妖精の友と暗黒騎士





「遅いのだわーーーー!!」
「おわっ?!」

 暗くなった意識は、次の瞬間につんざくような叫びによって覚醒させられた。
 唐突過ぎてついて行けず、ぱちぱちと瞬きする。
 何か、赤い何かが目の前にある。
 ……近すぎて、ピントが合わずにぼやけていたそれは、ひゅっと軽やかに離れ、今度こそその全体像を見せてくれた。

「遅いわ遅すぎるのだわ!! 全く『私の友』ったら、私と彼女をどれだけ待たせるのかしら!!」
「あ……、フェオ=ウル?!」
「そもそも! 貴方はもう水晶では無いのよ?! 人の身で夢の世界をないがしろにするなんて! 妖精王として、黙っていられない暴挙なのだわ!」

 そこに居たのは、赤い髪、赤い姿の懐かしい妖精。
 人並み外れた好奇心と探究心の果て、縁あって今代の妖精王となった、夢の世界を渡るピクシー族。
 フェオ=ウルだった。

「聞いている?! 今度眠りを二の次にするようなら、三日三晩大きなツノの羊に追いかけ回される夢を見させてやるのだわ!」
「い、いや、すまない! ……久方ぶりで驚いてしまったよ、私の友」
「もう。夢の世界なら、例え次元を隔てようとも私には関係ないのだわ。知っているでしょう?」
「ああ、全く……その通りだ」

 確かに、原初世界と第一世界は次元の狭間によって隔てられている。
 しかし、夢と現実を行き来するピクシー族の、とりわけ彼女と契約しているフェオならば、夢の世界限定ではあるが話をすることも、やろうと思えば物のやりとりすら可能なのだ。
 それを知っていて、彼女と縁を結ばせたというのに……

「……いや、待ってくれ。君がここにいると言うことは、マリィの状況を知っているのだろうか」
「あら、そんなの当然よ! 私は彼女の『美しい枝』。彼女は私の『可愛い若木』。世界を渡っても見守っているし、こんな場所ならなおさら放っておかないわ!」
「であれば、むしろ何故、私の夢に」
「若木が貴方を呼んだからに決まってるのだわ! 助けて欲しいって!」
「彼女が、わ、私に?」
「そうよ! なのに『私の友』ったら、全然眠らないから! 私の若木が待ちくたびれて諦めてしまったらどうしようって、ヒヤヒヤしたのだわ!」

 間違いなく、血の気が引いた。
 マリィが意識を失って、精神内……夢の世界に閉じ込められて居るとして。
 あれからずっと、フェオを通じて、助けを求めていたのだとしたら。
 ……丸2日、オレはそれに気付けずに、彼女の訴えを無視してしまっていたことに……?!

「はいはい自己嫌悪は後! 早く行くのだわ!」
「そ、そうだな! すまない、頼む!」

 後悔は後だ。うかうかしていては、謝罪の機会すら失うかもしれない。
 フェオにせっつかれながら、オレは彼女の力の行使に同意する。
 ひらりと宙を舞い、光を放ちながら飛び回ると、その軌跡の中から輝く大きな扉が現れる。
 リェー・メグにもある扉だ。夢の世界につながるもの。……オレは生身ではくぐったことはないが、確かマリィは入ったと言っていたな。
 フェオとの契約によって守られてるとは言え、好奇心旺盛で無邪気な妖精達は、気に入ったものを捕えて帰さない事も多い。よく無事にやり取りしてたものだ。
 そんな事を考えながら扉をくぐると、一瞬視界が揺れる光に包まれて、収まった後には周囲は木々に囲まれた森になっていた。
 ここはたぶん、黒衣森だ。マリィの故郷。それが心の中に映し出されるのは、不思議なことじゃない。
 フェオに先導されて少し歩くと、森の中に唐突に、透明でありながら先の風景が歪むような壁があるのが分かる。
 その手前に、二人の人物が居た。

「マリィ!」
「グ・ラハ。……良かった、来てくれたのね」

 片方の人物は、間違える筈もない。眠りに落ちたまま今も目を覚まさない、この夢の主であるマリィだ。
 眠った時は暗黒騎士の姿だったが、ここでは一番見慣れた竜騎士の様相で、槍も携えている。
 やっぱり、自分が最も強く認識している姿になるんだろうな。
 駆け寄ったオレに、振り返ったマリィはホッとしたような表情を見せてくれた。

「すまない、貴方が呼んでくれているとも知らず、私は……」
「……水晶公になってるわよ?」
「え? ……あ、ホントだ。すまない、フェオ=ウルと話しているとどうしても」
「謝ることではないけど。それに、独断で呼んでいたのはこちらだもの。フェオもありがとう、呼びかけ続けてくれて」
「お安い御用よ、『可愛い若木』! こういう時にきちんと私を頼れるようになって、感心だわ!」

 ひらりとフェオも彼女に近付き、嬉しそうにマリィの額に口付ける。
 本当に仲が良い。……ほんの少し羨ましくなってしまう。紹介したのはオレなのにな。
 ……ところで。

「……そちらは?」

 この場には、もう一人居た。
 マリィの傍らに佇む、全身を黒い鎧で覆った人物。
 背には大剣があり、暗黒騎士なのだろうなとは思うが、それ以外は何もわからない。
 目元以外は顔もヴェールで覆っていて、種族も男女どちらかすら、判然としなかった。
 その姿に、ついあの取り憑いた黒いエーテルを思い浮かべてしまうが、アレとは気配が違う。
 ……たぶん、この壁の向こう側に居るのだろうし。

「……僕の事など、どうでもいいでしょう。そも、貴方に関係がない」
「フレイ」
「そんな事より、今はこの状況をどうにかすべきです」

 フレイと呼ばれた……たぶん男? はオレを一瞥した後、ふいと視線をそらした。
 なんとも、居心地の悪くなる感覚。敵視とまでは行かないが……確実に、彼に好かれては居ないようだ。
 どうして彼女の心の中に、呼ばれたオレでも、夢を渡る妖精でもない人物がいるのかは気になるが。
 マリィ本人がその存在に違和感を抱いていないようだし、フェオも何も言わない。
 ならば、追求することでも無いし、何より現状をどうにかするのが最優先なのはその通りだ。

「分かった。それで、今どういう状況なんだ?」
「私が説明してあげるのだわ! まずここは、夢や心の領域の中ではかなり浅い部分よ。だから、この若木は普段起きてる時に活動してる、若木本人の意思ね」
「いわゆる表層心理とか、顕在意識ってやつだな。じゃあ、この奥は……」
「そう、その先は心の奥。普段は意識も知覚も出来ない、心や人格の根っこの部分なのだわ」
「困った事に、その根元の部分にこのボクが拒絶されてしまってるのよね」

 心底困ったと、マリィは眉尻を下げる。
 つまり、深層心理……自分の本質や成り立ちと言ったような根本の部分に、現在の人格を拒絶されている?

「なるほど……それじゃ起きれなくなるわけだよな……」
「ええ。確実に原因はあの黒い何かだと思うのだけど、こうして拒絶されているから、ボク自身でどうにも出来なくて……。いえまあ、無理やりこれを破ることは出来るかもしれないし、一刻も早く目覚めるためにはそうするべきなのだろうけれど、でも」

 透明でありながら、先の景色が歪むほどの拒絶の壁を見上げて、マリィは困ったような、……少し寂しそうな顔をする。
 それはそうだ。根元の自分に、現在の自分が否定されているなんて、易々と受け入れられるものではないだろう。
 そんな状況に、英雄であろうとするこの彼女は、世界の状況や周囲の仲間達を思えば自分の状況など踏み壊してでも……という考えを、持ってはいるけれど。

「……それでも、この先の想いは、今のボクにとっても、大切なものだから。あんまり不用意に踏みつけたり、したくないの」

 その言葉に、酷く安堵した。
 どうにも彼女は、自分の事を軽視しがちだ。倒れるほどの無理はしない程度の分別はあるが、逆に言えばそれしかない。
 もっと自分を大事にして欲しい。オレも、暁のみんなも、きっとそう願っているから。
 だから、そうして自らの心を自分で踏み躙ることが無かった事に、とてつもなくホッとした。

「なるほど、状況は分かった。オレはどうすればいい?」
「この先には、このボク自身は入っていけないから。代わりに、あの黒い何かを探し出して、取り除いて欲しいの」
「……僕は反対ですけれどね」

 マリィ自身が心の奥に行けないなら、他の誰かに頼む他無い。
 そういう事だろうなと察しつつも尋ねて確信を得たが……、ぽそ、とマリィの隣に佇むフレイは苦言を呈した。
 正直、その意見は分かる。
 だって、自分の心の中に、その深層に、容易に他人を招けるかと言ったら……絶対にそんなの出来る事じゃないし、すべきじゃない。
 人の心の造りについての専門家じゃないけど、それくらいはオレだって分かる。

「他に手が無いのは分かっています。けど、どうしてよりによって彼を選んだんですマリィ。いえ、他の誰なら良いとは言いませんが」
「どうして、は。一番フェオが時空を隔てても探しやすい人だろうなって思ったから」

 ……いや、まあ、そうだろうけど。
 オレよりも長く共に居る仲間達が居るにもかかわらず、最も新参者であるオレを選んでくれた、その事にひっそり喜びも抱いていたけど、実際選ばれた理由を聞くと、納得と同時にちょっと悲しい。
 うん、フェオとの付き合いの長さから考えれば、契約していなくても彼女がその存在を探しやすいのはオレだろう。至極妥当だ。

「それに、グ・ラハがボクの心に入ったとして、悪戯に踏みにじったりしないわ。あり得ない事よ」

 うっかり落ちた耳と尻尾が、その言葉で即座に持ち上がるのが自分でも分かった。
 確実にフェオが呼んでくれるだろうという理由もあったけど、その上で自分を害する事などありえない、なんて信頼を抱いてくれている。
 マリィの肩に座っているフェオが、そんなオレを見てクスクス笑っていて。そして、フレイはとてつもなく大きなため息を吐いて、肩まで落とした。

「……君の、そういう所だよ」
「ごめんなさいね」
「謝るくらいなら、……ああもう良いです。分かりましたよ、他でもない君の意思であるならば、僕はそれに応えましょう」

 全く、なんてブツブツと不満そうにしながらも、フレイはマリィの願いを跳ね除けるつもりはないようだ。
 何やらとんでもなく親しげで、なんなら暁の仲間達よりも距離が近く見えるというか、お互いに分かり合っている雰囲気がとても強い。
 それから、フレイはマリィの横を離れて、オレを視線で呼びながら、森を隔てる透明な壁の前に立った。無論、オレもその隣に立つ。

「先に言っておきますが。ここに居る貴方も、剥き出しの精神だけの状態であり、この奥で致命的な傷でも負えば、取り返しがつきません。分かっていますか?」
「ああ、そうだろうな」
「更に言えば、もしもこの先の彼女の心に傷をつける行為をするようならば、完遂前に僕が貴方を即座に切り捨てますので、そのつもりで」
「万一そんな事をうっかりでもするようなら、是非そうしてくれ」

 どちらも、予想して然るべき話だ。
 フェオに呼ばれて訪れたここはマリィの心の中、精神の中で、魂にほど近い場所。そんな場所に入れる状態のオレもまた、剥き出しの魂の状態も同然で、それが傷つけば肉体の損傷と遜色ない事態になるだろう。
 そして、フレイは随分マリィを大切に想っている。彼女を害する相手に、容赦などしないに違いない。
 オレにそんなつもりは一切ないけど、本当に万一うっかりそんな事をしでかすくらいなら、その場でバッサリやってくれた方が良いにきまってる。
 迷いなくそう告げると、フレイはわずかに目を細めてオレを見た。
 笑みによる動きではなく……胡散臭そうなものを見る目だ。

「というか、あんたはこの先に入れるのか?」
「ええ、僕は元々、そこから来ましたから」
「え」
「フェオ、お願い」
「お任せなのだわ!」

 オレの質問に、しれっと答えたフレイの言葉を精査する前に、マリィの願いでフェオが光を纏いながら舞い飛ぶ。
 パ、っと眩しい光に包まれて、咄嗟に目を閉じた。
 瞼を焼くような光が収まったのを感じて、ゆっくり目を開くと、周囲は今まで変わらない、黒衣森の姿。
 ただし、目の前にあったはずの壁は、背後にある。
 そして、隣に居たはずのフレイの姿が無い。

「えっ、フレイは……」
『居ますよ』
「おわっ?! え、何処に……」
『僕の気配で、異物である貴方の気配をごまかしているんです。見えないだけで、すぐ傍に居ますので、滅多な気は起こさないで下さい』

 声はすれども姿は見えず。その声も、耳ではなく心に直接聞こえてくるかのようだった。
 たぶん、これもフェオの仕業だろう。
 確かに、自分自身すら拒否して心の奥底に閉じこもっている時に、ましてや他人を受け入れる筈が無い。
 ……それは分かるけど。表層意識のマリィが入れないのに、他者の気配をごまかす事が可能で、この先から来たって事は、彼は……
 考えながらも、森の奥へと足を進める。悠長にしている時間なんか無い。
 時折フレイの声が方向を指示してくれて、大きな木を避けながら歩いた先にあったのは、とても小さな村だった。
 とはいえ、ここは彼女の心の中だ。それを形作る全ては彼女の心の一部の筈で、不用意な接触や干渉は止めておくべき。
 故に、そっと森の木々に姿を潜めて様子を伺ったが……、村の中に、誰の気配も無い。
 慎重に歩を進めて、森の魔物達から村を守るためだろう囲いの中に入っても、やはり何の気配もない。人も、獣も、何も。
 その癖、朽ちた村ではないのだ。ほんの今までそこに人が居たような、確かな生活感がある。

「ここって……」
『彼女の故郷です』
「そんな気はしてたけど……誰も居ないものなのか?」
『普段は、村の人達も居ますよ。ですが、今は……必要が無いと思ってしまっているのでしょう』

 必要が無い。故郷の人達が?
 こんな心の奥底に、ハッキリと存在している場所の、思い出の人々が……必要無い?
 本当にそうなら、この場所自体がここに無い筈だ。事実、普段は懐かしい故郷がきちんとここに在るのだとフレイは言った。
 つまりは、侵入者であるあの黒いエーテル。アレの影響で、一時的とはいえ深層心理の方のマリィが他を不必要だと思ってしまっている。
 早く、彼女自身と、あと黒いエーテルを探し出さないと。
 村の中を見回しても、それらしい姿は無い。話し声がしないかと耳を澄ませても、木の葉のざわめく音しか聞こえない。
 ……なんというか。とても、静かな場所だ。
 人が居ないせいもあるんだろうけど、それ以上に。本当に穏やかに、極々普通に、生活していた村なのだなという印象が強い。
 武器なんて見当たらなくて、おいてある道具は生活用品ばかり。魔物を避ける為の、囲いやかがり火はあるけれど。
 何かに襲われたり、壊されたり。そういう経験が殆ど無いんじゃないだろうか、と思えるくらい、荒れている様子が無い。とても平穏そうな慎ましやかな村だった。

「なんていうか、……すごく普通の、平和な村なんだな」
『そうですよ。勿論、村を魔物や密猟者から守るくらいの事はありましたが、とても普通に、静かに暮らしてたんです。武器を握る事なんて、考えたことも無かったんですよ、幼い頃の彼女は』
「そっか」
『そもそも、彼女の想う幸せとは、そういうものです。忙しない生活も、人と人との戦いも、彼女の望むところじゃない。……だって言うのに』

 フレイの声に、感情が滲む。
 ハッキリわかる。これは、怒りだ。

『旅に出た事が悪いんじゃない。人々と触れ合う事も、世界が広がることも、楽しかった。でも、気が付けば英雄なんてものに祭り上げられた。どうにかしてくれ、助けてくれ、なんて群がってきて。あれもこれも押し付けられて』
「……」
『マリィの人が好いのを良い事に。人を、国を、世界を救うためなんて口にして。誰も彼も、彼女を救済の為の生贄にする』

 その怒りは尤もだ。
 本当なら、ここまで多くの期待を、未来を、一人に背負わせていい筈が無い。
 そんなのはおかしいと、アリゼーを始めとした暁の血盟の皆が思って、なんとか負担を減らそうと奔走しているけれど。
 蛮神と戦える人間は限られる。その中でも、幾度もそれを成し遂げてきたマリィはどうしても、その時に頼らざるを得ない。最も危険な場所に、送り込み続ける事になってしまう。
 世界を護るための犠牲と言われれば、間違いなくそうだ。

『貴方もその一人だ。グ・ラハ・ティア……、いや、水晶公。世界を救うためと、彼女に押し付け味わわせた苦しみや恐怖を、無かったことにはさせない。僕は、貴方を許さない』

 突き刺さるような言葉。
 姿は今は見えないけれど、鋭い視線と厳しい表情が目の前にあるかのようだった。
 ……彼は。フレイは、つまり。彼女の……マリィの『怒り』なのだろう。
 暗黒騎士は、負の感情を力の源泉とすると聞いた。即ち、怒りや悲しみ、嘆き。始まりは、無力な人々に降りかかる理不尽に対する義憤だったとか。
 怒りの化身たるフレイが暗黒騎士の姿をしているのは、当然なのだろう。表層意識であるマリィとは別人格のように存在するのは不思議だけど、彼女自身それを認識して受け入れているなら、オレがどうこういう話じゃ無い。
 そうして向けられる怒気に……オレは、安堵していた。
 彼女はいつも、自分に対する重荷や理不尽に何も言わない。彼女が怒りを表すのは、仲間が侮辱されたり害されたりした時や、無辜の人々が苦しめられている様に対して。
 正体を明かさずだまし討ちをしたような私に対してさえ、説教された内容はもっと自分を大事にしろ、慕ってくれている民を悲しませるな、と。それだけだった。
 彼女自身、もしかしたら自覚が無いのかもしれない。
 けれど、こうして心の奥底では、彼女は怒っていたのだ。自分に押し付けられる苦難に憤っていた。
 ずっと『大丈夫』としか答えてくれなかったけれど。相当な苦しみを味わっていたのは見ていても分かっていたし、自らも異形になり果てるかもしれないという恐怖だって、感じていたんだ。
 他に手が無かったにしても、それを押し付けたのは私だ。
 その私に、怒りを抱くのは当たり前。憎まれて当然。嫌われていないなんて、奇跡のようなもの。
 ただの一言の責めもしなかった彼女も、きちんと怒りを感じていた。その事に、不思議なほどに安堵した。
 許されない事を喜んでいるようで、おかしな話だが。本来そうあるべきなのだから。

『……ですが。貴方の覚悟と献身が、結果的に彼女の運命を変え、命を救った事は確かです。本当に心底貴方の事は気に食わないですが、その点に関しては、……感謝もしています』
「え」

 不意に、浴びせられていた怒気が止んだかと思えば、そんな言葉を投げかけられて、気の抜けた声が漏れた。きっと、表情もぽかんと間抜けな物になっただろう。
 嘘だろ。心の奥底の、自分自身ですら自覚しない、負の感情の化身さえ、感謝の言葉を述べるとか。
 怒っているのは確かだけれど、それはそれ、とばかりに。
 ……ああ。あんたは、本当に、本当の本当に……

「……お人好しだなあ……」
『本当ですよ。我ながらバカかと』
「あんたも含めてだよ、フレイ」

 どういう経緯で、マリィとフレイがこうなっているのかは知らない。
 が、互いに受け入れて信頼しあっている姿を見るに、きっとマリィは既に自分の中の負の感情には、とっくに折り合いをつけているんだろう。そして、怒りであるフレイの方も。
 もう何度思ったか分からないけれど……。本当に、カッコいい人だな。
 誰も彼もが、こんな風に強く居られる訳ではないけれど。だからこそ、彼女という存在には憧れを抱いてしまう。どんな書物に描かれていた英雄よりも、眩く輝く英雄だと。
 そんな彼女を、こんな事で失ってたまるものか。
 早く、マリィの奥底で閉じこもらせている何かを見つけて、取り除かなければ。改めて、視線を巡らせる。
 そうして、人気の無い静かな村の中。物陰からこちらを伺う、小さな瞳に気が付いた。

「っ……!」
「あ、待ってくれ!」

 こちらが気が付いた事には、当然向こうも気が付いた。
 驚いたように目を丸くして、身を潜めていた……幼い少女は、パっと踵を返して逃げようとする。
 ここはマリィの精神の中。しかもその奥底。
 誰かが居るとすれば、それはマリィ自身の心の欠片だ。……もしくは、今彼女に憑りついている、呪いのような何か。
 あの子がそのどちらかは分からない。それでも、思い出の村の人々も不要として見えなくしてしまっているのならば、姿を現している少女は重要な存在なのは間違いない。
 そうして逃げた少女を追おうと声を上げ、駆けだした矢先。
 べちっ、と音を立てて少女は倒れた。……特に何か足を引っかけるような段差や障害物は無いにも関わらず。たぶん、単純に足をもつれさせた。
 しかも、顔面から行った。手を出すのすら間に合っていない様子。
 その、なんだ。子供にしても、だいぶトロ……いや、おっとりとしたタイプの子のようだ。

「うー……」
「だ、大丈夫か?」
「っ!!」
「えーと、……ああ、擦りむいたんだな」

 地面に倒れ込んだままの少女に声をかけると、手足を縮めて亀のように丸まってしまった。分かりやすい警戒と拒絶の様相だ。
 けれど、微かに見える肘や膝がすりむいて赤くなっているのは確認できた。たぶん、顔にだって擦り傷くらい出来ているだろう。
 本当は水で洗った方がいいんだろうけど……、いや、ここはあくまでも現実じゃなくて、精神世界だ。小石や地面の毒の心配はしなくても良いだろう、きっと。
 少し考えた後、背負っていた杖を手にする。あって当然という気持ちで居たから、手に取れたことに一瞬驚いたが、あって当然だと思ったからなんだろうな。
 深く考える事はやめて、丸まったままの少女に癒しの魔法をかけた。

「ほら、もう痛くないぞ」
「……え?」

 傷を癒しても変わらず丸まったままだったが、優しく声をかけると、ぴくっと反応した。それから、転んだ時につけた傷の痛みが消えていることに気付いてくれたらしい。
 硬いまるまりを解除して、むく、と起き上がる。それから自分の手足をじっと見つめて……改めて、オレの方を見上げた。
 そうだろうとは思っていたけれど、見慣れた緑色の髪と瞳の、エレゼン族の少女だった。
 髪は結い上げてはおらず、ゆるく三つ編みにして纏められていて、服装はグリダニアでよく見るような、素朴で簡素なワンピースだったけれど。
 その面差しは、間違いなく。オレ達の大切な仲間であり光の戦士である、マリィとよく似ていた。
 似ている、という表現になるのは、10にも満たない子供だからだ。今の彼女は誰の目も引く美しい人だけれど、幼い彼女はまだ、頬にうっすらそばかすの浮いた可愛らしい少女だった。
 ……あと、明らかに表情が違う。マリィはいつでも冷静で穏やかな微笑みを浮かべている人だけれど、目の前の少女はとても気が弱そうで、臆病な印象が強い。
 そんな少女を安心させるように、意識して柔らかく微笑む。
 こちらのオレ本人としてはともかく、水晶公の経験では子供の面倒を見るのは慣れている。伊達に100年近く、人々を見守ってはいない。

「……おにいさんは、どうしさま?」
「ああ、まだ修行中だけれどね」

 小さなマリィの質問に、しれっと笑顔を崩さず答えた。
 グリダニアの田舎は余所者への当たりが強い。けれど、幻術士として修業する人々の事はある程度受け入れるし、森を守る導師ともなれば尊敬すら集める。
 目が合っただけで逃げ出してしまうような警戒心の強い子供に話をして貰う為に、必要な方便だと判断した。意識して態度や口調も水晶公に寄せる。その方が子供から見ても、信頼できる大人に見えるだろうと。
 ……なんとなく、姿の見えないフレイから胡散臭い物を見る視線を浴びている気がするが、彼が警告しないのだから、許容範囲内と言うことだ。
 オレの修行中の幻術士であるとの虚偽の申告に、小さなマリィはパっと顔を明るくする。
 っく、可愛い。普段こんな無邪気な笑い方しない人だから、きっとこの頃にしか見られなかった笑顔を見られたのは、得難い経験だ。出来るなら写真に収めてアリゼーにも見せたかった。いや、それは本人が嫌がるだろうから、オレの記憶に焼き付けるに留めておこう。

「どうしさま、おとうとをみにきてくれたの?」
「弟?」
「うん。ずっとちいさいころから、びょうきでね。でも、げんきになったの!」

 にこ、っと少女は嬉しそうに笑う。可愛い。いやその感想は後にしろオレ。
 マリィの弟の存在は知っている。が……
 彼は、マリィが旅に出るより以前に亡くなっている、はずだ。ハッキリ聞いた事は無いが、たぶんそうだ。そうでなければ、こよなく弟を愛している彼女はそもそも旅に出なかっただろう。
 これは墓の下にまで持っていこうと思っている秘密だが、彼女の愛用の紀行録のうち、何冊かがオレの手に渡っていた。200年の時を超えて、たまたま無事だった数冊が、ビッグス3世からオレが持つべきだと渡してくれたものだ。
 既に何人もの手を渡って来ていたし、年月も経っていたからボロボロで、半分も読めなかったが……、その中で頻繁に、マリィは弟の事を想っている様子が伺えた。
 貴方がここに居たらどうしただろう。貴方がこれを見たらどう思っただろう。そんな風に。
 そんなにも想う家族を置いて、旅をするために旅をしているなんてマリィらしくは無い。だから、きっと既に故人なのだろうと思っていた。
 そんな弟が、この年頃の時に生きているのは不思議ではないが……、元気になった?
 首を傾げるオレをよそに、少女は立ち上がって傍の家へと駆け出す。

「ルエー! どうしさまがきてくれたよー!」

 そういえば、口調も子供っぽいな。可愛い。……いやだから後で嚙み締めろオレ。
 扉から、小さなマリィは家の中へ声をかける。
 その声に応じるように、家の中からことこと、と小さな音が聞こえて……それから、ゆっくり開いた扉の向こうから現れたのは、青い髪と紫の瞳を持った、小さなマリィよりもう少し小さいくらいのエレゼンの少年だった。
 容姿は、想像していたよりも似ていないんだな。愛らしい子供である、というのはそうだが。

『チッ……分かっていましたけれど、やっぱりその姿で居ますか』

 途端、静かにしていたフレイのえげつない舌打ちと、憎々し気な声が響いた。尤も、幼い姉弟には聞こえて居ないようだけれど。

「じゃあ、あれが」
『間違いありません。例え願望や妄想であろうと、健康な弟なんてあの子の命を侮辱するようなものを作り出すはずがありませんから。……ああ、今すぐ切り伏せてやりたい』
「そ、それはマズいんじゃないのか? 小さいマリィの方は、本物なんだろ?」
『ええ、ですから僕自身が手を出せなかったんです。そもそも、あのマリィは僕をとても怖がっていますし』

 なるほど。道理でフレイはこちら側に入って来れるのに、直接解決に動けなかった訳だ。
 原因となっている幼いマリィは、怒りの化身であるフレイを怖がるし。元凶の排除を試みようとすると、どうしても怒りに駆られて彼女の目の前で偽物の弟を切り殺してしまう事になるから。
 だから、異物の排除に他者が必要となった。
 つまりは、あの小さなマリィの傷つける事なく、偽物の弟から引き離さなければならない。
 小さなマリィが弟においでおいでとしている隙に、小声で手早くフレイから情報を受け取って。彼女が振り返ったその時には、さっと先ほどの笑顔に戻した。

「初めまして。君が彼女の弟君かい?」
「……は、い」

 数歩近寄り、膝をついて目線を合わせて優しく声をかけると。小さな少年は、明らかな警戒の表情でオレを見た。
 どうやら、向こうもオレがここに居る筈のない異物だと分かっているようだ。
 だが、即座に排除しようと襲い掛かってくる事も無ければ、強い拒絶を見せる事もない。
 その態度で、ある程度を把握する。この偽物の弟……彼女に憑りついている黒いエーテルの本体。それは、この場所を支配している訳じゃないという事だ。
 マリィが愛する弟の姿で、元気な様子を演じる事で、こいつはここに居る事を許されている。外に向かうはずの心を引き留め、彼女の愛と関心を全て自分に向けさせることで、庇護されている。
 が。もしも、彼女から見て明らかにおかしい、望まない、弟ではないと思われれば、その庇護は失われる。異物であるこいつは、おそらく即座に排除されるだろう。
 一方、オレも無理にこいつを排除は出来ない。弟の姿をしたものを切り捨てれば、間違いなくマリィの心の傷になる。無根拠にこいつは偽物だなどと糾弾すれば、オレの方が排除される。
 さて、どうしたものか。

「えっと、あの、とうさんがおねがいしてた、どうしさまですよね? えっと、ボクは、もう、げんきになったので! ぜんぜんへーきですので!」
「うん、それは良かった」
「ですので! だいじょぶです! かえってもらって! だいじょぶ!」
「え、でも、せっかく来てくださったのに、父さんたちを呼ばないと……」
「だいじょぶ! とうさんもボクがげんきなのしってるもん!」

 ……なるほど、彼女が人を呼ぼうとすれば、当然それに応えて現れるだろう。今見えなくとも。
 多角的に観察されれば、それだけボロが出やすくなるから、阻止したいようだな。何より、外へ向かう心も全て拒絶させてここに留まる事を望ませてこうなっているのだ。関心が他所に移れば、それだけ庇護は弱まる。
 それだけ誰かに守られなければ消えてしまいそうなほどに、追い詰められていたのだろう。アラグの負の遺産に囚われていた一つで、もしかしたらあの黒いエーテル自体は本来無害で善良な何かだったのかもしれない。純然たる被害者で、消えたくない一心で縋り付いているのかもしれない。
 ……そうだとしても、この状態を看過出来はしない。

「そうか。ならば、折角ここまで来たのだし……良かったら、村の外の話でもどうだろうか」
「グリダニアの、他のどうしさまのおはなし?」
「ああ。何が良いだろう。他の立派な導師様の話や、角尊様のお話が聞きたいかい? それとも……森の外のお話がいいかな?」
「! 森のそと、しってるの?」
「そうとも、導師を志す前は森の外に居たんだ。サンシーカーだからね」

 グリダニアに多く住むミコッテ族はムーンキーパーだ。その違いは幼い子らには分からないかもしれないが、森の外を知っている導師、という設定に際して丁度良かった。
 好奇心旺盛な子供の心をくすぐるような誘いを投げかける。
 他に大人が居れば、そんなものを持ちかける導師見習いを許しはしないだろう。村人達が居ないからこそ、逆手に取れた。
 そして、もちろん。

「む、むらから、もりからでるなんて! かんがえたことないです!」

 マリィの外に向かう心を抑えたい偽弟は、それを拒絶する。
 ここまでは、想定の通りだ。
 そして、それを聞いたマリィが、驚いた顔をして、目を瞬かせるのも。

「……ルエ? あんなにお外に行ってみたいって、言ってたのに?」
「えっ……」

 やっぱり。こいつはどうやら、姿は写し取れても、中身までは再現出来ていない。
 幼いマリィが弟を扱うのに流されて、庇護心を掻き立て、喜ぶように振舞っているだけだ。
 だから、第三者が突けば、いくらでもボロが出る。
 オレは彼女の弟については、ある程度知っている。
 無論本人に会った事などないが、尋ねればマリィは弟の話をしてくれる。
 自分とは違って愛嬌があって、人懐こい可愛い男の子なのだと。自分よりもよほど好奇心旺盛で、森の外で冒険してみたい、が口癖だと。
 ……グリダニアの排他的な村でそれが許されたのは。たぶん、彼自身が余命幾許もない幼子だったからなのだろう。いくら内に閉じこもるきらいの強い森の民でも、叶わぬ夢を見る小さな子供のそれを、否定はしづらい。
 マリィの紀行録は、弟に見せたい景色で溢れていた。それを願うほど、外の世界を夢見る子供だった。
 そんな子を演じながら、内に閉じこもるよう誘導するのは……ちょっと無理がある。

「い、いまはちがうの! おそとにいきたくない! このままここにいたい!」
「ルエ、でも、げんきになったんだし……」
「やだ! ボクはおねえちゃんと、ずっと! ずっといっしょにいるの! ずっと、ずーっとここにいるの、いたいの!!」

 ぎゅう、と幼い子供の姿の偽弟は、少し大きなだけの姉にすがりつくように抱き着く。
 反射的にマリィからも抱き返して、でも、とても困惑した顔をしていた。
 ……幼い姿であるからと言って、幼い頃の記憶しか持っていない訳ではないと思う。いや、そうだとしても、だからこそ幼い頃の記憶に関しては強固なのは間違いない。
 弟の姿をしてすがってくるこの子は、本当に弟だろうか?
 そんな疑問は持っている。もしかしたら、最初から持っていた。でも、愛しい家族が傍にいる幸せに、疑問から目を反らしたのだろう。
 誰にだって、そう言う事はある。世界を救った英雄だって、人間だ。
 しかも、自分が今そうして居るきっかけそのものの姿をして縋られては。揺らぐのだって、当たり前。

「……どんなに仲の良い姉弟だって、本当に『ずっと一緒』、は難しいものだよ。傍で支え合うのならまだしも、それでは……ただ縋り、圧し掛かっているだけで、絆とは言い難い。ただの依存だ」

 幼子を諭すように言う。わがままを言う少年に向けてではない。彼に抱き着かれている、少女にだ。
 迷った顔で、偽弟とオレを交互に見る幼い少女に、酷な選択を迫っている自覚はある。
 都合の良い甘い夢を断ち切る事は、勇気が要る。
 大人になった彼女ならともかく、こうして心の奥底に残る、臆病な少女にそれをさせるのが、どれだけ残酷な事なのかも。

「……私も、ルエと、ずっといっしょにいたい、けど」
「そうしよ! ずっとここで! おそといかないで!!」
「…………。ルエが、そう、したい、なら、……で、も」
「マリィ、」

 ほんの僅かに、『このままでもいい』の方に心が傾いている。思った以上に、弟への愛情が強く、重いようだ。
 彼女自身の意思で戻ってきてもらえるのが一番良いが、まだ見守っていい段階に無い。
 言葉を重ねる為に口を開いた、その途端に偽弟の視線がこちらに向いた。
 幼い少年の姿にはそぐわない、憎悪の籠った目でオレを睨む。

「さっきからうるっさい!! なんなんだよ!! ほっといてよ!! ボクはただ、おねえちゃんとずっといっしょに、しあわせでいたいだけなのに!!」

 苛立ちは当然だろう。こいつだって、自分が消えるかどうかの瀬戸際だ。
 だから、抱き着いていた姉から手を離すと、足元の石を拾って、思いきり投げつけて来た。
 避けようとは思ったが、流石に距離が近すぎる。ほとんど、石でそのまま殴られたのと同じだ。
 ゴ、っと額に当たり派手な音が鳴る。恐らくは石のとがった所が当たった。
 ただでさえ皮膚の薄い所だから、感じる衝撃が強い。子供の姿をしてるだけという証拠なのか、思いの他力が強く目の前に星が飛ぶような錯覚。感触からして、まあ血くらい出てるだろう。
 それで意識が飛ぶほどではないが、来るかもしれない追撃の方は止めるなり避けるなり出来るように、反射的に閉じてしまっていた目を開く。
 そして改めて視界に収まった少年の姿は、……その像が、揺らいで薄れかけていた。

「えっ、な、なんで」

 オレ以上に、偽弟が自分の手を見て酷く動揺していた。
 それから、先ほど自分が手を離した姉を見やる。つられて、オレもそちらへ視線を向ける。
 つい先程まで必死に縋りつかれ、このまま愛する弟と共に、という道を選びかけていた小さなマリィは、一歩後ずさりながら、ふるりと頭を振った。

「ちがう、……ルエじゃ、ない」
「お、おねえちゃん」
「ルエは、やさしい人に、そんなこと、しない」

 ……そうか。
 病弱な弟が元気になる。外を夢見る好奇心を撤回する。それらは、まだ飲み込めた。
 しかし、優しい人……何も罪を犯していない無辜の人を、自分のワガママで傷つける。そんな横暴が、許容出来ない地雷だった。
 故に、彼女はそこにいるのは弟ではないと拒絶した。許容と庇護を失えば、他者の侵食を阻む光の加護を持つマリィの中に、異物は居座り続けられない。
 可愛い少年の姿は薄らぎ崩れ、黒い泥のような何かに変貌する。
 異様な姿に臆病な少女は身を固くして、ますます後ずさる。

「ナンデ! ドウシテ! 嫌ダ、消エタクナイ! 一人ハ、モウ嫌ダ!!」

 暗く響くような、慟哭めいた声。もはや声も、弟のものを装えていない。
 きっと本当に、あの黒いエーテルに害意は無かったのだろう。永の年月、囚われ搾取され、孤独と恐怖を味わい、怯えてその場の温もりに縋り付いただけ。
 哀れだとは思う。
 だが。

「悪いな。お前に、彼女は渡せない」

 怯え立ち竦む少女に再び縋ろうとする黒いエーテル。
 その間に滑り込む。少女を守るべく自分の後ろに隠し、左腕を掲げる。
 ……実際のところ、オレにはあまり魔法の才能はない。水晶公がエーテルを編み、剣や盾を生み出し扱えたのは、塔の機能や魔力を流用していたからだ。
 こちらで目覚めたオレには、まだそんな練度はない。残っているのは、知識と感覚。再びあの時と同じ戦い方が実現できるようになるには、今しばらくの修練が要る。
 だが、ここはあくまで夢の中、精神の世界。
 であれば、『出来る』と言う感覚と確信さえあれば、ここでなら今でも『出来る』。
 オレのエーテルで編まれた光り輝く盾が、伸ばされた黒いエーテルの腕を阻んだ。
 大丈夫だ。やれる。
 怯えた少女がこの場から逃げ出さないかだけが心配だったが……

「おにい、さん」

 震えた、怯えた声だった。
 それでも少女は逃げず、きゅ、と小さな手がオレの服の裾を掴んだのを感じた。
 こんな時だが。例え心のひとかけらなのだとしても、マリィに信じ、頼られているのだと実感してしまい、気持ちが昂揚してしまった。
 その時。がしゃん、と空から何かが割れたような音が響いてきた。
 盾を構えながら咄嗟に頭上を見上げると、分厚い森の木々の隙間から、キラキラと光るカケラのようなものが舞っているのが窺えた。
 それはたぶん、ここと外界を隔てていた、あの透明の殻。
 それが砕けた。きっと、この小さなマリィの外界への拒絶が無くなったからだ。
 となれば、次に来るのは。
 思考の一瞬後に、視界の隅に映った光。それを認めた瞬間、本格的に少女の方を振り返り、抱きしめる形で彼女をオレの体で庇った。

 落ちてきたのは、赤い光を纏う流星。
 ドン、と地響きを鳴らし、目の前に……あの黒いエーテルがいた場所へと、一直線。

 当然生じる衝撃から咄嗟に少女を守った訳だが、冷静に考えると流石に自分で自分を害したりしないだろうから、不要だったかもしれないな……
 それでも腕を解いて様子を見ると、驚いた顔で固まってしまっていたが。
 振り返ると、案の定そこにいたのは、大人の姿の……今現在のマリィだった。
 拒絶の殻が破れたと同時に動き、まだ元凶が残っていると分かり、飛んで……いや、跳んで来たのだろう。人の身で制空権すら掌握するのが竜騎士だ。

「ありがとう、グ・ラハ。その子を守ってくれて」
「……いや。役に立てて良かった」

 もう、あの黒いエーテルの残滓も何もない。今の一撃で、すっかり焼き尽くされたようだ。
 相変わらずの、凛と立つ美しい英雄の姿。
 その隣に、オレの気配を誤魔化し続けていてくれたフレイも姿を現して並ぶ。
 びく、と小さなマリィがまた怯えたように震えた。それを見て、フレイは何も言わずにすっと離れて姿を消した。
 失望とかではなく、たぶん気遣いだ。怒りという激しい感情を、このマリィは怖がるから。
 残った大人のマリィのことも、小さなマリィはおどおどとした様子で見上げていた。
 ……こんな内気な女の子が、こう成長したのか。
 本来なら並べて見ることなんか出来ない光景に、なんだか不思議な気持ちになる。

「あの、……ごめん、なさい。私が、ルエのことわすれられなくて、やっぱりいっしょにいたくて、……しちゃって」
「いいえ。忘れたいなんて思ったことはないわ。ボクこそごめんなさい。あの子を想う気持ちを、いつも大事にしててくれて、ありがとう」

 小さな少女と目線を合わせるように、マリィも膝をついて微笑みかけ、優しく髪を撫でる。
 決して、彼女は心の奥底の自分の気持ちを蔑ろにしてはいない。
 それが、物語のような英雄として生きるためには、少し足を止めさせてしまうようなものでも。
 だから責めない。否定しない。そういう心があるのだと、受け入れている。フレイに対してもそうだったのだろう。
 泣きそうな顔で俯いた小さな少女をもう一度撫でて、マリィは立ち上がり、オレに向き直る。

「改めて、ありがとう。お陰で助かったわ」
「どういたしまして。これで、目を覚ますことが出来るようになったんだよな?」
「ええ、きっと。そうよね、フェオ?」
「勿論よ! さ、あるべき心を、あるべき場所へ戻すのだわ!」

 ひらりと舞い降りた妖精が、光を纏って飛び回る。
 黒衣森を増していた景色が薄くなる。内に閉じこもる殻は消えて元に戻るし、オレの精神も元の身体に戻される。
 その途中、つい振り返ると……小さな少女は、俯いたままでそこに居た。

「……大人になった私はすごいね。つよくて、かっこよくて」
「ああ、本当に。オレの、憧れの人だよ」
「あのね、そんな大人になれたのは、うれしいの。私はよわいから。よわい私は好きじゃなかったから。本当にうれしいの、でも」

 きっと、頑張って強く居ようと懸命に変わったのだろう。
 その努力は、実を結んだ。彼女自身の理想を実現した。
 もしかしたら、まだその途中かもしれないけれど。そうあろうと今も正しく努めて歩む姿に喜びはあると、少女は言う。

「でも、……父さんも母さんも、ルエも、だれも、いないの。……ひとりはさみしい。さみしい、よ」

 俯いた顔を、両手で覆う。
 ……フレイが、マリィの怒りや憤りなのだとしたら。この子は恐らく、マリィの寂しさとか、悲しみとか。そういう部分なんだろう。
 自分でも普段は意識しない心の奥底で、家族が居ない事を寂しがり、うずくまってひとりぼっちで泣いている小さな女の子。
 無理に抑えている、というわけではないのかもしれない。もう既に、飲み込んで乗り越えた後の気持ち。
 それでも確かにそれはある。強くて優しい、カッコいい英雄であるマリィにも、こうして小さく怯える部分が。

「マリィ。大丈夫だ、あんたはひとりぼっちなんかじゃない」

 思わず、震える肩に手を添えていた。
 そろりと顔を覆っていた手の隙間から、涙に濡れた瞳が覗く。
 それに対して、安心させたくて笑顔を向ける。

「あんたには、大切に想う友人や仲間が沢山いる。皆、マリィを一人にしたくない、させないって、頑張って考えて、行動してる」
「……でも」
「分かってる、家族は他のものには代え難いよな。それでも、それでもさ。血は繋がってなくても、家族と同じくらい大切に想うことは出来るし、想ってる人は居る」
「……お兄さんも?」
「もちろん。あんたさえ良ければ、お兄ちゃんでもお父さんでも、おじいちゃんだっていい。だからさ、ひとりぼっちだなんて、思わないでくれ」

 弟は、ちょっと無理かもしれないが……まあ、そこはアルフィノの方が確実に適任だろう。
 自分は一人だと、あんたが心の奥で泣かないでいられるなら。オレは何にだってなれる。
 ……正直言えば、その、伴侶とかその辺を望む気持ちもあるが、幼い姿の彼女にそんな事を言うのは流石に憚られた。
 ぱちり、と大きな瞳を少女は瞬かせて。
 少しだけ、強張っていた肩の力が抜けて。口元が、安堵したように緩んだ。

 ———オレが知覚出来たのは、そこまでだった。



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