煙管の雨、ひとつぶ




 想われているなどとは露知らず。故に誘われるまま警戒もせず。夜半にのこのこと部屋へ顔を出して、文句を垂れながら惜しみ無く|話《こえ》を聞かせてくれる。挙句、喋り疲れて机に突っ伏してぐうすかと寝ている始末。早々に杯を取り上げたのだから流石に酔いなど醒めているだろうに、夜更かしの出来ない健やかな男で何よりだ。赤銅の髪を梳いて撫でても、まるで反応しない。爆睡である。|羨ましい《憎らしい》限りだ。最後の一口を吸って紫煙を吐き出すと、雁首をかつん、と灰皿へ打ち付けた。胸に溜まるもやもやとした苛立ちは、辛い酒の所為にも苦い煙の所為にも出来ない。男の話を聞いていたついさっきまでは、ちゃんと美味かったのだから。
 何の見返りも求められることなく注がれるその親愛は、山姥切国広からすれば純真に過ぎるものだった。気を許してくれていることは嬉しい。なのに時折、息が詰まりそうになる。無条件に向けられる信頼は愛おしく、けれど胸を掻きむしりたくなるほどに、狂おしい。大包平の腕を肩に担ぎ、その両膝の裏に腕を回すと、背を支えて慎重にゆっくりと抱き上げた。眠りに落ちて力の抜けきった重い筈の身体は、やけに軽く感じる。元の刀が持っても重量を感じさせない程に、重心に均衡がとれた美しいつくりをしているからなのかもしれない。然程広くもない部屋だ。敷いた手前の布団まで運ぶといっても、たった数歩の距離しかない。引き摺っていったって一瞬で済む。それなのにやたらと丁寧に、時間まで掛けてしまうのは。

『どうでもいい奴になら愛想でもおべっかでも、いくらでも大盤振る舞いしてやらぁ』

 ふと。
 寛政の遠征任務で出会った、蔦屋重三郎の言葉を思い出した。

『けどあっしとあいつは―――なぁいるだろ、おめぇさんにもそういう奴が』

 返す言葉などなく、ただ『何故俺が』と行き場のない文句を垂れる他なかった。相手の本質を一瞬で見抜くその慧眼を前にしては、根付を届けろなんてしょうもない依頼でも断れる筈がなかった。重三郎の言葉で真っ先に思い浮かんでしまったのが、たった今己が抱き上げているこの男だったのだから。これがどうでも良い奴なら、こんなに世話を焼いて構ったりなどしない。色香に騙されてくれる男だったなら、さっさと押し倒して口を吸って、本懐を遂げているだろう。自分だけのものとしてこの男が手に入るのなら。或いは、我が身をこの男だけのものにしてくれるのなら。この際抱くも抱かれるも、構いはしないというのに。……それすら出来ないのだから、始末に追えない。

「……なぁ、あんたはこんな気持ちだったのか」 

 重三郎からの依頼で渋々通い詰めた遊郭。喜多川歌麿に向けられた情。あの絵師が山姥切国広を通して見ていたモノこそあれど、こちとらあれが分からぬほど無垢ではない。応える義理などなく、また本来は極力歴史に関わるべきではない|存在《いぶつ》である為に、応えてもいけない。袖にしたことは一片たりとも悪く思ってなどいないが、この有様を見ればいい気味だと腹を抱えて笑われるには違いない。

『―――どの口が言ってんだか』

 言われなくても、自分自身が嫌というほど分かっている。言葉はいつだって、喉に詰まって出てこない。どうにか吐き出せたとしても酷く曖昧で歪で、心の臓にまで真っ直ぐ届くこの男の言葉のようなきれいな形にはなってくれない。酒の力を借りられるならどんなに良かったか。なまじ酒に強い所為でいくら呑めども頭は冴えるばかりで、酔えもしない。目の前で吸ってみせた煙草も。差し出した煙管も。吹きかけた煙も。全ては単なる腹いせと嫌がらせだ。そこに意味などあるものか、あの程度で伝わる想いならば、苦労などしていない。

 江戸の遠征任務は華やかで賑やかで、心の底から楽しいと思えるものだった。けれどずっと、何かが足らないという奇妙な心地にも苛まれていた。修行を終えて帰還した馴染の二振りという、何不足ない頼もしい編成。だというのに、どこか不完全で不自然な心地が消えなかった。すぐ傍にはいつも和泉守と兄弟がいるのに、どうしても寂しい。和泉守と兄弟の息の合った仲睦まじい姿を見る度に、どうしようもなく胸が騒ぎ、会いたくてたまらなくなった。主が兄弟への労いだと言った通り、充実したひと時であったことは確かだ。なのに早く帰って顔が見たいという切なる思いが、常に頭の片隅にあった。気を紛らわせるように、合間を見ては筆屋で働くことに没頭していた。山姥切国広にとって≪ものを作る≫という行為はいつだって、こころに安寧を齎すものであったから。

 瑣吉……曲亭馬琴が、物語を書かずにはおれないように。
 喜多川歌麿が、絵を描かずにはおれないように。
 きっと山姥切国広は『作る』という行為を通して、なにかを写さずにはいられない。

 他の本丸の山姥切国広がどうなのかなど知らない。けれど少なくとも、この本丸に顕現した己はそうだった。傘にも、草鞋にも、浮世絵にも、本にも、筆にも、手本となる『かたち』はある。彼らが描く絵や綴る物語とて例外ではない。例え造る者に覚えがなくとも、その原型は必ず世界のどこかにある。全くの無から有を創り出している訳ではない。模倣するも創意工夫を施すも、変わらないのだ。手本を基にしたかたちに、ものを造り上げていく行為。それはまさに、『写す』と言っても差し障りないだろう。……きっとだから、苦しくてたまらない。この男のかたちが、よく見えない。何をすればこの男のこころに『|山姥切国広《じぶん》』を写せるかが、分からない。あれだけ口煩く言葉にしろと言ってくる大包平は、山姥切国広に対する感情だけは口にしない。少しでも此方へ向けてくれる想いがあるのなら、おしゃべりなこれが口を閉ざしてなどいられるはずもないのだ。つまるところそれは、『抱く情などない』『脈が無い』ということを指している。いつまでも想いを抱えたまま伝えられないでいるのは、そういう理由だった。それでもどうしても、国広はこの男に抱く想いを諦めきれなかった。誰にでも見せる快活な笑顔。誰にでも掛ける力強い言葉。誰に対しても変わらないものを向けられているはずなのに、国広はこの男を前にすると、自分たち以外誰もいない、ふたりだけの世界に放り込まれたような錯覚に襲われる。当たり前のように手を差し伸べてきて、まるでそうしているのが自然なのだと言わんばかりに、手を引いて導かれる。そんなことをされ続ければ、期待だってしてしまうだろう。分からないからもう諦めたいのに、分からないからこそ諦めきれない。この男がその手を差し出す相手など、いくらでもいる。この男の手を引く者だって、大勢いる。大包平が当たり前のように掬い上げて導く者も、大包平を迷わぬよう真っ直ぐ導きたいと思う者も、国広ひとりだけではない。それを目の当たりにする度、酷く落胆もする。いっそ嫌われて、突き放されてしまいたいという衝動にさえ駆られるのに、そういう時に限ってまるで察しているかのように大包平は放っておいてくれない。耐えかねて突き放そうとしても、もう少し傍に居させてくれと言ってくる。どうしろというのだ。進展もしなければ後退もしてくれない、最悪の堂々巡りだ。

 無駄に時間を掛けてそれでもたどり着いてしまった布団の上に、大包平の身体をそっと下ろす。今更になって、触れなければ良かったと本気で後悔した。支えた両腕に、寄りかからせた胸に、伝わる|体温《ぬくもり》を手放したくない。本当はこんなことをする必要だってない筈なのだ。この男を手前の布団になど寝かせてしまえば、匂いが移って暫くの間ずっと眠れぬ夜を過ごす羽目になるだけだ。適当に毛布でも掛けてやればよかった。何ならここで寝るな部屋に戻れと叩き起こして、廊下に放り出してしまえばよかった。そうした所できっと、大包平は絶対に国広を嫌ったりなどしない。寝ぼけ目で素直にすまんと謝られるか、もうちょっと優しくしてくれてもいいだろ、と拗ねられるかのどちらかだ。……嗚呼そうか、それが分かっているから、余計に落胆する。どう足掻いてもこの情愛が報われる見込みなどないのに、どこまで許してもらえるのだろうという期待ばかりが募ってしまうから。

「―――なぁ、大包平。お前の所為で、痛い」

 自責の念を麻酔代わりにして鈍らせていたこころの痛覚が戻ったのは、失敗が確定していたあの遠征任務だった。見えないフリをすることで無いものとしてきた傷と痛みは、『聞けない』という選択をした周囲の気遣いもあって、緩やかに許容出来た。ただ己が強く在りさえすれば、昔の事など聞かれやしない。詮索されたって、どうか聞いてくれるなという威圧で黙らせられた。誰にも何も問わせず、聞かせないことを続けて、ようやく安堵できたのだ。触れさせなければ、傷なんか無いフリをし続けていられたから。そうやって稼いだ時間で傷を癒やした気になって、どうにか保っていたこころの均衡を、この男ときたら全てぶち壊してくれたのだ。和泉守さえも踏み込まずに弁えた一線を、大包平はその無駄に長い足で何の躊躇いもなく跨いできた。直視するのも苦しいくらい真っ直ぐな心と言葉で、無いフリを続けてきた傷を暴き立てて直に触れてきた。弱い癖に生意気で、遠慮もデリカシーもなさすぎる。……けれどそれが、どうしようもないほど嬉しかったのも確かだった。『無い』ことにし続けた|傷と痛み《もの》を、『有る』と真っ向から否定した奴は、この男が初めてだったから。どうせ散る間際の腐りかけた命、この男の為になら全部使い切ってやっても構わない。そう、思ってしまった程に。けれど大包平はそれすら許さないとばかりに、固く閉ざされた筈の扉を無理やりこじ開けて、ふざけるなと怒鳴り声をあげた。全く冗談じゃない。この男、国広が苦労して誂えた一世一代とっておきの愁嘆場すら、木端微塵の台無しにしてのけたのだ。お陰で直しようのない傷と麻酔もまるで効かなくなった痛みを抱えながら、無様に生き長らえる羽目になった。

 参加する資格などないと避け続けた、仲間たちとの祭り。世話する資格などないと諦め続けた、庭の花々。愉しむ資格などないと疎み続けた、酒と煙草。それが今ではどうだ。どんなに他の任務が忙しくとも、僅かな時間を見つけて進んで祭りに赴くようになった。ふと気付けば、庭に足を踏み入れて花の手入れに没頭しているようになった。……今やあの朗らかな声で紡がれる沢山の言葉を肴に、酒と煙草を愉しむまでになってしまった。引き千切れるような胸の痛みさえも無視できていた頃になんか、もう戻れやしない。戻りたいとも、思えない。喪ったかなしみで疼き続ける古い傷も。新たに湧き出てきたこの甘やかな痛みも。全てが明日を夢見る為には、失くせないものへと代わってしまった。……それでもどうしたって、痛いものは痛い。

「痛いんだ、痛くてたまらない。どうしてくれるんだ、本当に」

 敷布団へと下ろしたその身体から離れたくなくて、眠っているのを良い事にそっと抱きしめた。胸に走る刺すような痛みは身を焦がす程の熱を持ち、逃げ場もないまま蟠る。この|恋慕《きず》を、男にもそっくりそのまま写してやれたらどんなに良かっただろう。痛みを殺す術などとうに喪った。つける薬などあるはずもない。手入れで直らない傷の癒し方なんか、知るものか。痛みの耐え方を忘れ、それでもこの愛しい傷は手放すことも出来ず、今でもひとり立ち尽くしている。これを|執着《のろい》と言わず、なんとする。あの時歌麿は重三郎に別れを告げた。その先に待ち受けている|結末《れきし》が何であれ、歌麿は自ら重三郎の傍を離れる決断を下した。あれはかつての鶴丸国永と三日月宗近が選び取った結論であり、今山姥切国広に突き付けられている、いつかは選ばなければならない|選択《みち》だ。救われたのは紛れもない事実。けれどその事実に、いつまでも甘え、縋り続けていい筈がない。全てがこの男で埋め尽くされて何も見えなくなる前に、さっさと離れるべきだ。頭では分かっているのに、どうしても動けない。

「ぅん……? いたい、のか……?」

 ―――ぽつりと耳に届いたのは。
 譫言を紡ぐ、くぐもった声だった。

 咄嗟に抱きしめていたその身体を離して顔を見やる。長い睫毛に閉ざされていた美しい鈍色が、薄らと見え隠れしていた。息を呑む。瞬時に、背筋が凍てついていく。……拒絶が恐ろしいんじゃない、この男は他者を拒絶しない。そんなものより、返る|想い《もの》がないことの方が、ずっとずっと怖い。それで一体何度、落胆したと思っている。

「なんだ。やっぱりお前、痛かったんじゃないか」
「……え?」

 柔らかな声がした。
 ふわりと、男の口元が緩んだ。

「ほら、泣け。俺がいるぞ」

 男は国広が肩に担いだままだった己の片腕を支えにして、国広の背にもう片方の腕を回す。男の身体から伝わる体温が、増していく。

「っ、お、おいッ、……大包平、っ」

 男の大きな手のひらは慰めるように、とん、とん、と背を優しく叩く。身を包み込んでくるその温もりが、今も傷だらけのこころに酷く沁みる。

「いたいのいたいの、とんでいけ」
「―――ッ……!」

 痛い。痛い。痛い。馬鹿にしているのか。そんな子供騙しのまじない如きで、この痛みが治まってたまるか。仮初の気管が、肺が、ひりついて息が出来ない。胸の奥がずきずきと、声にならない悲鳴を上げている。

「……ッ、誰の所為だと、思って……!」

 何だって今に限ってこんな、幼子のような弱音を許すのか。普段の|大包平《お前》なら、『軟弱者』と叱りつけてくる所だろう。堪え切れずに伝ったひとしずくだけはせめて見られないように、国広は咄嗟に大包平の肩口に顔を埋めた。優しく背を撫でさする大きな腕を必死に無視して、強く抱きしめ返す。この男、今抱きしめているモノが、自分が拾った命などとはこれっぽちも思っていない。この男にとっての仲間とは、押し並べて等価値なものでしかないのだ。そこには個の好悪も優劣もなく、ただのひとつも欠けてはならない存在という認識しかないに違いない。故に男は誰もひとりになどさせないし、決して置いて行かない。初めて任務を共にした時だって、隊長として、刀剣男士として、当たり前のことをしたに過ぎない。たった一言だけ国広が伝えた「全員無事に連れて帰る」という教えを忠実に守った、ただそれだけだ。今も昔も、特別なものなんてひとつもない。だから仲間の機微にはひと一倍聡い癖に、向けられる好意に対してだけはとことんまで愚鈍な唐変木になる。

 あちらこちらで色んな刀に優しくして、その度に上手くやって、勝手に好かれて。
 誰の相棒だろうと務められると言わんばかりに、いつかあっさりこの手を離れていくのだろう。
 そんなもの、許せるはずがない。見ているのも、耐えられない。

 手を差し伸べられる毎に、導かれる度に、こうして己の脆さと醜さばかりを突き付けられる。もう傷つかなくて済むように強くなった筈が、弱さばかりを直視させられる。だから絶対にこいつにだけは負けたくないと思っているのに、結局負けは込んでいるのだ。もうどうしようもない、大包平とはそういう男だ。だから山姥切国広は、大包平に救われてしまった。腹が立つほど真っ直ぐで、虫唾が走るほど暑苦しいのに、春風の如く澄み渡る、爽やかな男だから。山姥切国広は、そんな男にうっかり惚れてしまった。鈍感極まりないその頭を引っ叩いてやりたい衝動を懸命に抑え込んで、共に布団へと転がる。既に背中を叩く男の手は止まっていた。心地よさそうな寝息が、耳に届いている。この、すっとこどっこいめ。適当に慰めたまま、抱き枕にして寝てしまうとは。そっちがそのつもりなら、こっちだって勝手にやる。呪いがなんだ、手にした愛でひとりの男に執着して、何が悪い。この男の隣は、誰にも譲るつもりなんかない。何があろうと絶対に、離れてなどやるものか。

「もう、どうにでもしてくれ。俺はお前が拾った|命《モノ》だ」

 誰が何と言おうとも、例えこの男がどう思っていようとも、それだけは決して揺るがない。きっと男にとっては、やって当然の事でしかなかっただろう。それでも山姥切国広にとってあの遠征任務は、紛れもない奇跡だった。二度と起こり得ず、二度と手にすることのできない、山姥切国広の|現在《いま》を定めた、ただひとつの運命。夢を見るなら、たったそれだけで十分だ。いつか迷惑がられる日が来ようとも、知ったことか。この命、最後の最後までこの男と共に在る為に使うことを、絶対に止めてなどやらない。いつまでだろうとどこまでだろうと、叶うのであればずっと。

「だって俺は、お前の全てに―――恋を、しているのだから」



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