妖怪、恋のから騒ぎ(全年齢版)




三、あやかしゆめうつつ -|兆《きざし》-


 夢。夢とは何か。瞳を閉ざし、眠りに落ちた間にだけ見える幻か。理想のすがた、理想の光景を思い描くことか。どちらにせよ、信用ならない答えでしかない。アレは断じて自ら望んで見た理想などではなく。さりとて微睡の中でのみ見える幻でもない。この手で命を断った感触は、消えてなどくれないのだから。

『ふふ、ふはは、あははははははははは。おはよう、山姥切国広。遅くなったな。悪かったな』

 昨夜ふと、瞼を開いた瞬間。

『約束しただろ、好きなだけ殺せと。だから俺は還ってきたぞ、約束だからな』

 絶望の谷底まで突き落としてくれるような恐ろしい美貌の男が、枕元に座って此方を見下ろし、嗤っていたのだ。

『すごいなァ、貴様は。バケモノ切りの刀とはおそろしい。あれは痛かった。このかたちまで戻るのに、三日も掛かってしまった』

 三日。そうだ。あの悪夢から、まだ三日しか経っていない。本当に、ついこの間だ。逆さまに映る紅の男は仄かに頬を染め、うっとりとした貌をしていた。それを見た途端、またあの感覚が襲ってきたのだ。己が両の目を潰したくなるような罪悪感。意識してもまるで儘ならない呼吸。それから、今すぐにでもそのかたくやわい肉で出来た肢体を、斬り刻んでしまいたい衝動。三度目の邂逅ですら、この有様。飽きられるモノならば、いっそ飽きてしまいたい。こんなことを繰り返していたら、その内【山姥切国広】という付喪神の自我さえも、崩壊してしまうのではないか。

『この俺としたことが、貴様に斬られた痕のほころびが、上手に戻せんのだ。夢見鳥たるこの俺でも、元のかたちを繕うのに精一杯だ。中身はどこもかしこも、完全には繋がっていない。まるで俺は―――|本《・》|当《・》|に《・》|死《・》|ん《・》|だ《・》ようだなァ?』

 男はけらけらと嗤いながら、心底嬉しそうに、愉しそうに話していた。目を凝らせば、薄らとその肌には横一線の綺麗な紅い傷痕が走っているのが見えた。あれが男の言う、綻び。思い出したくもない夢の記憶が蘇った。この美しい男を、笑いながら一太刀で斬り殺した記憶が。見えはしないがその水干と長袴の下にも、斬った後の死の線が走っているのだろう。それを全部、己が手で。その時全身がぞくぞくと震え上がったのを国広は覚えている。それも確実に殺した筈のものが不完全に蘇って現れたことへの恐怖から起こるものではなく、腹の底から湧き上がる法悦で。目の前の男の治りきらない生々しい傷痕よりも、悦びを覚えた己自身の方が遥かに怖ろしく悍ましい。

『やんちゃな男だなァ、貴様は。危うく貴様との約束を違えてしまうかと、ひやひやしたぞ。だが―――、その|本気《さつい》は嬉しい。その祈りは俺に捧げられるだけの、俺が享受するだけの価値がある』

 此方を覗き込む男は国広の本体である刀を、刀架から勝手に持ち出していた。抜き身のままの鋼にそっと指先を添え、身を摺り寄せるようにして抱き締めていた。心底大事そうに。愛おしそうに。

『っやめろ、俺は、化け物なんか斬ってない! 化け物退治なんか、俺の仕事じゃない……!』
『だが貴様の名前は【山姥切】だ。山姥を切った刀だから、【山姥切】だ』
『それは俺が、霊剣【山姥切】の写しだから……!』
『知らんなァ。俺の知ったことか。貴様が|元《・》|々《・》|何《・》|な《・》|の《・》|か《・》など、どうでもいい』

 おのれの刃が、男の白い首筋にひたりと寄り添っていた。触れているのは刃なのに、まるでその肌へ直に触れているかのように、指先にはやわらかな感触を覚えた。きっとほんの少し力を込めてなぞれば、赤い血が流れ出すのだろう。爪を立てるように、痕を残すように。見たくない。見たくないのにその血が見たかった。溢れ出すその血潮の様が見たくて、渇いてしょうがなかった。

『ほら、其の儘では苦しいだろ。早く俺を斬ってしまえ。……俺を、殺してしまえ』

 何よりも打ちのめされたのは、底の知れぬ己の欲の、悍ましさだった。
 嫌になる程頭蓋に響いていた筈の、自分の声はもう聞こえなかった。脳髄を突き刺すような、或いは頭蓋を叩き割るような頭痛も、一切なかった。それなのに恋刀と同じ貌をしたこの男を、おのれは斬りたいと強く想い続けている。愕然とした。斬れだなんて、もう誰にも謂われない。殺せなんて、強制されることはない。だから斬らなくていい、殺さなくていいはずなのに。それでも斬りたい、殺したいと、焦がれ続けている。己の裡にあった筈の、【|斬らねばならない《建前》】が。もうどこにも、見当たらない。 

 ―――きっと、心のどこかでは安心していたのだろう。
 この衝動は【山姥切】という名を被った所為であって、本心から思っていることではない。だから自分の所為じゃない、と。そんなものが無くても、関係なんて無かった。境目など、最初からなかったのだ。それは神や妖として定義されるより以前の、ただの一振の刀として在る、原初の衝動。元々刀とは、なにかを【殺す】為に生まれた|器物《モノ》だ。その鋼鉄から美や権威、魔除けという神秘を見出したのもまた、刀を生み出した人間たちではあるだろう。しかし全ては後付けの価値でもある。刀の形はものをより斬りやすいよう、ものをより殺しやすいよう、時代と共に洗練されていったのだ。与えられた機能を只目的の為に使い潰すことこそが、|刀剣《どうぐ》に許された存在意義。剥き出しの本能に、理性を失った肉体が抗えるはずもない。

 布団から起き上がった体が、ゆっくりと男を振り向く。震える手が、男へと伸びていく。柄を優しく握るたおやかなその手に、己のそれを重ね合わせた。男が、薄鈍を細めて笑う。男は重なった己の手に柄を握らせると、そっと手を離す。

 その時―――どさりと、からだがたたみにくずれおちるにぶいおとがした。
 とびちったなまあたたかいそれが、ほおをぬらした。
 そのきりごこちは、あのよるとなにもかわらなかった。
 うれしい。なんどでも■■■をころしたいおれのために、そこまでしてくれる。
 おとこをだきしめ、ふかくくちづけながら、おもった。
 はやく|つ《・》|ぎ《・》のかれにあいたい。つぎのおうせはいつになる。
 つぎはいつ、このおとこをころせるのだろう?

 良くも悪くもこれは夢だ。戦友であり、恋刀でもある男を殺したとて、罪を犯したとて。本当に起きたことではない。いくら我が手があの美しい男の首を、四肢を、その肢体を斬り落としたとて、失うものなど何ひとつない。

 ―――なのに、どうしてこの|心《むね》は。
 それでも|殺したくない《失いたくない》と、泣き叫ぶのか。


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