無償の愛


「印旛沼の干拓は失敗するだろうと睨んでおる」
 愕然としている後藤三右衛門の目を見ないまま、鳥居は続けた。
「水野様の天下も終わりだ。出世に向けて、次の足掛かりを探さねばならぬな」
「ご老中を裏切りなさるのですか」
 やはり鳥居の目を見ないまま、後藤は脂ぎった頬を青ざめさせた。
「当然ではないか。上役が自滅するからといって、共に堕ちる馬鹿がどこにおる。この鳥居耀蔵に忠心などあるわけがなかろう」
「あれだけお側に侍っていらしたのに、いともあっさり……」
 生唾を飲み込んで身を震わせる後藤に、鳥居は得意げに胸をそらしてみせた。
「お前も生き残りたかろう。この変わり身の早さ、見習ってもよいのだぞ」
「ひい……、何卒お引き立てを……」
 後藤が頬を引きつらせる横で、鳥居は高笑いした。笑いながら、胸の中に小さなしこりがあることに気付いていた。
 惜しいのだ。水野を手離すことが。
 取り入った者を捨てる時に惜別の念を抱いたことなど、ついぞなかった。水野は稀に見る相性の良い上役だったが、それだけが理由とも思えない。まして閨の戯れに未練などあるはずもない。
 何故だろうか。この先に恐ろしいことが待ち構えている気がしてならない。
 答えの出ない思考を巡らせながら、鳥居は遅々として進まぬ工事を見下ろしていた。


「おい鳥居、起きぬか」
 肩を揺さぶられて、鳥居は目を覚ました。冷え切った寝所の空気が、一気に頭を現実に引き戻す。
「や……これは、ご無礼を致しました」
 身を起こした鳥居に、気つけのつもりか、水野が煙管を差し出した。僅かに乱れた寝巻から覗く青白い肌に、点々と情事の跡が残っている。
 煙を吹かしながら障子を見やると、外はまだ暗い。何故起こされたのだろうか、と思っていると、すぐ後ろから水野の声がした。
「夢でも見ていたのか」
 ばさりと上衣を着せかけられる。あぐらをかいた水野の面に、気遣わしげな色がある。
「うなされるなど、お前らしからぬ」
 どん、と胸を突かれたような衝撃が鳥居を襲った。夢の内容は覚えている。それに自分がうなされていたことが信じがたく、咄嗟に頭が回らなかった。気が付けば、鳥居は見たものそのままを語っていた。
「ええ、それは酷い夢でしたよ。水野様と、お別れをする夢にございます」
 水野が細い目を見張った。
「縁起でもない夢を見たものだな」
「悪夢は他人に話せば消えると申します。下らぬたわごとですが、水野様、聞いてくださいませぬか」
「ああ話せ、すっかり話してしまえ。わしが全て聞いて、そんなものはただの夢だと言い切ってやろう」
 力強く頷く水野の姿に、ある夢想が鳥居の心を捕らえた。
 いっそ計画のすべてを話してしまおうか。明日、印旛沼工事の報告に行く時、鳥居はもう水野派ではなくなっていると。水野が失望し、幻滅して、己の元から去っていく後ろ姿を今ここで見てみようか。そうすれば――本当にそうできたならば、どんなにか愉快だろう。
 一つ頭を振って夢想を振り払うと、鳥居は悪夢の内容を掻い摘んで語った。
 自分も水野も、ふわふわしたどこか頼りない存在となって、何処とも知れない空間で向き合っていたこと。鳥居は余裕ありげに笑っていて、水野は静かに、しかし猛烈に怒っていたこと。二人で杯を交わしたこと。それきり、もう二度と会えなかったこと。
 水野は上衣の中に入ると、鳥居を抱きしめた。
「大丈夫、心配するな。全てはただの――」
 鳥居の顔を覗き込んだ水野が息を呑む。
「耀蔵、お前……泣いているのか?」
 煙の消えた煙管が床に転がって、布団が灰まみれになった。
「見苦しいところをお見せして申し訳ございませぬ……安堵のあまり、つい」
 涙を拭うと、水野の腕の中を抜けて、鳥居は障子に近寄った。手をかけて滑らせると、いつかと似た眩いほどの月光が目を刺した。
「今宵もこの庭園は美しゅうございますね」
 本当にお綺麗なのは水野の心根だ。あまりにも人を信じすぎるから、自分などの企みに染まるのだ。
 背後から水野が歩いてくる。鳥居は振り向きざま、水野の肩を捕まえ、薄い唇に自分のそれを押し付けた。永遠にも思える一瞬だった。
「驚いたな」
 顎髭をさすりながら、満更でもなさそうに水野が言う。
「お前から口付けるのは初めてではないか?」
 そう、初めてだった。真っ向から愛されるのも、人を愛おしいと思うのも。
 もう終わりだ。何もかも終わるのだ。
「水野様、私はあなた様に出会えて嬉しゅうございました。あなた様と過ごした歳月は、まこと、今生の幸せでございます」
「急に何を言い出すかと思えば……。夢のせいで、名残惜しむようなことばかり思うのだろ。離せと言われても離さんぞ」
 再び水野の腕に包まれて、鳥居は乾いた声で笑った。二度と涙は出なかった。

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