妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)





 結局己の感情の対処など何も出来ないまま、時間だけが過ぎていく。変わったことと言えば、今夜は恋刀と同じ布団で眠っている。ただ、それだけだ。変わらぬ日中を過ごし、夜を迎え、言われるがまま恋刀の部屋に連れられて一つの布団に入った。同衾に違いはないが、相変わらず情を交えるには至らなかった。色気も何も、あったものではない。ただでさえ図体のでかい、六尺を超える身丈だ。それもひとり用の布団に、ふたりで無理矢理入っている。これは流石に狭かった。身体が布団からはみ出て寒いから寄れと抱き締め合って、お互いに痛い痛いと文句を言いながら、硬い脚をぶつけて絡め合った。じゃれ合って笑いながら、気付けば眠りについていた。国広が安心できるよう、大包平が努めて普段通り振る舞ってくれていたからかもしれない。もう眠ることすら怖ろしかったのに、その逞しい腕に包まれてしまえば、あっさりと意識は眠りに沈んでくれた。

 結局、いつにも増して酷い夢を視てしまうことになる訳だが……その日の晩夢に出た美しい妖の男は、これまでの様子とはまるで異なっていた。

「貴様、昨夜のあれはどういうつもりだ」
「……何の話だ」

 顕れた男はやたらと機嫌が悪く、今宵のその鈍色は刺し殺すような鋭さを放っている。昨晩までは何が可笑しいのかも分からない程、からからけらけらとひとりで楽しそうに笑っていた癖に。寄り添い合い、共に眠りに落ちた方の恋刀は、布団から忽然と姿を消している。そのことに対して特に取り乱すこともなかった辺り、やはり夢は夢ということなのだろう。

「とぼけるな、手を抜いたろう」
「手を抜いた……?」
「これだ」

 男は忌々しげに顎を上げると、水干の中に着た単の襟を雑に下げ、首筋を晒す。
 前日の夢には確かにそこにあった筈の死の線は、跡形も無く消え去っていたのだ。

「道理で前より痛みが鈍い。さぞ再生に苦労するかと愉しみにしていたというのに……あっさり戻ってしまった挙句、初夜の痕まで消えてしまったではないか」

 苛立ちと不満を隠そうともしない、威圧的な視線。……そういえば昨夜は『再生するのに三日掛かった』と言っていたか。確かに会いに来るにも早過ぎる。昨夜夢で斬ったことは、頭もこの手も、嫌になる程はっきりと覚えている。それが、今度はたった一晩で全てが跡形もなく綺麗に治ってしまった。恐らくこれが、この妖が持つ本来の力なのだろう。何度朽ちようとも美しく蘇る、死と再生を司る蝶の妖魔。

「貴様の|殺意《ほんき》は何処へ行った? 俺を斬りたいならもっと愉しそうにせんか」
「愉しい訳があるか!! あんなもの、ない方が良いに決まってるだろ……!」

 現実では恋刀の腕に包まれて眠っているから、なのだろうか。今夜は不思議と、いつものような狂気を感じなかった。あの両目を潰したくなる罪悪感も、目の前の男を斬り刻みたくなる情欲も。相変わらず、頭の中の自分の声だって聞こえない。だから余計に、己の犯した過が胸に強く重く圧し掛かってくる。愛しい男と同じ貌の男を、既に二度も殺してしまった。頭の中に響く声が消えようと、この手でその骨肉を斬り刻んだ感覚は消えてなどくれない。夢であろうと、その咎が無くなることはない。けれど国広を見下ろす妖の男は、険しい貌を崩すことなく睥睨する。

「それは駄目だ。あれは貴様になくてはならぬもの。あれは貴様を定義するものだ。あれなくして、貴様という刀は成り立たん。早急に取り戻せ、何れ貴様が貴様でなくなるぞ」
「なんだと……? あんなものがあったから、俺はお前を……!」

 それは、頭に響いていた声のことなのだろうか。だとするなら、ふざけたことを言ってくれる。大包平へ抱く独占欲と嗜虐心が、間違いなく自分自身の情動であることは認める。けれど『殺したい』などという狂気に囚われる程おかしくなったのは、あの任務で己の中に眠っていた|怪物《声》が目覚めてしまってからだ。だったらあんなもの、ない方が良いに決まっている。それまでは声など聞いたことも無かった。存在を知らなかったのだから、それはなかったモノと大差ない。

「お前は……お前達はどうしてそんなに傷つきたがる! 何故そんなに、俺に傷つけられたがる! 何で自分を、大事に出来ないんだ……!」

 思わず叫んだ言葉に、妖は今まで見せたことが無い程に目を丸くして、呆けた顔をした。途端、いつもの不気味な調子とは違い、無邪気に笑い始める。それは現実の恋刀が時折見せる、あどけない笑みと重なって見えた。……やめて欲しい。まるで違う筈なのに、変わらない所もあるなど、考えたくもない。

「ふッ、ふふ、ははは、ふはははは……!」
「ッ……何が可笑しい」
「ふはは、あはははは、何を言うかと思えば……馬鹿だなぁ。己を労れないのは一体どちらだ。俺はこれ以上ない程、貴様から|大《・》|事《・》|に《・》|さ《・》|れ《・》|て《・》|い《・》|る《・》ぞ?」
「は……?」
「とはいえ、此方の貴様は殺すのが好かんか。……ふん、ならばこれならどうだ」

 男は少し思案するように口元に白い袖を寄せていたかと思いきや、今度は徐に長袴の帯紐を解き、纏った衣を一枚ずつ脱ぎ始めた。紅の袴が重力に従って畳に落ち、ばさりと広がる。諸鉤に結ばれていた襟元の緒も解いてしまい、白い水干の衣もするりと重ねて落としてしまう。

「っおい、何をして……やめろ、脱ぐなっ」
「なんだ貴様、自分で脱がせたい男か?」
「誰もそんなことは言ってない!」
「ふはは、させてやりたいところだが……貴様は素直ではないからな。そこで黙って見ていろ」

 制止などまるで聞きやしない。しかして身体は金縛りにでも遭ったかのように動かず、衣を解いていく妖を茫然と見上げるばかりで止められもしない。赤の単も留めた腰紐も畳に放り、胡蝶の妖が纏う衣はとうとう下着同然な白の小袖のみとなってしまった。その頼りない薄布一枚で、美しく引き締まったその筋肉質な肢体は隠し切れる筈もない。むしろ薄衣に隔てられたその肉体は、一糸纏わぬ姿でいるよりも遥かに艶めかしく、淫靡だ。視線は無理矢理引き寄せられる。

「ッ……」
「お望み通り、一枚だけは取っておいてやろう」

 妖の男が、ひたひたと一歩ずつ近づいてくる。触れたい。その最後の衣を剥ぎ取って、頭の天辺から爪先まですべてが整った美しい肉体を眺め尽くしたい。必死で抑え付けている情欲が、鎌首を擡げている。流石にここまでされれば何をしようとしているのかなど、嫌でも分かった。分かるが、身体は動かない。恋刀にそこまで濃密な触れ合いを許した事も、赦された事も無い。だから逃げたいのに、逃げられない。敷布団へと後ろ手に突いた両の手は、その甲に上から楔でも打ち込まれているかのようだ。妖は国広の膝に手を掛けると、緩慢に広げた股の間にするりと入ってきた。長い指先が、頬にそっと触れる。視界に映っただけでも人を殺せてしまいそうな魔性の貌が、目の前に、迫って。

「―――ん……ッ」

 開いた唇が、かぷりと甘く噛みついてくる。両手で顎を包み込まれ、逃げ場も無いまま貪られる。果実を夢中で頬張るように。溢れ出る果汁を余すところなく啜るように。妖の唇と舌は、酷く甘かった。まるで蜂蜜や水飴だ。己の舌が妖の鋭い牙を掠めてちり、と痛む。蟀谷が痛む程に甘ったるい唾液の蜜に混ざって、じわりと鉄の味が広がった。妖は国広の切れた舌先から染み出すその血すらも唾液ごと舐め啜り、堪能する。

「……ッ、ふ」
「ん、ぁ……美味い。美味いなァ、貴様は。癖になりそうだ」

 漸く解放される頃には、とうに脳髄も茹っていた。吐き出した己の吐息の熱さに驚いた。口吸いだけで、酷い倦怠感だ。視界にぼやけて映る妖の薄鈍色は、少しずつ輝きを増している気がした。あの時見た、磨かれて幾重にも光を返す金剛石のような煌めき。頭がずっとくらくらしているのは、情欲による興奮と口吸いの酸欠だけではないのかもしれない。蝶は死者の亡骸に群がり霊魂を吸って運ぶという伝承があるが、……これはもしや、霊力を吸われているのか。

「な、……ぅ、ッ」
「そら、俺を犯せ。貴様の好きなように、嬲れ」
「ッ、おい、っあ……やめ、ろ」

 霞んだ思考と滲む視界で、反応が遅れた。いつの間にか湯帷子の裾が捲られている。もどかしくも無視を許さない刺激に、唇から湿った吐息が漏れ出た。長く美しい指が、布越しのかたちを強調するように撫で摩る。

「識っているぞ、知っているとも。貴様の裡で聞いた。あちらの俺に言っていたものなァ。貴様、俺を犯したいのだろう? 壊したいのだろう?」
「それ、は……、ん……っは、おい、ッ、やめ、ろと、いって」
「あちらの俺に出来んというなら、この俺を使うがいい」

 きっとこの妖は正しい。モノは使う為にある。自分たちはどう転んでも道具なのだから、使うという言葉に間違いなどある筈もない。けれど己もこの妖も、現実の恋刀も、モノでありながら意思がある。例えこの戦いの間という一時のみ与えられた仮初の器でも、自ら考え動かすことのできる肉体がある。己が望みが何であるかを、他者に示す|言葉《こえ》がある。

「使うとか、言うな……ッ!」

 だったらこの行為は互いが望み、互いに望まれた末に結び合うものでありたい。互いを識り、互いを愛で、悦楽を享受し合うものでありたい。国広はろくに力の入らない震える両腕で、精一杯妖の肩を押して抵抗した。例えその思いがモノとして間違っていて、愛しいものを壊したい等という今の己の欲望とも大きく矛盾するものだとしても。|大包平《こいビト》が信じてくれた、『最後の一線を引ける』者で在りたかった。

「……ならば俺は、一体何のために貴様の裡に居る? 貴様は何のために、俺を呑んだのだ」

 妖は、ひどく哀しげに眉を下げて言った。その悲哀は、当然のように向けられるべきものだ。道具にとって、何にも使われないまま置き去りにされるほど虚しいことはない。何の役にも立たないまま放置される程、哀しいことはない。モノとして決定的にズレてしまっているのは、妖の男ではなく自分の方だ。……きっと己はもう、どうしようもないくらいに壊れてしまっている。

「俺が起きた所で、求められることなどない。誰彼構わず狂わせるだけの|俺《妖》は、起こされた所で退治されるだけの厄災にしか成り得ない。……俺に、居場所などあるものか」

 聞き分けの良い妖は、素直に股座から手を引いていた。代わりに国広の頬を両手で優しく包み込み、ぴたりと額を合わせてくる。それは現実の恋刀が国広を宥め、慰める時にするものと同じ仕草だった。

「それでも貴様は、妖を斬る刀でありながら、この俺が欲しいと言ったろう。誰も彼もが|毒《おれ》を吐き出した中で、貴様だけは呑み下したろう。……俺はそれが、何より嬉しかった」

 妖の頬は、濡れていた。薄鈍色の瞳が、泪に滲んでいる。何も出来ず、ずっと固まっていた手をようやっと持ち上げて、その頬を拭う。こんな時でも最低な男だ、泣かせてしまったことを悔やむより、その泪さえ見続けていたいと思っている。止めてやらねばと頭では考えるのに、同じ心で見惚れる程に美しいなどと思っている。―――嗚呼、そうだ。その泪だって、本当はずっとずっと、見たいと思っていた。

「彼方の俺は些か頭が固い。だからあちらの俺がしてやれない分は、この俺がいくらでも貴様にくれてやる。けれど貴様が俺を|求めて《愛して》くれねば、俺は、貴様の裡にいる意味がない……」

 はらはらと流れ落ちるその泪を指で何度も掬い取ってやると、妖はお返しとばかりに国広の額や頬に唇を落とし、濡れた自分の頬を摺り寄せてきた。変わらないんじゃない。別の存在なんかじゃない。それは表も裏も同じ『大包平』だからこそ、見せる仕草だ。胡蝶の妖は、胡蝶の神が欲しがりな|恋刀《くにひろ》にしてやりたいけど出来ないことを、律儀に叶え続けてくれていただけだった。流した血も、静かに流すその泪さえも全て、国広の為に。

「こんな勝手で、我儘な男ですまない。大事にしたいと思うのも壊したいと思うのも、全部含めて今の『俺』なんだ。だからお前はこんな俺を許さなくていい」

 そう言って強く抱き締めると、ようやく妖の大包平はいつものようにからからと笑ってくれた。覗き込んだ顔は、もう泣いていない。
 
「ふ、ふふ、ははは、あははは。貴様、欲深いな、欲しがりさんだな」
「ああそうだ、俺は欲張りなんだ。救えるものは全部掬いたい。持てるものは全部持ちたい。……だから駄目なんだ。嫌なんだ」

 只欲しいのは―――大包平という|刀《おとこ》の、全てだ。
 あの燃えるような紅の髪も、鋼色の瞳も、よく通る声も、純真無垢な魂も、全部だ。
 あの刀が辿ってきた|過去《これまで》から|現在《いま》、そして|未来《これから》も。
 妖の|呪《かけら》を呑み込んだところで、腹の足しにもなってはくれない。

「飢えの治まらない俺ではお前ばかりか、あいつまで喰い殺してしまう。大包平が好きだ。好きだから、そんな真似はしたくない」
「貴様―――俺に、|壊《ころ》されたのか?」
「俺が勝手に壊れたんだ。俺が勝手に、|お前《あいつ》に惚れた。それだけだ」

 現実の大包平は、本当になにもしていない。あの男はただ、あの時遠征部隊の隊長を務めていただけだ。崩壊しかけの閉じゆく世界に、国広とふたり残っていただけ。扉をこじ開けて迎えに来てくれたことだって、国広以外の五振りが健在ならば、誰であろうと大包平と同じことをしたに違いない。三日月でも、鶴丸でも、長義でも、長谷部でもきっと変わらなかった。この本丸の誰も彼もが、国広をひとりにはしてくれないから。……そこに誰が残っていようが、きっと結末なんて変わらなかっただろう。だからあの時只、そこに居ただけの|大包平《モノ》に惚れた、国広の負けだ。

「……阿呆め。|器物《モノ》とて何もないのに壊れる訳があるか。雨と風さえなければ、岩も崩れはしない」

 しかし腕の中で犬のように擦り寄って懐いていた妖の大包平は、国広の言葉に対して呆れた顔をして、妙な言葉を返してきた。

「……どういうことだ?」
「貴様にも彼方の俺に、狂わされた自覚くらいはあるんだろ。そうして貴様は彼方の俺に執着し、囚われている。ならばそのきっかけは、貴様を|壊《ころ》したのは、彼方の俺だ」
「あいつ、が……?」
「打算はあるだけマシだ。無自覚が起こす|禍《わざわい》ほど、性質の悪いものはない。彼方の俺は己が情を顧みることなく貴様の杯へと無邪気に|俺《毒》を盛り、それを貴様は毒と分かって尚吐き出すこともせず悦んで呑み干した。清濁併せ呑むとはよく言ったものだ、この似た者同士め。……本当の所はただそれだけのことだったんだろ」

 妖の大包平は悪態と共に溜息を吐く。珍しくも、苦虫を噛み潰したように渋い顔をしていた。

「ひとまず貴様は俺を喰らっておけ。霞を食うようなものだが、空きっ腹でいるよりずっといい」
「だが、俺はお前を……、ぅ、ん、ッ……」

 妖の大包平が、国広の言葉を遮って深く口付ける。同じ恋刀といっても此方の性根はやはり妖、油断も隙もあったものではない。いくら国広の欲を満たす為に夢に棲みついた存在なのだとしても、だからといって都合のいい捌け口になどしたくはない。たった今、そう言い聞かせたばかりだというのに。その口吸いは蜜よりも甘く、酒よりも強く、こころを酔わせる。正に猛毒だ。

「ッ、よせ、……大包平、っ」
「全く頑固な男だなァ、ならばこうすればいいのか?」

 妖の大包平は国広に撓垂れ掛ると、首を伸ばして耳元でそっと囁いた。国広の手を取り、下腹へと導く。重なり合う手が、触れた布越しのその腹が、酷く熱い。

「―――早く寄越せ。|貴様《おまえ》の霊力を吸ってから、|胎《ここ》が疼いてしょうがない」

 手の届く範囲に、小袖を留めるだけの頼りない腰紐がある。鼓膜を染める|音色《こえ》にとうとう耐え切れず、国広はその美しい肢体を布団へと押し倒した。



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