無償の愛


「やあ鳥居どの、すっかりご出世なさいましたな」
 勤めを上がる途中、呼び止められて鳥居は振り向く。馴れ馴れしく声をかけてきたのは中奥番時代の同輩だった。
「かたじけないお言葉、恩に着まする」
「久方ぶりにお会いしましたし、どうです、私の屋敷にでも」
 かつての同輩は猪口を構える恰好をした。
「あいにく急ぎますゆえ、これにて」
「そう邪険にあしらわないでいただきたい。貴殿にとっても悪い話ではござらぬ」
 すうっと目を細めた彼の笑顔を見て、鳥居の背筋に緊張が走る。培った直感が、嫌な事態になると告げていた。
 招かれるまま屋敷へ通され、なかなか豪勢な膳を囲む。盃を受けながら、さては口利きの願い出だろうか、と鳥居は考えていた。鳥居は大多数に嫌われているが、その手腕と権勢を恃んで近付いてくる者もいる。大塩の一件からは特に増えた。未だに中奥で燻っているらしいこやつも同じ手合いだろうか、と談笑しながら見下す。しかしそれにしては頭の片隅で鳴り響く警報が止まない。
 一席のさなか、元同輩の細君が挨拶に来た。夫より一回りほど若い女だ。聞くと今年で二十八だという。細君が下がった後、元同輩は機嫌よく手酌しながら言い出した。
「二十八と聞いて、何か思い出しませぬか」
 はて、と首を傾げた鳥居に、満面の笑みで元同輩は答えを明かす。
「貴殿が中奥に入られたご年齢ですよ。初めて世間の荒波に揉まれるにしては、かなり薹が立っている。貰い手が見つかってよかったですね。たといお飾り同然の役職でも、地位をお膳立てしてもらえるんだ。ご実家のご威光というのは、まったくありがたいものですなあ」
 いきなり浴びせられたきつい皮肉に、鳥居はきりきりと眉を逆立てた。酒を一杯あおり、努めて平静を保つ。
「何がおっしゃりたいのです」
 酔いに崩れていた顔から表情が消えた。
「かつての坊やがずいぶん幅をきかせているようじゃありませんか。他人をさんざん蹴落としておいて、いかがなお気持ちで過ごされているのやら」
「愚痴をおっしゃりたいだけなら、これにて失礼致す」
「水野越前守様と懇ろなご関係にあるそうですね」
 腰を浮かしかけた鳥居の動きが止まる。ただの嫌味ならそのまま去っていた。懇ろ、という言葉の含意が、とりもちのように絡みつく。
「そのような下らぬ噂、どこでお耳にされましたかな」
「ああ、無視しなかったということは、やっぱり本当なんですね。鳥居どのもつれない男だ。一時はあれほど親しく交わっておりましたのに」
 酒臭い息が顔にかかる。ぬっと手が伸びてきて、乱雑に胸元をまさぐられた。何か考えるより先に、その身体を突き飛ばしていた。酒が畳一面にぶちまけられ、膳が台無しになった。
「未練がましいことを申されるな。貴殿とはとうに終わった仲だ」
 つまらぬ勤めの暇つぶしといえば、同輩や上役たちの弱味を握るぐらいしかなかった。他人を懐柔するためなら何でもやった。鳥居も若さと時間を持て余していたのだ。身体がついていく限り、相手の要求に応えてしまった。
「すべて公にしてもよろしいのですよ」
「誰が信じますかね」
「根回しをしてあると言ったら、驚くかな。謀があんたばかりの十八番だと思ってもらっちゃ困る」
 急に言葉遣いを崩し、だらしなく身を起こしながら、かつての同輩は酔眼で鳥居を見据えた。その瞳に暗い怨みが燃えている。
「鳥居どのにとっちゃ終わったことなんだろうが、俺にとっては違うんだよ。苦労したんだぜ、二十八歳の女を探すのは」
 あまりの気色悪さに、鳥居は唇を歪めた。鳥居が中奥番を辞して後、無役の期間が続いたのは、これと縁を切るためにしばらく身を潜めていたという理由もある。ここまで執念深い男だとは思いもしなかったが。
「俺はな、あんたが破滅するところが見られれば、自分の身はどうなっても構わないんだ」
「それは結構。せいぜい震えて待ちましょう」
 醜聞ごときで今更揺らぐ地位ではない。放っておけばこの男は自滅するだろう。噂を揉み消す手段を二つ三つと考えながら、鳥居は立ち去ろうとした。
「なんだったら水野様の方に手を出してもいいんだぜ。俺はちらりと遠目に見ただけだが、綺麗なものしか知らなさそうな、そそる顔立ちをしていやぁがる」
 その言葉を聞いた瞬間、考えが変わった。
 自邸に帰ってからも、しばらく拳が震えて筆も取れなかった。主君を愚弄されたのだから怒って当然だが、これほどの怒りを覚えることが、己自身意外でもあった。
「まあ、相手が悪かったな。この鳥居耀蔵が知恵比べで負けると思うなよ」
 ふんと低い鼻を鳴らし、鳥居は廊下に出ると二度手を打った。闇の中に人の気配が蠢いた。


「先日の旗本一家惨殺事件だが、評議はどんな調子だ」
「は、恐らく物盗りの仕業でございましょう。金品が根こそぎ荒らされておりましたゆえ」
「わしもその見立てだが、気になるのは評定衆の報告だ」
 山積みの上書を手早く処理しながら、水野は鳥居に尋ねた。
「何しろ被害者が武家であるから捜査も徹底的に行われている。にもかかわらず一向に進展が見えないのは、何者かか裏で動いて下手人を匿っているのではないか、という話だが、お前はどう考える」
 鳥居も報告書を捌きながら返答する。
「ありえぬ話です。狼藉の手口からして、下手人の殺しや盗みの腕前は素人同然。近頃流行りの侠客ならまだしも、ただの食い詰めたならず者を庇う輩がどこにおりましょうや」
 何者かが匿っているという疑惑が持ち上がるのは想定内だった。そこで一旦場の意見に賛同しておいてから、鳥居の望む方向に転がるように議論を誘導している。
「水野様、今はご改革の正念場でございます。この事件の一切は鳥居が引き受けまする。水野様は些事にかかずらうことなく、大事に注力くださいませ」
 新しい上書の山を積み上げながら鳥居が言うと、水野はむうと唸ってしばし手を止めた。しかし間もなく一番上の上書を手に取り、目を通し始めた。
 自分の勤めを終えた鳥居は、老中の部屋を辞した。肩を縮める小坊主たちに見送られながら悠々と廊下を進む。
 手駒たちは上手くやったようだ。わざと素人臭く荒らすように、と指示を出しておいて正解だった。事の裏で何が起きていたか、水野は永遠に知るまい。知らなくて良いのだ。
 ――あの男と出会っていなければ。初めての夜、水野はもっと喜んでくれただろうか。
 可笑しな仮定がふと頭をもたげて、鳥居は一人笑いそうになった。
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