無償の愛
人払いされた屋敷の奥の間に、屋根を叩く雨音ばかりが降りしきる。
「もそっと近う寄れ」
沈黙を破った上役の言葉に、鳥居耀蔵はじりじりと膝を進めた。
「ご老中ともあろうお方が、私ごときにいかなご用向きでございましょうか」
そっと顔を上げた視線の先で、水野忠邦が無表情のまま、扇子をぱちりと鳴らした。
「先日は大儀であった」
鳥居は束の間考えるふりをしてから、大袈裟な身ぶりで驚いてみせた。
「もしや大塩の告発状の件でございますか。おお、勿体なきお言葉」
「そなたの筆致、ちと筆が乗りすぎている箇所もあったが、只者ではないと思うてな。こちらで経歴を調べさせてもらった」
喜色満面な鳥居の肩がぴくりと跳ねた。
「大学頭どののご実子にして、名門旗本たる鳥居家の養子。文句のつけようがない家柄だ。しかし数年前に中奥番を辞してから少しの間、空白期間があるな」
訳あって中奥番の役目を返上してから、鳥居は二年半ほど無役だった。その後徒頭に就任し、西の丸目付を経て本丸目付に収まっている。
「何があったのだ。申してみよ」
「水野様のお耳に入れるには少々憚られる……」
「申せと言っておる」
響き続ける雨音の中、水野が冷徹に扇子を鳴らした。恐縮する恰好を作ってから、鳥居は密かに下唇を舐めた。
「愛想が尽きたのです。私は九年も中奥におりましたが、あそこにいる者どもには国を憂う心などありませぬ。ただ昨日と変わらぬように日々を過ごしているだけで、今日より明日を良くしようという意気込みがどこにも見当たらない。ここに居続けては腐ってしまう、と思いました。ご公儀より拝命した大切なお役目ではございますが、であればこそ、私は真の意味でご公儀に貢献したかったのでございます」
半分は真実で、半分は嘘だった。中奥の構造と網の目のように張り巡らされた力関係を完璧に把握し、人心掌握の|術《すべ》を掴んだから、もう用はなくなったのだ。
閑職である中奥番に留まり続けても出世の見込みはない。政治に深く携わり、より旨い汁を吸える立場への足掛かりを求めて、鳥居は辞職したのである。
「その意気が上役の方々のお気に召さなかったようで、しばし干されたと申しますか……。いやはや、お恥ずかしい次第にございます」
突如、水野が声をあげて大笑した。表情を繕うのも忘れて鳥居はあっけにとられる。笑いが収まった後、水野は怜悧な面に不敵な笑みを浮かべていた。
「お前はやはり、わしの見込んだ通りの男のようだ」
ざっくばらんな言葉遣いに変えると、水野は扇子を仕舞い、足を崩した。
「わしにも似たような来歴があってな。政権を取るために国替えを申し出たのだ」
「よく存じております」
というより、幕閣で知らぬ者などいなかった。呆れた真似をするものだと思う一方で、鳥居には共感を覚えるところがあった。目的のためには手段を選ばないという思考である。
鳥居の徹底的なやり口には、今まで誰からも理解を得られたことがなかった。その頭脳の切れ味を発揮すればするほど、周囲には恐れられ、忌み嫌われた。へつらうのは上手かったが、上役の目こぼしにも限界がある。いくら出世を願えども、引き立ててくれる絶対的な味方がいなくては意味がない。
水野の逸話を聞いた時から、この男ならひょっとして、という微かな期待が、鳥居の胸底には横たわっていた。
「わしには唐津藩主だった頃からの遠謀がある。幕政改革だ。いや、改めるのは幕府に留まらぬ。この国を上から下まで生まれ変わらせるという、生涯をかけた構想だ」
「ご改革……でございますか」
鳥居は神妙に頷く。改革の是非自体はどうでもよかった。ただ水野は今最も勢いのある幕閣だ。その成否は己の進退に大きく関わってくる。
「改革を成功に導くためには、頭が切れ、機を見るに敏で、多少強引でも実行力に長ける者の力が必要なのだ。鳥居、お前のように、な」
「私に、ご改革を進める手助けをせよ、とおっしゃるのですね」
「そういうことだ。飲み込みが早くて助かる」
満足げに頷きながら、ふと水野は眉をひそめた。
「とはいえ、後ろ盾となる上様も大御所様に頭を押さえつけられている今、すぐさま改革とはいかん。お前の出番も、表立っては当分回ってこないだろう。しばらく辛抱を強いることになるが……」
しめた、と胸中ほくそ笑んで、鳥居は居住まいを正した。ありもしない忠心を知らしめる絶好の機会だ。
「水野様のためなら、喜んで耐え忍びまする」
「そうか、やってくれるか!」
水野は座布団から降り、鳥居のすぐ正面に片膝を立てた。細い指が鳥居の顎を掬い、低い声が耳元で囁く。
「お前の才気、二度と腐らせはせぬぞ」
全身が総毛立つ。興奮が血潮に乗って駆け巡る。ああ、自分はこの男に、必要とされているのだ!
「どこまでもお供仕ります、水野様」
冷たい指先が肌に食い込むのを感じながら、鳥居はうっそりと微笑んだ。
「お前、男を知っておったのか」
煙管を吹かしながらかけられた言葉に、鳥居は寝巻の袷を直していた手を止めた。
「初物の方がお好みでございましたか」
「そういうわけではないが」
それもあるんだろうな、と鳥居は思った。水野の目つきが、労わるような甘さを孕む。
「今まであまり良い経験をしてこなかったのではないか、と感じられてな」
鳥居ははたはたと瞬きした。それからたちどころに追従の笑みを作った。
「ご不快な思いをさせて申し訳ございませぬ。水野様との具合が一番ようございました」
「そんな台詞が聞きたいのではない」
声音をさざ波立たせて、水野は煙管を煙草盆に伏せた。
「鳥居、お前は誰かに愛されたことがあるか、と聞いているのだ」
水野の真剣な表情に、鳥居は虚を突かれた。まるで禅問答のようだ。妻も子どももいるが、房事を指す意味でないなら何を聞いているのだろう。
戸惑いながらも、この場面における正解を探す。
「恐れながら、水野様に教えていただきたく存じます」
当たりだったらしい。闇夜の中で、水野の表情が明るくなった。
「なるほど、そういう手もあったな」
不意に水野は立っていくと、縁側に面する障子を開け放った。雨はすっきりと上がっていた。鼻筋の高い横顔が、眩いほどの月光に照らし出される。
「鳥居、こちらに来てみよ。月夜の庭も趣深いものだぞ」
「は……失礼仕ります」
「今更そんな慇懃な真似はよせ。足も崩してよい。寒くないか、燗でも持ってこさせよう」
「水野様」
人を呼ぼうとした水野の袖を鳥居は引いた。
「酒は不要にございます。それより、誰もお呼び立てなさらないでください。今しばらく、このままで」
喋りながら鳥居は自分自身に驚いていた。本音ではあったが、これほど素直に口をついたのは珍しい。どうしてこうも口が滑るのだろう。
「お前が望むならばそうしよう」
頷いて、水野は隣に腰を下ろした。水野が身を寄せてくるのに合わせて、鳥居は身体を少しだけもたせかけた。触れ合ったところが温かい。閨で浴びるような激しい熱ではなく、穏やかな温もりだ。
ゆるやかな眠気と共に目蓋が降りてくるまでの間、二人は静かに濡れた庭園を眺めていた。
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