様だ。おれに神様は斬れない。だから今のあんたはつまらん」
「そんな、つまらんと連呼されてもだな……」
「なぁ、ちょっともだめなのか。指先とか脚だけでも、あれにはなれないのか」
難しい事を言う。そこだけでもいいから斬らせて欲しいということなのだろうが、身体の一部分だけ妖になどできる筈がない。……大体「斬らせてくれ」なんて言われて、はいそうですかなんて許す輩がどこにいるというのか。真っ平御免、という奴だ。
「ッ駄目なものは、駄目だ! ……というか、なれるわけないだろうが!」
気力を振り絞って一喝してやると、男はこれまでの態度とは一変してがっくりと肩を落とした。力無くよろよろと立ち上がり、大包平の上から退く。そのまま障子戸とは反対方向へと背を向けてどこへ行くのかと思いきや。
「そんなにいじけることないだろ…………」
部屋の隅っこで両膝を抱え、座り込んでしまった。
「けちめ。あんたなんか嫌いだ」
「俺が悪いみたいな雰囲気を出すんじゃない!!」
そのあまりにも情けない姿に、大包平は深いため息と共に脱力する。冷や汗も吹き飛んでしまった。さっき嫌という程に感じたあの得体のしれない怖ろしさは、一体なんだったのだ。幸い男が此方に全く興味を示さないお陰で命拾いをしている訳だが、妖をやるにしてももう少しやる気を出すべきではないだろうか。妖怪なら他者を脅かして怖がらせるのが仕事みたいなものだろうに、途中で仕事を放棄する奴があるか。そんな見当違いの怒りまでこみ上げてくる。
「……あのなぁお前、ここは俺の部屋だ。俺が嫌いだと言うなら出ていけばいいだろう」
「他に行きたい所がない。元より喚ばれていない俺の居場所なんて、どこにもない。おれは|俺《・》に戻れるまで、ここにいる」
「天邪鬼か貴様……、しょうがない奴め」
先ほどとて痛い目を見たろうに、我ながら呆れてしまう。これは己の良く識る山姥切国広ではあるけれど、良く知る恋刀ではない。油断するべきではないということ位、分かっている。けれど素直じゃない癖に甘えたで、寂しがりで、図々しくて、こういう所は変わらない。どうしても目的が達成できずすっかりへそを曲げてしまった我儘な妖に、一周回って苦笑さえ漏れてしまっていた。こうなってしまうともう放っておけなくなるのが、この世話好きな大包平の性である。
「そこで蹲られても気分が悪い。俺の部屋にいるならこっちに来い、その鬱陶しい衣も不気味な面も全部外して俺と一緒に寝ろ」
「ええ……」
「なんだその反応は」
「これは取らないしおれは眠くない」
「夜行性なのか?」
「猫と一緒にするな」
敷布団をぽんぽんと叩き、添い寝に誘ってはみたものの。当刃にはぷい、とそっぽを向かれてしまった。それでも布団まで寄ってこないだけで、部屋から出ていくつもりは全くないらしい。そういう所もますます変わらなくて、警戒心はどんどん削がれていく。……しかし。
「とにかくおれはここにいるだけだ、あんたの眠りを妨げるつもりはない。斬れないなら、興味もない。おれなんか気にせず、あんたはさっさと寝てしまえ」
「……そうか。まぁ、無理強いするつもりはないが」
「ないが……、なんだ?」
国広と大包平は、未だに共寝をしたことがない。交接はおろか、共に眠ったことさえない。情を交えたいという想いがないわけではないが、国広の方の気が進まないようで、此方から誘うことも控えている。国広が踏み込もうとしない以上、此方も安易に踏み込むべき領域ではない、そう思っていたのだ。十中八九手前の呪の影響だろうとは踏んでいた為、その点においても我慢をさせてしまっているのかもしれない、と負い目を感じてはいる。裏の貌であるこの男に今の大包平は斬れないというのなら、少なくとも殺されるような惨い目には遭わないだろう。
「いいや。……折角なのに、残念だと思ってな」
だったらせめて。
添い寝くらいはできたらいいのに―――そう、思っただけだったのだが。
「……|俺《・》がああなった理由が、よく分かった」
煩わしそうに吐き出された深い溜息の音と共に、俄かに部屋の空気が冷たくなる。言葉尻には蔑むような嘲笑。先ほどまで俯いていた怪士の面は、大包平の方を向いていた。蒼碧の瞳は見えない。けれど確かに感じるのは―――殺気、だった。
「やっぱりおれは、|俺《・》をめちゃくちゃにしたあんたが大嫌いだ」
面で瞳が見えなくても分かる。射殺すような鋭い視線。睨まれている。
いつもの国広も大概なのだが、この男も相当に可笑しな奴だ。嫌いなのに、ここにいる。嫌いなのに、傍に居る。国広の裡から追い出されたと言っても、どこにでも自由に行ける足はついているだろう。その上で、他に行きたい場所がないと言って、此処に来ている。顔も布と面で覆いつくして、見られたくないと嘯きながら、それでも己は此処に居るのだと訴え掛ける。それは此処なら居てもいい、この大包平の傍こそが無条件で信じられる場所なのだと、言われているようなものではないか。
「おれが斬りたいのはあの綺麗なあんただが……おれが斬るべきなのはきっと、あんたの方なんだろうな」
「だが、|俺《神》は斬れないんだろう?」
「ああ、斬れない。だから余計に腹が立つ。おれだけで、あんたを殺せたなら良かったのに」
明確に殺意を向けられているというのに、先程のような怖ろしさはまるで感じなかった。それは今向けられている感情が殺意でも、本当に殺される心配が無いからではなく。
(……嗚呼、そうか)
怪士の面の男が怖ろしかったのは、男が何を考えているのか分からなかったからだ。どんな想いでも構わない、己に向けられている感情が何なのか。それが分からなかったから、怖かった。分からないものに触れるのは、怖ろしい。それはきっと、誰だって同じだろう。けれどほんの少しでも、爪の先程度でも、言動や所作に潜めているこころが見えるようになったなら。
―――第一。
この|妖《かたな》、ないしこれの基となった霊剣が斬ったとされる「山姥」なる怪物とは。人を喰う鬼女の貌とは別に、動植物を守り育む山の神・地母神の貌も持ち合わせている。山の神に仕える巫女が妖怪へと変生したものであり、その身の遺骸からはあらゆる富を生ずる|産霊神《むすびのかみ》でもある。
故にこれが【山姥切】を名乗るからには、神殺しの刀でもある筈。
今の大包平とて、斬れぬ筈がないのだ。
神を、殺せない筈がない。
にも拘わらず、この男は殺せないと嘆く。そこには必ず理由がある。……もしかすると。
そのことに気づいたのは、翌朝。男が忽然と姿を消した後の、家財道具さえ置かれていない部屋の隅を見てからだった。
次へ
powered by 小説執筆ツール「notes」