無償の愛


 幼き日に母の腕の中で聞いた子守歌を、この頃無性に思い出す。
 母は林大学頭述斎の側室の一人にすぎない。父のただ一人にはなれぬ定めであった。寂しげな母の横顔を見つめても、鳥居では何の力にもなれなかった。代わりとばかりに、元々秀でていた学問に力を入れた。母は喜んでくれたが、父は一顧だにしなかった。
 述斎のただ一人になれないのは鳥居も同じで、母にとってはかけがえのない――兄は早くに身罷っていた――息子でも、父にとっては大勢いる男児のうちの一人でしかなく、ろくろく顔も見に来ずに放っておかれた。二十五になってようやく結婚の話が出たほどである。
 旗本の家に婿養子に入り、それによって初めてまともな役職を得た鳥居は、すべては権威なのだと悟った。父が母を得ることができたのも、その母を放っておけるのも、この国に轟くほどの権威を持つ者だからだ。権威がなければ人との結びつきを得ることはできない。
 自分が忌み嫌われ、誰にも理解されないのも、きっと権威が足りないからだ。権威さえ備われば周囲を問答無用で平伏させ、黙らせられる。権威の頂点に立った自分を、誰かがきっと見つけてくれる。
 母であり父である何者かに出会うことを夢見て、鳥居は権威を求め続けている。


 鳥居の正座した膝を枕にして、水野がくつろいでいる。こんなふれあいも、地位と身分あってこそ可能になるのだ。
「水野様は」
 主君の鬢の毛を掻き上げながら、鳥居は尋ねる。
「どうして私を見つけてくださったのですか」
 横になったまま、水野はたくわえた髭をしごいた。
「実を言うとな、お前が徒頭にいた頃から気に留めていたのだ。その頃わしは本丸老中に就任したばかりで、城内の足場を整えねばならなかった。それもゆくゆくの改革を見据えた上で、わしの考えに理解ある者で周りを固めたかったのだ。試みに徒頭の名簿を手繰っていた時、お前の名前が目についた」
 徒頭は出世の出発点とでもいうべき役職だった。どこかしら見どころがある者が配属され、誰しもあまり長く留まることはなく、適当なところで引き抜かれるのだ。
「時々聞く名前だったからな。徒頭に就いて間もなく、頭角を現した奴がいると。弁舌にも文筆にも優れ、勤めに抜け漏らしがなく、人の心を掴むのに長けた者だと。そこでお前を西の丸目付にさせて様子を見ることにした」
 それは鳥居の天性だった。目付とは旗本や御家人の監視役だ。他人の粗探しをさせれば天下一品の鳥居にとってこの上ない適職であり、水を得た魚のように才覚を発揮した。
「西の丸での様子を見て、これは使えると思って手元に置くことにしたのだ。しかしまさか町奉行や勘定奉行にまで取り立てることになるとは、あの頃には思いもよらなんだよ」
「今の私の地位も、水野様の類稀な眼力あってこそにございます」
 臣下の称賛を受けて、水野は誇らしげに笑った。
「ですがそこまでご存知なら、以前私の経歴を調べられたというのは」
「徒頭になる前のことはよく知らなかったのでな。簡単には調査したが、あとはお前の口から喋ってもらおうと思ったのだ」
 手を伸ばした水野に顎を撫でられて、鳥居はくすぐったさに肩を縮めた。語った話の裏取りをしないだけ信を置かれていることも、こそばゆさに拍車をかけた。
「光栄にございます」
 鳥居の過去も本性も知らぬまま、水野は鳥居を懐に入れ、膝に頭を乗せている。その間抜けさがいじらしいとさえ感じられてならなかった。
「しかしお前の洋学嫌いには困ったものだ。それさえ落ち着けば、もう少しお前の意見も汲んでやれるものを」
 上目遣いをしながら、水野はほとほと呆れたというように、しかし愛おしげに言う。
「蛮夷の学問など倣う価値もない。あれは幕府の屋台骨を蝕み、やがて国を滅ぼします。野放しにしてはおけませぬ」
「わかったわかった。蛮社や矢部に高島はもう済んだことだが、せめて江川とはもう少し穏便にやるんだな。あれも優秀な者なのだから」
 ぴくりとこめかみが脈打った。水野の肩を叩いて起き上がってもらうと、鳥居はきちんと衣服を整えて額づく。
「泊まっていかんのか」
「今宵はこれにて失礼致します。したためたき上書もございますゆえ」
 拍子抜けした顔の水野を置いて、鳥居は退室した。案内に立った近習は玄関口まで鳥居を送り届けると、怯えた様子で慌ただしく退がっていった。駕籠に乗り込んでからも、鳥居は苛々と足を揺すぶって駕籠かきを迷惑させた。
 蘭学者どもの集まりが嫌いだった。単に己の立場をおびやかすからというだけではない。
 あの空間には、身分を超えた愛がある。この国に存在してはならないはずのものがある。たかが西洋かぶれごときが、鳥居が諦めたものを容易く手に入れている。
 誰しも相応の権威なくして愛を受けることはない。それが封建社会の理だと悟ったつもりでいたところを、粉々に打ち砕かれた。己が愛を得られないのは己の歪みのためだと突きつけられ、認めさせられるのが許せなかった。
 江川英龍を褒めた水野の声音を思い出す。手のひらに爪が食い込んだ。よりによってあの洋学狂いを引き合いに出すのか。水野は自分を、ただ一人にしてくれるのではなかったのか!
 刀のように細い月が雲に隠れていた。奉行役宅への夜道を、歯噛みする鳥居を乗せた駕籠が揺れていく。
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