妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)




 この間の朝に比べれば、気分は幾ばくかマシだった。相変わらず枕が濡れる程に涙は溢れていたが、頭痛や吐き気はすっかりなくなっている。その事実に、胸はぐしゃぐしゃに潰れてしまいそうだった。頭痛も吐き気も、あった方がまだ救われただろう。心はぼろぼろなのに、肉体はとうとうなんの不調も訴えてこなくなったのだから。泣き腫らした目を隠すように襤褸を被り、ふらふらと廊下に出て、大包平の部屋へと向かう。

 残酷にも、無情にも、朝はいつもと何一つ変わらなかった。
 愛らしい小鳥の囀り。
 くれ縁の廊下に差し込む、穏やかで暖かな日差し。
 雨戸も窓もあけ放たれたそこには、時折爽やかな風が吹き込んでくる。
 その風に乗って匂い立つ、整えられた庭園の草木と花。
 出陣、内番、遠征、慌ただしく支度をする駒遣いの付喪神や刀。

 世界が何事も無く回っている中で、まるで自分だけがひとり取り残されているかのようだ。自分だけが、変わり果ててしまう。それが恐ろしくてしょうがなかった。会いに行くのはただ、確かめたかっただけだ。それだけは、許されたかったから。

「ああ、おはよう。山姥切」

 大包平は呆れもせず、いつもと変わらない調子で出迎えてくれた。目に映ったその肌に、死の線はなかった。痛いと叱られる程にその体躯を抱きしめながら、密かに安堵する。例え夢の出来事であっても、まだ己は後悔することができている―――、と。
 その湯帷子の下は、きっと変わらず美しい儘なのだろう。脱がせて、その肌を曝け出してしまいたい。夢で付けた死の痕が残っていないか、その傷は塞がっているか、ひとつひとつ触れて確かめたい。けれど単なる|鋼《モノ》であった頃ならばいざ知らず、ヒト形の身で他者の裸体を無遠慮に暴いて眺めるなど、許されることではない。恋仲であっても、情を交えたことすらない関係だというのに。そのしろい首筋を、そっと指先でなぞるだけに留めた。

「んッ……なんだ、俺の首がどうした……?」

 くすぐったかったのだろう。大包平の肩が、微かに跳ねる。それでも好きにしろと言わんばかりに、顎を上げて首筋を晒す。甘さを含んだような吐息と声、されるがままの仕草に酷く喉の渇きを覚えて、生唾を飲み込んだ。

「―――ぁ、」

 国広は知らずその喉骨に、己の親指をぐり、と押し付けていた。
 その首を、鷲掴みにしようとして。

「ッぐ、山姥切?」

 一瞬苦し気に歪んだ大包平の貌に、心の臓はどくりと大きく跳ねた。

「―――ッッ、すまん!」

 上がり掛けた己の口角に血の気が引き、我に返る。
 今、恋刀に一体、何をしようとした?

「っ……いい。わざとではないんだろう?」
「何故、ッ……」
「可笑しな夢を見た所為にでもしておけ」

 大包平が、わからない。大切だと想いながら恋刀を傷つけたがり、壊したがり、殺したがる悍ましい男を、どうして許せる。そう思うのに、糾弾出来ない己がいる。こんな男を許すなと、責められない己がいる。まだこの男の傍には居場所があると、甘えてしまう己がいる。恋仲なんて、もうやめてしまった方が良い。本当なら、自分からそう言い出すべきなのだ。けれどそんな勇気、持てる筈もない。離れたくなんかない。放したくなどない。まして引く手あまたのこの手を放した末に、大包平が他の誰かの元に行ってしまう未来など。考えられる筈もない。手遅れになる前に突き放して欲しいと切望する心と、行かないでくれとみっともなく縋りつく躰。

「なぁ、山姥切よ」
「……っ、なんだ」
「―――今夜は俺と、一緒に寝るか?」

 そんなこちらの苦悩を知ってか知らずか、大包平は突然とんでもないことを言い始めた。

「な、ッ……」
「朝一でお前の顔が見られるのは嬉しいがなぁ、どうせ来るなら一晩中一緒に居た方が良いだろ」

 ……正気か、この男。
 殺すかもしれないと言っている男を、何故傍に置こうとする。

「っ止めておけ。今の俺は、お前に何をするか分からないんだぞ」
「何もされてないぞ?」
「ッされただろう、今!」
「じゃれついて引っ掛かれたようなものだろ」
「猫と一緒にするな! あれはそんな、かわいいものじゃないだろう……!」
「ははっ、やっぱりお前は変わらんな」

 咄嗟に離そうとした身体は、逆に引き寄せられてぎゅうぎゅうに抱き締められた。勝手な男め、さっきは痛いと文句を言ってきた癖に自分はいいのか。こつんと額を合わせ、鈍色の瞳が覗き込んでくる。変わらないとは、何が。いつもなら聞けば必ず答えてくれる大包平だが、この時は問うても緩く頭を振るだけで、返答してはくれなかった。

「一緒に寝たら。……もしかしたら、怖い夢なんか見なくても済むかもしれん」
「それは『もしかしたら』の話だろう」
「試してみる価値はあるだろ?」

 その悪戯を企む子供のように無邪気な微笑みは、夢に顕れるあの妖艶な男とはまるで違う。違うのに、重ねて見てしまう己が厭わしくてならなかった。厭わねば、あれとは違うと己に言い聞かせなければ、認めることになってしまう。

 ―――ここで踏み止まれなければ、現実でもこの愛しい男を■してしまうだろうから。



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