6-4 Ω
その夜、二人は共に過ごしていた。
そこは風雅が前もって予約していたホテルの一室だった。風雅の自宅から箱猫市までは、特急を使っても片道一時間以上かかる。二日間も往復するとなれば、移動だけで四時間になる。それならば、ホテルを借りてしまった方が時間的にも体力的にも都合が良いと考えていたのだ。
買い物を終え、駅前まで戻ってきた鳳子は、風雅にお礼を言い、預けていたボストンバッグを受け取ると、当たり前のように「風雅くん、またね!」と明るく挨拶をし、その足で黄昏学園へ戻ろうとしていた。
彼女の小さな背中が駅前の人混みに紛れようとしたその瞬間、鳳子が「ずっと家に帰っていない」と言っていたことを思い出し、風雅は咄嗟に彼女を呼び止めた。そして、今こうして、二人は予約したホテルの部屋で過ごしていたのだ。
二人は洗面台の前に並んで立っていた。鳳子の手には、風雅がプレゼントしてくれたピアスが握られている。銀のチェーンに小さな煌めく石が付いたシンプルなデザインで、淡い光が洗面台の明かりを受けて柔らかに輝いていた。
彼女は一ノ瀬と似たピアスを選ぶのではなく、風雅が選んでくれたこのピアスを身に着けることを決めた。それはただの妥協ではなく、空っぽの自分を、特別な存在である風雅が選んでくれたものによって少しずつ満たしていきたいという思いからだった。
ピアスをあける役目は風雅が担うことになった。彼は丁寧に鳳子の耳たぶに黒いマーカーで印をつけていく。彼の指がそっと彼女の耳に触れると、鳳子は一瞬だけ肩を震わせ、思わず吐息交じりの声を漏らした。風雅の指が耳に触れるたび、鳳子の体にはくすぐったさとは異なる知らない感覚が走ったが、彼の手元を狂わせてはいけないと必死に反応を抑え込んだ。
「それじゃあ、いくぞ」
「ん……お願い、します……!」
「なるべく痛くないようにするから」
――痛くてもいい。風雅君を与えられるものは、全部欲しい。
鳳子は心の中でそっとそう呟き、目を閉じて静かに息を整えた。そして、風雅が持つニードルが彼女の耳たぶに当てられ、冷たい金属が肌に触れる感覚が伝わってくる。風雅が優しく手を添えながら、片耳ずつ丁寧にニードルを貫いていった。小さな痛みと共に、彼の気配が自分に染み込んでいくようで、鳳子はその瞬間をしっかりと感じ取りながら、息を止めてその感覚に身を委ねていた。
「ほら、終わったぞ」
風雅の声に、鳳子はそっと目を開け、鏡越しに自分を見た。耳たぶにはすでに、彼が選んでくれたピアスが輝いている。黒い髪の中で、星屑を散りばめたような純白の光が反射し、まるでそこに小さな星空が広がっているように見えた。
「……どれくらい……」
「え? なんて?」
「このピアスを選ぶのに、どれくらい悩みましたか?」
鳳子は顔を上げ、真っ直ぐに風雅の顔を見つめた。しかし、風雅は視線を逸らし、軽くはぐらかすような返事をしてから、洗面台を出て行った。その背中を見送りながら、鳳子の胸には切なさと共に高揚感が広がっていた。初めて味わうような感情に、彼女は戸惑いながらも心が揺さぶられていた。
◆
夜の静かなホテルの一室には、薄いカーテン越しに街灯の明かりが差し込み、部屋を優しい光で包んでいた。二人はそれぞれの寝場所を決めることになった。ベッドの端に座り、鳳子はふと風雅を見上げ、無邪気な声で問いかけた。
「風雅くん、どっち側がいいですか?」
その言葉に、風雅は驚いたように目を瞬かせた。鳳子の瞳には純粋な気持ちしか映っていない。だからと言って、無垢な彼女の誘いに乗るわけにはいかなかった。
「いや、俺はソファで寝る」
「えー、ソファは座る為のもので、寝る為の家具じゃないですよ」
「……シングルで二人は狭いだろ」
「私、寝相は悪くないですよ!」
「俺も……いや、俺はすごく悪い。だから、ベッドは鳳子が使え。な?」
鳳子は少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、風雅の微笑みに安心したように小さく頷き、ベッドの中央にそっと横たわった。ベッドはふかふかで、鳳子がそっと足を伸ばすと、体を包み込むような柔らかな感触が広がった。
一方、風雅は部屋の隅にあるソファに体を沈め、足元に薄い毛布をかけて体勢を整えた。ソファは決して広くはないが、彼はリラックスした様子で腕を頭の後ろに回し、目を閉じて眠る準備をしている。
「ねぇ風雅くん」
ベッドにいるはずの鳳子の声が、風雅の耳元に届いた。目を開けると、そこには彼女が座り込んでいた。暗がりの中で表情までははっきり見えないが、彼女の耳に飾られたピアスが月光を受けてかすかに輝いている。その光が彼女の呼吸に合わせて揺れるたびに、一瞬その空間が銀河のように幻想的に変わった。
「なんだ? 眠れないのか?」
ソファから体を起こし、風雅は鳳子に優しく問いかけた。実のところ、彼自身も今夜はなぜか眠れそうになかった。だから、眠くなるまで二人で話しているのも悪くないかもしれないと思った。しかし――
「私がいなくなったら、風雅くんは痛くなりますか?」
唐突な質問に、風雅は戸惑った。「痛くなる」とは、一体どこが? それに、いなくなるってどういうことだ? 彼女の真意が掴めず、質問を返そうとしたが、鳳子はそのまま続けた。
「私は、大切な人を失ってきました。それからずっと、ここが痛いんです」
そう言って、不意に彼の片手を取ると、鳳子はそれを自分の胸に押し当てた。驚いた風雅は慌てて手を引こうとしたが、鳳子は両手でしっかりと押さえ込み、彼をじっと見上げた。
「突き刺さるように、ずっと痛いんです」
彼女の瞳は今にも泣き出しそうで、声はかすかに震えていた。鳳子はそのまま風雅の手を解放し、寂しそうに視線を落とした。彼女の心の奥底にある痛みが、風雅の胸に静かに染み込むようだった。
「風雅くんは、私がいなくなったら、同じところが痛むでしょうか?」
鳳子が再び同じ質問を重ねてきたことに、風雅は一瞬驚いたが、彼女が本当に聞きたかったことが何かを感じ取った。悲しみや苦しみといった負の感情は、時に胸を締めつけ、痛みを伴うことがある。それは誰もが経験し得る感覚であり、大抵は時と共に和らぐものだが、その痛みの深さや残り方は人それぞれだ。
風雅は実際に鳳子がいなくなった時のことを想像してみた。彼にとって鳳子との関係は「友達」というには曖昧で、その距離感がどこか不安定なものだった。それでいて、彼は既に彼女の抱える闇を知り、彼女もまた、なぜか風雅を信頼し、頼りにしてくる存在だった。
二人の関係を言葉で表すなら、一体何が適切なのだろう? 風雅は気がつけば、鳳子の質問に対する答えから離れ、自分にとって鳳子とはどういう存在なのかを考えていた。彼女はまるで偶然にも噛み合ってしまった不完全なガラス片のような存在。ぴたりと傷口が合うように寄り添えるが、決して完全にはならない、未完の彫刻のようなもの。
その結論に辿り着いた時、風雅はようやく鳳子の質問に答えようと口を開いた。しかし、その瞬間、鳳子の静かな視線が自分を見つめていることに気付き、言葉が喉に詰まってしまった。
「私は、……私がいなくなっても、風雅くんのここが痛まなければいいなと、思っています」
刹那、鳳子のピアスがわずかに光り、彼女の眼差しを照らした。その輝きの中に、無邪気な笑顔が見えた気がした――しかし次の瞬間、鳳子はその笑顔のまま、ふいに風雅の胸元へと飛び込んできた。その体がかすかに震えているのに、風雅はすぐに気づいた。そして、それ以上に彼が気づいたのは、飛び込んだ瞬間にその笑顔が脆く崩れていったことだった。
風雅は静かに彼女を受け止め、その頭をそっと撫でた。鳳子の唐突な行動に、彼はもう慣れつつあった。彼女はいつも言葉よりも行動で自分の思いを伝えようとする。だから、風雅もまた、鳳子の言葉だけでなく、その仕草や行動から彼女の心の奥を探ろうと努めていた。
「痛くならねえよ」
風雅ははっきりと答えた。その声に反応して、鳳子は顔を上げた。その表情には安堵と悲しみが交錯しているように見え、風雅の胸に一抹の不安がよぎる。鳳子が何かを決意し、行動を起こそうとしている。それは自分の手が届かず、決して干渉できないもののような気がした。
「お前がいなくならなければ、痛むことはない」
だから、いなくならないでくれ――そう続けたかったが、風雅は言葉を飲み込んだ。その言葉は、きっと鳳子にとって重荷にしかならない。彼女の心が限界に近づいていることを、風雅は痛いほど理解していたからだ。
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