6-4 Ω

 その二日間、二人は片時も離れずに共に過ごした。

 きっかけは、風雅の元に届いた一通のLINEメッセージ。「ピアスをあけたい」という、鳳子からのシンプルなメッセージだった。いくつかのやり取りを重ねる中で、鳳子は「二日間、私のために予定を空けてほしい」と頼み、風雅はその願いに応えて二日間の予定を確保した。そして、迎えたその特別な日。

 10月の澄んだ空気が街を包む中、鳳子は大きな荷物を抱えて箱猫駅の前に立っていた。少し冷たい風が吹き、頭上の街路樹の葉がさらさらと揺れる。駅前はそれほど人が多くないが、鳳子は道行く人たちの邪魔にならないようにと、街路樹の影に身を寄せて佇んでいた。その様子はまるで、自分の存在を少しでも目立たせないようにしているかのようだった。

 箱猫駅に到着した風雅が改札口に向かう途中、その街路樹の下で小さく佇む鳳子の姿がふと視界に入った。彼女があまりにも自然にそこに立っていたせいか、少し探さなければ気づけなかったかもしれない。だが、彼女の存在を確認した瞬間、風雅の顔には自然と微笑みが浮かんだ。

 互いに気づき合い、笑みを交わす二人。だが、改札口を出る前から風雅はどこか違和感を覚えた。鳳子の微笑みにはほんの僅かな影が落ちているように感じられたのだ。彼女の口元は笑顔を作っているが、その目にはほんの少しの寂しさが宿っているように見える。「元気がないのか?」とふと心に疑問が浮かび、彼は無意識に足を速めた。

 改札口を出て、風雅は足元の落ち葉が柔らかく敷き詰められたアスファルトの感触を感じながら鳳子のもとへと歩み寄っていく。彼女に近づくたびに、鳳子の笑顔は確かなものへと変わっていく。それは彼女の本心であった。それでも、風雅はその笑顔の裏に隠された彼女の影を見抜いた。

「風雅くん、ご足労ありがとうございます!」
「別に。それより、その荷物は何だ?」  

 風雅は、彼女が抱えていたパンパンに膨らんだボストンバッグを指差した。今日は鳳子の買い物に付き合い、ピアスをあける予定が入っているだけだった。財布ひとつ……いや、今ならスマホひとつあれば買い物は事足りるはずだ。女性が身嗜みを整えるための必需品を持ち歩くとしても、さすがにここまで膨らむものだろうかと疑問がよぎった。

「これは、宿泊道具です! ずっとお家に帰っていないので」
「……は?」
「学園に泊まっています!」
「黄昏学園に寮とか……宿泊できる場所があるのか?」
「……さぁ?」

「私は中等部の空き教室を使っているので」と鳳子は言って、視線を宙に漂わせた。果たして黄昏学園に寮はあっただろうか、と彼女は思考を巡らせた。宿泊として使える教室も、鳳子は聞いた事がなかった。やがて彼女は「……んん」と小さく呟いてから、無邪気な笑顔を風雅へ向けた。

「手を繋いでもいいですか?」
「うん? ……ああ、ほら」
「わぁい! それじゃあ、さっそくお買い物に行きましょう!」

 鳳子は嬉しそうに風雅の手を握り、その手を引っ張るようにして歩き始めた。先には大型のショッピング施設が見え、秋の柔らかな陽射しが街を優しく包み込む。風が吹くたびに紅葉が空に舞い上がった。

 風雅は、鳳子の手が驚くほど冷たいことに気づいた。その冷たさはまるで、彼女の心の中まで凍りついているかのようだった。彼女は楽しそうに微笑んでいるが、その笑顔の奥に何か隠しているように感じられる。まるで命の炎が消えかけたかのような、静かな寂しさがじわりと風雅の胸に染み込んでくる。

 風雅は足を止め、手を引く彼女を引き留めた。

「鳳子、それよこせ。重いだろ?」
「……え、でも風雅くんに負担を掛けるわけには……。……あ! だめ、もう!」

 遠慮して首を横に振る鳳子の反応を無視して、風雅は無言のまま彼女の肩からボストンバッグを取り上げ、自分の肩に掛けた。そのバッグは思ったよりもずっしりと重い。鳳子は慌てて取り返そうと手を伸ばすが、風雅は片手で彼女の頭を軽く押さえた。身長差のおかげで、彼女の手は空を切るばかりで届かない。

 やがて、鳳子は取り返すことを諦め、風雅の優しさを受け入れると同時に、胸に締めつけられるような痛みが走った。思わず笑顔が崩れそうになり、視線を足元へと落とす。そこで目に入ったのは、綺麗に磨かれ光沢を放つ風雅の革靴と、すり減ってボロボロになり、輝きを失った自分のローファーだった。

 向き合う二人の靴先の間に、アスファルトの繋ぎ目が見えた。それはまるで、二人の世界を分ける境界線を象徴しているかのようだった。不釣り合いだ――今こうして彼の目の前に立っていること自体が烏滸がましい、と鳳子は自分を責めた。境界線が静かにゆがみ、彼が遠ざかっていくのを感じる。いや、彼は最初から遠い存在だったのだ。まだ何も始まってもいないことに気づき、鳳子は静かに自分の愚かしさを噛みしめた。

(風雅くんは、私の手の届かない世界で生きている人なんだ……)

 風雅は「手を繋ぐこと」を許してくれたが、鳳子はバッグを取り返そうとしてその手を離してしまった。そして、もう一度その手を繋ぐ勇気が、彼女にはもうなかった。そのとき、不意に大きな手が彼女の視界を遮る。眼前に見えていた二人の靴はもう見えない。彼の掌が、その境界線を静かに消し去ったのだ。

「ほら」
「…………手、繋いで……いいんですか……?」

 鳳子は思わず視線を上げ、風雅を見つめた。不安を滲ませた表情で、掠れた声で問いかけるように彼を見つめる。そもそも彼女が望んだことのはずなのに、なぜ今になってこんな表情をしてしまうのか、風雅にはその理由が分からなかった。だが、彼は言葉ではなく、静かな行動で彼女に応えた。

「さぁ、行こうぜ」

 鳳子は小さく頷き、柔らかく微笑んだ。その表情には、どこかほっとしたような安らぎと、わずかな切なさが滲んでいた。再び触れ合った手と手からは、冷えた肌にそっと温もりが伝わる。風雅は彼女の手をしっかりと握り直し、優しく指を絡めてその温もりを伝えた。そして、二人は静かに歩き出した。秋の風が再び木の葉を舞い上がらせ、二人の影をそっと包み込んでいった。

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