煙管の雨、ひとつぶ
「なぁ」
「なんだ」
「俺に何か、話があって誘ったんじゃないのか」
珍しいこともあるものだ。山姥切国広から、今夜部屋で飲まないかと声を掛けられた。普段ならば手合せも食事も此方から誘うばかりで愛想のひとつも碌に返さない、いまいち社交性に乏しいこの男が。こうして自ら私的な交流を持ちかけてくるのは、おそらく初めてのことだろう。いつかの傷を犯した罪と思い込み、いつかの痛みを自らに科す罰のように大事に抱え、塞ぎ込んで独りになりたがっていた男だ。ここまで他者に心を開くようになったことは、実に喜ばしい。それは良い兆候に違いない……筈、なのだが。
「……別に。何かなければ誘うなと?」
「そういうわけではないが、先ほどから俺ばかりが喋っているぞ」
困った事に男の部屋へ招かれてからというもの、ずっとこの調子なのである。つい先日遠征任務から帰還したばかりだというものだから、てっきり土産話でも聞かせてくれるのかと思いきや、だ。いざ呑み始めてみれば、自分が留守の間本丸で何をしていたのかを話せときた。そう、具体的には。
―――毎日山姥切長義とふたりで、朝顔へ丁寧に水をやっていること。
特に変わったことはしていない。前任の水心子正秀から教えられた通りの方法で、世話をしている。しかし朝顔という植物は不思議なもので、毎日のように違う色の花が咲く。何なら朝と夕に水をやる時でも違う。濃い紫から淡い青まで、様々だ。その色彩は美しいが果たしてこれは異常なのだろうかと、世話を始めたばかりの頃は長義と揃って首を傾げていた。水心子曰く、土の酸度だけでなくその日の気温や湿度、日光の当たり具合、朝顔自体の成長具合によっても花の色は大きく変わるのだとか。流石は一年もの間、庭園に咲くあらゆる花と向き合い続けた刀だ。顕現の基となった刀工由来の研究者気質な性でもあるのだろう、豊富な知識を有していると感心したものだ。
『面白いな、朝顔という花は!』
『折角だ、観察日記もつけてみるといい。何色の花が咲くか、研究するのも楽しいぞ』
―――浦島虎徹と日向正宗から頼まれ、大量の胡瓜と茄子の収穫へ駆り出された時のこと。
やれどもやれども終わりが見えないと、涙目になっていたふたりからの要請だった。あまりにも豊作だったもので、手分けして片っ端から糠漬けや生姜醤油漬けにすることとなったのだ。松井江を強引に連れて手伝いに来た桑名江の的確な指示の元、手合わせをしていた浦島の兄弟達に加州清光、大和守安定も加え、酒の肴を拝借しに来たのか厨で居合わせた天下五剣ふたりも巻き込んだ大所帯に発展。「鍋炊き過ぎじゃない? 厨が生姜醤油臭いよぉ」「鬼ならいくらでも斬る、だが胡瓜はもう切りたくない」「ねぇ何で手袋しちゃ駄目なの? 糠が爪の中入るし纏わりついてきて気持ち悪いんだけど」「あと何樽混ぜればいいんだ、このままでは刀の糠漬けになってしまう」と不満噴出の大騒ぎだった。それでも尚漬け切れずに余った分は一期一振の提案で城下の万屋街に打診。新鮮な内に引き取ってもらい事なきを得た。覚えはなくともそこは太閤秀吉一の愛刀、きっちり金子を回収していたところは、しっかりしている。
『夕餉に出た大量の茄子と胡瓜はお前たちで漬けたものだったのか……まぁ、美味かった』
『ふん、当然だな!』
―――先日はあまりの猛暑に耐えかね、厩舎から馬達を連れ出し水浴びをさせたこと。
小竜景光や御手杵、今剣と共に、馬達の運動も兼ねて城を出発。すぐ近くの川へ連れて行ったまでは良かった。が、水浴びの途中ではしゃいだ馬達に振り回されて川に転がり落ち、大包平のみならず同行した全員が見事に全身ずぶ濡れになってしまった。持って行った手拭いも意味を成さなくなった有様だ。今剣が最初に開き直って手桶の水をぶちまけてきたのを皮切りにして、水浴び合戦に発展。帰ったら大手門の前で仁王立ちしていたへし切長谷部から、盛大に叱られてしまった。知らせを聞いて待ち構えていたのか本丸御殿の玄関に入った途端、陸奥守吉行と大般若長光に笑いながら手拭いを頭に被せられたのだった。
『濡れた犬のようだと言われてな……羽目を外し過ぎた』
『はは、それは俺も見たかった。残念だな』
『見なくて良い!』
―――大倶利伽羅が、素振りついでに手合せも受けてくれるようになったこと。
冬の時期から地道に続けてきた朝稽古だ。当初こそ鬱陶しがられはしたが、大俱利伽羅との付き合いもそれなりには長くなってきたように思う。今や任務が無い時は殆ど毎朝のように顔を合わせているくらいだ。そうやって粘り強く接してきた甲斐もあって、近頃はようやく手合せを引き受けてくれるようになった。未だに一本も取れていない為いずれは勝ちたいと思っているのだが、近頃は困った事にもなっていた。暇を持て余した鶴丸国永が時折乱入してくるようになり、その度にふたりまとめて完膚なきまでに伸されてしまうのだ。此方は木刀で稽古をしているというのに本体を持ち出してくるわ、「俺を検非違使だと思って全力でかかってきな」などと無茶苦茶を言われるわのやりたい放題。手加減のての字もない……否、断じて手を抜いて欲しい訳ではない。ないのだが、大倶利伽羅はともかく鶴丸とは力の差がありすぎる。打ち込む隙はおろか、剣を受け止める暇さえない一方的な手合せとあっては、こちとらたまったものではない。
『鶴丸流の鍛錬なのだとは思うが……限度があるだろ、限度が』
『……あいつめ、今度顔を合わせたらきつく言っておく』
そんな他愛ない話の数々を、山姥切国広に促されるまま喋り倒していた訳である。愉快な仲間にばかり囲まれているものだから、話題には事欠かない。しかしどれをとってもいつもと何ら変わりのない、平凡な日々でもある。この話に新鮮な面白味があるかどうかは分からない。山姥切国広が遠征に出ていた間に出陣していた部隊だって、大きな問題もなく皆が無事に帰還している。心配するようなことも、何ひとつない。大体聞けば誰だって教えてくれる程度の些細な話だ。態々差し飲みの席を設けてまで、何故こんな日常を聞きたがるのやら。何か重要な話や相談事でも切り出されるのかと思っていただけに、大包平はすっかり拍子抜けしていたのだった。
「構わない。お前の話が聞きたくて誘った」
「はぁ……? お前こそ何か無いのか、先の遠征は随分楽しいものだったようだが?」
「それこそ和泉守から聞いているだろう。今更俺が話して面白いことなどなにもない」
「お前なー……」
それにしたって手前にも話題ぐらいはあるだろう。遠征では和泉守兼定、堀川国広と共に寛政頃の江戸に向かったそうだが、時間遡行軍による妨害もなく、殆ど慰安旅行のような任務であったようだ。それについては山姥切国広の言葉通り、お喋り好きな和泉守から直接聞き及んでいる。この男自身も機嫌が良さそうな所を見ると、よほど楽しい旅だったのだろう。なのに自分のことになると途端に口を閉ざし、語ろうとしない。任務中でも気にせず内職で日銭を稼ぐような勝手気ままな男だ、彼らと常に行動を共にしていたわけでもなかろうに。
「お前は俺なんかと違って、会話は得意だろう? お前の話なら退屈しない」
「それは怠慢でしかないだろ。会話する努力をしろ、努力を」
「してるさ」
「してないだろ! どう見ても!」
「今お前と会話している」
「俺が喋ってるだけだろうが! それを怠慢だと言っているんだ、俺は!!」
本当にそういう所だぞ、とぼやきながら、山姥切国広から黙って突き出された杯に酒を注いでやる。対して大包平が持っていた杯はいつの間にか取り上げられて、水を入れるグラスに差替えられてしまっていた。曰く、深酒で潰れられると話が聞けなくなって困るから、とのことだ。差し向かいの酒盛りだというのに、この体たらく。とはいえ酒を取り上げられてまで延々と日常を語らされている疑問よりも、正直な所今はありがたい気持ちの方が勝っていた。そも大包平は、あまり酒に強くない。他所の本丸の己がどうなのかは定かではないが、少なくともこの本丸に顕現した大包平は、他の刀と比べても酔いが回りやすい性質をしていた。宴において杯に注がれた分は飲み干すが横綱たる礼儀とは思っているものの、実のところ猪口に一杯程度の酒でもほろ酔い気分になってしまう。そのため顕現当初は深酒で失敗することもままあった。酒は美味いが、呑まれるのは好ましくない。故に近頃は宴でも羽目を外し過ぎぬよう、飲む量を自制する傾向にある。
一方で酒に誘ってきたこの男は、所謂|蟒蛇《うわばみ》の類だ。宴においても他の刀達がばたばたと酔い潰れていく中、涼しい顔で酒を呷り続けるような男である。焼酎洋酒、ショットにロック、炭酸水割りなんでもござれ。ちゃんぽんなどお構いなしの酒豪だ。麦酒など水同然と宣っていたこともあったか。今飲んでいる日本酒だって大きめの徳利に一升分は入っていた筈だが、もう中身は振ってもちゃぷちゃぷと浅い水音がする程度しか残っていない。この男、可愛い顔に似合わず殆どひとりで呑んでいる。内番でも戦闘でも何かにつけては挑発して闘争心を煽ってくる嫌味な男である上に、此方もつい男の挑発に乗せられてしまうものだから、てっきり情け容赦なく潰されるのかと思っていた。差し向かいで飲んだことは今まで一度もなく、また酔いやすいと直接伝えた覚えもないのだが、男は存外に此方の事をよく見ているらしい。……そこまで考えて、大包平はふと首を傾げた。この男、酒に誘う相手を間違えてはいないか。悔しい限りではあるが、酒に弱いという肉体の性質はどうにもならない。体力や剣技とは違い、こればっかりは鍛えようがないのだ。この蟒蛇の相手をするには流石に張り合いが抜けるのではないかとさえ思うのだが……本当に良かったのだろうか。
「それで?」
「……うん?」
「昨日の大倶利伽羅との手合せはどうだった? 鶴丸は遠征に出ているだろう」
「ああ、その話か。いやなに、あと少しで引き分けに持ち込めそうだと思ったんだが……あいつも強いな!」
促されるまま、話を続ける。その内にふと、気付いたことがあった。山姥切国広が、笑っているのだ。杯を傾け、頬杖をついて相槌を打ち、穏やかな笑みを浮かべ、楽しそうに大包平の話を聞いている。翡翠の瞳を淡く細めたその笑みは、行灯の薄明かりしかない夜半の室内だというのに、眩いものでも見ているかのようだ。打刀の割に大柄な男ではあるが、そのかんばせはどこかあどけなさも感じさせる。人の子になぞらえるなら齢二十を迎えたばかりの、成りたての青年だろうか。出会った頃は遠い所ばかりを見て、視線も碌に交わらなかったあの仏頂面が。よくもまぁ、ここまで顔を綻ばせるようになった。
(まぁ……悪くは、ないな)
その笑みを見て、返すように大包平も満面の笑みを浮かべた。かつての山姥切は能面のような無表情ばかり見せていた。笑うことがあってもそれはいつだって、諦念と自嘲を混ぜこぜにした、皮肉な薄笑いばかりだ。あの頃が勿体なく思える程、今は柔らかく愛らしい笑みをしている。この男がやっとまともに笑えるようになったのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。たいせつなものを喪ってできた傷が、少しずつではあるが癒え始めている。ずっと止まったままだったのだろう『山姥切国広』という時計が、確かに動き始めている。こころに負った傷は、時間だけでは癒せない。痛みと後悔ばかりを反芻して、余計に深く刻まれてしまうから。痛みに耐え続けるばかりで足は動かなくなり、先に進めなくなってしまうから。いつしか己という時計の針さえ止まってしまって、ひとり取り残されてしまう。『傷とは痛むものである』ということさえ、忘却していたのかもしれない。
痛みは罰ではなく、傷は罪ではない。
痛いなら痛いのだと、泣き叫べば良かったのだ。
痛みとは耐えるものではなく、訴えるものなのだから。
男はきっと、悲しみに囚われるあまりそんな単純なことにさえ気付けなかったのだろう。仲間たちが寄り添って、男が再び歩き出す時を待ち続けていたことにも、気付いていなかった。その一助になれたのなら、これほど喜ばしいことはない。もう独りで暗闇に向かおうすることはなくなったのだ。口下手でも自分からこうして誰かを誘えるようになったのが、何よりの証だ。これからは手を引いて日向に連れ出してやる必要も、なくなるのだろう。己の支えが必要とされなくなる時がすぐそこまで来ていることには、一抹の寂しさこそ覚えた。けれどそれでいい。本丸のより善き明日の為に、なによりこの男自身が刀剣男士としてこれからも歩んでいく為に。今度は自らの意思で一歩を踏み出していくべきだ。
「こら。俺が居るのに吸う気か、貴様」
……とはいえ、このどうしようもない行儀の悪さだけはいただけない。頗る機嫌の良い男は油断も隙もあったものではなく、いつの間にか置いてあった煙草盆を手元に引き寄せていた。大包平の咎める声にも聞く耳を持たず、煙管を手に取り、慣れた手つきで刻み煙草を丸めて雁首に詰めると、吸い口を咥え炭火で火をつける。苦い匂いを纏った仄かな煙が、ゆらゆらと部屋に揺蕩い始めた。口寂しいならあたりめでも齧っていれば良いだろうに、何故好き好んで煙など口にするのか。
「……酒に合うんだ。お前も一服どうだ」
「お断りだッ、身体に悪いだろうが!」
浴衣の袖で雑に吸い口を拭った煙管を差し出されたが、断固拒否した。酒なら早々に杯を取り上げられたお陰で、もう抜けてしまった。男は笑いながら片手でぐいと杯を呷り、吸い口を再度咥えて煙を吸っている。片方だけ口角を上げたその不敵な笑みには、先ほどまで見せていた愛らしい柔らかさなど欠片も残っていない。この大包平を嘲笑う、いつもの憎たらしい嫌味な笑み。
「ははっ、……人間でもない癖に?」
それとこれとは話が別だ。酒精とて口が裂けても身体によいものとは言えないが、煙草の煙とは違い自分だけで完結できる。どこででも構わず気軽に煙草を吸う文化自体は、昔なら当たり前の光景だっただろう。けれど今は違う。≪余分を愉しむ≫ということにこそ理解は示せるが、その煙はひとりでいる時や嗜好する者同士で愉しむべきものだ。今度は吸い込んだ煙を揶揄うように吹きかけられ、顔を顰めて手で払った。
「ぶはっ……やめんか! 煙い!」
剰え、その煙を相手に向かって吹きかけるとは何事か。男の言う通り、臓腑から頑丈な刀剣男士には影響など及ぼさないだろうが、これが普段から遠征で頻繁に赴いている平成令和の人間相手なら大問題である。……そもそも自分が吸った煙を吹きかけるなど、どこの時代の誰に対そうが失礼極まりない行いだ。その身に影響があろうとなかろうと、断じて他者にやって良い事ではない。
「そら、話を続けてくれ」
「続けて欲しいならまず吸うのをやめろ! 俺は煙草は好かん!!」
酒に、煙草。容姿のみならば美しくもあどけない愛らしい顔をしている癖に、まるで似合わぬ生意気な仕草。本当にどうしようもない、ろくでなしの男め。
「……お前は本当に、情緒もへったくれもない男だな」
「なんの話だ!」
「分からないなら蔵で調べてこい」
「だから何の話だ! 説明をしろ!!」
「断る」
この勝手気ままな利かん坊には和泉守も遠征でさぞかし手を焼いたのではないか。これを甘やかしては当刃の為にならないだろう、どうやらまだ手を引いてやらねばならないらしい。元気になったのは何よりだが、次はこの行儀の悪さをどうにかしてやらねば……そう思い直し、大包平はぬるくなった水を飲み干したのだった。
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