妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)
四、あやかしゆめうつつ ー|愚者《おろかもの》ー
明らかに、国広の様子が可笑しくなっている。
今朝方国広が自室を訪ねてきた際、一目見て真っ先に感じたことだ。その蒼碧の瞳は据わりきっていて、微動だにしなかった。普通他者と顔を合わせた時は、瞳が真っ先に動き、相手と視線が合うものだろう。その視線が、不気味なほどに全く合わなかったのだ。背筋を伸ばして立っていれば顔の高さは殆ど同じ位置にあるのに、国広は全く違う所を視ていた。その時、静かに背筋が冷えていったのを覚えている。努めていつも通りに声を掛けた時こそ、幾ばくか正気を戻したようだった。しかし途端に骨まで軋みそうな程の力で抱き締められ、やけに首を撫ぜられるかと思えば今度は首を掴まれ、喉を潰されるかと思った。どうにか我に返って手を放した時の、あの泣き出しそうな顔が頭からずっと離れない。あんな「助けて欲しい」と縋るような顔をされたら、叱れる筈がないだろうに。むしろここで恐れをなして手を離してしまう方が、ずっと危うい。それは見捨てるという、国広への明確な裏切りだ。国広を苛む呪が元をただせば大包平を要因としているだけに、他の何を諦めようとそれだけは出来ない。やってはならないことだ。
恐らく怪士の男が国広の元を離れたことが影響していると見て、間違いはないだろう。本丸に顕現する刀剣の付喪神は、『刀剣男士』という型に嵌るよう調整されている為、通常なら『化生』の側面が表に出ることはない。表に出そうにもまず規格が異なるからだ。いつかの大包平のように、その枠さえ歪んでいなければ貌が裏返ることはまずない。とはいえその側面もまた『山姥切国広』という付喪神を構成している自我の一部だ。それはそもそも刀剣男士として顕現する為の、基礎部分でもある。定義するものを削れば自我が崩れるのは必定。国広が呑んだ大包平の呪とは、訳が違う。此方は一度顕現自体が解けてしまったのもあるが、意図的に歪められてしまった枠組みを修復する為に|刀身《ほんたい》を再構成され、再顕現も為されている。枠が合っていなければ、当然中身も安定しない。あのまま刀身のみを手入れで修復して再び顕現すると、ふとしたきっかけで貌が入れ替わってしまうことになる訳だ。その癖枠が歪んでいる為に、形を固定することも出来ない。その状態が進行すれば、そもそもヒト形すら保てなくなってしまう。『ズレ』るとは、そういうことだ。妖の貌が持つ力は強大だが、その分制御など利かない。それは大包平が身を以て体験している。
本来ならば我が身から溢れ出た呪いであれば、我が身で解毒できるは道理。しかし国広が抱える妖の呪いとその発生源である大包平とは、既に繋がりが切れている。国広から呪いを取り込むこと自体は可能だろうが、再び大包平自身の枠組みが歪んでズレることにもなるやもしれない。厄介なものだ。……何故石切丸はあの危険な呪いを祓おうとせず、国広も律儀に抱え続けてしまうのだろうか。
支柱の一つを自ら切り離し、存在の根底がいつ崩れるか分からない状態。それでも尚踏み止まれているのだから、全く怖ろしい程に強靭な精神力である。並大抵の付喪神ならば自身の存在を保てずに消滅するか、我欲に呑まれて悪鬼羅刹に変生している所だろう。この本丸の黎明期から顕現し、多くの死地を潜り抜けてきたという古参の名は、伊達ではないということか。それとも魔性を斬る『霊剣山姥切』の名を冠するが故に為せる技なのか。その強大で勇ましい|逸話《伝説》の力が、大包平はほんの少しだけ羨ましかった。その物語は決して羨むような輝かしいものではないと、分かってはいても。
流石に看過できない状態だ。しばらくの間夜は国広と一緒に眠ることにして、朝の内にその旨を審神者に報告した。国広の精神状態が安定するまでは、共に出陣と遠征を控えたいと進言したのだ。審神者も国広の身を案じていたようで、進言はあっさりと通り長期の休養を設けてくれることになった。国広の様子が妙だと、他の刀達からも報告があったのだろう。幸い日中は精神が安定しているのか、普段通りの生活は送れるようだが、問題は朝晩だ。今夜は出来るだけ安心して眠れるように、普段通りに接することを意識して、部屋まで連れてきて一つの布団に入った。
(……まぐわいの準備なら、いつでも出来ているんだが)
同衾と呼ぶにはあまりに欲が絡まないそれは、幼子に添い寝するのと大して変わらないようなもので、思わず笑ってしまった。肌を重ねることで感情の暴走が治まるなら情交に及んでも一向に構わないのだが、国広はそれを理由にしたくないのかもしれない。全く律儀というか、愚直というか。そうして眠りに落ちた先の、夢だ。気配を感じて起き上がると、怪士の男はいつものように部屋の隅っこで膝を折って蹲っていた。怪士の男に、声を掛ける。
「お前、毎晩俺の傍にいるが……いつになったら山姥切国広のところに戻るんだ?」
一緒に寝た筈だった現実の国広は、夢の中では布団から姿を消していた。此方の夢に引き込むことができれば、こいつも国広の元に帰してやれるかもしれないと踏んでいたのだが……流石にそう上手くはいかないようだ。となればもう、この怪士の男には自分から戻ってもらう他ないのだが……そもそもこいつ、戻る気はあるのだろうか。
「知らん。おれは要らないから……もう戻れないのかもな」
「戻れなかったらどうなるんだ」
「どうもしないし、どうにもならん。ここにいるだけだ」
どうもしない訳がないし、どうにもならん筈もない。現実の方の国広は、既に自我が欠けた影響が顕著に出始めている。付喪神に備わった逸話は、そのまま器物の存在を証明するものだ。この存在とは、必ずしも刀剣という実物を意味しない。岩融や今剣等、例え空想上の刀剣であろうとも人々が認識してさえいるなら、それは歴史上確かに『存在』したことになるからだ。必要だからそこに在る。移り変わる歴史の認識によって、または人々の空想によって物語が付け足されていくことはあっても、欠けて良いものはない。病や怪我を負った際でも肉体が機能するよう余力を残して動き、一部は健全な状態であれば他人に譲渡しても生存できる、人体の臓器のようにはいかないのだ。代わりのように抜けた自我の一部分に収まっているのであろう大包平の呪は、どうしたって国広の妖の貌になどならない。
「いるのは構わんが、何故邪魔なんだ? お前も『山姥切国広』だろう」
「……はぁ。あんた、わからないのか? |俺《・》はおれが嫌いなんだ、|俺《・》は国広の傑作であって、化け物斬りの刀じゃない。化け物退治なんか、俺の仕事じゃない」
怪士は呆れた風に溜息を吐きながら言う。いつも思うが、どうしてこの男共ときたらそこまで己を蔑ろに出来てしまうのだろう。|矜持《プライド》なら売る程ある。刀としての自分に自信がない訳でもない。なのにここまで捻くれてしまった。やはり山姥伝説と化け物退治の逸話、国広が頻繁に口にする『偽物』と『写し』という言葉の意味を、ごちゃ混ぜにしてきた人間達の影響が強いのだろう。此方は此方で、人の空想によって存在が成立する付喪神のデメリットを、もろに引っ被ってしまっている。難儀なものだ。
「|俺《・》は妖を斬る妖じゃない。歴史を護る神として喚ばれている。でも化け物斬りのおれがいると、|俺《・》は化け物と一緒に大事なものまで斬ってしまう。そんなの、……そんなもの、妖となにも変わらないじゃないか」
「……成程な、だからここにいるお前は要らないと?」
「そうだ」
やはり、そういうことだったのか。神殺しの刀でもありながら、この怪士が大包平を『斬れない』と嘆く理由。国広は己の感情が暴走している原因は、大包平の呪いに誘発された『山姥切の本能』にあると断じてしまっていたのだ。今ある刀としての本能はむしろ国広自身の方であり、大包平の夢に棲みついてしまったこの怪士の方が理性に近い状態になのだろう。『山姥切』の名前が持つ化け物退治の逸話と、理性。国広自身が『山姥切』としての本能を嫌悪する余り、怪士は国広の元を離れる際、この二つを国広の裡から持ち出してしまったのだ。妖を斬る伝説の刀であるから、『化け物』と定義されるモノならば斬れる。しかし同時に感情を制御できなくなった国広の理性を押し付けられた存在であるが故に、ヒトが信仰するモノである『神』と位置付けられた刀剣男士は斬れない。この言葉の意味は、此処にあった。
なんにせよ、どうにかしてこの怪士を国広の裡へと還さなくてはならない。刀剣男士として無くてはならない『拠り所』の一つが、欠けた状態なのだ。あのままでは何れ、戦闘にも支障をきたすようになる。刀剣という現実により近づいた分、人の思い描く|空想《ユメ》からは遠ざかってしまった。空想の欠けた神に、空想と現実を織り交ぜて作り上げられてきた歴史を正す力などない。
「全くお前は……いや、お前達は本当に、しょうがない奴だな!」
大包平は勢いよく布団を捲って立ち上がると、ずかずかと大股で怪士の元へ歩み寄った。
「な、なんだ……やめろ、おれは寝ないぞ、寝ないったら寝ない」
「寝なくていいからそこに座れ」
腕を引っ掴んで無理矢理立ち上がらせると、敷布団の上まで連行する。最初は抵抗して畳の上を引き摺られていた怪士だったが、途中で諦めたのか渋々と歩き始めた。おとなしく付いてくる怪士の男を敷布団の上まで誘導すると、向かい合って座る。
「その名はお前達が望んで得たものではないのだろう。『山姥切』というお前達の名はそれそのものが人に形作られた|物語《でんせつ》であり、写しとはお前達の成り立ちそのものだ。それでも、否、だからこそ。お前達の|ど《・》|ち《・》|ら《・》|が《・》|欠《・》|け《・》|て《・》|も《・》、山姥切国広という付喪神には成り得ない」
「……? だっておれは空想だ。|俺《・》は山姥なんか斬ってない、斬った覚えなんかない。だったらおれは、元々必要ないモノだろう……」
「逆だ。『空想』だからこそ、必要なんだ」
確かに理不尽だろう。この刀は『山姥切』という霊剣の写しとされており、それそのものではない。にもかかわらず『山姥切』と同じように霊剣として扱われ、比較される。刀剣男士であるより以前に、器物である国広にはその名を拒むことなどできない。それでも彼らは、その名を背負わねばならない。―――何故なら。
「それは『山姥切』という霊剣の物語ではない。『山姥切国広』という刀が辿ってきた歴史だ。それなくしてお前達は、付喪神になどなれん。付喪神になれないなら、刀剣男士としても成り立たん。その成り立ちが不服であればお前達はまず、この戦いに参ずるより前に人間を恨むべきだった。何故この様な歪なかたちで|産《・》|み《・》|落《・》|と《・》|し《・》|た《・》のか、と」
「……それは」
『山姥切国広』という付喪神は、その成り立ちからして歪んでいる。ヒトの夢想によって生まれた化け物退治の伝説。長尾顕長の依頼で打たれた『本作長義』の写し。時代の移り変わりによって歪曲してしまった『写し』という言葉の意味。この男は、それらが複雑に混ざり合って形作られた付喪神だ。写しとは既に在る刀を手本として新しく打った刀を差す。時代が進むほどに、より本歌の特徴を捉えた精巧なものが作られるようになっていくが……本来は和歌における本歌取の意味合いが大きかった。写しが作られる意味は、刀匠の技術向上にある。本来は刀匠が過去の名工に敬意を払い、手本の特徴を押さえつつ、自身の作風も織り交ぜて作刀技術に更なる磨きをかける為に作られるモノだった。しかしこの刀はそもそもの打たれた経緯が『長尾顕長の依頼』であり、本歌である本作長義は顕長が北条氏直から下賜された刀だ。長義の茎にはいつどこで誰が銘を打ち、誰が所有している刀であり、誰から拝領したものであるかまで、克明に記されている。となれば長義は戦場で振るう為の実践刀ではなく、長尾家を象徴する威信財という扱いだったのだろう。単なる新しい刀ではなく長義の『写し』として山姥切国広が打たれた経緯には、刀工国広の技術研鑽を目的とする他、家の為にも戦火で失う訳にはいかない本作長義の身替り……影武者を作るという意味合いもあったのではないか。そこに更なる拍車を掛けたのが『写し』という言葉そのものの意味だ。|模倣《コピー》から連想される言葉は、|贋作《フェイク》。刀工国広の打った刀に限らず、刀剣はいつの時代でもその芸術性と希少性から数多くの偽物が出回っている。その多大な影響から、誤った意味まで広く浸透してしまった。写しとは贋作であり、本歌に『劣る』モノであるという認識が、定着してしまったのだ。山姥切長義と山姥切国広は共に刀工を代表する傑作であり、そこに優劣などない。あるのは『長義を基にして国広は生み出された』という事実のみだ。にも拘らず比べたがる人間達によって、逸話という箔をつける為の名前までもが押し付けられてしまった。その結果生まれたのがこの劣等感塗れの付喪神だ。化け物を斬った刀というヒトの夢想でありながら、|写しは本歌に劣るものであれ《そうあれかし》と願われてしまったモノ。この男は大包平の呪いを被るよりもずっと前から、多くの人間達の呪いを被っている。この男には、人を憎む義務があった筈だ。厄災と化してでも、人に禍を振り撒くべきだった。けれどこの男は、それをしなかったのだ。
「……写しと偽物は違う。それを分かっている人間だって、たくさんいる。|俺《・》を、国広の傑作だと叫び続けてくれた人間たちがいる。だから、……だからおれはその声まで、裏切りたくない」
この男は、人を恨まなかった。人を憎めなかった。多くの人間達に刀としての実像を歪められながら、性根から人を厭うことができなかった。そんな声、己が被った呪いの数に比べれば微々たるものだろうに。そのほんの僅かの声に全力で応え、その他大勢の人間達の呪いに抗う為だけに、『山姥切国広』という刀は歪んだまま神に成ったのだ。刀の癖に、ひとが好過ぎる。自分を愛し、信じて守った誰かの為だけに。そしてそれは、大包平自身にも言える事であった。
「あんたにも、物語があるのか。現実でも空想でも、何ひとつ斬ったことすらなくても?」
「っぐ、ぅ……そうだ。俺という刀は逸話にも伝承にも乏しい。池田輝政に見出され、長らく池田家の秘宝を務めたことだけが、俺の拠り所であることに違いない。……それでも、それがあったから俺は付喪神の魂を得た。刀剣男士となる資格ありと、見出された。妖はおろか何をも斬ったことのなかった生ぶの俺だが、人間たちは備前国包平の傑作であると認め、『最も美しい剣』であると正当に評価した。俺を愛し、護り続けてくれたんだ。俺が刀剣男士となるには、十分な物語だろ?」
大包平は刀の時代が終わりを告げるまで、『ものを斬る』という刃物本来の用途で使われることはなかった。常に錆びぬよう丁寧に油を塗って箱に収められ、時折池田家の子供たちの成長を祝う為に飾られていただけだ。歴史の表舞台に立つことはなく、華々しい英雄譚に名を連ねることも終ぞないまま、泰平の世を迎えた。人に守られ、美しいと愛でられ、人を見守って生きてきた刃生。大包平がこうして付喪神としての命を授かったのは、備前国包平の傑作、ひいては日本刀史上最高傑作の太刀として世に残され続けた為だ。ただ在るだけで美しい刀だったから、残ることが出来た。どんなに美しくともどんなに斬れる刃であろうと、モノはモノだ。戦で折れて打ち捨てられ、宝として維持できずに散逸し、災禍で焼け落ち、錆びついて朽ちていった星の数以上もある名もなき刀を思えば、それはきっと途方もないほどに幸運な刃生だろう。そんな大切に残されたという歴史によって、この魂は編み上げられている。出来ることがあるというなら、全力で応えるまで。それが『大包平』という刀剣男士だ。
「あんた、なんでそんなに前向きなんだ」
「当たり前だろう、俺の物語だぞ! 俺が胸を張らずしてどうする!」
「おれには、無理だ。空想でさえ、誇れるものなんかないのに。……おれは、|俺《・》はいつだって、守りたいものさえ守れなかったのに」
怪士の男の声は、微かに震えていた。肩も、膝の上で固く握りしめられた拳も、震えている。その面の下ではきっと、泪が流れ落ちている。赤子を喰い殺した、鬼の老婆を斬った刀。それそのものでなくとも、|伝説《ものがたり》は名に刻まれている。そしてこの本丸の『山姥切国広』は、かつて目の前で大切な仲間を失ってしまった。その傷を、別れの痛みを、国広は未だ克服出来ていない。因果なものだ。その記憶はどうしたって、重なってしまうのだろう。
「俺には俺の、お前にはお前の物語がある。それを以て俺達は付喪神という生を受け、刀剣男士として肉体を得た。胸を張れとは言わん。己を好きになれとも言わん。お前達はずっと、その名によって苦しめられてきたんだろう。それでも一振の刀として、『山姥切国広』として歴史を歩んできたんだ」
大包平は俯いてしまった怪士の男の手を取った。指が白く染まる程強く握り込まれた拳をそっと解いてやると、その掌には血が滲んでいた。妖は妖、指先の爪は驚く程に長い。全く世話の焼ける男である。どうせ夢だと思いつつも布団の敷布の端を裂いて掌に巻き付けてやると、腕を引いて抱き寄せる。
「此処に顕現したお前は仲間との死別に深く傷つき、やった覚えもない化け物斬りの衝動に苦しみ、それでも尚刀剣男士として歩むことを止めなかった。それは妖の顔をした|お《・》|前《・》の存在なくしては、叶わないことだ。お前がいなければ、あいつは|お《・》|前《・》じゃないんだ。お前なくしてあいつは山姥切国広を名乗ることなど出来ん」
猫のように丸まってしまった背を、いつも現実の国広にしてやるように撫でて、優しく叩く。その身体は国広より一回り程も小さく、すっぽりと腕の中に収まってしまうくらい頼りなかった。そういえば、腕を掴んだ時の感触がやけに細かったような。……否、あいつの腕を掴む機会などそうはないから、判断などつかないか。怪士の男が付喪神の大元に近い存在なら、現実のあいつは『山姥切国広』という刀剣男士の中でも、ちょっと変わった個体なのかもしれない。初めて逢った夜は馬乗りにされて、それからもずっと夢に現れていたのに。こうして触れ合って抱き締めて、やっと気付くとは。
「……大丈夫だ。誰もお前を知らなくたって、俺がお前を知っている。お前を視たのは俺だけなんだろう? お前だってそれを分かっているから俺の所に来て、ずっと俺の傍を離れなかったのではないのか?」
本当は、ずっと前からこの男を知っていたのだろう。呪いをばら撒き、自らも妖の気に呑まれかけた、あの時から。全身が歓びに震える程感じた本気の『殺意』は、国広の裡で目覚めたこの怪士のものだった。男が化け物斬りの衝動を向けたのは、大包平に対してのみだ。だから大包平以外、誰もこの男を知らない。国広に山姥切の衝動が『在る』ことは知っていても、その衝動が発露した様を見た者がいない。この怪士の存在を、確かに感じた者がいないのだ。そんな中で大包平だけが怪士の国広をこの目で視て、感じて、知っている。認識されていなければ、存在そのものを訴えかけることができない。それこそが、この男が此処に居続けた理由。大包平の夢に棲み付いていた、理由だったに違いない。
「嗚呼―――そうだ、そうだった。あんたの言う通りだ」
怪士の男は大包平の腕の中で、ようやく面に覆われた顔を上げた。声色は、先程よりもずっと穏やかで明るかった。その碧眼も今は、きらきらと輝いているに違いない。なんだって面など被っているのか。その美しい瞳が見たいのに、見られないのが惜しくてならなかった。それまではされるがまま大包平に抱き締められていた怪士の国広は、今度は自分から大包平の首に飛びつき、ぎゅうぎゅうと抱き締め返してきた。
「悔しいな。あんたなんか大嫌いだと思ったのに。あの綺麗なあんたになんか、あんたは絶対敵わないと思ったはずなのに。どうしてあんたも同じくらい、綺麗に見えるんだ」
「ふん、当然だろ。……それも間違いなく『俺』だからな」
「ふふ、ははは。あんた、綺麗だから付喪神になったんだもんな。初めてあんたを斬りたいと思った」
「……なんでだ!? 今の話のどこに俺を斬りたくなる要素があった!?」
「全部だ。なぁあんた、やっぱりあっちの、もうひとりの綺麗なあんたになってくれ。おれは|化け物《あいつ》じゃないと斬れないんだ。あんたを斬りたくてずっと此処に居たのに、斬れないんじゃ此処に居る意味がない」
「だからなぁ、散々『あの俺』にはなれんと言っているだろう! 我が儘を言うな!」
「けちめ……あんたのそういう頭が固い所は嫌いだ……」
この期に及んで言う事がそれとは、本当に空気の読めない奴である。今更ながら思い至ったことだが、もしかしてこいつ、相手を好きになる程に斬りたくなる性質でもあるのだろうか。生来の妖怪であればむしろそちらの方が自然なのかもしれないが……、些か猟奇的に過ぎないか。生憎だが大包平にはてんで理解の出来ない性質だ。本尊は元々儀仗用の太刀であり、美術刀剣としての扱いが遥かに長い。未だ血肉の感触を知らないままであることが影響しているのかもしれない。まぁ、相手の全てを知った上で理解できるとは限らない。そんなことはごく稀だ。理解できなくたって、傍に居られない訳ではない。だからそれ自体は構わないのだけれども、今は相手の「斬りたいが斬れない」でどうにか命拾いをしている身だ。恋刀にはせめてもう少し穏当になってもらいたい。大包平は思慮を巡らせ、どうせならずっとやりたかったことを口にする。
「ケチで結構。……そういう時は、抱きたいと言ってくれ。要はお前、俺が欲しいんだろ。俺がくれてやれるのは精々そこまでだ、おとなしく妥協しろ」
斬る、殺すという欲求の代替になりうるもの。限りなくそれに近い衝動と感覚。そんなもの、この肉体で実現する方法は一つしか思い当らない。元々あった願望でもあるが、問題はどちらをやるかだった。その欲求が満たされるなら、大包平自身は抱くも抱かれるも、どちらでも構いはしなかった。けれどきっとこの頑なな怪士の国広は、寝転がってじっとしていられる男ではない。現実の方は兎も角として、此方はそんな情緒もなさそうだ。だったら自ら受け身になった方が楽だろう。無論、本来なら妥協でやる行為ではない。それは重々承知の上だ。けれど、どうしても実現出来ない事を他の方法で埋める事は、必ずしも悪いことではない。元より付喪神の源泉である|空想《フィクション》とは、その為にあるようなものだ。
「しょうがないな……。じゃあそれでいい、それならできる」
「……っ、うぉ、ッ」
怪士の国広も不承不承、といった風ではあったが、大包平の誘いにどうにか納得はしてくれるらしい。……その割には、随分と性急な。現実の方とは違い体格差は大きい筈なのだが、大包平の身体は怪士の国広によってあっさりと敷布団の上に転がされていた。
「なぁ、あんたを抱きたい。あんたが欲しい。おれに、あんたを寄越せ」
特に抵抗した訳ではないとはいえ、それなりにある体躯をこうも軽々とひっくり返すとは。馬鹿力が過ぎないか。現実の国広もこれだけ熱烈だったなら良かったのだが、怪士の国広がこれだけ素直なら、やはり彼方はずっと抑え込んでいるだけなのだろう。返事をする前から襟元に入り込もうとしていたせっかちな手を制止し、大包平は答える。
「構わんが、俺をやるには条件がある」
「……なんだ」
「衣と面は取れ。話はそれからだ」
「いやだ」
「なんでだ!?」
「……これは取らないぞ。取りたくない。でもあんたは欲しい」
大包平に覆い被さっていた怪士の国広は、慌てて身体を離した。溜息を吐いて転がされていた身体を再び起こすと、面と衣を奪われると思ったのか、身を縮こまらせるようにそれらをぎゅっと押さえ付けてしまった。無理矢理剥ぎ取るつもりはないが、こちとら流石にそのまま抱かれるというのはいただけない。その鬱陶しい黒衣と不気味な面で、どうやって情事の気分を盛り上げろというのか。
「我儘な欲しがり屋さんめ……。だが面を取らんなら、俺はやらんぞ」
「なんでそんなに顔を見たがるんだ? 別におれの顔なんか、見なくてもいいだろう……」
「あのなぁ……俺だって|山姥切国広《お前》が好きなんだ。お前の綺麗な顔も見えないまま抱かれてたまるか」
これは大包平自身にとっても、ひっそりと望んでいたことだ。現実ではただ望まれていない、望まれる段階には至っていない。そう思ったから、伝えなかっただけのこと。献身などではないのだから、そこまで甘やかすつもりもない。面に覆われた頬から顎にかけて、指先でそっと撫でる。怪士の国広は敷布団の上で露骨に後退りした。
「な!? ……き、綺麗とかいうな! |俺《・》はともかく、おれは妖なんだぞ……!」
「あッははは、何を言う! お前がそうなんだから|俺《・》|だ《・》|っ《・》|て《・》妖だろ?」
「……ッ!」
全く話を聞かん奴だ。妖の貌もまた己自身であると、先程言ったばかりだろうに。そもそも刀の付喪神なんて、皆当たり前のように美しいものだろうが。第一に刀は鋼の美しさを以て人を魅了し、物語が作られる。物語から命を得るのだから、刀の付喪神はただ在るだけで美しい。それはいくら面で隠そうと衣を被ろうと、誤魔化せるものではない。
「好きなおとことまぐわうのに口吸いのひとつも出来んなど、俺には耐えられん。面は取らんと言うならお前に俺はやらん。……|出《・》|直《・》|し《・》|て《・》|こ《・》|い《・》!」
自ら望み、誘ったことではある。けれどそれは、この身体の奥深くまで暴いて繋がりたいという、国広の意思があってこそだ。ましてや此方は受け入れる側、まるごとくれてやる覚悟でいるのだ。妥協してやる謂れなどない。
―――己が美を晒す度胸すらないなら、それまでだ。
「―――~~~ッ……これで、ッ満足か!」
果たして怪士の面と黒の衣は、畳へと投げ棄てられた。露わになったその美貌、漸く見えたその蒼碧の瞳に、大包平は笑って男を褥へと引き摺り込んだ。
……当然だ。
同じ|貌《おとこ》だなんて、最初から分かっていたことなのだから。
*
とはいえ経験などない、何も分からぬモノ同士の手探りの情交で、受け身の己が快楽を得ることまでは叶わず。そも夢では霞を喰らうも同然なのだろう。そこは残念ではあるが、致し方ない。それでも怪士の国広は終始夢中でこの身を余すところなく貪り尽くし、満足したのだろう。以降夢に現れることはなくなった。……さぁ、手筈は分かった。後は現実だ。
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