鳥の子 - Babél


季節の変わり目になろうと、天守閣の上階は変わらぬ気温を保っている。やけに底冷えするのは守人を初めとした町人の古ぼけた小屋ばかりである。既に潰れた厚布団が天日に干される頃、天守閣の下層部は時を止めたかのような空気に包まれていた。
「お前……鳥の子に触れたな?」
大勢の守人が輪になって囲む中央に、あの青年があった。床に散乱した書物は藍の君の手によって、既に小さな山となった後であった。
「なんたる不敬だ」「無礼な……」「今すぐ処刑の用意を」「恥を知れ!」
ただ肌が、僅かな瞬きの一瞬触れたばかりのことだ。それも鳥の子が、落ちた書物を拾い上げようとした所為だ。青年にとっては貰い事故であり、恋慕の情ではこの上ない喜びであった。
「彼は無実」
「しかし、これは掟です。鳥の子の御身に、我々は触れる資格が御座いません」
「……でも、処刑は必要ない」
「それでは示しがつきませぬ!」
藍の君は美しい囀りで鳴いた。守人の野次の上に咲く月光花のように、か細く透き通っていた。だがそれ故に、斯様な華は既に混乱した場に不適切であった。
「我が鳥の子を否定すると?」
威厳ある師の声が響き渡る。束の間、既に鳥の子の横には寵愛者が在った。守人は一斉に深く頭を垂れ、恐れた。
「大変申し訳御座いません。決して、決してそのようなつもりでは……」
「戯言を言う口は閉じよ。其の声は無用である」
刹那、舌を飲み込んだ音と共に数人の守人が喉を押さえた。平伏の格好を保ったまま、額から流れる脂汗が廊下に滴った。
青年は恐る恐る前髪の隙間からその御姿を覗き見た。凍てつく冬の霜柱と池の水より何倍も冷たい視線が、取り囲む守人へ向けられている。
藍の君を包む雄大な翼が大層美しかった。
「もういいよ、帰ろう」
鳥の子が天師様の御手を握り締め、表情を綻ばせる。既に眼中には天師様だけが映され、一切は存在すら認められていない様だった。青年は食い入る様に鳥の子を見つめ、必死に声を振り絞った。決して綺麗な鳴き方とは言えなかった。
「鳥の子の、寛大なお心に感謝致します。書物も、大変申し訳御座いませんでした……!」
天師様の腕に抱えられた鳥の子は、青年に返事を寄越さなかった。窺えるは無感情の眼、鳥の子は青年に何一つとして期待を返さなかったのだ。

即ち青年はとうの昔に敗れ、積み上げた記憶も紛い物であった。青年は幼き頃、鳥の子もとい怜家の少女――藍白に守られていたのである。
余りのみすぼらしさが彼の記憶を捏造し、格好良く魅せたがった。真実は守護ではなく恐怖による逃亡にあり、震える足は前に出ることを許さなかった。青年が夢見るはただの幻想であり、何事にも変え難い詐称であった。
此度の一件は天師様の御力で方が付いた。結果として声を失った守人は、青年より厳重な処罰を受けるも、天師様への対応業務から席を外す事になった。何とも残念で悔やまれる引退となる。
一方青年といえば、多くの恨みこそ買えど、その地位には変わらず座す事が出来た。既に夢見心地から目覚めた青年に待つのは、変わらず睦まじき天師様と鳥の子の御姿と、手の届かぬ凡愚である自覚だけであった。

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