無償の愛
「雨になりそうだな」
空の杯をもてあそびながら、水野は縁側に目をやっていた。頬が赤い。彼はさほど酒に弱い体質ではないが、人形のように色が白いせいで、すぐ肌に出るのだ。
ふっと笑みを漏らした鳥居に、水野はちらりと目をくれた。
「どうした」
「いえ」
盃を置いて、鳥居は懐かしむような遠い目をした。
「初めてお目通り叶った時のことを思い出しておりました」
何を思い出したのか、水野がこめかみを掻いている。あの日以降、表立っては主従の仲となり、水面下では個人としての寵愛を一身に受けてきた。
愛されるとは寵愛のことであったか、と鳥居は解釈していた。確かに、それは水野からしか得られない優越感であった。水野の傍らでだけ感じ取れる、特別な心地よさであった。
視線を正面に戻し、鳥居は得々と己の功績を語る。
「蛮学社中どもを一網打尽にし、矢部定謙を潰し、高島秋帆を牢に繋ぎ。水野様とご改革の邪魔者は、みな私の手で追い落として参りましたね」
水野の面にちらりと苦虫を嚙み潰したような表情が走ったが、すぐに掻き消えた。
「お前の言う通り。すべては改革のために必要なことだったのだ」
水野は下座に回ると、鳥居の手を取った。酒で温まった手が労わるように鳥居を撫でさする。
「大御所派を排除しにかかった日だったな。水野忠篤めがお前の手を振り払った時、反射的に足が出ていた。今思えば、わしの手足とも頼む部下を蔑ろにしたことが、到底許せなかったのだろう」
堪えようとしても頬が緩み、ぞくぞくと背筋を愉悦が這い上る。鳥居にとって、水野はただの足掛かりに過ぎない。たまたま出世頭だったから利用しただけで、一個人としては何の感情も抱いていない。言い聞かせねば忘れてしまいそうになるほど、その感触は快かった。
水野が頬に手を添えてきた。熱い手を重ねながら、鳥居は陶然として言う。
「私こそは貴方様のただ一人の忠臣。水野様にどこまでも付き従う、唯一無二の男。そのことを、ゆめお忘れなきよう」
「忘れるものか。お前はわしの第一の部下だ。そして……」
勝手知ったる様子で、水野の付き人が膳を下げて退出していく。辺りにひと気がなくなってから、水野は四隅の灯りを吹き消した。
余韻に浸りながら寝返りを打つ。鳥居は箱枕に頭を乗せたまま、今やすっかり行き慣れた部屋の中を見回した。質素好みの主人の趣味で、調度はほとんど置かれていない。
「忠邦様」
聞かれないのをいいことに、諱を口にした。水野は鳥居の機嫌を取る時、わざと下の名前で呼ぶ。それを真似てみただけだが、不思議に、ちりちりと胸の奥が疼いた。
「寝物語に諱を呼んでみせるか、あざとい奴め」
横を見ると、水野がうっすらと目蓋を開いていた。掻巻の中から腕が伸びて、肩を抱き寄せられる。
「耀蔵。お前は本当に手のかかる、愛い奴だ」
生まれてこの方感じたことのない感情が、鳥居の胸の中を渦巻いた。それは切望だった。
「水野様、私を、あなた様のただ一人にしてくださいますか」
「もうとっくになっておるではないか。お前ほどわしに近しい者は幕府中におらぬ」
「幕府では足りませぬ」
母を見つけた幼子のように、鳥居は水野の身体に縋りつく。
「ご家中の誰よりも、いえ、この世で最も近しい人間になれなければ、意味がないのです」
この体温を手放したくなかった。水野はただの踏み台で、改革は政敵を消す口実で、それだけでは説明のつかない何かを鳥居は欲していた。水野なら、それを与えてくれると思っていた。
「お前のその強迫観念はどこから湧いてくるのだ。心配せずとも、お前抜きでの改革など最早考えられぬ」
水野は軽く笑って、鳥居と目を合わせた。柳の葉のような見目好い瞳に、いたずらめいた光が宿る。
「それでも不安ならば、忘れさせてやろうか」
鳥居は黙って目を閉じた。両の手首を捕らえた水野が覆いかぶさってくる。
衝動に身を任せてしまえば、もう何も考えなくていい。胸を焦がす感情の正体も、どうして彼のただ一人を望むのかも。
閉て切った障子の外で、雨が降り出したようだった。
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